Ludwig van Beethoven,Photo

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一つ目の夢の風景。
日枝神社に参詣する老夫婦のシーン。こういうのが日本人の原風景なのかもしれない、と勝手に思っています。先日イギリス人と話をしたとき、神社に参拝したという話をしたのですが、本当に信じているのか? と問われて困りました。
まあ、神社で何かを祈念するというのは、神に祈るというより自分に向けて決意を新たにするという側面が強いのでしょう。そういう意味では、効果はあるはずで、信じているということもあたっているのかもしれません。
この鳥居は山王鳥居というらしく、日吉大社系列の日吉神社、山王神社などに共通の鳥居です。街なかでは有りますが神々しいものです。
二つ目の夢の風景ですが、これがまた奇妙でした。
昨日の明け方に観た夢です。
妻の実家からレコードが発見され、それが渡邉暁雄の《運命》の幻の録音、という設定でした。
聴いてみるとこれが凄い演奏でした! ちゃんと音が聴こえていたでsが、実にビビッドな演奏でした。テンポは中庸から少し速いぐらいで筋肉質なたくましい演奏でした。だれたり、もたれたりしない。リタルダントやディミヌエンドを使うことがないが、エッジが聞いていて、要所要所が素晴らしい、そんな演奏でした、
偉そうな夢の中の私は「これは人類の宝だ!」と言うわけです。全く。。。
で、現金なもので、この演奏をCD化して収益をあげよう! という話になるところが、いかにも市民的な発想で申し訳ないです。
今日はこちら。ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、沸き立つように素晴らしいです。聴いたのは10年ほど前。それまで苦手だったハイティンクですが、このCDを聴いて好きになった記憶があります。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番&第5番
ブレンデル(アルフレッド)
ユニバーサル ミュージック クラシック (2005-06-22)
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ではグーテナハト。

Symphony,Wolfgang Amadeus Mozart

GW二日目。
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近所の畑で撮りました。この赤い花はなんでしょうか。。なんか東京近郊ばなれした風情です。
今朝は、会議をすっぽかし、重要情報を誤って持ち出し、はてどうしたものか思案する、という悪夢?に苛まれながら目覚めました。
昨日で仕事は名実共に休止したはずなんですがね。
GW中は、この数ヶ月の疲れを癒しつつ、とあるプロジェクトを進めるために専心しており、毎日22時には就寝し、6時半に起きる、という生活を実践しようとしています。もちろん時間割も作って。今のところ、今朝の悪夢のようなすっぽかしは発生していませんけれど。
音楽もよく聴いていて、チェリビダッケのハフナーにいたく感動しています。シュトゥットガルト放送交響楽団とのブルックナー集に含まれているものです。

ブルックナー : 交響曲 第3番 ニ短調
シュトゥットガルト放送交響楽団
ポリドール (2000-04-01)
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いつもはジェフリー・テイトの全集版でモーツァルトの交響曲を楽しんでいますが、テイトのそれより、チェリビダッケのハフナーのほうが、湧き立つような典雅さを感じるのですね。これを聴くと、テイトの演奏がどこか機械的なものに感じてしまうぐらいです。
チェリビダッケといえば、重厚長大な式をするイメージが有りますが、モーツァルトやベートーヴェンは驚くほど軽やかに演奏します。この演奏もそうした方向に変わりはありません。
明日も早起きをしたいものです。
というわけで、本日はこれにて。グーテナハトです。

Alban Berg,Opera

《ヴォツェック》以来、どうも「倫理が贅沢」という言葉が頭から離れず、という感じです。
《ヴォツェック》を単純に貧困批判と捉えるべきなのか、という考えがずっと頭から離れません。オペラ劇場に足を運ぶ人々が、ヴォツエックと同じ貧困状況なくとも、なぜか共感するからです。
貧困非難ではなく、文明批判であり、人間批判なのでしょう。
ヴォツェックが囚われている貧困は、経済的な支配被支配関係といえるのでしょう。がゆえに、全ての人々は経済的支配非支配関係に従属しているはずで、時にヴォツェックのように抑圧された存在になるのです。我々もまた生きるために自我を殺し振る舞います。
時に大尉のように社会倫理をもって他者を抑圧します。時に医者のように理性で人間を扱うこともかあるでしょう。
貧困に倫理がないのではありません。抑圧に倫理がないのです。だからこそ、私は、ヴォツェックを愛おしく思うだなあ、と思いました。

Wozzeck (Complete)
Wozzeck (Complete)

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Berg Skovus Denoke Blinkhof Metzmacher
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こちらのアルバム。メッツマハーのライヴ盤です。全体的に感情が濃厚で、かなり気に入っております。
ではグーテナハト。

2013/2014シーズン,Alban Berg,NNTT:新国立劇場,Opera

ヴォツェックについては、今日も色々考えて、なかなかおもしろいアイディが出てきましたが、少し時間を置いてから書こうと思います。
今日も遅いので少しだけ。
とにかく、今回のゲオルク・ニグルのヴォツェックは素晴らしかったですね。2009年のトーマス=マイヤーは、かなり低音の質感のある声でしたので、ヴォツェックの凶暴性が際立っていたようにも思いましたが(ビデオで見直しました)、ニグルの場合は、打ちひしがれ絶望の淵に立った苦悩するヴォツェックでした。
それにしても、《三文オペラ》で語られるように、「道徳は贅沢」なんですかね。

もし自分が金持ちで、帽子をかぶり、時計や、鼻眼鏡、それに立派な言葉がありゃ、道徳的にもなれる理くつだ!

第一幕の大尉ともダイアローグで語られるヴォツェックの言葉です。
ここが問題なのです。
では、グーテナハト。

2013/2014シーズン,Alban Berg,NNTT:新国立劇場,Opera

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偉大な民族というものは、自らの歴史を三通りの原稿、つまり行いの本、言葉の本、芸術の本によって書き表す。この三冊中のいずれも、他の二冊を読まなくては理解できない。しかし三冊の中で信頼に値いするのは、最後に上げた本だけである

孫引きですいません。ケネス・クラーク「芸術と文明」のなかに出てくるラスキンの言葉です。

今日の新国立劇場の《ヴォツェック》をみて、文明の真実がまさに凝縮されたパフォーマンスだったと強く思いました。それは文明の歪みを文明が健全に表出したものだったのだ、と思います。文明の歪みをすくい上げるということこそが、文明を文明たらしめているものではないか。そういう意味でも「美が世界を支える」という辻邦生が言うところのテーゼを確信することができたと思います。
ただ、今日のパフォーマンスは、世間一般の《美》ではないのでしょう。ですから、耐え切れなくなった方は途中で席を立ったのだと思います。
ですが、私は、掛け値なしに最高に美しい舞台だったと思います。これは2009年の舞台を観た時よりも一層そう思いました。
冒頭のポスターに描かれた酒場のシーンがまさにそうでしょう。
天井から吊り下げられたボックス、舞台に貼られた水、水の反射面のゆらめきが劇場中に反射している、グロテスクな酒場の客、舞踏のシーン、無表情に演奏するバンダ、バンダを支える黒子あるいは労働者、そして唯一人間らしいヴォツェックとマリー。
このめちゃくちゃな不統一感こそが、世界を映し出す真実です。世界は不統一でグロテスクで不条理なものです。身悶えするヴォツェック、理不尽な要求を哲学的論説に隠してヴォツェックをいたぶる大尉、科学技術信奉のためにならなんでもする医者の姿は、既視感にあふれています。舞台上は現実世界そのものです。
そんな中にあって、水面がゆらめき、ライトアップされた舞台の背面の波打つ文様に心を打たれ、そして忘れることのできないほど美しいエレナ・ツィトコーワーの歌声が響き、ベルクの管弦楽が波打ちうねります。
今回のパフォーマンスの意図はこちらのリンクを御覧ください。演出家本人が2009年に新国立劇場のオペラトークで話された内容をまとめてあります。
ヴォツェック・オペラトーク@新国 (2)
今日はこれで書き終えようと思いましたが、大事なことをもう一つ、明日に伸ばさず今日書きます。
本当にレベルの高いパフォーマンスでした。最も感銘をうけたのはエレナ・ツィトコーワのマリーでした。2003年でしたか、《フィガロの結婚》のケルビーノで新国立劇場に登場で聴いて、2007年《ばらの騎士》のオクタヴィアンを聴いて、本当に凄い方だと思いましたが、今回もそのときの驚きと同じかそれ以上の感動を覚えました。
他の方もすごかったのですが、取り急ぎ次回へ。ではグーテナハトです。

Béla Bartók

バルトーク:オーケストラのための協奏曲/ヤナーチェク:シンフォニエッタ
セル(ジョージ)
SMJ (2012-12-05)
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なんか、少しジメジメしたたこと書きましたが、この曲聞いて元気が出ました。
緊張感が半端ないですね。
鮮烈・ビビッド。テンポコントロールの絶妙さというのもあるのでしょうけれど。
こういう楽しみもまだ残されているのですが、まだ十分に咀嚼できていないのです。どうすればいいのか。どのように語ればいいのか。まだまだ考えないと。
あらためてグーテナハト。

Anton Bruckner,Symphony

Symphony 7
Symphony 7

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Bruckner Berlin Philharmonic Orchestra Wand
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いや、ほんと短信です。
いろいろあった一週間。あの騒動で、一時音楽が聴けなくなるんじゃないか、と思いました。それは、聴くことと語ることを一つにしようとしたからかも。音楽を語るということに対する苦しみというものは以前からあって、それが今回の騒動で色々考えざるを得なくなってしまったということだと思いました。
しかし、昨日から読んでいる伊福部昭「音楽入門」で、「わからない音楽ほどわかっている」という一節があり、ああ、語ってはいけないのかもしれない、などと思いました。まるで一神教の神のように。
で、ヴァントが振るブルックナーの7番を聴いて、ただただ、端正で静謐だ、とだけ思いました。
そうか、音楽を語るときに比喩表現を用いてはいけないのか、などと気づいたり。けっして、「かなしみは疾走」などと言ってはいけないのですね。安易に。
明日の関東はまた雪ですか。2日振り続けるようです。週末、大学時代の音楽関係者と会うんですが、開催されるのでしょうか。。。
ではグーテナハト。

Anton Bruckner,Book

ブルックナー:交響曲第8番
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 バレンボイム(ダニエル)
ダブリューイーエー・ジャパン (1995-10-25)
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建国記念日の一日は、最近の疲れを癒やす一日になりました。少しゆっくり眠りましたし。
それでも、現行の構成を終えて、リードを削って、ウォーキングして、みたいなかんじ。朝食は寝坊したので抜きました。夕食は、友人が送ってくれた牡蠣を使ったパスタ。
ナクソスミュージックライブラリーに、TELDECが収められているのですね。バレンボイムのブルックナー交響曲も収録されていて嬉しい限りです。
今日はブル8。ブルックナーについては語りますまい。ブルックナーを語るのはハードルが高すぎます。それでもなお言えることは、バランスがとれている本格派の演奏ということでしょう。ベルリン・フィルの機能性を十分に活かしたものなんでしょう。隅々まで統御された丁寧な作りでいながら、ダイナミズムもある演奏というところでしょうか。実は好きな演奏かもしれない、と思います。
昨今音楽を語ることについてはかなり敏感になっています。絶対音感がないと語れない、という点が気になって仕方がないのです。
私にしてみると、多くの人々が例の交響曲に感動できるのなら、ブル8にも感動できるはず、と思うのです。ブル8が別の名前で別のストーリーがあって、日本でしかるべき形で演奏されると、きっと誰しもが泣くのだと思います。長さだって例の交響曲より少し長いぐらいなのですから。。ブルックナーといった有名な作曲家の名前が、逆に日本では一般に受け入れられないものとなっているのでしょうか。それほど文脈が重要ということでしょうか。
というわけで、グーテナハト。明日も頑張ります。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

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はじめに

今日は雪の一日でした。我が家の近くもこんな感じ。
予定は全てキャンセルとなり、一日家で過ごしました。今日これから仕事で招集されたらどうしようか、と必死に悩んでます。

昨日の続き

今回のあの事件、クラシック音楽界においては大事件で、沢山の方がいろいろな立場で語っています。まあ、語れば語るほど深みにハマりますし、物議をかもすのでしょう。ヘタすれば炎上です。
昨日の記載に少々問題があるのでもう少し書きます。

私は全聾というところには心打たれなかったのです。絶対音感とそれを記憶する能力を持つ人がいる、ということに関心を持ったのです。

それは、モーツァルトやメンデルスゾーンが楽曲の記憶を半端なくできていた、というエピソードに似たものを感じたのです。あるいは、私の知人のアマチュア作曲家が、通勤電車で楽想を考えるのだが、メモすることなく覚えている、ということを話していたのを思い出したからです。
これらの例は、もしかすると本当のことではないかもしれませんが、少なくとも一週間前までは本当だと思っていて、その類例として今回の絶対音感による作曲というものが実在していて、それに関心を寄せたということになります。
まあ、今から思えば、全聾であるからこそ、絶対音感で作曲しなければならないわけで、そういう意味では、全聾という要素も重要だったのでしょう。あるいは、精神薬を飲んでいる姿も、無意識に受け止めてしまっていたんでしょう。あるいは、NHKが放送したということもあったんでしょう。どうがんばってもいいわけしても、ウソの情報を見破れず、それらを要素として音楽を評価していたということになります。
あと、もう一つ。さかな君が、天皇陛下のスピーチに登場したという「快挙」がありました。クニマスを発見した例の快挙からきたものです。私はあの曲の人気っぷりが、さかな君の快挙につながるもののように思えたのです。あるいは、島津製作所の意志社員だった田中耕一さんがノーベル賞をとったとか。ああいうメインストリート以外のところから出てきた人が、快挙を成し遂げてしまう、というストーリーの一つとしても捉えていたのだなあ、と。
なので、私はそうしたストーリーとともに音楽を聴いていたし、音楽を聴くことはそういうものだと思っており、やむなし、と思います。
この言説はきっと議論を呼ぶはずですが、おそらくこの「聴く」ということを、各人が様々に解釈するのでしょうから、すりあわない議論になるはずです。私にとっての「聴く」は、おそらくは空気の振動を認識すること以上のもののような気がします。
まあ、ウソの情報を見破ることなんてなかなかできません。後出しジャンケンでならいくらでも言えるのでしょうから、行っても意味はありませんので、あえて言いませんが、家族とはいろいろと類例を出しながら論じております。
いろいろとかんがえることが多く、どうにもとまりません。というか、「音楽」自体よく分からなくなってきました。

今日の一曲

今日は《魔笛》の第一幕を2003年の録画でみました。コリン・ディヴィスがコヴェント・ガーデンを振ったバージョンで、夜の女王をディアナ・ダムラウが歌ってました。ダムラウは本当に巧いですよ。声が均質で、パワーがあり、それでいて絶妙なコントロールでした。タミーノを歌うハルトマンは立派なんですが、立派すぎて試練を受ける必要がないぐらい成熟したタミーノでした。

モーツァルト:歌劇《魔笛》英国ロイヤル・オペラ2003 [DVD]
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明日は、お世話になった方と会う予定。

2013/2014シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera

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この週末は大仕事でした。友人の結婚式のため、《カルメン》をエクスチェンジしましたので、土曜日が《カルメン》、日曜日が《蝶々夫人》ということになってしまい、ついでにとある原稿の締め切りもかかえていました。
ということで、息つくまもなくあっという間の週末でした。
土曜日の《カルメン》は、皇太子殿下がいらしていたり、有名な女流作家をお見かけしたりと、華やいだ感じの公演だったと思います。皇太子殿下登場の折は拍手が起こりまして、100年前の欧州もやはりこういう感じだったのか、などと思ったり。エクスチェンジして良かったかも、などと。
日曜日の《蝶々夫人》は、初日に体調不良でキャンセルしたアレクシア・ヴルガリドゥが登場し、盛り上がりました。指揮のケリー=リン・ウィルソンの素晴らしさが際立っていましたね。緻密で大胆でした。女性らしいきめ細やかさがありながらも歌わせるところはダイナミックに歌わせ、ドラマを支える劇的な演奏でした。
やはり、ドラマが躍動するのは音楽があるからです。これは、聴いている時にはなかなか気づかないことなのかもしれないのではないか、と思います。ストーリーや歌唱に感動している気がしていますが、実は指揮者によって勘当させられている、という状況です。私はこの感覚を、ペーター・シュナイダーや若杉さんの指揮で学んだように思います。
土曜日のカルメンも、日曜日の蝶々夫人も男のエゴで死に至る悲劇のヒロインです。ふたりは正反対のタイプの女性ですが、共通しているのは、ふたりとも男によって造形されたキャラクタであるということです。オペラの中でも外でも悲劇なのかもしれないです。
というわけで、続きはまた明日。