Giuseppe Verdi

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良い天気の一日。紅葉を目前に控えた樹木がなんだか最後に太陽を浴びている姿を見て、少し感動しました。まあ、紅葉したって枯れるわけではないのですが、きたるべき冬に向けて最後の日光浴を楽しんでいるように見えました。

東京地方の空はもう真冬のそれで、快晴でした。ただ、残念なのは空が真っ青にならないことです。やはり空気が澄んでいるとはいえません。それが少し残念なところです。

今日の一枚。

Don Carlos
Don Carlos

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Verdi Bergonzi Tebaldi Bumbry Solti
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プーランクばかり聴いていたい気もしますが、そろそろ我に返らないと。

ドン・カルロの予習をしようと思います。

新国立劇場で演奏されるのは、どうやらミラノ版のようです。

2006年/2007年シーズンの記録

wikiによれば、ミラノ版は1884年イタリア語版と呼ばれ、リコルディから出版されたため、リコルディ4幕版とも言われるそうです。一番長いフランス語原典版が4時間以上かかるのに対して、ミラノ版は3時間半ぐらいで終わるようですね。

いま、ショルティを聴いていますが、いや、これは本当にいいですね。《オテロ》のような緊密な音作りがたまらないです。しばらくはコレばかり聴かないと。ジュリーニ盤を入手済みで、カラヤン盤を狙っております。

それでは取り急ぎグーテナハト。

Béla Bartók,Classical

NML → http://ml.naxos.jp/album/CD94.224

今日もマゼール。1958年録音のロリン・マゼールによるバルトーク《管弦楽のための協奏曲》。

やはりこれもスゴイ演奏なのですね。まだ20代の演奏なんですが、晩年に通じるダイナミックな演奏スタイルです。若さゆえの初々しい感じとかあまり感じないです(これはもちろん後の演奏スタイルを知っているがゆえの偏った見方なのかもしれませんがそれでもなおそう思います)。このテンポ感覚は素晴らしいです。第二楽章の冒頭部でリズムが少し揺れるのが面白いです。木管ソロが掛け合うところなので、いろいろあるのかなあ、と想像しています。

レーベルのページはこちら。 有用な情報は少ないかも。

長いと思っていた三連休も終わりました。部屋の片付けやらたまった仕事は片付きましたが、それでもなおやることがたくさん。大丈夫か、わたし? 明日は早起きの予定。

では、グーテナハトです。おやすみなさい。

Gustav Mahler,Symphony

少し間があきました。さすがに書けない状況がつづきました。

プライベートでイベントがあり、それと並行して、仕事場で論文を書いたりしていました。論文は45枚ほどのもので、大したものではなかったのですが、時間を見つけて書くのが難しく、提出後にあらたな資料が出てきて頭を抱えたりもしました。仕方がないです。全く…。

ようやく落ち着いたので、またそろりと書いていこうと思います。

先週末、ようやくスマホデビューしました。買ったのはiPhone6 plus です。今まではガラケーと携帯音楽プレーヤーとしてのiPod touchの二台持ちでしたが、一台に統合となりました。

初代iPhoneが出てから7年です。我慢を重ねましたが、世間もスマホがデフォルトになりつつある時代となり、理解も進んだということになりましょうか。

iPhone6 plusとしたのは、画面が大きいほうがいいなあ、と思ったからです。Kindleで本を読むことが多くなりましたが、Kindle自体を仕事場に持ち込めないので、苦慮していたので、小さい画面で頑張ってましたが、さすがによみづらく、というところでした。

iPhone6 plusとしたところ、Kindleは読みやすくなりました。間違いはありません。文庫本1ページとまではいきませんが、それに近いレベルまで大きくなりました。文字を小さくすれば、一画面あたりの情報量は文庫本1ページに近づくとおもいます。

最初はやはり、こんなに大きいのか、という戸惑いがありました。今までは片手で入力出来ていたのに、今後はできなくなるのか、という心配も。たしかに、大きくなっただけ、入力画面も大きくなり、重くもなりましたから。

ですが、慣れるとなんとも思わなくなるものです。数日で手に馴染んできたのですね、これが。だんだんとiPhone6 plusが愛おしくなってきた今日このごろです。2年間大事に扱ってあげたいと思います。

今日の一枚

今回聞いているのはこちら。

Symphonies 4-6
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NMLの方はこちらです → http://ml.naxos.jp/album/SIGCD361

7月に亡くなったロリン・マゼールのマーラー。フィルハーモニア管弦楽団との演奏で、2011年の録音のようです。

本当に巨大な演奏で、新鮮な気分で聴いています。ここまでで5番と6番を聞きましたが、いやあ、これはいい演奏ですよ。本当に。

実は、ニューヨーク・フィルとの録音によるマーラー5番を聴いたことがありますが、その時はあまりいい印象はありませんでした。でもこの盤のマーラーは本当に素晴らしいですね。戦術のように巨大な、というのは、実にゆったりとした雄大なマーラーということです。本当にオケをよく歌わせています。

これは、以前聴いたシュトラウスも一緒です。マゼールが、バイエルン放送管弦楽団と演奏したシュトラウスの「英雄の生涯」、「アルプス交響曲」、「家庭交響曲」を聴いた時にも同じ感想を持ちました。

https://museum.projectmnh.com/2009/10/09222538.php
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マゼールのマーラーにくるまれて眠りにつきたいです。

この連休、東京地方は雨が続くようです。11月に入り、寒さもましてきました。みなさまどうか体調にはお気をつけて。おやすみなさい。グーテナハト。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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はじめに

世の中というのは十二分に非論理的で、自らの努力でその妥当性を変えることはできません。こうなったら、アウト、という状況にならないよう、常日頃細心の注意を払いますが、外的要因でそうした配慮がおじゃんになることなんていうことはままあるものです。だからこそ、常日頃の細心の注意が生きてくるのでしょう。

飯守さんの音楽

さて、今日は先日の新国立劇場《パルジファル》の演奏面について。といっても、後述しますが、オペラにおける演奏面というのは、なにか言葉にするのが難しい物があると思います。

飯守さんの指揮は、じつにゆったりとしていました。それは演奏時間にも現れていて、予定を20分オーバーしたぐらいです。それが、演奏時間のみに起因するかはともかくとして。

ただ、聴いている中では、まったくそのスローテンポに違和感を覚えることはありませんでした。それは奇をてらうようなことはない本当に湧き立つような自然なものでした。そのおかげで、劇空間に没頭できたのです。

以前から思いますが、いいオペラの指揮は、おそらく、それが印象に残らないぐらいがいいのではないでしょうか。音楽についてオペラ公演でかたる、というのは、いい場合もあれば悪い場合もあるのだと思うのです。音楽になにか不自然さがあれば、間違いなく劇空間に入っていけなくなる気がします。今回は、前述のとおり、劇空間に没入できましたので、素晴らしい指揮だったのだと思います。

これと似た経験は、2007年のペーター・シュナイダーの指揮でも感じました。あれが、私の中の最高のオペラ体験ですが、演奏中より、そのあとからその絶妙さを、反省的に認識しました。

逆のパターンも有ります。劇の流れを、自分の方向に矯正しようとする指揮です。まれに聴きますが、個人的には、劇に入ろうとした時に音楽が気になって、あれあれ?、と思うこともあるのです。このあれあれ?、というのは、もちろん良い面も含んでいます。私の考えでは、音楽における「驚き」こそが、音楽の「意味」なのですから。ここでこんなことやりますか? ということをやられてしまった時の驚きが、音楽の愉しみの一つなのです。

ですが、オペラの場合はどうなのか。緊密な一つの劇空間にあっては音楽だけが突出することはできません。もしそれがそうだとすれば、それはバランスを欠いているはずです。

そういう意味でも、今回の演奏は、劇空間を統一に導く、素晴らしい演奏だったわけです。音楽がだめなら、劇に没頭できません。私が、パルジファルの愚者ぶりに感動したり、クンドリの横顔に深い感銘を受けられたのも、音楽に支えられての事だったといえます。

終わりに

指揮者もやはり組織を束ねる長です。《パルジファル》という6時間に及ぶパフォーマンスを発揮させるためには並大抵の努力では足らないでしょう。

オケのメンバーも必死です。ピットをのぞき込むと、フリスクが譜面台に置いてあるのをみて、なにかオケの大変さを思い知った気がします。

芸術だろうが会社であろうが、組織の牽引は同じ。組織の長というものは、組織のために常に闘うものであるべきです。

飯守さんは十全に戦っておられて、オケを引っ張っていたのだ、そう思いました。

本日皆既月食。欠けた月を仕事場の洗面所の窓のブラインドの隙間からのぞきました。太陽に吠えろの石原裕次郎のように(笑)

ではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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はじめに

今週の日曜日に行った新国立劇場《パルジファル》。多分18時ごろの写真。第二幕と第三幕の休憩の時に撮りました。

今日はクンドリ

今日はクンドリについて。このキャラクターはヒロインとは言えないでしょう。そこまで単純な性格付けができるキャラクターではありません。

《パルジファル》における謎めいた女性。善悪、それはもちろん、相対的な価値観に過ぎず、「とある言語ゲーム」において対極の側面をあわせ持つ人物、という方が正確な言い方とおもいます。

そのクンドリを歌い演じたのはエヴェリン・ヘルリツィウス。ドイツのメゾ・ソプラノです。バイロイト、ケルン、ベルリン・ドイツ・オペラやウィーンでもクンドリを歌っています。また、ブリュンヒルデもバイロイトで歌っていますし、イゾルデもレパートリです。

歌唱はもちろん安定していて、静謐と狂気を自在に使い分けていました。あのLacht と絶叫し、十字架を背負うイエスを嘲笑ったことへの究極の悔恨の表現は怖ろしさすら感じました。おそらく、あそこの一点において、アンサンブルの中で突出したものを体現したのだとおもいます。

一方で、第三幕の場面。あそこは絶品です。歌詞はほとんどありません。クンドリは黙劇を演じるかのようです。が、ここがほんとうに素晴らしかったのです。人間の人間らしさとはこういうものなのか、と思います。

苦しみを乗り越え、パルジファルの脚を洗い、香油を塗るクンドリに、もはや迷いはりません。パルジファルとエロスを超えた愛情で結ばれている至上の幸福感を感じました。

ヘルリツィウスの表情は第二幕の欲情に燃えさかるそれではなく、老成し落ち着いた老夫婦の愛情なんだろうなあ、と思います。髪の毛を包むベールをとると白髪になっていたところに私は本当に本当に心をうたれました。長い時間がなせる奇跡を見たのだと思います。

もちろん、時間と空間が混合した世界であることはリブレットにある通りです。それでも、第二幕のクリングゾルの城の崩壊から長い時間が経っていることの示唆、つまり、クンドリの白髪もそうですし、パルジファルが水を受け取り上着を差し出す青年が、前奏曲でアムフォルタスに水を与えた少年で、成長しながらも、そこになにかしらの貧困のなせる不幸という文脈を、感じ取ることができるとか、そうしたところで、劇空間の時間的拡がりを認識できたのだと思います。

そうした、時間の中を苦しい旅を続けたパルジファルもクンドリの境地は、どのような宗教においても普遍的な巡礼や回行といった行をおさめた者の境地なのでしょう。そう意味では時間という、人間が決して操作できない最大の自然力こそが、人間を鍛えるのでしょう。

私はあの第三幕のクンドリの横顔を一生忘れることはないと思います。辛苦を乗り越えた横顔であり、そこで得た安らぎを味わう横顔だったと思います。

終わりに

明日も公演が14時からありますね。いらっしゃる方、どうぞ楽しんでいらしてください。って、ネタバレのことばかり書いてすいません。

6時間の公演を聞き終えたあと、おそらくその業績を名刺に書くことがゆるされるんじゃないか、と思うほど。大袈裟ですかね。たしか《失われた時を求めて》をすべて読んだ人は、その業績を名刺に書ける、という話が会ったと思いますが。。

それではみなさまおやすみなさい。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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はじめに

みなさま、今日の台風はいかがでしたか。私は台風が来る前にということで、早々に仕事場に向かいました。いつもより一時間半早く到着しましたが、悠々と通勤できました。早起きは三文の得。

こちらの写真が台風前夜の新国立劇場。

あらためてみてみると、凄い色の写真になってます。広角でパースがめちゃめちゃですがこも崩壊感がいいのかも。なんだかよくある舞台装置みたいです。

昔、バイエルン州立歌劇場で《マノン・レスコー》觀ましたが、舞台上に、バイエルン州立歌劇場が現れて驚きました。アンドレアス・ホモキの演出だったはず。新国でも、新国を舞台にした演出ができるかもしれない、などと。もちろん、《ヴォツェック》のようにじゃぶじゃぶと水を張ると面白い。この水庭が舞台なんですよ。なーんて。

愚者パルジファル

新国立劇場《パルジファル》の感想。その2です。

とにかく、パルジファルは愚者としての描かれ方。フォークトやドミンゴだとこうはいかないのかも、などと。
ただ、これも真実。この方が真実。パルジファルとイエスがかさなるようにおもえたし、作務衣のような服からは、お寺の小坊主みたいな雰囲気を感じました。

すこし驚いたのが、第二幕での「アムフォルタス!」と絶叫するシーン。あそこは、決定的認識で、英雄に変貌するシーンと思っていましたが、そうではありませんでした。パルジファルは、アムフォルタス、と叫びながら、最後のほうは、泣き崩れるようだったのです。まさに、共苦。苦しみに同化し、泣き崩れた感じ。華々しい認識の勝利とか、エラン・ビタールのような価値の転倒、コペルニクス的展開のような爆発力はありません。
これ、遠藤周作「死海のほとり」に出てくる人間的イエスなんだなあ、と。カラヤン、ショルティ、ティーレマンとその他の盤でも聴いてみましたが、こういう歌い方はないです。それらはやはり英雄的パルジファルなのでしょう。

ですが、今回のパルジファルは違いますから。これが本当の英雄。本当の聖者。私はそう思いました。

クリスティアン・フランツ、少し調子悪い?と思えるなにか元気のなさなようなものを感じましたが、そういう設定だから妥当なのでしょう。声の美しさは抜群。透き通る高音は、パルジファルの心の純粋さがよく現れていました。演技も本当に巧いです。アムフォルタスの嘆きのモノローグの最中にも、なにかたじろいだり、驚いたりするシーンがありました。愚者パルジファルを十全に演じきっていたと思います。

最後、仏教へと消えしていくシーンの、あの断固とした表情は忘れられないです。悟りの境地にある達磨大師のような達観した表情。私もいつかはあのような表情を浮かべて全てを見やってみたい、そう思います。

終わりに

このあとクンドリ関連も書いたのですが、それはまた明日。これは少し続きそうなネタです。

それにしても、音楽的なことはあまりかけず、いつもの様についつい演出や演技などについて印象に残ったことを書いてしまいます。私はオペラにおいてなにを観ているのか。。

次の公演は10月8日です。でもお昼の2時からですのでお勤めの方は難しそうですが、ぜひぜひ。

ではグーテナハトです。

NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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《パルジファル》。日本でこのパフォーマンスを見ることができることに本当に感謝です。

今日は14時〜20時の6時間にわたって初台にこもった感じです。4年前の東京リング以来の長丁場でしたかね。なかなかハードでしたが、ちゃんと全て集中力をたもって聴くことが出来ました。本当に学びと気づきに満ちた6時間でした。

バックステージツアーもありましたが、今日はさすがに応募できず。多分今日は競争率が低かったのではないでしょうか。

それにしても、今回のクプファーの演出は見事でした。たしかに舞台装置の意味合いが難解な部分もありましたが、仏教の僧侶の導入は、私には本当に妥当で核心をついたものだと感じました。

ワーグナーは《勝利者たち Die Sieger》というオペラを1850年代に予定していて、これは仏教的なものとなる見込みだったそうです。

たしかに、《パルジファル》いおける、仏教の煩悩からの解脱とか、他者への分け与え(布施波羅蜜というそうですが)といったコンセプトが実にフィットしていたのだと思います。

また、現状の価値が多様化している世の中にあって、「キリスト教」的な価値観と仏教的な価値感への連結が描かれたことは、示唆的だったのだと思います。さすがにここでイスラム的な、となると、非常に難しいのでしょうけれど。

個人的には、最近、大学の友人とこの手の話題を執拗にメールでやりとりしていたこともあって、シンクロニシティを感じました。少し前に岡本かの子を読んでいたのもその理由からだったので。

しばらく《パルジファル》を考えることになりそうです。で、それはいささかショッキングというか、その後の悲惨な歴史的経緯を想起させるものになるかもしれませんが。。

東京地方の明日は台風。ですので、早く家を出ます。電車が動いていることを願いつつ。みなさまもお気をつけて。

それではグーテナハトです。

Opera,Richard Wagner

本日、《パルジファル》に行きます。いや、行けるといったほうがいいかも。体調はいまいちですが、待っている人がまだ来ないので、なんとか、というところでしょうか。

というわけで、昨日から予習中です。

Parsifal-Comp Opera
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で、怖ろしいことが。。

iOS8で、Siriが音楽を見破る事ができるようになりまして、聴いている曲を当てられてしまいました。しかも指揮者まで。。マジですか。

IMG 0604

では、そろそろ出発します。東京地方は雨ですけれど、無事に帰ってこれますように。

Alban Berg,Miscellaneous

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なんだか、また戦時中のような感覚に戻ってしまいました。

今日の地震をうけて、なんだかそんな気分になりました。

2011年、あの震災直後の状況は、いわば戦時下のような事態だったなあ、といま思い出しています。

私なんて、関東西部に居て、そんな大きな被害は受けていませんので、なんだかんだいう資格はないのかもしれません。

ですが、信号機の灯が落ちて、真っ暗闇の交差点を車が恐る恐る走っていく様を観たり、翌日の電車の運行状況を駅で必死に調べたり、灯りの落ちた仕事場でデスクライトの灯りを頼りに書類を読んだり、なんていう経験をしました。

あの頃は異常が通常で、人間というものはこんなにも簡単に異常に慣れるものなのか、と半ば驚いたりもしました。

というか、あれは本当に戦争だったのかも、と思います。自然からの戦争に当然負けてしまったわれわれ、という感じ。

で、そうしたこともこの東京地方では、ずいぶんと前のことと思っていましたが、今日の少し大きめな地震で我に返った気がします。

あの時のそこはかとない不安。晴れた昼下がり、青空とさんさんと降り注ぐ太陽の光をみながら、でも、すでに昔のような牧歌的な気分にはなれないのだ、という、大きな喪失感のようなものを感じたりしたことを思い出しました。

今日の地震は、私の部屋も損害を蒙りまして、エレピの上にアンプが落ちてくる、という惨事でした。エレピには深い傷が。。ですが、音は鳴ってくれましたので、なんとかかんとか、というところです。

まさか、あの重いアンプが落ちてくるとは。そして、そのアンプ受け止めながらもエレピが壊れなかったという幸運に感謝している状況です。

世界が平和でありますように。

今日の一枚。なぜか、この心情には「抒情組曲」を聴きたいと思いました。冷たい織物の向こう側に救いはあるのでしょうか。この曲、実はベルクの不倫相手アンナ・フックスのイメージが隠されています。想像するに、そこはかとないアンバランスがここにはあるはず。安定しないのが世界というもので、常に先への不安が存在するわけですが、そういう気分が、根拠なき不安と通じるのでしょうか。

この全集の2枚目に収められています。ラサール弦楽四重奏団による演奏です。アルバン・ベルク弦楽四重奏団の師匠筋です。

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ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Classical,Ludwig van Beethoven

はじめに

今日も暑い一日。ですが、まだ晴れているだけ良いのかもしれません。西日本では晴天の日が少なく、経済への影響が懸念されているようです。広島の件は本当に心が痛みます。

今日も一日家で休息をしました。休まなければ次に続きません。

カルロス・クライバーの運命

でもコレは書かないといけません。先日ご紹介したRadio Classiqueですが、今日も聴いていました。するとこちらが登場です。

Beethoven:Symphonies 5 & 7
Beethoven:Symphonies 5 & 7

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カルロス・クライバーがウィーンフィルと演奏したベートーヴェンの《運命》。

クラシックファン必聴の名盤ですが、初めて聴いた人に、その画期的であることはどういうことか、ということをいろいろと話したのですが、まあなんだか私一人が話しているだけでした。いまひとつ。言葉で話しても意味が無いということなのかもしれません。もしかしたらその場でフルトヴェングラーの音源などを聞いてもらうとよりわかったかもしれません。

やはり、歴史的な文脈の中でしかその音楽の位置づけとか評価というものはなかなか判断できないということなのでしょう。あの聞く人によれば重いフルトヴェングラーの運命を聴いてから、この演奏を聴くと、その画期的な意味が分かる、ということなんでしょう。書いていながら、あれ、カラヤンやトスカニーニだってこんな感じだったのになあ、と思いましたが、録音やホールの音響なども相まって、この音源の価値があるのだと思います。

音楽を理解するために

ということは、絶対的な価値判断というものはなかなか難しいということなんですね。言わずもがなですけれど、改めて思いました。音楽の理解には時間が機会が必要です。寸暇を惜しんで何枚も何枚も聴かなければ成りません。あるいは何度も何度も劇場やホールに足を運ばないと行けないのかもしれません。それを全うできるのは本当に限られた幸運な人々だけなのだろう、と思います。私はそこまで行けていません。努力はしていましたが、少し休んでいました。これからまた努力をしなければと思います(クラシックもジャズも)。

何度も引用して恐縮ですが、あらためて、小澤征爾と村上春樹の対談を思い出します。

舞台と客席の断絶は広く深いのか。
続 舞台と客席の断絶は広く深いのか。

小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤 征爾 村上 春樹
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音楽を聴く環境は整ってきている?

ただ、そうした事情も、もしかすると徐々に変わってきているのかも、などと思います。

もちろん劇場やホールに足を運ぶのは物理的時間的成約があり難しいのかもしれません。地方に住んでいる人にとってみれば、東京であまた開かれているコンサートやオペラに足を運びなさい、といってもよほどめぐまれていないと難しいです。

ですが、ナクソス・ミュージック・ライブラリーやベルリン・フィル・デジタルコンサートホール、ウェブ・ラジオなどのウェブを通じた音楽聴取の機会というものは本当に増えています。もちろん実演に比べるとその情報量は下がりますので、本当に音楽を聞けているかというと疑問ですが、それでも、かつてに比べて安価に音楽を聞けるチャンスは増えたのです。

ただ、問題は、普通の会社勤めや学生の方々はきっとそんな時間もないのかもしれない、ということだけですが 。その場合は、音楽評論家のCD評論や音楽愛好家のネットにおける情報をたよりに効果的に音源を選ぶこともできるかもしれません。

そう言っても、もとの議論に戻りますが、名盤だけでなく凡盤(?)も聴かなければ、名盤の良さは分からないので、効果的に良いものだけを聴くというやり方にも問題はあるとは思いますね。

いずれにせよ、思うほどチャンスは縮まっていないのではないかとも思います。時間さえあればですが。

結局のところ、落ち着いて一時間とか二時間とか音楽を聴ける時間と、ウェブにつながる環境があれば、どこに居ても、どんな方でも、その気になれば音楽を楽しみ学ぶ環境が整っているのが現代の日本なのではないか、と思います。

繰り返しになりますが、問題は時間がない、ということに尽きるのです。悲観的なのか楽観的なのかわからない結論ですが、そう思います。そして、私に足らないのは時間だということも再認識しました。時間は作れ、ともいいますが、限界もまたありますので。

明日は朝から喚問されます。無事におわるといいのですが。というわけでグーテナハトです。