Opera,Richard Wagner

先ほども書いたように、ブログの設定間違っていて、コメントができない状態でした。ログを見たら少なくとも27回はアクセスがあるので、コメントをせっかく書いてくださったのに、消えてしまった方もいらっしゃるのではないでしょうか。本当にお詫び申し上げます。
この写真は私が大好きなバルコニー席へと通じる通路。バルコニー席は狭いので扉がいくつも並んでいます。神韻としていて、これからのパフォーマンスへの期待が高まります。

さて、演出面について。今日はベッドの大きさについて考えてみます。非常に面白いですよ。
第一幕、演出の方々は「ローズルーム」とおっしゃっていましたが、ブリュンヒルデとジークフリートは、「ヴァルキューレ」から使われている銀色の傾いたベッドに一緒に眠っている。ブリュンヒルデはオレンジ色のトレーナーで、「ジークフリート(Siegfried)」の「S」を象徴する例のスーパーマンマークが書かれているジークフリートのトレーナーには「B」の文字の上に、ヴァルキューレの兜が描かれたもの。
で、ここのベッドの大きさがポイント。バックステージツアーで、演出の方とお話しする機会があったのですが、彼女の指摘によれば、「ヴァルキューレ」の最後でブリュンヒルデが眠りについた銀色のベッドはあまりに大きいものだった。けれども、「ジークフリート」で覚醒する際には、銀色のベッドは一回りも小さくなってしまっていました。で、今回の「神々の黄昏」においては、「ローズルーム」の中に収まった小さなベッドになってしまう。そして最終場面、ジークフリートが荼毘に付される場面では小さな銀色のベッドが舞台上手に置かれている。時間がたつにつれてベッドが小さくなっているのです。演出の方は、これはブリュンヒルデやジークフリートが神性を失っていったからだ、という風に捉えておられました。
ただ、私はちょっと違う感想を持ったんです。実は、ベッドの大きさは変わっていないのではないか。逆に、神性を失いつつあるブリュンヒルデとジークフリートが大きくなっているのではないか、と。これ、私が執拗に主張する「神々は貴族であった」という仮説に基づくものなんです。神の力は小さくなり、神が作った銀色のベッドは徐々にその力を失っていく。それに対して、人間の力のほうが強くなってくる。だから、ベッドと人間の大きさの比率が異なったのではないか、と思うのです。もちろん、ここでいう神は貴族であり、人間とはブルジョワや大衆であるという仮説です。

Opera,Richard Wagner


コメントできない障害が発生していました。もし、コメントしてくださろうとした方がいらっしゃったとしたら、大変申し訳なく存じます。これ、何回も失敗しているんです。Movable Typeのアップデートごとに設定が変わって、いつも失敗。SE失格かしら。今後はちゃんとシステムテストします。。




もう、こんなに幸せな日は人生にそうあるもんじゃない。そんな一日でした。3月21日は、僕にとって一生忘れられない一日になったはず。
これから、数日かけて書いていきます。ああ、「ドレスデン奇想変奏」のタイトルロゴも作ったんだが、まずは、神々の黄昏かかないと。
新国立劇場「神々の黄昏(神々のたそがれ)」のご報告、今日は音楽面から。
いやあ、もう、イレーネ・テオリン様の前にただただひれ伏すのみ。

偉大なワーグナーソプラノ、テオリン様に初めてお目にかかったのは2008年秋の新国立劇場のトゥーランドット。
“https://museum.projectmnh.com/2008/10/17032725.php":https://museum.projectmnh.com/2008/10/17032725.php
このとき、ああ、声のすごく大きな人だなあ、としか思わなかったみたい。でも、それが尊敬に変わったのは2009年のバイロイトのこと。どうも以下の過去記事を読むと、2009年7月27日からテオリン様の虜になり始めたみたい。
“https://museum.projectmnh.com/2009/07/27211601.php":https://museum.projectmnh.com/2009/07/27211601.php
“https://museum.projectmnh.com/2009/08/02120759.php":https://museum.projectmnh.com/2009/08/02120759.php
“https://museum.projectmnh.com/2009/08/22191752.php":https://museum.projectmnh.com/2009/08/22191752.php
“https://museum.projectmnh.com/2009/08/23213515.php":https://museum.projectmnh.com/2009/08/23213515.php
先月の新国「ジークフリート」もすごかったんだが、やっぱりクリスティアン・フランツ氏の甘い声に魅せられたのが大きかった。出ずっぱりのフランツ氏に比べて、テオリン様の登場は、最終幕でしたから。
今回はもう完全にテオリン様の独壇場でしたよ。たしかに、フランツ氏の声もきれいだった。でもテオリン様の前にあってはなんだか声量が足らなく思えてくる。ハーゲンを歌ったダニエル・スメギ氏だってすごかったんですよ。あの美しく豊かでエッジのあるバリトンの声は、日本人には決して出せない本場の声なんですから。でも、テオリン様が全部持って行ってしまった。そんな舞台に思えてしまいました。
いやあ、あのテオリン様の凄絶なブリュンヒルデの怒りの表情は、鬼気迫るものがあって、歌手を超えてすでに最高の舞台女優となっている。ジークフリートの裏切りに怒るブリュンヒルデ。ハーゲンによって殺されたジークフリートをストレッチごと釜の中に入れて、荼毘に付す瞬間のあの表情。去年のバイロイトの映像も鮮烈でしたが、私は双眼鏡でもう食い入るように見ていました。
もちろん歌唱力も抜群。一回だけハイトーンで少々乱れたのは、前回の「ジークフリート」でもあった事故でしたし、ピッチも微妙にずれているのを一回ぐらいは感じました。それから、長丁場なのでセーブしているところもわかりました。でもですね、そんなこと本当に取るに足らないこと。ここぞというところの爆発的なパワーには、もう思い出しただけで鳥肌が立つような感動なんです。思い出すだけでちょっとうるうるきちまうぐらい。
私はですね、最後のブリュンヒルデの自己犠牲前のところで泣きましたですよ。メガネがぬれちゃって、双眼鏡が見えなくなってしまって困ったぐらい。で、双眼鏡の中でテオリン様と目があってしまってどきどきしてしまった。あはは。舞台から客席って意外と見えるらしいんで、僕の顔はわからずとも双眼鏡は見えてたんじゃないかな。
このパフォーマンスを、テオリン様が東京までいらして歌ってくださるなんて、あまりに恵まれすぎている。本当に本当に感謝しないと。
というわけで、テオリン様にはお恥ずかしながら「ブラーヴァ」を連呼しました。オペラ67回目にして、初めて声だしてみた感じ。ちょっと恥ずかしかったけれど、いいや。
ちなみに、男性には「ブラヴォー」、女性には「ブラーヴァ」、複数人には「ブラービ」です。
"
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC
いつも思うんですが、「ブラヴォー」とブーイングの「ブー」って、区別つきにくくないですか? なので私は「ラーヴァ」と連呼しました。
もう一つ。ヴァルトラウテを歌ったカッティア・リッティングさん。この方もすごいですよ。正確無比なピッチコントロールで愁いを帯びた歌唱でした。ヴァルハラでのヴォータンの変わりように困り果ててしまった表情の出し方なんて、見ていて本当にすごかった。
音楽的な面で言うとさらにinterestingな出来事が。第三幕の冒頭、ダン・エッティンガーが登壇したら、誰かがブーイングしたんですよ。これ、2003年4月の新国「ボエーム」で井上道義がブーイング浴びせられたのを聴いて以来。あのとき、井上道義は、くるりと振り返って、ブーイングの方向に投げキッスしてみせたんですよ。
それで、全曲完了して、おきまりのヒロインが指揮者を迎えるの図の場面。テオリン様が下手からエッティンガーを迎えたんですが、とたんに激しいブーイングが! すかさず、今度はブラヴォーの連呼。ブーイングとブラヴォーが激しく張り合ったんですね。これ、私は初体験でした。プッチーニやらのオペラの初演時に、ブーイングとブラヴォーで殴り合いのけんかになった、なんて話も聞いたことがありますが、そんな雰囲気。エッティンガーは仁王立ちになって、ギッと客席をにらみつけていました。
あとで、関係者に話を聞いたんですが、ああいうブーイングとブラヴォーの混ざったカーテンコールって、悪いものじゃないんですって。それだけ、みんな真剣に聴いていた、ということなんだから、とのこと。
というわけで、今回は音楽面について。明日は演出面について。それから、解釈の話も書きたいし、バックステージツアーのことも書きたいし。もう、書きたいことがたくさんで困っています。


Opera,Richard Wagner

行って参りました。新国立劇場「神々のたそがれ(神々の黄昏)」。
14時スタートで、終わったのが20時15分頃。そのあとバックステージツアーで、新国を出たのが22時頃。都合8時間半以上は新国にいました。
詳細は明日。書きたいことが山ほどあります。
あ、カーテンコールが凄かったです。エッティンガーには、ブーイングとブラボーの両方が盛大にかかった。あと、わたくし、初めて、「ブラヴォー」と「ブラーヴァ」と叫んでみました。テオリン様には絶対声かけたかったので。
あと、残念なニュースは、N響アワーでは、ロットのカプリッチョは一瞬取り上げられただけでした。残念至極。
ではまた明日。

Opera,Richard Wagner

いよいよ今日は「神々の黄昏」です。14時から20時過ぎまで6時間、初台にこもって堪能してきます。イレーネ・テオリンが一番楽しみ。もちろんクリスティアン・フランツもですけれど。
写真は昨年のバイロイトでのテオリン様。私の中では、いまのところ最高のワーグナーソプラノ。そしてお美しい!

私はあえて、トウキョウリングの演出についての記事は読まないようにしています。先入観があるといけませんので。また、あの、キース・ウォーナーのキッチュでアグレッシブな演出に触れることができるなんて楽しみ。
で、リングをこうやって聴いてくると、4作品のうちでどれが一番好きか、みたいなことを考えてしまうのですが、どうでしょうかね。
まず、少なくともいえるのは、「ラインの黄金」はちょっと苦手かも。なぜ苦手なのか? それは女声の活躍が少ないから、でしょうかね。少し前から分かっていたことですが、私はどうにもソプラノ大好き人間らしい。「ラインの黄金」の主人公はバリトンのヴォータンです。女声の登場は、フライア、フリッカ、エルダという脇役たちだけです。なので、ちょっと泣けない。[1]
で、先月までは「ジークフリート」も苦手だったんです。だって、第三幕まで女声の登場はほとんどないですもの。かろうじて鳥の声が登場するだけ。でも、これも申し訳ないですが脇役ですし、ワーグナー自体、鳥の声はボーイソプラノにする予定だったと言いますしね。まあ、エルダの登場もドラマティックなものとはいえません。
ところが、やっぱり第三幕最後のブリュンヒルデの登場は予想以上のものでした。オセロゲームで一気に黒が白にひっくり返るみたいな感じです。もちろんDVDではみたことがあったんですけれど、実演に触れると想定外の感動でした。イレーネ・テオリン様の強力なソプラノにしてやられた、ということもあるのでしょうけれど。なので、「ジークフリート」も私の中で昇格。
「ワルキューレ」は、かなり好きなほうです。理由はジークムントとジークリンデの悲恋があまりに切ないので。音楽面で言っても。ジークリンデが一大決心するところとか、ジークムントの切々と語るところとか、大好き。カラヤン盤のジークリンデはヤノヴィッツなんですが、あそこ、白眉だよなあ。
「神々の黄昏」は、ストーリーとしてはきわめて不条理なんですが、合唱の導入があって厚みを増しているのと、ブリュンヒルデの強烈な歌唱があるので、大好き。ハーゲンの不気味なライトモティーフが縦横無尽に入り乱れて、ハーゲンの悪の意志がすべてを狂わせていくのがよく分かる。まあ、ストーリー的にはジークフリートがあまりにふがいない[2]ので、ちょっと興ざめみたいなところはある。
ただ、私、今すごく不安です。イレーネ・テオリンはバイロイトでも歌うベテラン実力派ソプラノですが、やっぱりライヴは怖いですよ。何があるか分からないですので。私はお恥ずかしながら)オペラにどうやら66回は通った勘定になりますし、それ以外のコンサートも数知れず、ですのですが、事故を何回か目の当たりにしています。ライヴに完璧はないとは分かっているので、テオリン様といえども、なんだか不安を感じてしまうのです。でも、きっと、そうした不安は杞憂に終わるのが常なんですけれどね。
今日は14時からおそらくは20時過ぎまで新国にこもります。「ジークフリート」の時は携帯を忘れましたのでTwitterできませんでしたが、今日はちゃんと持って行きます。幕間でTwitterしますので、よければウォッチしてみてください。
“http://twitter.com/Shushi":http://twitter.com/Shushi
fn1. すでに、「泣かないと元とったと思えない」と信じ切っている証左です(笑)。
fn2. ジークフリートって、本当に無邪気な英雄。もう少し頭の切れる人だとよかったんだけど、それじゃあ、ストーリーは成立しませんね。っつうか、「ニーベルングの歌」やら、ワーグナーが下敷きにした伝説の中でジークフリートの位置づけを考えてみないとなあ。

Opera,Richard Wagner

文庫クセジュに入っているこの本。ジャン=クロード・ベルトン氏によるリングの簡便な入門書です。購入したのはずいぶん前でしたが、実際にリングを見聞きしないと理解は進まなかったです。今回は良い時期に読んだと思います。
やはり、指環や黄金は資本主義を象徴しており、アルベリヒに支配されたニーベルング族が働かされている情景は労働者階級のそれを思わせるとの記載がありました(127ページ)。私の仮説の裏づけになりました。読んで気づかされたのが、黄金についての考察が私に足りなかったこと。指環と黄金を同一視しすぎていました。でもやはり黄金もしもべこそ資本主義ですし(金本位制だった昔を思い起こします)。また、この本でもユダヤ系財閥のロスチャイルドについての言及が見られました(112ページ)。
ライトモティーフ(示導動機)の位置づけについての記載もありますが、ちゃんとライトモティーフを整理しないといけません。勉強がてらMIDIに落としてまとめたい、という欲求はかなり前からあるのですが。まあ、これだけ聴いていればなんとなくはわかってくるのですが、ちゃんとまとめたいところです。
けれども、やはりジークフリートの死と、ブリュンヒルデの自己犠牲こそ、権力への激しい欲望に対する愛の勝利を象徴する、というくだり(72 ページ)は、どうにもまだ理解ができません。このカタストローフ的な破壊は、二つの大戦を予言していたとも取れますが、その結果が「愛の勝利」だとしたら、そんなものはまだどこにもありません。完全な破壊はまだ起きていないということでしょう。また、それを期待するのはあまりに無節操で馬鹿正直です。
この最後の問題は、わからないまま。今月の「神々のたそがれ」を聴くことになりそうですが、なにがわかってくるのか楽しみです。
それから、それに関連して、少し感動した一節を。二重引用は学術論文ではタブーですが、ブログではいいですかね。
生命、幸福、栄光と人間の努力は、地上を影のようによぎり、そして消え去っていく。美の刻印のみが、素材の上に永久に彫り刻まれて残るのである。(ニコス・カザンツァキス(1885~1957)) (158ページ)
この「生命、幸福、栄光、努力」は、逆の意味も含んでいるはず。「死、滅亡、不幸、凋落、恥辱、倦怠」は、影のようによぎるだけ。後に残るのは、なんらか美的なものである、という直感。危険を承知で、あえて引き付けると、辻邦生の「美が世界を包む」、「美が世界を形成する」という考えと通じ合っている。
そうなんですよ。メディチ家の男たちより、ボッティチェルリやミケランジェロの作品こそが現代も大きな力を保っているのですから。
しかし、とはいえ、食べて眠り起き上がらなければならないということも事実。難しいものです。だが、ジークフリートとブリュンヒルデの死がもたらしたものが、美だとしたら……。
もうすこし考え続けましょう。

Opera,Philosophy,Richard Wagner

あっという間に春ですね。今日は暖かい一日でした。
今日もリング漬けです。ブーレーズがバイロイトで振った「ジークフリート」の第三幕を聴いております。

  • 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
  • 指揮者==ピエール・ブーレーズ
  • 管弦楽==バイロイト祝祭管弦楽団
  • ヴォータン==バリトン==ドナルド・マッキンタイア
  • ミーメ==テノール==ハインツ・ツェドニク
  • ジークフリート==テノール==マンフレート・ユング
  • ブリュンヒルデ==ソプラノ==ギネス(グィネス)・ジョーンズ

結構重い部分もある演奏というのが第一印象でした。ブリュンヒルデのギネス・ジョーンズさん、強力なんですが、覚醒の場面でピッチにずれがあって、ちょっと残念。これ、映像も持っているんですが、全然見ていない。まずは音源からですね。ミーメのツェドニク氏、ここでも良い味出してます。

ニーチェ入門 (ちくま新書)
竹田 青嗣
筑摩書房
売り上げランキング: 5331

昨日から、思い立って「ニーチェ入門」を再び手に取りました。もう邦訳であったとしても原典にあたる体力が今今はありませんので、竹田青嗣のわかりやすい新書版で復習しています。この本の欠点はわかりやすすぎるところでしょうか。わかった気になっていると足下をすくわれますので、注意しなければなりません。あと、図に書くのはNGだ、と先輩に言われたこともありました。
いずれにせよ、一時期はワーグナーに傾倒していたニーチェですので、リングとの関連性はやはり否定できません。一昨日に書いた「ジークフリート」の最終部分で「ほほえむ死」というところ、永遠回帰を雄々しく肯定するあたりとつながるように思えてならないです。
あと、ニーチェの「神」と、私が言っていた貴族階級的神のつながりは、この本を読む限りでは見いだせない感じ。もう少し考えないと。来月の「神々の黄昏」で答えが見つからないかなあ。

さて、今日は良いことが二つありました。
# この前受けたTOEICの点数、あがっていました。良かった。これで会社に報告できます。ベトナム現地法人に異動にならないかしら。でもまだまだですな。先は長い。コツコツやろう。
# 先ほどつぶやきましたが、最近、人生最大重量更新中だったのですが、脂肪だけじゃなくて筋肉が増えているらしいことが判明しました。確かに最近ふくらはぎが、部活動していた頃のように硬く太くなってきました。ズボンがきつくなり始めましたが、太っているだけじゃなかったんですね。
アフォリズムをひとつ。 つり革広告「若い人とつきあわないと歳食うぞ」。けだし名言。

Opera,Richard Wagner

うーむ、難しい話しになってきました。
いったいジークフリートとブリュンヒルデを結びつけたものは何か? 
指環?  ファフナーの返り血? つまり、ミーメの心の中を読めたようにブリュンヒルデの胸中を推し量ることが出来たから、口説き落とせたのか? あるいは、運命、だなんていう月並みな言葉でしか説明できないのか。
昨日まで、私は、世界を支配する指環か、ファフナーの返り血がジークフリートを一瞬にして成長させたとのでは、と思っていましたが、どうにも袋小路に入り込みました。私はブランゲーネの媚薬のような何かが、ブリュンヒルデとジークフリートを結びつけたのではないか、と推測していたのですが、方向を間違えている気がしてきました。
ちょっと状況を整理しますと……。
ブリュンヒルデの覚醒からしばらくの間、ジークフリートをどんなに心配し、愛していたか、と歌い上げます。これは、ヴォータンに背き、ジークムントを助け、ジークリンデを庇っていたことを示しているのですが、ここではかなり踏み込んで「愛していたのだ」と歌う。まあ、長い眠りから覚めて忘我の状況にあるので、いささか感情的なのでしょうか。
ところが、ジークフリートが求愛が続くと、いささか調子が変わってきます。かつて神聖なる戦いの女神であったブリュンヒルデが、ヴォータンの孫とはいえ、人間の男の妻となり従うということの屈辱を切々歌い始めます。
それでもなお、ジークフリートは迫り続ける。もちろん詩的な言葉で(どこで覚えたんだろう? でもすばらしい)。
すると突然、まるで点から光が差し込んだように「ジークフリート牧歌」のフレーズが差し込んでくるのです。最初のブリュンヒルデのフレーズは短調ですが、まだ心が揺れていることがわかる。ですが、その後徐々に高揚へと向かい、クライマックスへと導かれる。
ジークフリートが、どうしてブリュンヒルデの心を動かしたのか。あるいは、ブリュンヒルデはなぜ心を動かしたのか。リブレットを読んでいるのですが、なかなか分かりません。
クライマックスで歌われるのは永遠の愛などではありません。ブリュンヒルデは、ヴァルハラと神々の破滅を歌い、一方でジークフリートこそが永遠であると歌います。ジークフリートはブリュンヒルデこそ、永遠で恒久で宝なのであると歌います
最後に二人が歌う言葉は「ほほえむ死」。Lachender Tod ! ここ、実にニーチェ的。永劫回帰の中で、一度でも幸福を感じ、肯定せよ、という強い意志。これは、新国立劇場のパンフレットで茂木健一郎氏と山崎太郎氏の対談の中でも述べられていました。
すこし指摘しておきたいのは、神として永遠の存在だったブリュンヒルデが、神性を奪われ人間という有限の存在へと落ちたと言う事実。これは、まるでイエス・キリストの受肉にも見えてきます(アタナシウス派=ローマカトリックにおいてはイエスは神性を失いませんでしたけれど)。
「神は死んだ」と言ったニーチェ。
次は、どうやらニーチェの世界に踏み込まなければならなくなりそうな予感。けれども、ここでいう「神」とは、ニーチェの言う「神」とは少し位相がずれているとも考えています。昨日書いた通り、神が貴族階級だとしたら。
まだ、ブリュンヒルデをジークフリートが口説き落とせた理由は分かりません。底なし沼にはまり込んだ気分で、まだ諦めずに考えます。
会社では、難しいプログラムを読む後輩を「こんなもの、人間の考えたものだ。考えればかならずわかるんだ!」といって励ましていますが、さすがにワーグナーの考えたもの、あるいはそれ以降蓄積された解釈群ともなると、人間が考えたというような生半可なものではないようです。
明日も頑張ります。

Opera,Richard Wagner

むむむ、もう私のなかはリングだらけで、毎日のように「ジークフリート」と「神々の黄昏」を聴いています。今はブーレーズの1980年のバイロイトでブーレーズが振った音源です。これ、かなり強力な演奏です。

  • 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
  • 指揮者==ピエール・ブーレーズ
  • 管弦楽==バイロイト祝祭管弦楽団
  • ヴォータン==バリトン==ドナルド・マッキンタイア
  • ミーメ==テノール==ハインツ・ツェドニク
  • ジークフリート==テノール==マンフレート・ユング
  • ブリュンヒルデ==ソプラノ==ギネス(グィネス)・ジョーンズ

この音源については一寸置いておいて、ジークフリートとブリュンヒルデの関係について考えてみたいと思うのです。
私は、これまで、どうにもジークフリートのことが理解できませんでした。
育て親のミーメが、黒い裏心を持っているとはいえ、多少は感謝の心を持ってもいいのではないか。確かに恐れを知らぬ英雄だけれど、恐れを知らぬとは、結局無知であることを知らないに過ぎない。
ソクラテスは「無知の知」が重要であるといいますが、ジークフリートは明らかに無知によりすぎている。世間知らずの怖いもの知らず。これはもう、堅気ではない。不良中学生と変わらないではないか、と。
その一方で、いざブリュンヒルデに出会った途端に、彼が女性であることを見抜く。ジークフリートは女性と話したことがあるのでしょうか? 森の小鳥ぐらいではないか。まあ、動物のつがいを見たことはあるようで、人間にも男性と女性がいることぐらいは知っていたかもしれませんが、ミーメはジークフリートに「俺はお前の父でもあり母でもある」なんていうでまかせを言わせてしまうぐらい、ジークフリートは外面上、男性と女性の区別について理解を進めていなかったと思われるのです。
それが、最終幕のブリュンヒルデとの邂逅と目覚め以降、饒舌な求愛の言葉を口にし始める。どうして、ジークフリートほどの奥手な男が、元は神の一員でもあったブリュンヒルデを口説けてしまうのだろう、という疑問。これには、どうにもアプリオリな(先天的な)記憶の遺伝がなければ説明がつきません。
この問題を解くのは難しそう。でも、凄く考えがいがありそうで、今日も仕事しながらブツブツと考えていました。。
私は昨年の夏にバイロイト音楽祭「トリスタンとイゾルデ」をウェブ映像で見ています。ブリュンヒルデの目覚めのシーンを見た途端、あ、これは「トリスタンとイゾルデ」第一幕なんだ、と直感したのです。作曲順で言うと、「ジークフリート」の第二幕の作曲を終えたワーグナーは、いったん「ジークフリート」を離れて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「トリスタンとイゾルデ」を完成させ、その後「ジークフリート」の第三幕に戻ってきます。
ご存知のとおり「トリスタンとイゾルデ」第一幕の最終部においては、侍女のブランゲーネが、トリスタンとイゾルデが要求した毒杯の代わりに、媚薬を飲ませることで、トリスタンとイゾルデは禁じられた愛情関係に陥ってしまう、というもの。
では、ジークフリートとブリュンヒルデの間には、なにがあったのでしょうか?
今日、机を立って、ブラブラとトイレへと向かうときに、閃きました。
ああ、ジークフリートは大事なものを持っているではないか、と。
続きは明日。もう少し考えをまとめる必要がありますので。
* ワーグナー作品というよりワーグナー文学、ワーグナー思想の守備範囲の広さと解釈多様性。考えれば考えるほど楽しいですが、もっと勉強しないといかんですね。
*っつうか、最近思いつきで仕事している気がする。歳食ったんだなあ。。。気をつけないと。

Opera,Richard Wagner

その資本主義貨幣経済のもとで消えていった「神々」とは誰なのか? 
これは、今回ジークフリートを見て閃いたのですが、貴族階級ではないか、というのが今の私の一つの考えです。天上界でのんびり長寿の秘訣であるリンゴを食べて、死んだ勇士達を集めて防衛を固め、城を築いて、酒宴を催し、ヴァルキューレ達が接待する。とはいえ、いざ戦いが始まれば、先頭に立つ人々。ノーブレス・オブリージュ。まさに貴族階級。
フランス革命以降、貴族階級は資本階級に支配権を取って代わられる。けれども、王政復古や1948年の革命弾圧で19世紀中は滅ぶべき運命になんとか抗おうとする。結局は二つの大戦で決定的にその命脈を絶たれてしまうわけです。原因の一つは産業革命と資本主義だったはずで、それがアルベリヒのリング。貴族達はなんとかその後の資本主義世界で生きていこうとするのだが、適応できたのはわずかに過ぎない。もちろん、貴族の末裔で権力を握った人々もいます。ド・ゴールとか。でも、それは彼が貴族だったからではなく、彼が機会と能力に恵まれたからでしょう(もちろんその「機会」を得るのは貴族だったが故に容易だったとも言えますけれど)。
音楽家にとっても、19世紀は大きな転換点だったのです。18世紀までは音楽家達は王侯貴族お抱えでしたが、19世紀になるとそうも行かなくなるわけです。だから大衆向け(といっても、貴族も資本家もその一部だったはずです)のオペラや演奏会が催されるようになる。
一部の例外を除いては。
その一部の一人がワーグナーなのは言うまでもありません。横やりを入れられながらも、自らの理想である神聖なるバイロイトを創建できたのは、バイエルン国王ルートヴィヒの庇護と援助のおかげです。
ワーグナーは、貴族達の滅び行く運命を見通していた。それは、「神々の黄昏」最終幕の大洪水に飲み込まれるヴァルハラ城が暗示しています。そこに哀惜と諦観を感じていた。ヴォータン=さすらい人の、無抵抗の嘆息はそうした気分であるはずです。
それで思い出した映画やら本は数あまた。
また長くなりますので、また次回に。

Opera,Richard Wagner

今日は一日休みました。といいつつ、午前中はカフェに出かけたのですが、とある尊敬する方に偶然お会いして、なんだか緊張しましたが、気合いも入れてもらった感じです。
執拗にリングのことを考えてしまいます。どうにもとまりません。
リングは何のメタファーなのか、という話しはよく聴く議論で、まあ核兵器とおっしゃる方もいれば、資本主義経済だとか貨幣経済とおっしゃる方もいる。
WIKIによれば、演出家のパトリス・シェローはマルクス主義との関連性をも指摘しているらしい。ワーグナーは革命運動にもかかわっていましたので、関係が出てきてもおかしくないです。ここは、思想史ですね。勉強しないと。
そういうこともあって、個人的にフィットする考えは、やっぱりそうした資本主義貨幣経済というとらえ方です。まあ、オーソドックスな解釈だと思いますけれど、サヴァリッシュ盤のレーンホフの演出を一度見てしまうと、どうしてもその呪縛から逃れられません。「ラインの黄金」で、アルベリヒがニーベルング族を従えて財宝を掘る場面で、ニーベルング族は金色の細かな流動体として表現されていましたので。
上のリンクはそのサヴァリッシュ盤DVDです。
もうひとつ、そこでどうしても避けられないのが、ニーベルング族がユダヤ人のメタファーではないか、ということ。これ、あまり気が進まないですし、危ない解釈なので、書くのも躊躇するのですが(このことは、「ジークフリート」のプログラムの中でも指摘されているのですけれど)、ワーグナーがユダヤ人嫌いであったことを考えると、なおいっそうこの可能性を排除するわけにはいかなくなります。
リングが資本主義貨幣経済のメタファーだとすると、「ヴェニスの商人」やロスチャイルドなど、ユダヤ人の商才というまことに類型的な符号と一致します。
じゃあ、その資本主義貨幣経済のもとで消えていった「神々」とは誰なのか?
長くなるので、これは次回に。