2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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1月の新国立劇場は《さまよえるオランダ人」でしたね。

飯守泰次郎さんの指揮が素晴らしかったです、緊密というか、Solidという言葉を思いだしながら聴いていました。前回のパルジファルと同じく、微細なテンポコントロールが見事で、ダイナミズムや重厚さを表現していたと思います。

で、なんだか変なことに気づいてしまいました。

《オランダ人》は《アラベラ》と似てますね。オランダ人もマンドリーカも父親が連れてきた花婿で、あまり世間なれしていない男。で、ふたりとも妻となるべき女性の素振りを誤解して、すねてしまうという。《オランダ人》にも《アラベラ》にもそれぞれ、エリック、あるいはマッテオという、ヒロインに片思いを寄せる男が出てきますし。

2010年新国立劇場《アラベラ》のマンドリーカも、今回のオランダ人もどちらも、トーマス・ヨハネス・マイヤーで、私は強い既視感を覚えまして、こんなことを思いついてしまいました。もちろん、トーマス・ヨハネス。マイヤーの歌唱はやはり素晴らしかったのです。この方の《ヴォツェック》は忘れられないですね。

でも、この考え、意外と図星かも。同じことを考えている方がいらっしゃいました。「頭がいい人、悪い人の話し方」を書かれた樋口裕一さんです。

http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-283f.html

リンク先は、その2010年の《アラベッラ》についての感想を書いておられます。もう4年も前の話ですね。

それにしても、いろいろ興味深いです。もう少し考えてみないと。

なんだか今日も世界の波にのまれるような一日でした。いろいろありますが、良いことばかりではありません。

ではグーテナハトです。

Gustav Mahler

最近、聴いているマゼール。今日はたと気づいた事があります。

私が中学生の頃、一番好きだった音源は、実はマゼールの指揮でした。ウィーンフィルをマゼールが振ったマーラーの交響曲第8番でした。おそらく1986年8月4日の録音で、CDなどでは発売されていないものでした。

多分小学生か中学生かその頃。GOODとか書いてあって、可愛らしいかぎりです。

私の記録では、ソプラノはアンジェラ・マリアー・ブラーチ。アルトはジェシー・ノーマン、クリスタ・ルートヴィヒ。バリトンにはベルント・ヴァイクルが入っています。

これはNHK-FMのエアチェックで、金子建志さんが解説していました。その音声も収録されていて懐かしい限りです。

この演奏が一番大好きで、その後はただただこの曲を聴いていたと思います。その後、ショルティ盤のCDを入手してそちらも聴いていましたが、当時はまだ演奏による違いを巧く説明できなかったのですが、いまから思うと、やはりマゼールのダイナミズムを気に入っていたのだ、と思います。今聞いてもやはり素晴らしいと思えますから。

写真 1 - 2015-01-10

ちなみに、CD化されているのは以下ですが、こちらは1989年の録音のようですね。これは未聴。ちょっと聴いてみないと。

マーラー:交響曲第8番
マーラー:交響曲第8番

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マゼール(ロリン) スウィート(シャロン) コバーン(パメラ) クイヴァー(フローレンス) ウィーン国立歌劇場合唱団 ウィーン少年合唱団 オーストリア放送合唱団
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では、グーテナハトです。

CD紹介,Symphony,Wolfgang Amadeus Mozart

私、ハフナー、つまり、モーツァルトの交響曲第35番。あの冒頭の跳躍がすごくて。。みたいな。

今回はアダム・フィッシャーです。

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おそらく編制が小さいと思います。実に音の粒が際立ったいい演奏です。そうか、指揮者のやれることというのは、こういうこともあるのですね、とあらためて思いました。オケを選ぶことで、音色を変える、ということもできるわけです。それにしても、爽快な演奏です。重みはありませんが、だからとって、軽いというわけではなく、鋭敏さも持ち合わせています。

(なんだかワイン品評のような文章。。)

アダム・フィッシャーとデンマーク放送室内管弦楽団の演奏です。アダム・フィッシャーは、数年前に《タンホイザー》を上野で聴きました。演奏も素晴らしかったですが、人柄も素晴らしい方だったと記憶しています。話したわけではないですが、序曲後のまばらな拍手に、演奏しながら振り向いて会釈したり、カーテンコールで謙虚な振る舞いを見せたり。。

こういう品性が世の中でどんどん見られなくなっているのは残念なことだなあ、と思います。まあそうしないと生きていけないんですけれど。

ちなみに、デンマーク放送室内管弦楽団は解散の危機のようです。

なんだかなあ。歴史の終わり。まあ、歴史なんてものは幻想だったということ。進歩なんてないのです。さみしいものです。もっとも、進歩というのも、人それぞれ。違う意味では進歩しているのかもしれませんけれど。

とはいえ、この演奏はオアシスのような演奏でした。しばし心あらわれました。

では、グーテナハトです。

CD紹介,Classical,Richard Strauss

Lorin Maazel Great Recordings
Lorin Maazel Great Recordings

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新年二日目。皆様いかがお過ごしですか。

わたくしは、いつもの休日とおなじように淡々と過ごしております。今年は事情により、自宅からあまり離れておりませんので、なおさらです。
今日は家族でこちらの一枚を。

写真 1 - 2015-01-02

昨年なくなったマゼールのボックス。この音源は既に持っていて、5年前に一度紹介してました。

ツァラも大きいぜ、マゼール。

5年前に書いたとおり、本当に「大きな大きな」演奏です。演奏家が違うとここまで曲が変わるのか、ということがよく分かる名演だと私は思っています。絶妙なテンポのずらしがたまらないです。ラトルやペーター・シュナイダー、チェリビダッケもそうですけれど、こういうコクのある演奏は、カラヤンのような筋肉質で冷静な指揮とは違い、聴いていて何度も驚く楽しみというものがあります。「意味」というのは驚きや違和感において生じるもので、均一なところには生じることはありません。

もちろん、違うタイプのカラヤンの演奏もかつてとは違う驚きがあったからこそ、ということはありますので、念のため申し添えます。

マゼールは最近来日していました。聴きに行ければよかたのですが、なかなか時間がとれません。難しいものです。

そういえば、シュトラウスがこの《ツァラトストラはかく語りき》を作曲した理由って、なんだっけ、というのをなにかの演奏会パンフレットで読んだ記憶がありました。ニーチェ思想が流行っていたころのことですので、それに影響されて書いた、ということもあるのでしょうが、私がパンフレットで読んだのは、逆説的にあえて大袈裟な交響詩にしたてて揶揄したのである、というようなものでした。

ちなみにこのボックス、こちらの演奏が収められています。ベートーヴェンのとシベリウスの交響曲全集。シュトラウスの主要オケ曲。チャイコフスキーの交響曲全集、ホルスト《惑星》、レスピーギのローマ三部作など。オケ好きにはたまらないボックスです。前述のとおり、シュトラウスの音源は持っていたんですが、その他の音源があまりに魅力的なので買ってしまったのでした。

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東京地方は雪は降りませんが寒さはなかなか厳しいものがありました。明日も一応西高東低のようで、寒い一日になりそうです。みなさまお身体にお気をつけて三が日をお楽しみください。

それではグーテナハトです。

Giacomo Puccini,Opera

はじめに

船便のボジョレーだそうです。

先日のんだボジョレー。船便だそうです。一ヶ月ぐらいしてから届きました。なかなか美味しくいただきました。ボジョレーなのにラベルが英語って、いったい。。

Puccini: La Boheme
Puccini: La Boheme

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今日のNHK-FMの「名演奏家ライブラリー」はミレッラ・フレーニでした。私も、フレーニの音源は沢山持っています。特にオペラを聴き始めた頃に聴いたカラヤン盤《ラ・ボエーム》は思い出深いですね。その他、シノポリ盤《マノン・レスコー》も素晴らしいです。

《ラ・ボエーム》は、番組の一番最後にオンエアされました。フレーニとパヴァロッティ。まさに教科書というかカノンというか、そういう規範的なボエームです。

第一幕の後半部、ミミが、ロドルフォの部屋に来て蝋燭の火を借りに来るんですが、これは逆ナンパではないか説が有力ですね。そういう解釈に従った演出もあるそうです。メルビッシュ湖上音楽祭でやったボエームがその解釈をとっていた気がします。蝋燭の火を借りて「おやすみなさい」といったあとに、とつぜん鍵落とすんですから。わざとらしいと行ったら、という感じです。

ロドルフォは詩人ですが、ミミも造花を作っているといいながら、それは詩なのだ、といったりして、まったく。。

たしか、プッチーニは原作にあったミミの強気な性格をかなり弱めたんですが、それでもなお残っているという感じなのでしょう。

一九世紀におけるボヘミアン

ボヘームというのは、ボヘミアンという意味。まあ、ボヘミアからきたロマの方々を自由人としてみて、そこから、自由奔放な考え方をする若者たちをボヘミアンと称したということで、《ラ・ボエーム》。描かれた若者たちはボヘミアン。

ロドルフォは詩人、マルチェロは画家、ショナールは音楽家、コッリーネは哲学者。一九世紀パリ。

この頃、もっとも先進的な職業がこれらだったんでしょうね。

私の大学の先生が入っていた言葉が思い出されます。哲学に優秀な人材が集まっていたのは二〇世紀初頭までである、と。

逆に言うと、それ以前は哲学に優秀な人材が集まっていたはず。もちろんそれは哲学に代表される文化一般であるはずで、文学、絵画、音楽、哲学という人文系職業にも優秀な人材が集まっていたはず。

というのが私の勝手な想像で、それはつまり、第一次世界大戦までパリにあったサロンにおいて、文学、絵画、音楽、哲学などが力を持っていた、というのはプルーストを読むと何となく分かるなあ、というわけです。

現代におけるボヘミアンは?

現代でいうと、彼らはだれなんだろう、と思うことがあります。ビジネスマン、起業家? 

私は、NYやシリコンバレーでITベンチャーを立ち上げている人々がそれに当たるのではないか、と思うのです。ビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブスとか、そういう偉大な起業家たちがそれではないかと。

一九世紀にあって、文化が先鞭をつけた自由主義が世界を変えると思われていたわけですが、今、世界を変えうるのはITであるはずです。

パリを手に入れるぜ、というのは、今で言うと、NYやシリコンバレーで一旗あげるぜ、とうことになるんでしょうね。私はそう思ってます。

わたし、一つウソを書いています。つまり、世界を変えうるのはITだった、ということだったのかもしれません。つまり過去形。

あの1990年代後半のインターネット時代の開幕の熱狂はどこへ行ってしまったのか。ITバブル真っ盛りの時「世の中が変わったのであるから、市場は絶対に落ちない」という幻想がまことしやかに語られていたのも思い出します。

その次に訪れたのは、ITバブルの崩壊、リーマンショック。それから、ネットを舞台にしたサイバー戦争です。ネットは自由をもたらすものと思われましたが、とある大国では規制がかけられ、いまや監視装置になっています。

私は戦前に若い時代を過ごされた年配の方がネットに恐怖心を抱くのは、こうしたことを察しているからではないか、と思っています。

では、次にボヘミアンたちはどこに行くんだろう? 何を作るんだろう。最近、そんなことを考えてます。

ではグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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引き続き、先日の新国立劇場《ドン・カルロ》について。今から思っても本当に興味深いドラマでした。

登場人物の一人、宗教裁判長。彼は、王に意見することができるほどの権力の持ち主です。

王と聖職者の関係は、ドイツ国防軍やソ連における指揮官と政治将校、かつての日本における校長と配属将校の関係に似てます。指揮権とは別系統の指揮権が存在するという状況ですから。

フーコーの概念に司牧者権力というものがあります。他者の幸福を目的とするかのように振舞いますが、実際には教会の支配の原理を維持することが目的である、というものです。観ながらそのことばかり思い出していました。妻屋さん演ずる宗教裁判長はまさにそのように見えるもの。年老いて、杖を付きながらも、磔刑像を権力の象徴のように持ち歩いていました。

これは、確かにカトリックへのある種の抵抗のようなものがあるのかもしれません。19世紀以降の市民革命の時代に会って、旧態依然としたカトリシズムへの反抗のようなものは少なからなずあったでしょうから。

それに加えて、この《ドン・カルロ》が作曲された時代というものを考える必要があります。

これには、イタリア王国とローマ教皇の対立が背景にあるのもあるでしょう。作曲されたのは1865年から1866年にかけて、とされています。ちょうど、イタリア統一運動の中に会って、ローマの領有をめぐって、教皇とイタリア王が鍔迫り合いをしていた頃です。1864年12月8日(まさに今日ですね)には誤謬表というものが教皇によって発布されました。これは自由主義は誤っているという詔勅だったわけで、批判や議論が巻き起こったようです。

こうした、イタリアにおける王国と教皇の対立も、この《ドン・カルロ》のドラマになにかしらの影響を与えていると考えるとなにか首肯できるものがあります。

がゆえに、《ドン・カルロ》の初演で、ナポレオン三世の后であるウジェニー皇后は席を立ったのかもしれません。wikiにはウジェニーはカトリックだったので、ということになっていますが、私の勝手な想像では、教皇領をめぐってフランスとイタリアは対立状況にあったので、そういうことも背景にあったのではないかと思っています。教皇領を守っていたのはフランス軍でしたし。

もちろん、この手の、ヴェルディと政治運動の関連性に安易に飛びつくことの危険性も指摘しておきたいとおもいます。あの、Verdi = ヴィットリオ・エマヌエーレ万歳!という都市伝説のような胡散臭さというものは常につきまといますから。その辺りは以下のリンク先の記事をどうぞ。

https://museum.projectmnh.com/2013/05/18235903.php
https://museum.projectmnh.com/2013/05/19105240.php

というわけで、取り急ぎグーテナハト。

Photo,Symphony,Wolfgang Amadeus Mozart

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冬の朝、けやきに陽光があたり輝いていました。なんとも爽やかな風景です。もちろん身を切るような寒さだったのですが、バター色の太陽の光がなんとも滋味溢れていて、歩みを止めてiPhoneで撮ったというわけです。

今朝のNHK-FM「名演奏ライブラリー」はホグウッドの特集でした。そのなかでモーツァルトの《ハフナー》がオンエアされました。この写真のように爽やかで溌剌とした演奏で、しばし時間を忘れてしまいました。一オクターブの跳躍とか、ひたすら繰り返されるスケールとか、なにか単純でありながらも、そうした単純なパターンが組み合わさることでこうした楽曲が構成されることに驚きを禁じえません。

ハフナーは昔から好きです。ジェフリー・テイトの交響曲全集を繰り返し聴いていた頃があって、その頃以来からかも。

Mozart : The Symphonies
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それにしても生活リズムが変わってしまいまして、これまで以上に頭をつかって生活しなければならなく成りました。それでも足らない時間。。何かをやめないと。あ、それってアルコールですね、きっと。

ではグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

霜柱ゲット。

今朝は冷え込みました。本日撮影した霜柱です。

高校のころ、冬場にグラウンドに霜柱ができまくって、部活の練習ができず困っていたようです。朝方に立った霜柱は夕方には泥濘となりますから。

で、体育の時間に、霜予防の薬剤をまるまる一時間グラウンドに散布しました。それも何週間も何週間も。本当はバスケットをやる時間だったんですが。四回目ぐらい、さすがに生徒はキレてましたね。一回ならいいが、四回連続で部活のために体育の時間で作業をさせるのは何事だ、と。

まあ、世の中そういうものです。

カトリシズムの話の前に一つだけ。フェリペ2世の父親は、いわゆるカール5世です。ハプスブルク家最大版図を築いた王。それも戦争ではなく婚姻で、というやつです。高校時代にかじったポール・ケネディ「大国の興亡」の冒頭がカール5世だったんですが、予備知識なくして読めるわけもなく。その後高校で世界史を学んでいろいろ理解が進んだ記憶があります。

Charles V, Holy Roman Emperor by Tizian.jpg
Charles V, Holy Roman Emperor by Tizian" by かつてはティツィアーノ・ヴェチェッリオ の作とされていた。. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.
で、このカール5世は、神聖ローマ帝国肯定としてはカール5世なんですが、スペイン王としてはカルロス1世なんですね。これは有名な話。

《ドン・カルロ》においては、カルロ5世とイタリア語読みとなっていました。カルロ1世でも良いはずなんですが。

原作者シラーはドイツ人ですので、カール5世としたのか。ヴェルディが活躍した頃のイタリアは、オーストリアの支配が及んでいた頃、あるいはその直後だったのでカール5世のままとしたのか。

ちなみに、ウィキペディアには、初号一覧が乗っていて、とても興味深いです。シチリア王としてはカルロ1世。オーストリア大公としてはカール1世。ブルゴーニュ公としてはシャルル2世、だそうです。

痛風に悩まされ、統治と戦争につかれたカール5世は晩年修道院に隠遁するそうです。なるほど。こういう権力者もいるということなのですね。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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蒼天へと向かう木々も葉を枯らして冬支度をしています。私も冬支度をしたいところですが、なかなか。。この前、「夏だけどカラッとしてる」なんて書いた気がしますが、あっという間に冬です。

東京の冬は、実のところ快適なのかも、などと。とあるドイツ人は「東京の冬の青空は観光資源だ!」言っていた、というエピソードを思い出しました。確かに鉛色の曇天のもと何日もすごさなければならないヨーロッパの冬に比べると、東京のカラッとした冬空は魅力的なのかもしれません。ちなみに、このエピソード、ICEの中で偶然同席した某大学の哲学科教授から伺ったものです。

さて、新国立劇場《ドン・カルロ》の件。やはり後期ヴェルディは面白いですね。人間ドラマ、歴史ドラマを堪能しました。

スペイン王宮が舞台となるこのオペラですが、主人公ドン・カルロの父親がフェリペ2世です。あのスペインの黄金期を体現したフェリペ二世です。劇中ではフィリポ二世ですが、スペイン語読みではフェリペ二世です。

King PhilipII of Spain.jpg
King PhilipII of Spain" by アントニス・モルWeb Gallery of Art:   Image  Info about artwork. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

フェリペの逡巡の場面がありました。エリザベッタの愛情を得られていない、と苦悩する場面です。

ですが、あれは文学者が作り出した幻想だと思いました。あんなことつゆぞ思わないのが権力者でしょう。文学者は、こうして溜飲下げているにすぎません。権力者にああした心の動きがあるのか。権力者は心を明かすことはありません。きっと、我々が、権力者を憐れむことで、何かを代謝しているに過ぎないのだと思います。

フェリペ二世はエリザベッタに愛されなくても何も気にしないのではないか。がゆえに、エボリ公女とも関係を持つわけです。そう思いました。世間の権力者というものは、芸術生成者
とは全く異なる論理で動いていますから。

そうした前提にたって、フィクションとしてのフェリペの苦悩を味わうのが、あのシーンの権力者への嗜虐的な感情を持ちながら観るのが醍醐味だったのかもしれない。などと思います。

人間と人間は、思った以上にわかりあえないものです。一人ひとりが、独立した宇宙と論理を持っているわけですから。約束も守らず、嘘を突き通すような人間はあまたいるわけです。

ですが、長い歴史において、今もなお文字として残るのは芸術生成者の手になるものに限られるのかもしれず、そうだとすると、いわゆる「芸術生成者史観」のようなものに基づいた権力者像というものが、現在残っているにすぎないのではないか、などと思うわけです。

がゆえに、実のところ、私はあのフェリペ逡巡の場面にはリアリティを感じることができなかった、ということになるのかもしれません。

もっとも、リアリティとはなにか、という問題も生じてくるわけです。(1)事実と、(2)歴史的事実と、(3)事実の解釈、この3つのズレのようなものがあるわけで、ここでのフェリペ像は、この三者のどれに当たるのか、ということが問題で、劇中のフェリペは(3)事実の解釈に基づくもの、とすれば、それはそれで首肯すべきものなのかもしれません。

そういえば、この劇におけるカトリシズムの問題も興味深いです。そちらは次回です。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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すっかり冬模様の新国立劇場です。冬至に向けて一直線。お昼が短いというのは悲しさもありますが、なにか非日常の感覚も覚えます。なんだか北欧にでもきた気分かも、などと。

それにしてもご無沙汰してしまっています。生活リズムが変わり、書く、という行為をいささか後回しにしすぎました。少しずつ新しいリズムにも慣れてきましたのでようようと再開します。
(というか、こういうムラはなくさないと行けないんですがね。。ここで食べているというわけではありませんが、反省すべきことだと思います)

先だって新国立劇場で《ドン・カルロ》を見てきました。ヴェルディオペラのドロドロとした人間模様を堪能してきました。

歌手の方々、最高すぎて、ほんと東京にいるとは思えないぐらい。いや、東京がここまでレベルが高くなったということを喜んだほうが良いのかもしれません。もちろん、外国歌手の方々に支えられている部分もあるのですが、山下さんや妻屋さんといった新国をささえる日本勢のみなさん、いつもながら素晴らしい合唱の方々には本当に頭が下がります。

指揮のピエトロ・リッツォは素晴らしいのひとこと。さすがにオケを完全解決とまでは行きませんが、統御された指揮で、激空間を支え続けたのだと思います。全く違和感なく劇に身を浸すことができました。

ああすごいなあと思ったのは、カルロが人違いでエボリ公女と愛を歌うシーン。わざと早めのテンポを取っているように聞こえました。なにか空疎な感覚を感じさせるように。なんだか、オケが空元気のようにおもえたのですね。音でドラマを創り出すというのはこういうことなのか、と、あらためて認識しました。本当にうまいなあ、と思います。

明日に続きます。