Book,Richard Wagner


また桜。そろそろ散り始めているかしら。。。
ワーグナー関連本を二冊を読み終わりました。いずれも新書です。マンの著作を読む前に参考になるかな、と思い手に取った次第。こっちを先に読み終えてしまいました。

はじめての『指環』―ワーグナー『ニーベルングの指環』聴破への早道 (オン・ブックス21)
山本 一太 / 音楽之友社 (2005-10-01)
本・雑誌
堀内 修 / 講談社 (1990-12)

堀内修さんは、今年(2010年)のNHKニューイヤーオペラコンサートのロビーでお姿をお見かけしました。この本は、ワーグナーを巡る情勢がよく整理されていて大変お勧めです。特に歌手の分類記載がよかった。ヘルデン・テノールとかドラマティック・ソプラノなど、歌手の特性とそれぞれの役柄について記載がなされています。たとえば、ヘルデン・テノールはジークフリートやジークムントを歌いますが、シュピール・テノールはミーメを歌う、などなど。これは別記事で取り上げる予定。大変勉強になりました。私、オペラを見始めてもう8年になりますが基本的な勉強はしておりませんゆえ、いまさらながらでお恥ずかしいのですけれど。
山本一太さんの「はじめての<<リング>>」は、リングを一通り見聞きしている方にとっては少し物足りないかもしれませんが、逆に言うと、これから聴かれる方には必読だと思われます。私の場合、里中真智子さんのマンガであらすじをつかむという邪道な道を歩きましたけれど。すでにリングを聴き通しておられる方にとって興味深いと思われるのは、第五章「<<指環>>こだわり篇」ではないでしょうか。
ちなみに、マンガはこちら。

ニーベルングの指環〈上〉序夜・ラインの黄金、第一夜・ワルキューレ (中公文庫―マンガ名作オペラ)
里中 満智子
中央公論新社
売り上げランキング: 8344
おすすめ度の平均: 5.0

5 文句なしの5つ星
5 いい本です

ここでは、一つわからなかったことのヒントを見つけることができました。つまり、どうしてジークフリートはブリュンヒルデと分かれて、旅立たなければならなかったのか。別に、二人で引きこもっててもいいんじゃない? みたいな。でも、まあ外界と触れないと生きていけませんので、特に資本主義社会においてはなおさら。それで、この本によれば、英雄たる者、各地の王から貢ぎ物を取り立てなければならないのであるから、ジークフリートは、取り立て屋のごとく、各地の有力者を回って朝貢品を求めていたとは。なるほど。

Opera,Richard Wagner


ちと、桜の写真をば。これも先週末に撮りに行ったときのもの。日曜日以降、天気が悪くなりましたので、今年最後のチャンスだったというわけです。
さて、パルジファル。妄念炸裂中なのですが、先だっての「ジークフリート」、「神々の黄昏」の妄想なんて、ワーグナーが亡くなって100年以上も経っている中ですでに論じられていたことではありますが、まあ、パフォーマンスに接することで独力で理解できた部分を再構成しているということで、お許しください。学術論文を書いているわけでもありませんので。ワーグナーのことなんて、もうありとあらゆる説が出回っているでしょうから、何を言っても先人の遺業をなぞるに過ぎない。でも、なぞりたくなってしまう。そういう感じです。
しかし、「パルジファル」は不思議なオペラであります。まあ、真正のオペラではなく舞台神聖祝典劇と称されるだけあって、なぞだらけ。そうしたわからないことは以下のようなもの。
なぜ、クンドリはすべて知っているのか? クンドリは、まるで、ブリュンヒルデがジークフリートの出自を語るかのごとく、パルジファルの出自の秘密を語ってみせるのですが、なぜクンドリはそうした知識を持っているというのでしょう? あまりに謎すぎる。クンドリは、昨日も触れたように、イエス受難を見ているんですよね。時間と空間を超える能力を持っていなければ、そうできないはず。難しい。
あとは、クリングゾルのこと。これも、やっぱりミーメと我々の関係に似ていて、クリングゾルのほうが現代の人間的である。聖杯守護の騎士になろうとしたのだが、ティトゥレルに拒まれたが故に、その仕返しに、色仕掛けで騎士達を堕落させるとは。これって大衆操作と一緒だなあ。我々はパルジファルよりもこざかしいが故に、大衆操作の対象となっているとは。リングもそうですが、じつは悪役の方が自分たちに近いと思ってしまうのはなぜなのか。
あともう一つ。クリングゾルはなぜ自ら去勢したのか。去勢したが故にクンドリの魅力に落ちることなくそれを利用することができるとは何を表しているのか。
先にも書いたようにこのオペラは性的メタファーに満ちあふれていて、それでいながら聖なるものを扱っているので、整理するのが大変です。素人の手には負えない。でもあきらめたくない。 頑張ろう。


これ、会場で売っていたリブレットなんですが、凄く秀逸。四段組になっていて、左から、音楽的考察→原文→邦訳→解釈 という構造。すばらしい。2500円じゃ安いぐらいです。

Opera,Richard Wagner



さて、昨日の「パルジファル」、先日の「神々の黄昏」と同じく、あまりにも強い雷撃を受けてしまいました。今朝は起き上がれず、いつもなら始業80分前には会社にいるんですが、今日は20分前にようやく到着。さすがに心身ともに大ショックだったらしいです。
私が泣いたところ。

私が泣いた1カ所目

一カ所目は、第二幕、パルジファルが「アムフォルタス!」と絶叫するところ以降。あそこのパルジファルの叫びが一つの頂点で、その後のクンドリの「笑った」の絶叫ももう一つの頂点。
クンドリが「あの人」というのはイエスのことで、彼を見て泣くのではなく笑ったのだという。「笑った!」、って、あの「ジークフリート」の最終幕の「笑って死を!」を思い出すじゃないか。「笑い」って、哲学的には非常に難しくて私は理解しておりません。古くはアリストテレスに「笑い」に関する著述があったのでは、というミステリになったのが「薔薇の名前」でした。ニーチェやらベルグソンやら。ただ、この「笑う」という言葉にはグサリと胸を貫かれましたですよ。しかもあの絶叫ともいえる強烈なフォルテで。
クンドリがイエスの受難を見た、という事実も私の胸にぐさりと来ました。何百年もクンドリは呪われ傷つき苦しんでいたのだということ。死ぬこともなく生きることもなく。ああ、なんということか。救いが死とは。

私が泣いた2カ所目

二カ所目は、第三幕でパルジファルが来歴を語るところ。なんというか、人間の根源的な罪状を突きつけられている気がしてきて、完全に感情移入しちまいました。苦労して遍歴し彷徨し、聖槍を使うことなく、聖金曜日に聖杯の元にたどり着くという労苦。まあ、私の苦労なんてどうということもないんですが、なんだか辛い十年間を過ごしていて、まあ、まだ状況は変わらないのですが、なんだかまだ希望があるかのように思ってしまいまして、ボロボロと涙が頬を伝って言ったというわけ。
私の同世代以上の方々は、みんなして涙腺が緩んでくるとおっしゃいますけれど、私もしかり、です。前に「涙が出ないと、入場料の元をとった気がしません」と書いた覚えがあるのですが、今回の「パルジファル」は、そう言う意味では元を取りまくりました。

Opera,Richard Wagner

今日は復活祭。
小学生低学年の時分は、リンドグレーンの「やかまし村」シリーズにのめり込んでいました。親からは早く寝なさい、と叱られていたのですが、豆電球をつけて布団の中でこっそり読んでました。昔から本は大好きということのようです。
で、「やかまし村」シリーズに、復活祭の描写があるんです。イースターエッグを探す場面でした。小学校の時分は全く何のことかよく分からなかった。
当時は、伝記もたくさん読んでいて、シュバイツァーとか、ニュートンとか、まあ、よんでるわけで、それに加えて「ロビンソン・クルーソー」なんかも読んだりすると、自ずとキリスト教文化に触れることになります。で、どうも復活祭というのはキリストと関係するらしい、という風に思って、親に「キリストの伝記を買って」とお願いしたら、拒絶されました。まあ、うちは葬式仏教ですので、抹香臭いのがいやだったんでしょうね。
とはいえ、復活祭の定義とは以下のようなものらしい。
# 春分の日を過ぎている
# 春分の日の直後の満月を過ぎている
# その直後の金曜日が聖金曜日で受難の日
# その直後の日曜日が復活祭
というふうに、購入した大変秀逸なブックレットには書いてありました。ウィキにはそこまで厳格には書いていないのですが。で、先日、撮った満月の写真、あれ、偶然撮ったんですが、今日を暗示していたように思えてくる。

というわけで、本日はパルジファルに行って参りましたですよ。写真は明日。
先日の「神々の黄昏」以来、ワーグナー漬けな毎日ですが、もうしばらくそれは続きそう。詳しい話は明日から少しずつ書いていきますけれど、ソリストの方にはみんなブラービと言いたい。つうか、今日の主な出演者の方のお名前を。
* 指揮:ウルフ・シルマー
* パルジファル:ブルクハルト・フリッツ
* クンドリ:ミヒャエラ・シュスター
* アムフォルタス:フランツ・グルントヘーバー
* グルネマンツ:ペーター・ローズ
* クリングソル:シム・インスン

クンドリ

ブラーヴァはやっぱり、クンドリのミヒャエラ・シュスター。あの圧倒的な第二幕のダイアローグは涙が止まらない。強力無比なワーグナーソプラノ。ジークリンデがレパートリーと書いてあるけれど、どちらかと言えばブリュンヒルデだと思います。

パルジファル

それから、もちろんパルジファルのブルクハルト・フリッツも。クンドリと接吻した直後に「アムフォルタス!」と絶叫するんですが、あそこ以降で、もう涙涙。私、今日は前から四列目だったんですが、シュスターもフリッツも私の涙が見えていたと思う。客席の照明はあまり落とされていませんでしたので。

アムフォルタス

アムフォルタスのグルントヘーバーは、なんだか疲れ死を望んでいるのですから。でも、ここぞというところのパワーはすごいものがあった。苦悩をうまく表現しておられるのですよ。それがですね、蝶ネクタイを外したりつけたりしていることで表している。第一幕の冒頭部ではネクタイを着けていない。なぜなら水浴するから。その後の聖餐の場面では蝶ネクタイを着けている。第三幕では、疲れ切っているのでネクタイを着けていない。うーむ。考えられている。

グルネマンツ

グルネマンツのペーター・ローズ氏は、2007年の私の中ではすでに伝説となっているペーター・シュナイダーの「ばらの騎士」でオックスをやっている。そのときより少し太った感じ。でも、圧倒的な存在感でした。もちろんクルト・モルとまでは行かないですが、完全に掌握している。歌手の中でスコア(総譜)を見ていたのは彼だけ。ほかの方はパート譜を見ておられました。

ウルフ・シルマー

以前も触れたように、シルマーの指揮には結構触れています。
“https://museum.projectmnh.com/2010/04/02221204.php":https://museum.projectmnh.com/2010/04/02221204.php
ですが、指揮をする姿を見るのは初めてでした。なぜなら、すべて、彼はピットに入っていたから。私の席、前から数列目で、ちょうど指揮台の真後ろというなぜかすばらしい席だったんです。シルマーの動き、すごいっすよ。鋭角でエッジの効いたタクトで、Twitterにも書きましたが、あれはもう阿修羅です。きっとマーラーの指揮ってこんな感じだったんじゃないかな、と。あのマーラーの有名なカリカチュアを思い起こしました。
もちろん、演奏自体も優れていました。思ったよりテンポは動かさなかったけれど、ゲネラル・パウゼの緊張感はすごかったし、デユナミークもすばらしかった。何はともあれ、気合いとパワーがすごい。あれ、絶対ジム通っているはず。そうじゃないとあの動きを5時間近く保てないはず。

N響

シルマー氏とN響の組み合わせも今回の楽しみの一つ。いやあ、これが実にいいんですよ。NHKホールの、なんだか散漫な響きとは違って、弦楽器の分厚さとか豊かさが十全に発揮されていました。私の席からは木管や金管は見えなかったんですが、某オケの不揃いなんていう事故はあまりなかったと思います。ロスフィルの映像を見た直後だったんですが、がんばれ追いつけるかも、と思いました。
というわけで、ざっくり感想をば。明日からは私の妄念を考えていきます。

Opera,Richard Wagner

まずは、嬉しい出来事! ぎゃー、あのあこがれの、テレビでおなじみの音楽学の某先生にお会いしました。レストランで食事をしていたら、たまたま入ってこられたのです。カミさんが、「挨拶しておいでよ!」って、「そそのかす」もんですから、意を決して話しかけてみました。いつもテレビで拝見しています。これからも楽しみにしています、とご挨拶。気さくな先生で、本当にびっくりでした。僕たちの方が先にレストランを出たんですが、出口で振り返って会釈したら、先生も僕たちに会釈してくださったんです。嬉しい。凄く気持ちの良い先生です。今度、街ですれ違ったら挨拶できるかなあ。とても良い思い出ができました。また会えると良いなあ。
でもですね、今朝は強風で電車が遅れまくって大変でした。私なんて、6時15分に家を出たというのに、会社に着いたのは8時55分でした。いつもなら7時40分には到着するというのに。2時間ほど立ちづくめで大変でした。まあ、それでも気合いで乗り切りました。まだまだ若いモンには負けませぬ。
皆様の「神々の黄昏」のブログ記事を拝読していて、ちょっとハイティンク盤の「神々の黄昏」最終部分を浮気して聞いていたら、思い出してうるうるしちまった。うーん、リングの世界は奥深い。ワーグナーの世界も奥深い。それにてしても、「 “さまよえるクラヲタ人":http://wanderer.way-nifty.com/poet/ 」さんのブログは秀逸です。私はここまで覚えていない。すごいです。永久保存版。
さて、パルジファルの予習はなかなか進まない。私の場合、予習に関していえば、まずは音楽を覚えることから始めるんですが、どうもまだ第一幕しか覚えられてない感じです。なので、第三幕から何度も聞いている状態。
以前、書いた記憶もあるのですが、私のオペラの聴き方、をまとめてみると。
# まずは、音源を入手。
# おおまかなあらすじを把握。
# 音楽を覚えるために、ひたすら聴きぬく。
# 余力あれば、複数の指揮者バージョンで聴いてみる。
# 時間があれば、リブレットを読みながら音源を聴く。
# あらすじ理解のため、人物相関図を作る。
# 実演で、音楽と演出とリブレットの融合を楽しむ。
# 実演後は演奏や演出についての感想や妄想をブログに書いて記録する。
こんな感じです。
しかし、「パルジファル」におけるグルネマンツの圧倒的な存在感には感嘆するばかりです。狂言回しという感じではないです。狂言回しというと、「オテロ」のイアーゴとか、「ラインの黄金」のローゲなんかを思い出すのですが、グルネマンツはオペラの存立を支える強靭な土台でしょう。
で、私の聴いているカラヤン盤のグルネマンツはクルト・モル。レヴァイン盤もやっぱりクルト・モル。私は本当にクルト・モル御大が大好きでたまりません。クルト・モル御大の初体験は、もちろんクライバーの「ばらの騎士」オックスです。で、カラヤン盤でも歌っておられて、もう完全にデフォルト化している感じ。あとはクライバーの「トリスタンとイゾルデ」のマルケ王も印象的。あとは、サヴァリッシュ盤DVDの「ヴァルキューレ」のフンディングのすばらしさ。グルネマンツという難しい役柄を咀嚼吸収し個性として発露しているところは本当にすばらしいです。
さて、明日も引き続き予習予定。頑張ります。

European Literature,Opera,Richard Wagner


こちらの写真は、2008年に訪れたヴァチカンのサンピエトロ大聖堂にある天才ベルニーニの手になる聖ロンギヌスの彫像。聖ロンギヌスは十字架にかけられたイエス・キリストの脇腹に槍をさしてとどめを刺した人物。キリストの血を浴びて、白内障が治ってしまい、後に列聖されるという人物。とはいえ、実在したかどうかはわからない。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%8C%E3%82%B9":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%8C%E3%82%B9
もちろん、この彫像の右手で持っているのが聖なる槍。すなわち聖槍。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%A7%8D":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%A7%8D
ということは、もちろんパルジファル。
パルジファルまであと三日。予習予習。
っつう感じで、この一週間はパルジファル漬けなんですが、東京春祭のこの以下の4つの記事が予習用として秀逸です。
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_443.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_443.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_449.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_449.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_459.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_459.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_520.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_520.html
リブレット読んだり、カラヤン盤の解説を読んだりしているんですが、実に興味深い。演奏会形式で見るのはもったいない。演出付きで見てみたい、という思いが強いです。
たとえば、「ダ・ヴィンチ・コード」をお読みになれば、聖杯と聖槍がなんのメタファーなのか、というのはおのずとわかりますし、そうすると、リングにおけるノートゥンクのメタファーとの関連性も見て取れる。
第二幕でクンドリがパルジファルを誘惑する場面は、「ジークフリート」のブリュンヒルデ覚醒の場面のミラーリングにも思えてなりません。クンドリは「私の接吻があなたに叡智をもたらしたのでしょうか?」とか「あなたに神性をもたらすでしょう」という。ブリュンヒルデもやっぱりジークフリートに知識を授けているし、ブリュンヒルデの神性は逆にジークフリート誕生に寄与したために失われていますし。
それから前述のリンク先に指摘されていたんですが、この物語には、キリストその人についての叙述がなく、典礼の言葉もないという不思議さ。おそらくは、ワーグナー自身がそれにあたるものとしているんじゃないか、と。
トーマス・マンの「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」を読んでいるところなんですが(これもめっぽう面白くて、何で今まで読んでいなかったんだ、という自己批判)、その中で愛情についての考察がいろいろ書かれていて、めちゃくちゃ興味深いんです。で、どうも、この愛と美というものが複雑に織り込まれている、あるいは織り込もうとしているのがヴァーグナーなのである、という直観に支配されています。
それと、ナチズムとの関連とか、ドイツ的なものとの関連とか考え出すと、身震いするぐらい面白い。この世界を20年前に知っていれば人生変わっていたと思います。
ちなみに、この「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」の後半に書かれている「リヒャルト・ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』」の結語が、ゲーテの「ファウスト」第二部の最後の一節なのです。
「永遠の女性なるものがわれらを高みに導く」
これ、もうご存知のとおり、マーラーの交響曲第八番の最後ですよね。もう、なんだか、頭の中が興味深い妄念で満ち溢れていて、仕方がありません。
明日からはマンに没入しつつ、パルジファルを聴く予定。マンの前述の本ではクンドリのことが分析されていたりして大変興味深いのです。

Opera,Richard Wagner

4月4日は、上野でパルジファルを聴きます。というわけで、最近はパルジファルの予習ばかり。カラヤン盤とレヴァイン盤が主です。この曲、まだ理解しきれているか、不安は大きい。なんともかんとも頑張らないと。
というわけで、人物相関図を作りましたが、物語は複雑ですので一枚の図表で表現するのは難しいです。けれども、私のようなパルジファル・ビギナーにとっては、作るという行為が有意義でした。

指揮をするウルフ・シルマー氏の指揮は、結構な頻度で聴いています。実演でいうと、
* バスティーユ:「影のない女」[1]
* 新国:「フィガロの結婚」
* 新国:「エレクトラ」
* 新国:「西部の娘」
映像では、
* パリオペラ座:「カプリッチョ」
 "https://museum.projectmnh.com/2010/03/19045206.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/19045206.php
* ブレゲンツ音楽祭:「ラ・ボエーム」
音源では
*ウィーン国立歌劇場:「カプリッチョ」
“https://museum.projectmnh.com/2009/11/24230223.php":https://museum.projectmnh.com/2009/11/24230223.php
シルマー氏の棒は、結構たくさん聴いていますね。今まとめてみても、ちょっとびっくり。いつも感動しています。
「パルジファル」情報や、氏の写真はこちらに載っていますね。
“http://www.hmv.co.jp/news/article/1002070002/":http://www.hmv.co.jp/news/article/1002070002/
シルマー氏の指揮は、あまり極度にテンポを動かさないのですが、メリハリをつけた意図を強く感じるものだと思います。N響と分厚い弦がどのように料理されるのか。本当に楽しみです。
fn1. ただ、何度も書いておりますが、バスティーユオペラでの「影のない女」は、仕事と飛行機疲れと時差ボケで意識を失っていたのですが……。勿体ないことです。

Opera,Richard Wagner


新国中庭の水庭の一コマ。新国建築ラヴ。

ついでに、「オペラパレス」前景。未だに「オペラパレス」というのは気が引ける。
さて、バックステージツアーに当選しまして、公演がはけたあとの舞台裏にお邪魔しました。

6時間にもわたる長丁場が夢のあとのような静けさでした。当然ですが、舞台裏のほうが客席の面積よりも大きいですし、舞台の高さは言わずもがな、いわゆる「奈落の底」はかなり深いとのこと。舞台から客席を見ると、夢の残滓がかすかに残るような気がしました。
バックステージツアーで見せていただいたものの中で興味深かったものがいくつかありましたが、そのうちのひとつが、舞台担当の方が「ホワイトボックス」と読んでおられたセットです。真っ白い箱型のセットで、遠近感をつけるために奥に行くほどサイズが小さくなっているもの。だから、ボックスを構成する面はすべて台形で、ボックスの最奥が台形の短辺にあたります。左右には扉が5つずつの全部で10扉あります。お話によれば8番扉の調子が悪いそうで。
この「ホワイトボックス」ですが、「ラインの黄金」でヴァルハラの広間として使われていまして、最終部分で上から風船が落ちてきて、イエス、仏陀、イザナギみたいな「神々」が入場してくる場面でしたね。扉には番号が書かれていて、私にはあれが空港のホーディングブリッジ(ジェットウェイ)にしか見えませんでした。以下のリンク先に写真が出ています。
“http://www.nntt.jac.go.jp/opera/20000082_frecord.html":http://www.nntt.jac.go.jp/opera/20000082_frecord.html
続く「ヴァルキューレ」第三幕冒頭では、あの有名な「ヴァルキューレの騎行」を歌いながら、ヴァルキューレたちが、戦いに敗れ傷ついた勇士たちをストレッチャーに乗せて何人も何人も運び入れたり、運び出したりを繰り返す大変印象深い場面でも「ホワイトボックス」が使われていました。あの時の扉はICU(集中治療室)の入り口に感じられ、ヴァルキューレたちはさしずめ看護師か女医か、という感じ。[1] ともかく、あの時点では「ホワイトボックス」はヴァルハラに属していたのです。
“http://www.nntt.jac.go.jp/opera/20000084_frecord.html":http://www.nntt.jac.go.jp/opera/20000084_frecord.html
ところが、今回の「神々の黄昏」ではどうだったか? 「ホワイトボックス」はギービヒ家の広間となっていたのです。舞台担当の女性の方がポロリとおっしゃったのが次の言葉。
「(キース・)ウォーナーが言うには、ヴァルハラの広間をギービヒ家が買い取ったという設定なんだそうです」
マジですか! これ、私の仮説[2]をさらに補強する。あのカズオ・イシグロの「日の名残り」では、イギリス貴族の家はアメリカ人の実業家に買い取られてしまう。貴族世界から資本主義世界への移行。まさにそれと同じ構造ではありませんか。
さらにいまさらのように気づいた驚きの事実が。なぜ、ギービヒ家当主のグンターはブリュンヒルデを娶らねばならなかったのでしょうか?グンターの言葉をリブレットから引用します。
「まだ妻を求めたこともない、普通の女では 私はなかなか満足しないのだ! 心に決めている女性があるが、彼女を得る方法がない」
なるほど。普通の女ではない女とは? このエピソードからひらめいたのは、あの新興貴族ファニナルのことです。彼はもちろんシュトラウスのオペラ「ばらの騎士」の登場人物。財を成し、貴族の称号を得たとはいえ、まだまだ家名に箔がない。だから、娘のゾフィーの夫には真性の貴族をあてがいたいと持っている。。。
ギービヒ家の領土は指環世界を大きく覆っていることが暗示されています。それは、第三幕冒頭に登場した巨大な地図に示されていました。巨大な字で Gibichsland(だったと思う)と書いてあり(つまり地図上のすべてがギービヒ家領地であるという暗示)、その中に赤い点がポツリポツリ。それぞれに説明がついていて、ひとつは Hundingshütte、つまりあのフンディングの家であり、ブリュンヒルデの眠っていた山であったり、ミーメの家であったり、と書いてある。つまり指環のエピソードはギービヒ家の領土の中で起こったこと。つまり、ギービヒ家は世の中のほとんどすべてを得ているのです。
だが足りないものがある。おそらくそれが、神々の箔だったのではないか、と。もちろん指環もあるけれど。グンターがブリュンヒルデと結婚することで、またはジークフリートとグートルーネが結婚することで神々が親族となる。つまり、置き換えると、新興貴族が真性の貴族の親族となるということ。うーむ、勝手に得心してしまいます。ギービヒ家がどういう出自なのか、調査が必要。おそらくは「ニーベルンゲンの歌」あたりを渉猟しなければならない予感。
やばい、指環、面白すぎる。ヘビーにインタレスティング。リング・ラヴ。
まだ続きますよ。次はバックステージツアーについて書きます。
fn1. そうか、「神々の黄昏」でも、ギービヒ家の家来たちはオペ前の医者の格好をしていた!そして、ハーゲンは、グンターに注射器をさして殺害する。注射器は第二幕冒頭で自らの左手から採った血なのですが。
fn2. 神々は貴族を象徴し、指環や黄金は資本主義をあらわし、ニーベルング族は労働者階級を暗示する、というもの。

Opera,Richard Wagner

大好きな初台の写真をもう一つ。新国立劇場の東隣のオペラ・シティ。高層ビルを見上げる人間の彫像。ここに勤めておられる方々は幸せです。

さて、「神々の黄昏」もその3となりました。ですが、まだ終わらないですよ。今日は、英雄ジークフリートの位置づけについて。
ジークフリートにはふがいなさを感じていたというのは、先だってから折に触れて書いています。よく読み直してみるとそんなにきちんとは書いてないみたいですが、「ふがいない」とかそんなことは書いてある感じ。
“https://museum.projectmnh.com/2008/02/28054311.php":https://museum.projectmnh.com/2008/02/28054311.php
“https://museum.projectmnh.com/2010/03/21082448.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/21082448.php
僕の中では、英雄のイメージと言えば、ユリウス・カエサルか、アラゴルンか、ナポレオン一世でしょうか。だれしも強い意志と高い志を持って、兵士達をまとめ、世界秩序の構築に尽力した男達です。
ですが、ジークフリートは、なんですかね。単にファフナー扮する大蛇を倒しただけの男に過ぎない。祖父から受け継いだ名剣ノートゥンクで、祖父ヴォータンの槍をへし折っただけの勇士。女性に恐れをなし、一目惚れして、口説いたあげく、「ジークフリート」と「神々の黄昏」の間中にラヴラヴだったという、なんともかんとも面目のない男です。
私のような組織に属する者、それは軍隊でも会社でも同じですが、リーダーは常に部下を思い、以下に部下を動かすかに腐心し、部下の尊敬を得ようと絶え間ない努力を続けていかなければならない。私が挙げた、カエサルはローマ軍を率いガリアで戦い、クーデターを成功させローマを手中に収めた男。アラゴルンは、指環を破棄すべく、ホビット、エルフ、ドワーフ達をまとめ率いて敵地へ乗り込む戦闘隊長。ナポレオン一世は言わずもがな。ハンニバル[1]の故事にならい、アルプスを越境しイタリアへ侵攻する果断な判断力。もちろん、最後には冬将軍に敗れるわけですが。
ジークフリートにそう言う面がありますか? Neinですね。たんなる流れ者にすぎない。まあ、大佛次郎の小説に出てくるような孤高の武士的なイメージ? いやいや、彼らより世間知らず。だから、簡単に忘れ薬を飲まされ、グートルーネに誘惑され、ハーゲンに唆され、真に愛すべきブリュンヒルデを敵に回してしまう。[2] 挙げ句の果てには、徐々にブリュンヒルデのことを思い出し、その途端に、ハーゲンの槍に背中を疲れて死んでしまうと言う、ある種のふがいなさ。うーん。恐れを知らないという点と、大蛇を倒した、それからノートゥンクを鍛え直した意外に業績を上げていますか? [3] 挙げてないでしょう。
では、どうして、彼は英雄なのか。
私は、今回「神々の黄昏」を見て、とうとう気付いたんでよ。ああ、私のパースペクティブが違っていたんだ、と。さっき、英雄の比喩として組織における統率力ということを挙げていました。ですが、それは英雄たるものの必要条件ではあるかも知れないけれど、十分条件じゃない。というより、先日以下の文章で述べたとおり、私(我々?)はすでにミーメのパースペクティブに乗っ取られているのです。以下のリンクにミーメと私たちの関係を書きました。
“https://museum.projectmnh.com/2010/02/18220812.php":https://museum.projectmnh.com/2010/02/18220812.php
ミーメにしてみれば、ジークフリートなんて世間知らずの馬鹿な若者で、とりあえず、指環を取ったら、ダマし殺して奪っちゃおう、なんて思っている。ここまで酷くはないにしても、似たようなことをやったこと、普通の大人の社会人ならありますよね。私もあります。もちろん法律に反するようなことはしてませんけれど。[4]
でも、おそらくは純粋善の立場から言うと、おそらくはジークフリートは英雄でしょう。悪事を働くような邪な大人の知恵なんて持ち合わせない純粋な男。女を愛するが、簡単に人を信用してダマされてしまうという過剰なまでの善人。
こういう人、他にご存じないですか?
私は、4月4日に東京文化会館で「パルジファル」を見る予定ですが、ライナーなどを読んで研究していると、「愚者たる英雄パルジファル」という記述があるのに気付きました。そうなんです。パルジファルは愚者なのです。愚者であるが故に神聖であるという直観的事実です。[5]そこではたと気づいた。
なるほど、パルジファルとジークフリートの間にはつながりがある。愚者であるが故に成し遂げられることがあったのです。ジークフリートが死ななければ、ヴァルハラは滅びず、おそらくは指環はラインに戻ることはなかった。パルジファルがいなければ、アンフォルタスは死にいたり、クンドリも解放されることはなく、聖杯とはなり得なかった。[6]
(パルジファルのあらすじまでは一寸書けませんのでこちらを "==>":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB )
で、ちょっと待ってくださいよ。この愚者の神聖性って、実はイエス・キリストの一つのとらえ方によく似ている。かつて遠藤周作の「死海のほとり」(だったと思うのですが)を読んだ覚えがあるのですが、ここに登場するキリストは、何をもなしえない、奇跡など起こせない一般人としてしか描かれていないんです。「ベン・ハー」に登場する神的な救世主[7]ではありませんでした。その遠藤周作のキリスト像と重なったんです。
そうか。英雄と言っても、パースペクティブが変わればどうにでも解釈出来てしまうんです。ヒトラーだって英雄だったし、サダム・フセインだって、英雄だったはず。でも、ワーグナーの描くこの二人の英雄は位相が違うのですね。
そのことが分かったのは、今回のパフォーマンスでの大きな収穫。
でも、やぱり、ジークフリートが火葬され、ブリュンヒルデが同じく火に身を投げ入れ [8] その火がヴァルハラを焼き尽くし、指環がラインに戻っていくという事態は何を指しているのか? ここばかりは理由が分かりませんでした。まだ考えないと。
まだ「神々の黄昏」シリーズは続きます。次はギービヒ家の話になる予定。
fn1. ハンニバルもそう言う意味では英雄です。
fn2. ここで、ブリュンヒルデはこういうんです。「ジークフリートを守るために、あらゆる秘術を使った。だが、ジークフリートの背中にだけはまじないを掛けなかった。なぜなら、ジークフリートは的に背中を見せるようなことをしないからだ」と。ここ、実に興味深い。まず、「秘術を使った」という部分。これ、私の中でほとんどイゾルデ像と一致するんです。タントリスという偽名を使っていたトリスタンを、自分の許婚者の的でありながらも秘伝の術で直すというプロット。ブリュンヒルデもイゾルデも愛すべき男に何らかの秘術を使っていたというのですから。
fn3. 業績だなんて言うと、教授や准教授の世界にも似てますが。
fn4. あ、そう言えば、踏切って、自転車降りて渡らないとダメなんですよね。それは破ったことがあります。
fn5. ニーチェなら「ルサンチマン」といって揶揄するでしょうけれど。
fn6. だとすると、「指輪物語」に登場するゴクリ(ゴラム)は、指環を河口に放擲するという隠された使命を遂行した愚かなる英雄なのか?? ガンダルフがそれをほのめかすシーンがありましたね。
fn7. 彼は、ハンセン病患者を意図もたやすく癒したりするのです。
fn8. この部分、どこかに書いてあったと思うのですが、インドの藩王が死んだときに、妻も一緒に荼毘の火に飛び込むという話を思い出させます。ジュール・ヴェルヌ「八十日間世界一周」でアウダ(でしたっけ)をパスパルトゥーが救う場面、覚えてらっしゃいませんか?

Opera,Richard Wagner


私の大好きな新国立劇場は初台にあります。新宿駅から京王新線で一駅。新宿から歩いても30分以内なので、ちょっと運動したいときは新宿から歩いたりしています。この町には私の大先輩と大後輩が住んでいらっしゃって、すばらしい限り。初台に住むのも私の夢の一つです。でも高いよなあ。あ、ドレスデンかミュンヘンに住むのも夢です。こっちはかなりハードル高いです。
で、写真は甲州街道と劇場を隔てる壁に沿って張られている階段を撮ったもの。甲州街道の上には首都高速が走っていますので、車の騒音は相当なもの。写真の左手が劇場で、右側が道路と劇場を隔てる防音壁の役割を果たしています。ここにしつらえられている階段が美しくて、昨年の夏に何枚も何枚も写真を撮りました。そのうちの一枚です。ちょっと色温度を下げました。あとは、新国の中庭に水が張られているのが美しい。これ、かなりのメンテナンスが必要なはず。定期的に水を抜いてしっかり洗わないと緑色のこけが生えますので。これも無駄といえば無駄で、どこかの仕分けで取り上げられるかもしれませんが、無駄こそ大事な場合もあるのです。
まずは、ちょっとどうしてブーイングが出たのか考えてみました。タクトを振ったダン・エッティンガーの解釈面にはあまり違和感を感じませんでした。というより、かなりゆったりとした演奏でしたし、ためるところはとことんためる感じで、ブルックナー的とも言えるゲネラル・パウゼが見られて緊張感は相当なものだったと思います。
先日ベームがバイロイトで振った「ジークフリート」を聴いたのですが、あの大時代的なテンポ・ルバートは相当なものでした。いろいろな指揮者の演奏を聴いて思うのは、そうした大時代的な、テンポをアグレッシブに速めたり遅めたり、といった演奏スタイルが復権しているのだなあ、ということ。これは10年ぐらい前から思っていることです。
エッティンガーの指揮もそうした部類に入ると思います。相当な動かしようで、時にかなりテンポを落とし、あれじゃあ、歌手や管楽器は大変だなあ、と思うこともしばしば。
で、ですね。オケがそうしたエッティンガーの意図に追随仕切れていなかった部分は多分にあったと思うのですよ。それは前回の「ジークフリート」でも感じたことです。特に管楽器のキューはかなり厳しいものがありました。
私は、気に入らないパフォーマンスについては一切書かないことで意思表示をしているつもりですが、あのカーテンコールをご報告するに当たっては、そこを乗り越えないと行けないと思いましたので、大変恐縮ながら書いている次第です。
それから、そうしたある種の疵を完全に無視できるほど、全体のパフォーマンスはすばらしかったので、幸福な経験をすることができたと思っています。ですので、私はエッティンガーにブーイングする気は全くありませんでした。
ついでに、新国の東側のオペラシティーのファサード。ミラノの記憶がよみがえります。

新国「神々の黄昏(神々のたそがれ)」については、まだまだ続きます。明日もお楽しみに。