2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

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先週に引き続き新国立劇場へ。今日は《フィガロの結婚》でした。台風が来なくて良かったです。

  • 指揮:ウルフ・シルマー
  • 演出:アンドレアス・ホモキ
  • アルマヴィーヴァ伯爵:レヴェンテ・モルナール
  • 伯爵夫人:マンディ・フレドリヒ
  • フィガロ:マルコ・ヴィンコ
  • スザンナ:九嶋香奈枝
  • ケルビーノ:レナ・ベルキナ
  • マルチェッリーナ:竹本節子
  • バルトロ:松位浩

いや、本当にモーツァルトオペラの楽しさを満喫しました。
ワタシ的には序曲から勝手に盛り上がってしまい、あやうく序曲でブラヴォーと叫ぶところでした。それぐらい、ウルフ・シルマーの指揮は実に素晴らしかったのです。素晴らしく濃密な音でした。序曲から、オケの音が引き締まり、少し早めの速度でグイグイと引っ張られて行くような感じです。
シルマーの指揮棒の動きはかなり複雑です。盛り上がる場面では、私にはちょっと拍節がわからないぐらい複雑な動きをしています。ですが、よく見ると細かい指示をたくさん出していました。左手で頻繁にパートを指さして指示を出しているのがわかりました。ですので、腕がとにかくたくさん動いています。まるで阿修羅のようでした。またテンポの取り方も絶妙です。基本的にはあまりテンポは動かしませんが、微妙な音価の操作が音楽の輪郭を際立たせていたように思います。
歌手の方々も素晴らしかったのです。
伯爵夫人を歌ったのがマンディ・フレドリヒですが、去年ザルツブルグでメジャーデビューしたのですね。若手と言われていますが、ベテランともいえる堂々たる歌唱であり演技でした。少しピッチが気になることがありましたが、それは本当にごくごくわずかです。声も美しく、落ち着いていて、伯爵夫人の苦悩を表現しつつも、上品な挙措が素晴らしいのです。まだレパートリーにはないようですが、当然ながら《ばらの騎士》で元帥夫人を歌える方だと思います。あの第三幕で元帥府人が登場する場面を想像してしまいました。次の新国の《ばらの騎士》はカミラ・ニールントとマンレィ・フレドリヒを希望します。
“http://www.mandyfredrich.de/":http://www.mandyfredrich.de/
スザンナは九嶋香奈枝さんでしたが、今年冬の《愛の妙薬》でジャンネッタを歌ってました。あの時も巧いと思っていましたが、今日も素晴らしかったです。日本人離れした表現力だったと思います。時にわざとらしくなってしまう、西欧人的なジェスチャーですが、私はまったく違和感を感じることがありませんでした。あとは豊かな表情なんでしょうね。あれはなかなかできるものではないのだと思います。もちろん歌の方も倍音が豊かで日本人っぽくない声質でした。
続きはまた明日です。ではグーテナハト。

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

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二回目は、2010年でした。昨年新国立劇場で《アイーダ》を振ったミヒャエル・ギュットラーでした。で、スザンナは、リゴレットでジルダを歌ったゴルシュノヴアでした。ケルビーノは、ミヒャエラ・ゼーリンガーでしたが素晴らしかった記憶があります。
アンドレアス・ホモキの演出は、今でも斬新さを失っていない気がします。ダンボールを使った演出ですね。ダンボールを動かすことで動的に舞台が作り替えられていくようなイメージだったと記憶しています。それから、色調はモノトーン。というか、真っ白ですね。
私はホモキの演出を、この《フィガロの結婚》以外にも、新国立劇場では《西部の女》、そしてミュンヘンの《マノン・レスコー》で見ています。
特に、ミュンヘンでの《マノン・レスコー》の演出は強烈でした。舞台上にバイエルン国立歌劇場入り口の大階段が設えられていて、客席の大シャンデリアが舞台にも吊り下がっているというあんばいです。民衆はオペラのお客になっていて、警官は劇場の守衛の制服をきていました。マノンは麻薬をやっていて捕まる、という設定になってました。休憩なし二時間の濃密なパフォーマンスで、心底感動した記憶があります。
そういえば、ホモキの《フィガロ》演出についてちゃんと書いたことがなかったです。今回は3回目ですが、なにか新しい発見を見出せるよう考えてきます。
というわけで、楽しみ楽しみ。
後一日。だが戦いは続く。
ではグーテナハト。

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

10月20日から新国立劇場で《フィガロの結婚》が始まりましたね。
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この《フィガロの結婚》は新国立劇場の定番プロダクションです。
私は今回で三回目となります。
一回目は2003年のプレミエを聴きました。当時はノヴォラツスキー芸術監督最初のプロダクションという記念すべきプロダクションでした。
外の木の指揮者は今回と同じウルフ・シルマーでした。
私、シルマー大好きなんです。シルマーの指揮で聴いたのは、《影のない女》@バスティーユ、《パルジファル》@東京春祭、《アラベラ》@新国立劇場、そして《フィガロの結婚》@新国立劇場です。
私のシルマーが創る音楽のイメージは、シャープでありながら、重みのある指揮、という感じです。キレのある演奏でありながらも、ここぞという時のエネルギーの溜め方とか爆発のさせ方が素晴らしい、というものです。《アラベラ》でも《パルジファル》でも感動し過ぎましたので、今回も楽しみです。
2003年のプロダクションでは、ケルビーノを歌ったのは、エレナ・ツィトコーワでした。
おそらくこの時が新国立劇場初登場。で、素晴らしいケルビーノを聞かせてくれたのでした。その後の新国立劇場での活躍は言うまでもありません。
特に私がツィトコーワで印象的なのは、2007年の《ばらの騎士》のオクタヴィアンでした。指揮がペーター・シュナイダーだったということもあり、私の中では唯一無二の体験に鳴ってます。その後も、ツィトコーワのフリッカ、ブランゲーネ、ヴェヌスを新国立劇場で聴くことができています。次はなんと《ヴォツェック》のマリーです。
というわけで、一旦グーテナハト。

Richard Wagner

これも、「ワーグナー──バイロイトの魔術師」からのネタ。
どうやらワーグナーは女装趣味だったのではないか、疑惑があるようですよ。彼は、絹でできたピンク色の肌着を着るのが趣味だったとか。。
「彼はオーダーメイドの絹の下着や、男性用というより女性用の衣服に付いていると思われるルーシュ(飾りひも)、タッセル(房飾り)、ロゼッタ(ばら型装飾)などあらゆるもので装飾された優雅な室内着を着ていた」(153ページ)
だからといって、ワーグナーの価値が下がるわけではなく、そこまで複雑なパーソナリティであった、ということがわかります。かえってプラスの要素に思えるのです。
本当に興味深いことがたくさんです。

Richard Wagner

ハンス・フォン・ビューローはベルリン・フィルの初代指揮者。その葬式においてマーラーが《復活》の霊感を得たという話が有名です。

が、最も有名なのが、妻であるコジマをワーグナーに取られてしまった、ということでしょう。これは、ワーグナーの悪人ぶり(?)を示すエピソードとして取り上げられることが多いわけですが、実際のところはどうだったのか。

諸説あるようですが、悠書館からでている「ワーグナー──バイロイトの魔術師」においては、DVの可能性を上げてます。どうやら、家庭内暴力があったらしいです。ビューローは実際のところリストの娘を娶ることに恐れ多さを感じていたらしく、コジマは自分にはふさわしくない、と思っていたようです。若いころは、どうも精神的にも不安定だったようです。
ビューローの肖像画などは、実に堂々としたもので、そうしたことを微塵もないように思います。ですが、この本に載せられたビューローの若いころの肖像画を見ると、ナイーブな青年であるように思えるのです。
この本については、近々詳しくレビューする予定です。画期的な本です。
今日のNHKは、実に充実。デュダメルの《アイーダ》を聴いたあとは、新国立劇場の《コジ・ファン・トゥッテ》を見るところです。
ではグーテナハト。

2013/2014シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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新国立劇場の今シーズン冒頭を飾るヴェルディ《リゴレット》を見てきました。

  • 指揮:ピエトロ・リッツォ
  • 演出:アンドレアス・クリーゲンブルク
  • リゴレット:マルコ・ヴラトーニャ
  • ジルダ:エレナ・ゴルシュノヴァ
  • マントヴァ伯爵:ウーキュン・キム
  • スパラフチーレ:妻屋秀和
  • マッダレーナ:山下牧子
  • モンテローネ伯爵:谷智博

演出

演出はアンドレアス・クリーゲンブルクです。《ヴォツェック》の素晴らしさは今でも思い出します。水の張られた舞台が印象的でした。今回の舞台は現代の高級ホテルです。舞台上に円柱形のホテルが登場し、回り舞台になっています。新国の設備を活かした舞台でした。
ですが、このホテルが常に舞台の中央にありますので、演技できる空間が前面に限られてしまうところが難点でしょうか。
《リゴレット》は、音楽を聞いているだけではわからないのですが、中身はどす黒い人間の欲望のドラマです。それも動物的な。クリーゲンブルクの演出はそうした陰惨さを取り出すために、ギリギリのラインに迫る直接的な方法を取りました。おそらくは観客の中にはそうした方法を不愉快に捉える面もあるはずです。あるいは、子供には刺激が強すぎるでしょう(そもそも、子供が見てもよいオペラは数えるほどしかないのですが)。ですが、それがクリーゲンブルクの戦略なのでしょう。いつもはヴェルディの長和音に隠されていますが、こうしたゾッとする陰鬱さがドラマの核だったのか、ということを眼前につきつけられる形です。もちろんこういう陰惨な状況は今も昔も変わらずあるわけです。
もちろん、もともとのストーリーの問題、つまり勝手にマントヴァ公爵に舞い上がってしまったジルダが、マントヴァ公爵に暴行されてもなお愛し、身代わりとなって死に至る、という論理性のなさはあります。ですが、もともと世界は非論理です。そして、《リゴレット》のストーリーと同じく脈絡なく絶望に突き落とされるという偶然の運命もあるはず。そういう意味ではリアリティに富んでいるといえます。
あとは、リゴレットのこと。せむし、という言葉は放送禁止用語で、使用してはならないわけで、ATOK(かな漢字変換)では見事に変換候補に上がってきません。ですが、西欧文化に触れると必ず接する言葉でしょう。《ノートルダムのせむし男》はもちろん、《秘密の花園》にも登場しましたね。また、辻邦生の《春の戴冠》にもせむしの暗殺者トマソというのが出てきました。これは、ビタミンD不足から来るくる病罹患者のことのようです。日照量が少ない欧州では、紫外線に当たる機会が減るためビタミンD不足に陥ることが多いようで、そうした環境上の条件からくるはずです。北欧の人々が短い夏に狂ったように日光浴をするのはこういう理由があるようです。ちなみに、昨今の放射能問題で、屋外で遊ぶのを制限されている子供にくる病患者が増えているようです。

演奏

歌手陣のこと。リゴレットを歌ったブラトーニャは、さすがにベテランの風格があり、終始安定していました。ジルダのゴルシュノヴァは、声量に少し物足りなさを感じましたが、テクニックは抜群で、可憐なジルダを歌っていたと思います。喝采でした。あとは、マッダレーナを歌った山下さん。《ヴォツエック》のマルグレートを歌ってましたが、この方の妖艶な歌唱は素晴らしかったです。マントヴァ公爵に擦り寄っていくあたりの演技がカッコイイ。《死の都》や《ヴォツェック》にも出演される予定ですので、楽しみです。あとは、モンテローネ伯爵の谷さんの怒りに満ちた歌声も良かったです。貫禄あり、登場した場面は舞台全体が引き締まったと思います。
指揮のピエトロ・リッツォですが、色々意見はあるようですが、私は嫌いではありませんでした。むしろ計算してテンポ感を巧くコントロールしていて良かったと思っています。
そのほかにも個々には書けない出来事が幾つかあり、まあ、個人的には大変勉強になった公演となりました。
次はすぐ来週になりますが、ウルフ・シルマーが振る《フィガロの結婚》です。
では、グーテナハト。

Concert,Richard Strauss

昨日は風邪で動けず、一日中伏せっていました。おかげで熱も下がりましたので、まずは国立近代美術館で、竹内栖鳳展、続いてサントリーホールでリヒャルト・シュトラウスを聞いてきました。
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先にサントリーホールのほうを。
東京交響楽団の音楽監督に来シーズンから就任するジョナサン・ノットが、リヒャルト・シュトラウスを振りました。
一曲目は《四つの最後の歌》。クリスティーネ・ブリューワーのソプラノ。コンマスの大谷さんのソロが素晴らしく感涙。
メインは《アルプス交響曲》。これは本当にすばらしい演奏。私はマゼールがバイエルン放送管を振った音源を思い出してました。
特に弦を歌わせるところの重みと厚みが素晴らしく、濃密なうねりが波のように押し寄せてくるのは圧巻でした。ノットは目立ってテンポを動かすことはなく、全てが統一された感じです。オケをしっかり統率している証左だと思います。
最近の私的妄想によりオーボエへの興味が累乗的に増しているわけですが、《四つの最後の歌》では、オーボエがソプラノのフレーズを吹いていて美味しいな、とか、《アルプス交響曲》で、嵐の前の雨音を吹いているのがカッコいい、とか、意味なく感情移入して聞いてしまいました。ほんと、習いにいかないとなあ。
個人的には、風邪をひいているせいか、耳鳴りがしていて、楽曲に集中できなかったような気がします。これは初めての経験。さすがに耳鳴りで音楽聴けなくなるというのは辛すぎです。
あすは、竹内栖鳳展について書きます。
帰宅したら、また熱が。全く……。
ではグーテナハト。

Book,Opera,Richard Wagner

1986年に刊行された高辻知義氏による「ワーグナー」。以前も一度読んだはずですが、もう一度読み直しました。

かなりまとまった緻密な一冊でした。ワーグナーを神格化することもなく、逆に誹ることもなく、中立の立場から冷静に論じていたと思います。

ただ、私は悠書館の「ワーグナー」を読んでしまっていたのです。悠書館の「ワーグナー」は最新の研究成果を取り入れた記述になっていました。ここで知った新たな事実は霹靂ものです。
ですので、私はこの高辻氏の記述の裏側に様々な事象を織り込んでいたようです。
たとえば、コジマがビューローと別れた経緯については、ワーグナーとコジマが通じたという事実と離婚という事実が記載されていただけですが、悠書館においては、ビューローが問題のある夫であったという事実が紹介されており、コジマの行動にある意味納得させられてしまうのです。私の中のビューローのイメージは、巨匠のそれですが、若き日は迷いのある日々だったようです。
さて、昨日はブログ休みました。どうにも先日の夜勤明けから、めずらしく風邪を患いました。
昨日は朦朧としながら、別件のインシデント対応を行いつつ、早めに帰宅してよく眠りましたので、今日は持ち直しました。

今日もこちらで落涙。ベン・ヘップナーは、柔和さだけでなく、雄々しさもあります。フォークトやコロにはない英雄的ヴァルターです。私の中のヴァルター像を変えなければならないかもしれません。
では、グーテナハト。

Richard Wagner

帰宅の電車。人身事故で、1時間立ち往生しまして、その電車の中で書いています。
しかし最近はずいぶんと良くなって、事故現場の様子を(タイムリーでもなく、正しいとも言えないのでしょうが)きちんと放送で伝え、運転開始時間の目処もきちんと伝えてくれます。何も知らされずにイライラすることもありません。これもホスピタリティの一環なんでしょうね。
さて、ワーグナー本をいくつか読んで、ずいぶんと理解が進みました。
というわけで、三年前にDVDから音源に落としていたブーレーズが振ったバイロイトでのリングの音源を聞いています。
この時の演出は、パトリス・シェローで、リブレットを拡大解釈して、リングの物語を19世紀以降の資本主義批判の物語に読み替えた、というのは周知の通りです。
当時のバイロイトにおいては画期的あるいは革命的な演出だったようです。
今からこの映像をみると、何が斬新なのかわからず、戸惑うことがあります。
確かに、我々はもうシェローのリング以上のリングを見ているわけですから、そこには新奇さを求めることはできなくなりました。
資本主義批判としての演出は、サヴァリッシュがバイエルン国立歌劇場で振ったレーンホフ演出のラインの黄金でも感じましたし。
あるいは、シェローの演出自体を多義的な解釈で咀嚼していく、とか、そういう見方になるのでしょうか。
っつうか、もっと映像も見ないと。
今週末は徹夜仕事です。
というわけでグーテナハト。

Richard Wagner

先日から読んでいる、バリー・ミリントンのワーグナー本、面白いです。

ワーグナーの、幾分か悪意をもって語られる要素について冷静に検証されていると思います。

ですが、現代からはかりしれない当時の状況や、数字、文献などから別の可能性を見出す試みは刺激的です。

明日も読みます。