Japanese Literature,Tsuji Kunio

文章を書くというのは、ワープロを打っても同じですけれども、自分の体のなかからリズムになって、文章のかたちで出てくるというふうにしないといけない。そのためには絶えず書く。そして、書いたことに絶望したり、おれは駄目だと、そんななまやさしい、甘っちょろい考えを絶対起こしてはいけない。たった一回きりの人生をひたすら生きている。これは書く喜びで生きているのだから、だれにも文句は言わせない。だれかにこてんぱんにやられたって、全然平気。書く喜びがあれば耐えられる。

辻邦生「言葉の箱」
今日は命日ですね。15年目にあたります。新聞記事の切り抜きも時代を感じさせるぐらい変色してきてしまいました。
この文章は、「言葉の箱」という死後出版された講演録からの引用です。CWSという小説家を目指す方の講座があるのですが、そちらに講師として招かれてなんどか講演をされたようで、その模様がこの本に収められています。何度か紹介もしています。

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)
辻 邦生
中央公論新社
売り上げランキング: 400,951

通常、辻先生の講演は、ご自分で書き直しをされてから出版されることが多いのですが、この本は書き直しがありませんので臨場感あります。特にこの最後の部分ですが、逆に言うと、こういうご苦労があった、というふうにもとれるわけです。どこかで読んだのですが、最晩年の頃、なかなかいろいろな場面で取り上げられず、辛い思いをされていたようです。たとえ、そうであっても「絶望」したり「オレは駄目だ」などというような「なまやさしい」「あまっちょろい」考えを起こしてはならない、という強い意志が現れているのだ、と思っています。
たった一回きりの人生を、諦めずに喜びにあふれたものにしないといけないですね。小説を書かない人間にとっても励まされるような気分になる言葉です。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

小説への序章

「われわれの意識、われわれの認識、われわれの真理感覚が今日のような状況にあるとき、(外見を目的とするような)遊びがなお許され、まだ精神的に可能で、真剣に取り上げられるべきかどうか。自足的、調和的にまとまった作品そのものが、われわれの社会情勢の不安定さと問題性と不調和とに対して、なお何らかの正当な関係を有しているか」

辻邦生(1976)「小説への序章」河出文藝選書 245ページ
これも辻邦生「小説への序章」にかかれていた、悲痛なまでの芸術的真摯です。倫理と美学の相克に悩んだ辻邦生が昭和36年から昭和41年、つまり1961年から66年にかけて、書いていたことです。歳で言うと36歳から41歳にあたります。
芸術が、社会と如何に関わりを持ち続けるか。乖離してしまうことなく、あるいはあまりに接近することなく、正当に関係を持ち続けることができるか、ということです。
音楽や文学を「社会におけるデザートのようなもの」と評することもあるようです。なくても大丈夫、みたいな。ですが、そうとも一概にはいえないのだ、ということは直感的には分かるのですが、それを述べること自体に抵抗を覚える、あるいは、述べたところで屁理屈にしかならないのではないかというおそれを抱く、などなど難しい問題であるはず。エチカとエステティックの問題です。新カント学派なら「真善美は一致する。だからいいじゃない」というと思いますが。
この本、一昨日から引っ張り出してきて読んでいます。おそらくこれまで一読はしていますが、一読では済まない本だと思ってます。20世紀中盤までのの哲学状況を抑えておかないときちんと読むことができないわけで、ニーチェ、実存、ハイデガーなどが必要です。今となってはこの本で描かれる「現代思想」のあとがあるわけなんですが(構造主義など)、当時の空気を想像しながら読むと楽しいものです。
中身は、楽しいなんて行っていられないぐらいスリリングなんですけどね。
疲労困憊です。暑い一日でした。いつもは昼休みには散歩に出かけますが今日はそれどころではありませんでした。一日中会社にこもってました。
最近眼があまりに疲れます。メガネ屋に行ったら、「老眼ですよ。度を下げましょう」と言われますし。それも恐縮したような感じで言われるもんだから、余計に腹立たしいことこの上ありません。
というか、眼を使いすぎ。スマホで兵器で30分ぐらいはKindle読んでますので、眼が悪くなるに決まっているのです。老眼というより眼精疲労かな、とも思います。そろそろ生活を変えたいものです。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

昨日の続き。考えるうちに、ブログで語りきるのは難仕事だと思いましたが、すこしあがいてみます。

歴史小説論 歴史小説創作ノート (辻邦生歴史小説集成 第12巻)
辻 邦生
岩波書店
売り上げランキング: 1,355,108

世界を全体的に描くためには、世界のなかに身をおきながら世界を超越しなければならない、とも言います。世界を一つのモデルとして把握する透徹した認識量が必要というわけです。
そうした世界を描くために、外から眺めてそれを叙述するのは、どこまでいっても帰納法的なアプローチしかできません。「嵯峨野明月記」で、全てのものを描こうとしながら命を落とす画家が登場しました。狩野光徳という名前でした。世の中を表現するためにそうした方法をとったのです。ですが、もちろんそんなことはできるわけはないのです。世界のすべてを描くということは、有限な存在の人間にはどだい無理なのですから。
この辺りの議論はかなり難しいのですが、「小説への序章」でも同じようなことが言われていました。
IMG_0657.JPG
プルーストやトーマス・マンを取り上げて、物語主体が全体世界を把捉できる可能性を論じているのです。物語主体は常に過去形で物語るわけで、それはすなわち、終末から全体を見遣る主体であり、全体を把捉できるのである、という議論でした。それが、無限拡散する現実を克服し、全体像を恢復する手段である、ということなのです。
私は、これは西田幾多郎の純粋経験のようなものと捉えています。私の理解では、刹那の経験の中に豊かな世界が含まれているのが西田幾多郎の純粋経験だったはず。たしか「善の研究」では統一力というような書かれ方をしているはずです。
物語の中において、個々の要素を描くことが、全体把捉につながるという考え方で、それが小説=物語形式が、世界認識あるいは世界表現の様式として有効なのである、という議論です。
まったくもって科学的な方法でも論理的な方法でもありませんが、そもそも小説は科学でも論理でもないはず。ですが、この個々の要素と全体のつなぎが、辻先生の言う「透徹とした認識力」というもので、書き手が持つ何かしらの能力、ということになるのだと思います。
長くなりすいません。グーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

歴史小説論 歴史小説創作ノート (辻邦生歴史小説集成 第12巻)
辻 邦生
岩波書店
売り上げランキング: 1,355,108

辻邦生歴史小説集成の最終巻には、背教者ユリアヌスの手書きノートがそのまま掲載されています。これは、まるで、辻邦生作品集の最終巻に「夏の砦」の初稿が載せられているのに似ています。辻文学の生成はこうしたあらすじにも似たプロットが書かれるなかで作り込まれていったものだということが理解できます。なかなか読むにわは一苦労ですが、辻先生の頭の中を覗きこんでいる感覚になります。
IMG_0656.JPG
また、小説についての重要な考え方が示されていました。芸術の表現形式として、小説が相応しい理由は、ひとえに「柔軟な感性の力があって初めて現代が直覚的に掴める」からです。抽象性と同時に感覚性のある言語による表現形式でなければ、現代をつかめない、というわけです。抽象的な思想にも、映画、絵画、音楽など感覚的な表現でも、やはり限界があるというわけです。
これは最近も思うところで、やはり、小説などの物語形式で思ったことのほうが、説明文を読むよりも体で覚える事ができると思います。私の人生は「嵯峨野明月記」で変わりましたが、あの「世の中は背理であり、哄笑するしかない」という境地を若いころに腹でグッと感じました。これ、他の人にどう言われようと、納得出来ない境地なはずです。卑近な例ですが、現代をつかむには、私も小説のような物語であるべきと思います。作家と同じ体験を読者ができる可能性を秘めた表現形式なのですから、もしかすると一番伝わりやすいのかもしれません。人間は論理だけでもないですし、感情だけでもありません。
明日も少し続きます。もう一つ小説についての重要な考えがあるのです。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

辻先生が戦時中に疎開をしていたのが、湯河原の吉浜です。
先日も少し触れましたが、10年ほど前、小田原近辺の事業所に勤めていたことがあります。その職場でご一緒した先輩が湯河原の吉浜に住んでいました。その先輩のお父上のご葬儀に参列したことがあります。葬儀の会場のお寺ですが、私はあのお寺は、「夏の海の色」に出てくる宿舎ではないか、と、思っています。
小田原で会社の飲み会があったあと、その先輩を家に送り届けるために(飲酒していない)別の先輩が運転する車で、夜中に小田原から湯河原まで車で走りました。夜の相模湾は黒々とうねっていて、その黒光りするうねりに真っ白な満月の光が反射したのをみたのです。あまりの神々しさ、あるいはあまりの崇高さに声が出なかったのを覚えています。その風景がどうしても「夏の海の色」の世界にみえるのです。

そうした夜、寝床から這い出して窓から外を覗くと、月が暗い海上に上っていて、波が銀色に輝き、本堂の裏手の松林の影が、黒く月光のなかに浮び上がるのが見えた。

これが辻先生が「夏の海の色」で書かれた文章です。おそらくは同じ風景を見ておられたのではないか、と勝手に想像しています。
あらすじはこちらをどうぞ。もう少し詳しく考察が書いてあります。満月が海に反射するということは、南側が海だということだから、太平洋側に違いない、といったところです。
<夏の海の色:■赤い場所からの挿話 IX>「夏の海の色」
私が吉浜に行ったことがあるということで、なにか奇縁だな、などと思ってしまう我田引水ぶりに苦笑しております。。
今日のノンアルコールな一日でした。体重はもっとも太っていたころから比べると6キロ近く減りました。うれしいのですが、あまりの減りぶりにすこし不安でもあります。。
それではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

私の辻文学コレクション(?)は、大学受験で東京に行った時に飛躍的に増えました。
たとえば、神保町の三省堂書店に「樹の声海の声」が全巻揃っているのには狂喜しましたね。
神田水道橋の古書店というのも上京したての若者だった私には本当に刺激的でした。紙袋に辻先生の本を満載して街を歩いていましたので、友人にずいぶん面白がられました。
大学時代は高田馬場に住んでいました。それも明治通りと早稲田通りが交差するあたりです。5分ほどあるくと、早稲田の古本街に行きつく、今から思えばほんとうに恵まれたところに住んでいたことになります。
引っ越して来て早速古本街にでかけました。一番明治通りに近いところにあるのが平野書店さんでした。2年ほど前に行った時も健在でした。平野書店さんは国文学系が充実しています。もちろん辻作品もたくさん置かれていました。当時、それまで見たことのない辻作品が入り口近くの書棚にたくさんあって、ここでも狂喜しました。
まず速攻で買ったのが「パリの手記」全巻でした。店を見ておられるのは少し年配の女性でしたが、(数年前に行ったときもまだお元気そうで仕事をしておられましたが)、「そういえば、この前も辻邦生を買いにいらした方がいましたよ」と教えてくれました。今から思えば営業トークなんでしょうけれど。
平野書店さんの古本は全部パラフィン紙で包装されていますので、下手な新刊本より綺麗に残っています。
IMG_0584
IMG_0585
つうか、別のものもたくさん写りましたね。。
※ なんと、5日間アルコールをとりませんでした。奇跡です。このまま奇跡が日常となるように頑張ります。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

辻先生が亡くなった年、私は小田原近辺に住んでいました。
郊外の丘陵地に建てられた住宅でした。
あれは、辻先生が亡くなってからだったか、そのまえだったか。
1999年のあの年の夏に、大きな白い蛾が風呂場の窓にとまっているのをみかけました。蛾ですので気味が悪いと思ってもおかしくありませんが、不思議とそういう感覚はなく、なにか畏怖のようなものを感じたのを覚えているのです。
その後、辻佐保子さんが中央公論1999年10月号に書かれた追悼文を読みました。
そこにあの大きな白い蛾が登場していたのです。
オオミズアオ(大水青)という蛾のことです。偶然ではありますが、なにか不思議な縁のようなものを感じたのを記憶しています。
大水青と銀霊草と栗鼠と…
この追悼文、今読んでも、佐保子さんの深い悲しみに溢れていて、普通には読むことができません。

春の戴冠1 (中公文庫)
春の戴冠1 (中公文庫)

posted with amazlet at 14.07.17
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 31,180

今日読んだ「春の戴冠」で、サンドロが語る言葉がぴったり過ぎて、畏れを覚えるほどです。

「ぼくらはいつか死んで、二度とこの地上の明るい光を仰ぐことができなくなるのにね。」

ですが、そこで終わらないのが辻文学です。そのあとサンドロはこう語ります。

「<美>とは<悦ばしさ>を経て<不死>へと通じているんだ」
「<美>とは、フェデリゴ、永遠の虚無からぼくらを救いだす砦のようなものじゃないだろうか」

「春の戴冠」の冒頭で語られていることですので、その後の様々な変遷はありますが、これらの言葉はある種の「救い」をもたらすものです。
それではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

昨日に続き、辻邦生さんのことです。
1999年9月24日に催されたお別れの会にもいきました。9月24日というのは辻先生の誕生日です。
もしかするとそろそろお別れの会があるのかもしれない、と思い朝日新聞を開いたら、そこに案内が書いてあり、あれ、なんて偶然なのか、と思った記憶があります。
あれは金曜日の夕方でした。午前中にトラブルがあったのですが、速攻で解消させ、原因を究明して上司に報告して、午後半休をいただいて出かけたのを覚えています。当時、会社は私服でしたので、帰宅してスーツを来て出かけたんですが、会場に着くとみなさん喪服でいらしていたので、少し気後れしました。
その日は雨で、お別れ会が開かれた高輪プリンスホテルは、夕暮れの蒼い光の中に重く打ち沈んでいて、吹き荒れる風に混じる雨に叩かれていました。そんななか、傘を差して品川駅から向かったのですが、そのときは、どうにもこうにも疎外感というか、なにか場違いのところに行くのではないか、という気分だったのを覚えています。一読者だったに過ぎませんでしたので、文壇の偉い方や編集者の方に占められているのではないか、と思ったのです。
ですが、献花をさせてもらって、お写真を頂きました。フォトフレームに入れていまでも机に飾ってあります。
お別れの会で会場に流れていたのは、メンデルスゾーンの交響曲第三番「スコットランド」でした。献花台には辻先生の著作が並べてありましたが、どれも見覚えのあるものばかり、家にあるものばかりでした。
当時の日記を読み返してみました。今思い出した印象は当時もあまり変わっていません。台風が過ぎたあとで、風雨の強い日だったことが書いてありました。以下、少々偉そうな日記ですが、冒頭部分を引用します。

折りしも台風18号が九州から日本海を縦断し北海道へと向かっていたころ、台風からは遠く離れた東京も強い風と横殴りの雨にさらされていた。品川駅から高輪台へと登っていく蛇行する坂道を僕が登り始めたとき、横殴りの雨は激しさを増していて、すぐにスーツの裾はずぶぬれになってしまった。僕の前には、白髪のひげを生やした老人が、背中をびっしょり濡らしてとぼとぼと歩いていたし、私の後ろには、やはりサラリーマンらしき中年の男性が傘にしがみ付きながら、坂を登っていた。この人たちもきっと私と同じ目的でこの坂を登っているに違いないと思った。そして、それは当たっていた。

今日も引き続き「春の戴冠」。あの「永遠の桜草」問題が取り上げられていました。これもまた今後。
それではグーテナハト。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

1999年7月29日のことを思い出しています。あの日もやはり暑い日だったはずです。
カレンダーを見返すと木曜日でした。
会社から帰宅して、カミさんに電話したところ、辻先生がなくなったという訃報を聞いて、絶句してしまい、数分間なにも話せませんでした。いつか作品についてお話をうかがう機会があれば、と思っていたのです。ですが、そうした機会が奪われてしまったという、喪失感をおぼえていたのだと思います。
当時の毎日新聞のウェブニュースがハードディスクに保存してありました。どうやら中軽井沢のスーパー前のベンチで気分が悪くなり、病院に運ばれた、ということのようです。
それから一ヶ月は酒を絶って私なりの追悼としたのを覚えています。会社の飲み会で先輩にアルコールを勧められましたが断わりました。今から思えば無茶ですね。
一ヶ月後、作曲家志望の友人と四谷で飲んだのですが、彼がレクイエムを作曲してくれて、イグナチオ教会の尖塔の下で一緒にテープを聴いたのが懐かしいです。曲はフーガだったと記憶しています。
次回は、1999年9月24日に催されたお別れ会の思い出を書きます。
さて、今日読んだのは「春の戴冠」第一巻でした。Kindleで読んでいます。これが4回めになります。長い作品で、本は非常に分厚いものです。それがスマホに入る時代になりました。
画家のフィリッポ・リッピが登場するシーンが実に面白くて、女性の美を如何に絵に取り込むか、というような話題が繰り広げられます。たしか、佐保子さんの回想で読んだ記憶がありますが、佐保子さんが「ほら、あそこに美人がいるわよ」と教えて上げると、じっとその美人を見つめていたそうです。きっとそこから昇華しうる何かしらの情感を汲み上げていたんだと思います。フィリッポ・リッピのエピソードをみて、アーティスト=芸術家というのはそうしたものなんだろうなあ、と思いました。

春の戴冠1 (中公文庫)
春の戴冠1 (中公文庫)

posted with amazlet at 14.07.15
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 22,141

今日も禁酒成功です。音楽の方は最近はジャズ系が多いです。チック・コリア、ステップスなど。でも、今日はエルガーの交響曲第三番をデイヴィスの指揮で聴きました。そのあたりはまた機会があれば。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

辻先生が亡くなってから15年という長い月日が経ってしまいました。このところ、辻作品を読み返しています。ちょうど「春の戴冠」をKindleで読んでいるところです。また、先だってゆかりの方とメールでお話する機会をありがたくいただきました。そのような中で、あらためて振り返りをしているところです。
辻先生が亡くなったは、1999年7月29日になります。まだ、同時多発テロもITバブルも起きていないころにあたります。
当時新聞の切り抜きが残っていました。朝日新聞ではあの天声人語が辻先生を悼んだものとなっています。告別式は7月31日でしたので、1999年8月1日に掲載されたものだと思います。これは辻作品はもちろん辻先生が出版社や編集者に愛されていた証左ではないか、と当時思いました。
今日はアルコールなしで過ごせました。いつまで続けられるか。。
それではグーテナハトです。