Tsuji Kunio

今年も、学習院大学史料館の辻邦生講演会の季節が参りました。梅雨空のなかではありましたが、目白へと行ってまいりました。

「二つの磁場から──名前で語る人と語らない人」

キュレーター・美術史家の拝戸雅彦先生の講演「「二つの磁場から──名前で語る人と語らない人」は、本当に刺激的で、私にとってはなにか刺激的な辻邦生解釈を得たような気がします。

拝戸先生は名古屋大学文学部哲学科美学美術史専攻における辻佐保子さんのお弟子さんで、佐保子さんとの関わりの中で、辻先生との接点をもたれていて、さまざまな思い出話を盛り込みながら語られる辻邦生像はとても新鮮でした。辻先生を語るアプローチが本当に斬新で、私は我を忘れて聞き続けたのです。

ジャズそして未来へ

まず、辻先生と拝戸先生の接点が間章氏という点。間章氏は、音楽評論家で、立教大学時代に辻先生と交流があったというのです。拝戸先生は間章氏の文章を中学生の時に読まれて影響を受けたというのです。それは、チューブラーベルズのライナーノーツのテキストで実に難解ななもの。拝戸先生は、辻夫妻のご自宅を訪ねられたときに、この間章氏の著作について話をされたことで、拝戸先生の印象が辻先生に残ったのではないか、とのことでした。

そして、最後の締めはロバート・グラスパー。どうやら辻家では、日曜の午後にマイルス・デイヴィスを聞いておられた、と言うこともあり、きっと、辻先生や辻佐保子さんがご存命なら、ロバート・グラスパーを聴けば喜ばれたのではないか、というお話。

(Robert Glsper, Black Radio)

これは、本当に凄いことだと想うのです。

いずれもジャズを通底としたお話で本当に新鮮だったのです。普通にはできない発想で辻先生や辻佐保子さんのことを語られたなあ、と考えました。

辻先生は、ジャズを聴きながら自動車を飛ばして軽井沢へ出掛けられた、というエピソードをどこかで読んだ記憶があり、確かに、グラスパーのドビュッシー的な和声・旋律と織りなす言葉を聴いてきっと喜ばれるのではないか、と思いました。

何か、現代の新しい芸術や文学をみて辻先生が何を思われるのか、という発想につながり、いまはおられない辻先生が、まだ生きておられてなにか語りはじめるのではないか、という感覚を持ちました。辻邦生再解釈というと言い過ぎかもしれませんが、未来に開かれた辻邦生像を考えられるのでは、と感じました。

「最後の四つの歌」をめぐる解釈

実に印象に残ったが、リヒャルト・シュトラウス「最後の四つの歌」に関する考察です。

辻佐保子さんが書かれた「辻邦生のために」の中に、「最後の四つの歌」のうち「夕映え」を辻先生が聴かれるシーンがあります。アイヒェンドルフの詩が使われた「夕映え」は、人生の終わりと一日の終わりを重ねた歌詞ですが、辻先生がなにか死期を悟りながらこの「夕映え」を聴いていたのではないか、というシーンです。

拝戸先生は、辻先生の死後まもない時期に佐保子さんが幾分かメランコリックな状況で書かれたシーンであり、実は違うのではないか、と解釈されていました。辻先生は、最後まで現実世界で死を克服するかのように語り続け書き続けることに尽くそうとしていたのではないか、という解釈。たしかにそうかもしれない、と思いました。あるいは、拝戸先生が、辻さんご夫妻のこと、とくに佐保子さんのことをよくご存知だったからこそできた解釈なのだ、とも考えました。

おわりに

拝戸先生の講演は、実際にチューブラー・ベルズやロバート・グラスパーの音楽を聴かせてくださったり、あるいはキュレーターのお仕事の大変さを垣間見るものであったり、と実に素晴らしいものだったと思います。ほかにも重要なことを話しておられましたが、私の印象に残ったことを書きました。

ロバート・グラスパーは、私も2015年頃に知って以来よく聴いていて、拝戸さんが取り上げられたAlways Shineと言う曲も知っていました。

学習院大学の講堂でグラスパーを聴くことになるとは想像しておらず、なにか不思議な気分に浸りながら、グラスパーの雨の都会のような冷たい匂いを感じていました。そのとき、拝戸さんの姿がモニタに隠れて私の席から見えなくなり、拝戸先生が退席されたのではないか、と感じたのです。

何か、このまま音楽とともに講演が終わっていくような感覚、それはまるでジャズのアルバムで、トラックがフェードアウトして終わっていくように感じ、それはそれで心地よい終わり方では、と思いました。もちろん、それは私の錯覚で、最後は、きちんと締めがありました。

すいません、書いていたら、どんどん長くなってしまい夜更かしをしてしまいました。松浦寿輝先生の講演は次回書きます。これもまた刺激的でした…。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

最近、なるべく自分の机で過ごすようにしています。

大変贅沢なことなのかもしれませんが、この先を生きるためには、一人で過ごす時間が必要です。昼間は、いくつもの耐えがたい思いをしながら過ごしていますので、せめて一人で音楽を(今日はモーツァルト)聴きながら、モニタやノートを見ながら物思いにふけると、なにかしら人生の目的へと進んでいるのではないか、と思います。

今日はなにかこの本をめくっていました。

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辻邦生の映画評論集。何冊か出ていますが、この本は1988年から1992年にかかれたもの。私がちょうど学生だった頃の映画が出ていますので、思い出がよみがえります。表紙は、ル・コントの「仕立て屋の恋」でしょう。あの憂愁なブラームスのピアノ四重奏曲は忘れられないです。

そのなかで、実に世界のなかの日本を的確に表した言葉があって胸に刺さりました。

東欧問題、ユーゴの戦乱、中東和平会談などは、日本にいると、頭では解っても、隣国の出来事という感じはしない。だがパリでは、地理的に近いだけではなく、東欧から亡命した人も多い(中略)パリはアメリカとは別の形で世界の人種の坩堝であり、歴史的現実の風は容赦なく吹き付ける。日本ではまだ「国際人を養成しよう」「英語で喋ろう」などとのんきなことを言っていられる環境だ。前期のチェコ人は、子供の頃から十カ国語近くを喋らなければならなかったという。

辻邦生『世界の風に吹かれて』「美しい人生の階段」文藝春秋1993174ページ

初出は婦人の友1991年12月号とのこと。

辻先生の言葉で「どんなことがあっても外国語をやらなければならない」というものがあります。私は、確かに高校大学とあまり外国語をせずに過ごしました。まあ、あまりそちらには向いていなかったんでしょう。とはいえ、その辻先生の言葉を忘れることはなくて、社会に出てからも英語はコツコツとやっていたつもりです。まあ人並みとまではいきませんが。

しかしながら、まあその先があって、日本のような島国においては、パリのように世界と地続きで、摩擦の中に生きてる感覚とは全く違うのだ、ということがよくわかります。グローバル化したとはいえ、ボーダーの中で成立している世界もあり、それは恵まれているようでもありあるいは「のんきなことを言っていられる環境」なのかもしれません。

なにか、頭で解っているグローバルという言葉が空疎に思えるほど厳しい言葉を見つけた気がします。だからといって何ができるのか、という思いもあります。努力しよう、という言葉もまた空疎です。

せめて、毎日の生活の中で、人生の階段として昇るべき階段をみつけて、一段一段のぼることなんだろうな、と思います。よそ見をせず、脇目をふらず。

そんなことをおもいながら、夜も更けていきます。また明日も寝不足でしょうか。なんとかしないと。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

今年は、辻邦生没後20年となります。本当に早いです。そんな辻邦生イヤーに相応しく、さらに二冊の辻邦生関連著作が発売されます。

せんだって中公文庫のTwitterでアナウンスされています。

物語の海へ─辻邦生自作を語る

内容紹介によると、自作を通じ、歴史を物語ることへの思いを綴ったエッセイ集とのこと。どういう内容になるのか。単行本で3,240円ですので、ボリュームのある本になるのではないか、と勝手に期待しています。エッセイなどではなく、日記からの抜粋であれば、なお嬉しいです。

完全版─若き日と文学と

こちらは、すでに発売されている「若き日と文学と」に旧版に、「トーマス・マンについての対話」「長篇小説の主題と技法」「『星の王子さま』とぼくたち」「ぼくたちの原風景」「文学が誘う欧州旅行」辻佐保子のエッセイ「辻邦生と北杜夫」を追加したものとのこと。こちらも楽しみであります。

まとめのようなもの

まだカバーの画像が分かりませんが、美しい本になるといいな、と思います。

それにしても、20年ですか。なんだか遠くまで来てしまった、と言う感です。もうすでになんだか地に足のついたことをやれていないです。とにかく時間をつくって、落ち着いて辻作品を読める生活を望んでいるのですが、普通の仕事人にはそういう贅沢は許されません。やはりなにかしらのリスクをとらないと、このまま「秋の朝光の中で」と語られた競走を走り続けるだけなのかも、と思います。

幸い、目先のやるべきことが分かりつつあるので、地道に進めていきます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Book

マリオン・ジマー・ブラッドリーの「アヴァロンの霧」を読み始めました。

先日、東久留米市立図書館で行われた図書館フェスの中で、武蔵大学の北村紗衣先生が選ばれた「やさしいフェミニズム入門」というブックリスト(ひとハコ図書館)のなかの一冊として選ばれた本です。先生に聞いてみると、アーサー王伝説を女性の視点からみつつも、フェミニズムなど別のパースペクティブで捉えている、という理由、とのことでした(私の記憶違いかもしれませんが、そう捉えました)。

絶版になっていますので、図書館にリクエストして、ようやく読み始めたのですが、本当に面白くて読むのが止まりません。

ローマ領だったブリテン島にキリスト教が入ってきて、ブリテン島の古いドルイド教が徐々に追いやられている時代が舞台。(手前味噌ですが)辻邦生「背教者ユリアヌス」の年代より少しばかり時代が下っている時期が、物語の舞台のようです。

グローバリズムとしてのローマ=キリスト教と、かつてからの宗教・文化の対立、と言う構造は、おそらくは普遍的な構造で、私が思いだしたのは、東北文化と大和文化の対立をえがいた高橋克彦さんの「炎立つ」であるとか、伝来する仏教と神道の摩擦が画かれていた手塚治虫の「火の鳥太陽篇」とか、もっというと「古事記」の国譲り伝説とか、そういう話を思い出しました。あるいは、もしかすると辻邦生「背教者ユリアヌス」も、キリスト教とローマ古来の宗教の対立を描いているという点では関係なくはないとおもいました(無理矢理辻邦生案件としてしまうという……)。

このグローバルとローカルの対立に、女性と男性の対立を重ね合わせているのが実に素晴らしく、現代の男性主導の世界がなにかメルトダウンしそうな状況にあって、別の価値観としての女系社会のようなものを提示するあたりが、本当に説得力がある、と思いました。

オペラ演出家のペーター・コンヴィチュニーが、現代の世界の問題点は男系社会に合って、その解決の鍵は女系社会にある、といった趣旨の発言をされていたのを記憶していますが、ローマ=キリスト今日=グローバリズムのひずみを解決するアンチテーゼとして女系社会、という読み方をすると、実に面白いな、と思います。女の子が生まれると、食事を与えず死に至らしめることもある、という極端な男系社会を描きながら、なにか郷愁をもちながら、その失われゆく女系社会を振り返っているような気がしてなりません。

また、失われた古代文明であるアトランティスが登場したり、龍や蛇が尊いものとして登場してしまうと、これはもうほとんど高橋克彦さんの「竜の柩」の世界になってしまい、失われた古代文明は、ブリテン島にも渡り、あるいは古代日本にも渡っていたのか、などとその共通性に驚いたりします。もちろん史実ではなく、幾分かオカルト的な要素もありますが、レヴィ=ストロースの文化人類学ではありませんが、人間の記憶というものはなにか共通する間主観的なものがあってもおかしくないのか、などと思います。

このアトランティス(オリハルコンも!)が出てきてしまうあたりのスケールの大きさには正直舌を巻きました。なんだか読み始める前から、昔読んだファンタジー的な展開が読めてしまったように感じ、やめようかと思う瞬間もありましたが、それはあまりに浅はかな考えでした。ますます先が楽しみになっています。

「アヴァロンの霧」は、現在絶版。アマゾンでも高価に取引されていて、日本の古本屋にも在庫はありません。再版されるとよいな、と思います。

Tsuji Kunio

辻邦生関連本が新たに発売されます。

中央公論新社から2019年6月6日発売予定だそうです。

表紙から以下の情報をまとめました。カッコ内は私の推定する出典です。

●日記

辻邦生 旧制高校時代の日記「園生」より(初出?)

●書き下ろしエッセイ

松岡寿輝、佐藤賢一、澤田瞳子、中条省平

●エッセイ

水村美苗、堀江敏幸、二宮正之、宇野千代、加賀乙彦、粟津則雄、髙橋秀夫 他

●書評

ジョン・アップダイク「安土往還記」

●講演

保苅瑞穂 (2017年日仏会館での講演)

小佐野重利 (2016年学習院大学史料館講座)

金沢百枝 (2018年学習院大学史料館講座)

●対談

塩野七生と辻邦生 (世紀末の 美と夢 第5巻?? )

(敬称略)

こうして、また辻邦生ワールドの未踏地に足を踏み入れることができる喜びはこの上のないものです。個人的には保苅瑞穂さんの講演は聞きのがしておりまして、本当に楽しみです。

今日は短めに。

Tsuji Kunio

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Kindleで「春の戴冠」をつまみ読むしていたところ、一つの白眉ともいえる場面にたまたまぶつかりました。プラトンアカデミアの場面です。

 

「私たちはこの世のすべてを<神的なもの>の表れとみなければならない。<神的なもの>のごく希薄な存在から濃厚な存在まで、その分有度は異なっても、<神的なもの>の改訂によって、この世の一切が観られなければならないのです。

(中略)

フィオレンツァに包まれた一切が<神的なもの>と見なし得れば、私たちはすべて各自の仕事を通して<神的なもの>に触れうるわけです。私たちは帳簿の山を整理しながらも、それが<神的なもの>を表していると観ることができるのです。だからそれに触れれば、帳簿づけが日々のむなしい繰り返しであるとか<暗い窖>へずり落ちてゆくとかいうことは考えられなくなります。なぜなら<神的なもの>に触れるとは、私たちが強い喜びを感じることだからです

(中略)

<神的なもの>とは、歓喜の念を味わうことによって、その存在が知られるのです。

(中略)

私たちが<神的なもの>を人間存在のすべてに見いだし、<神的なもの>を深めることを哲学の中心課題とすれば、その哲学は、ロレンツォ殿の言われたごときイモラ買収工作をも含む哲学となり得るでしょう。(中略)哲学の仕事は人々の目を<神的なもの>に向けさせることです。朝露を含んだ風が花々の香りを運んでくるように、人々の心のに<神的なもの>を運びこみ、人々に<永遠の浄福>を深く味わわせることにあるのです」

(フィチーノの発言)

「『現在を楽しむことが永遠性を手に入れる正当な方法であることについて』の根拠は、今の発言の中で、過不足なく言い表されている。<現在を楽しむ>とはほかならぬ<神的なもの>に触れることだからです」(バンディーニの発言)

「それは神への道です」(アグリ大司教の発言)

辻邦生「春の戴冠」上 新潮社 1977年 298ページ

プラトンアカデミアでの議論の結論めいたところだけかいつまんで書いてみました。

日々の政務で疲れているロレンツォ、あるいは語り手フェデリゴの父親もやはり、商売に精を出しながらも、手応えをつかめずにいる。それを「暗い窖」へずり落ちてゆくような、という表現で表しています。

それに対して、フィチーノは、結論として、

  • この世のすべてを<神的なもの>の表れとみなければならない。
  • フィオレンツァに包まれた一切が<神的なもの>と見なし得れば、私たちはすべて各自の仕事を通して<神的なもの>に触れうる。
  • <神的なもの>に触れるとは、私たちが強い喜びを感じること。
  • <神的なもの>とは、歓喜の念を味わうことによって、その存在が知られるのです。

と語り、さらに、バンディーニと、アグリ大司教が以下のように語るのです。

  • <現在を楽しむ>とはほかならぬ<神的なもの>に触れること
  • それは神への道です

と。なにか議論がうわ滑って行くような印象なのです。その後、ロレンツォは、じっと自分前を見つめるだけで、その他の参加車は彫像のように身動き一つしない、という描写で締められます。

私は、この議論の結論に、そのまま飛びつくことの出来ない苦悩を感じるのです。それは、その後のフィレンツェの行く末を知っているから、ということもありますが、この最後の参加者の描写にも、なにか底知れぬ憂いのようなものを感じるのです。議論の上滑り、とかきましたが、果たして、この世のすべてが「現在を楽しむ」に帰結するのか、と。この「楽しむ」という言葉に含まれるさまざまな含蓄や解釈もある訳で、いかようにも解釈は出来るのですけれど。とにかく、<暗い窖>へとずり落ちてゆくことをなんとか説明しようとしてル訳ですが、最後に大司教をして「神への道」と語らせるという議論の結末。大司教という立場が、そう語らせたという設定でもあるでしょうし、それはなにかサヴォナローラの登場を暗示させるものでもあります。

こういう、議論の交錯が手に取るように分かると言う点で、辻邦生の手腕は冴え渡っているな、と改めて舌を巻きました。

私は、この「春の戴冠」をこの数ヶ月の間において通読しているわけではなく、過去に読んだ記憶を頼りにしていますので、もしかすると曲解が混ざっているかもしれません。

ただ、記憶をたどったとき、この「春の戴冠」に感じる「美と滅びの感覚」は、筆舌に尽くしがたいものがあります。これがまさに、現実社会において、性急な結論に飛びつくことなく、塹壕戦のように、身を低くして粘り強く戦うということだ、と今は想っています。

神的な美は、現実社会において力を持ち得ないのか? 当然と言えば当然なこの美と現実の相克という命題を巡って、私たちはおそらくは永遠に同じ所を回り続けることになります。ただ、回りながらも、少しでも中心へあるいは上へと近づいていれば良いのに、と思います。

今日は長くなってしまいました。このあたりで。おやすみなさい。

※写真は、桜草っぽいので載せてみました。良い天気でした。

Tsuji Kunio

久々に「北の岬」を読みました。Kindleでも読めますので、仕事場へ向かう電車の中で読みながら、なにかいろいろと考えてしまいました。

この短篇、大まかに言うと、主人公である留学帰りの男と修道女マリー・テレーズの恋愛小説、となってしまうのですが、それだけではありません。

その修道活動のあまりの厳しさに、生まれ故郷を懐かしがってしまう修道女が、自らを罰するためにフォークを自らの身体に突き立てる自傷のシーンが出てくると言う激しさが描かれていたり、修道という理想に関する独白が描かれています。

「至高の頂きに行けば、この至純な永遠の光に触れることが出来ると言うこと」

「それは人間であることの唯一の意味」

「誰かが貧窮や悲惨のなかにいって、人間の魂の豊かさが、眼に見えるものや、物質だけで支えられているのではないことを証しなければならない」

「誰かが最後の一人になるまで、そうしたものが人間の証しのために必要であり、ただ一人の人間がそれを証しすることで、すべての人間が救われるのだ」

といった境地に達しようとする、マリー・テレーズの意志を読むと、一人の人間をこえて、人間全体を高みへと引き上げる意志を感じるのです。恋愛感情を超えて、人類全体の目的へと進もうとしていくマリー・テレーズの姿は、普通に暮らす私たちの周りではあまりみられないのですので、いっそう感銘を感じます。

こうした宗教的な境地とも言える意志は、それに触れたとき、粛然とした思いにとらわれます。そうした意志を感じたとして、人間はそこからどう変わるべきなのか。文学に、人間を変える機能があるということはどういうことか。そのようなことを考えました。

実は、この先もいろいろ考えて書いたのですが、まとまらないので今日はこのあたりで。

初夏のような陽気が続く東京でしたが、このあとまた寒くなってくるようです。やれやれ、と言う感じ。まだもう少し夏は先でしょうか。

それでは皆様、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

最近のはやり言葉は「平成最後の」です。昨日も書いたように、今週で平成は終わります。そうした「平成最後」という枕詞も今週が最後で、来週になると、今度は「令和最初の」という言葉が枕詞になるのでしょう。

ところで、日曜日にラジオを聴いていたら、松尾貴史氏が「平成元年に今の事務所に入った。だから平成の年数がそのまま事務所に入った年数になる」という話をされていました。

そうすると、私にとっては、平成元年にあったことはなんだろう、ということを思い起こすと、やはり辻文学になってしまうわけです。

何度も書いているように、1989年の夏に、音楽芸術に連載中の「楽興の時」を読んだのが、辻文学に出会ったきっかけでした。そうすると、ちょうど31年弱になると言うことです。ずいぶん長い間読み続けていますが、どこまで理解出来ているのか、私にはよく分かりません。

すくなくとも、さまざまなレイヤーで、辻文学を捉えています。世界認識のレイヤー、人生のレイヤー。その多義性のようなものが辻文学を読み続ける理由、というのがまずはここで言えることです。

もっと攻めて辻文学を読みたい。今はそう思っています。のこり少ない平成を、そして次の令和を、もっともっと激しく生きなければ。そう強く感じます。

Tsuji Kunio

わけあって早めに仕事を終えて、都内某所で待ち合わせ中です。少し時間が出来ましたので、久々に書き物ができるという幸せ。

それにしても今年の冬は体調を崩し続けました。

  • 10月の頭に風邪をひいて、声がかれるぐらいになりました。
  • 11月の後半に急性扁桃炎で入院寸前になり、引き続き薬疹が発生してしばらく寝たきりになりました。
  • 12月の終わりにまた扁桃炎になりました。
  • 1月の終わりに胃腸炎で発熱に
  • 2月のはじめからずっと風邪が治らず、咳が治まらず、とうとう血痰が現れ、本日医者に言ったところ、気管支炎でした。

いや、本当に何だかなあ、と言う感じです。急性扁桃炎にかかってからは、毎日うがいを欠かさず、寝室には加湿器を増設し、喉の痛みが出たら、早めにイソジンで対処し葛根湯を飲む、と対策を取っているのですが、2月の風邪にはまったくききませんでした。ま、いろいろ限界なんだろうな、と思う今日この頃です。まだ人生は続きますので、少し自分をいたわらないと。

さて、辻先生の言葉から。

君はぼくの性癖に気がついたことだろう、都会へ着くとすぐ、高い塔に上るという……。(中略)ぼくは何かを認識する場合、まずその全体を直覚する必要をかんじるのだ。つまり塔に上って、頂上から、都会の全体と周辺の風景を一望のうちに入れる。

(中略)

大切なのは、全体を、閉じた円環のように、まず持つことだ。

「黄金の時刻の滴り」のなかで、辻先生がゲーテに語らせている言葉です。

記憶では、「小説への序章」の中で、世界認識はまずは全体で把捉する、という考え方が提示されていました。小説を書く場合、なにか小説の世界全体をとらえて、そこから小説を書き続けていく、というようなテーゼでした。

帰納法的に、世界の個々のものすべてを捉えて、世界認識を構築するという方法は、人間には不可能です。「嵯峨野明月記」のなかで、狩野光徳という画家が登場します。彼は世界のすべてを描ききろうとして失敗します。

この「黄金の時刻の滴り」でもやはり、ゲーテに語らせるかたちで「具体的知識を加算しただけではもう追いつけるしろものではなくなっていた」という考えが出てきます。

このあたりの考え、辻先生の三つの原体験のうち「一輪の薔薇はすべての薔薇」という話に通じるのではないか、と思います。「言葉の箱」から引用すると、

一輪の薔薇のなかにはすべての薔薇が顔を出している。あるいは、薔薇の全歴史、全存在がたった一輪の薔薇のなかにもある。それはあたかも芸術作品の運命を象徴しているようだと、ぼく自身感じたのです。

という部分です。

小説世界の認識も、世界への認識も、なにか個々の認識から、全体の認識へと飛躍するという構造が語られています。以前も書いたかも知れませんが、これがどうにも哲学的な考えで、質料の差違が突如形式の差違へと変化する、という話を彷彿とさせるわけです。この考えは、私が若い頃読んだ西田幾多郎の「善の研究」で読んだものです。あるいは「善の研究」のなかで語られるベルグソンのエラン・ビタールの類いです(ただしいあるべきベルクソン解釈かどうかはわかりません)。

なにか、通常の認識行為が突然質的な変貌をとげるような瞬間。なにか悟りのような瞬間。キリスト教的に言うと神の啓示が来るような瞬間。そういう世界認識の瞬間を語っているように思います。それは、日常のなかに埋没して、単純無色の生活を送っているだけではダメで、そこになにか驚きのようなものであるとか、ゲーテの言葉でいうと「塔の上にのぼる」というパースペクティブを変える行為が必要なのだ、と言うことです。

とにかく、平板な無感動な生活は、きっと恩寵に満ちた人生にとっては、問題のあることなんだと思います。つねに感動を持ちながら生きられると良いのですが、と思いますし、そのための努力もしないと、と考えました。体調が悪ければ、抜本的な対策を考えないと、というのもその文脈でとらえると、まあ私もさまざま考えないといけないな、と思います。

今日の東京地方は雨です。久々の冷たい雨に思います。今日で2月も終わり。明日から3月。変化の季節が訪れます。

それではみなさま、おやすみなさい。

Book

なんだか、ひさびさに没頭できる小説を読みました。「未必のマクベス」。

昨年買っていたのですが、ようやく、この数日、読み続けて時を忘れました。先日書いたように、少しは小説も読まないと、と思って手に取りましたが、ずいぶんとたくさんのことを勉強しました。

企業小説、恋愛小説、あるいはスパイ小説的な側面もあり、間口が広い作品です。

時間構成がすばらしく、経時的に物語を展開させるのではなく、さまざまなエピソードが時間を反復しながら進んでいくのが見事でした。辻邦生作品でいうと「風越峠にて」という作品がありますが、あの作品もやはり、戦時中と現代を行ったり来たりしながら進みます。「未必のマクベス」も、そうした趣があり、物語進行に重層的な膨らみと豊かさを感じたなあ、と思います。

また、筆致が実にリアリティに富んでいて、こういう世界はきっとどこかにあるのだろうな、と思わせるものでした。もちろん誇張や想像も含まれてはいるのでしょうけれど、そうした違和感を感じて首をひねるようなことは全くありませんでした。ただただ、ページをめくる速度が、先を知りたくなり、読み進めるにつれて加速していくような、そういう作品でした。

題名にあるように、シェークスピアの「マクベス」をモチーフにしていることもあり、そのあらすじとストーリー転回を重ねてしまうところも、この作品の素晴らしさだと思いました。バップジャズは、使い回されたフレージングの組み合わせを楽しむような趣があります。定められたパターンの中で、予測したパターンと、実際の演奏を比べて、その差違を楽しむような、そうした感覚がありますが、この「未必のマクベス」においても、やはり「マクベス」と「未必のマクベス」の差違を知らず知らず探すということを読みながらしていたように想います。

全くレールのない作品よりも、ある程度のレールがあって、そこにどういう列車がどういう速度で走るのか、というのを予測する楽しさ、というような感覚があるのだなあ、ということと思います。

なんだか、ずいぶんとたくさんのことを書いてしまいました。主人公はいわゆる団塊ジュニア世代ではないでしょうか。おそらくは、現在40代の男性が読むとぴったりはまりそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。