誰が真の英雄なのか?──新国立劇場「神々の黄昏(神々のたそがれ)」 その4

大好きな初台の写真をもう一つ。新国立劇場の東隣のオペラ・シティ。高層ビルを見上げる人間の彫像。ここに勤めておられる方々は幸せです。

さて、「神々の黄昏」もその3となりました。ですが、まだ終わらないですよ。今日は、英雄ジークフリートの位置づけについて。
ジークフリートにはふがいなさを感じていたというのは、先だってから折に触れて書いています。よく読み直してみるとそんなにきちんとは書いてないみたいですが、「ふがいない」とかそんなことは書いてある感じ。
“https://museum.projectmnh.com/2008/02/28054311.php":https://museum.projectmnh.com/2008/02/28054311.php
“https://museum.projectmnh.com/2010/03/21082448.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/21082448.php
僕の中では、英雄のイメージと言えば、ユリウス・カエサルか、アラゴルンか、ナポレオン一世でしょうか。だれしも強い意志と高い志を持って、兵士達をまとめ、世界秩序の構築に尽力した男達です。
ですが、ジークフリートは、なんですかね。単にファフナー扮する大蛇を倒しただけの男に過ぎない。祖父から受け継いだ名剣ノートゥンクで、祖父ヴォータンの槍をへし折っただけの勇士。女性に恐れをなし、一目惚れして、口説いたあげく、「ジークフリート」と「神々の黄昏」の間中にラヴラヴだったという、なんともかんとも面目のない男です。
私のような組織に属する者、それは軍隊でも会社でも同じですが、リーダーは常に部下を思い、以下に部下を動かすかに腐心し、部下の尊敬を得ようと絶え間ない努力を続けていかなければならない。私が挙げた、カエサルはローマ軍を率いガリアで戦い、クーデターを成功させローマを手中に収めた男。アラゴルンは、指環を破棄すべく、ホビット、エルフ、ドワーフ達をまとめ率いて敵地へ乗り込む戦闘隊長。ナポレオン一世は言わずもがな。ハンニバル[1]の故事にならい、アルプスを越境しイタリアへ侵攻する果断な判断力。もちろん、最後には冬将軍に敗れるわけですが。
ジークフリートにそう言う面がありますか? Neinですね。たんなる流れ者にすぎない。まあ、大佛次郎の小説に出てくるような孤高の武士的なイメージ? いやいや、彼らより世間知らず。だから、簡単に忘れ薬を飲まされ、グートルーネに誘惑され、ハーゲンに唆され、真に愛すべきブリュンヒルデを敵に回してしまう。[2] 挙げ句の果てには、徐々にブリュンヒルデのことを思い出し、その途端に、ハーゲンの槍に背中を疲れて死んでしまうと言う、ある種のふがいなさ。うーん。恐れを知らないという点と、大蛇を倒した、それからノートゥンクを鍛え直した意外に業績を上げていますか? [3] 挙げてないでしょう。
では、どうして、彼は英雄なのか。
私は、今回「神々の黄昏」を見て、とうとう気付いたんでよ。ああ、私のパースペクティブが違っていたんだ、と。さっき、英雄の比喩として組織における統率力ということを挙げていました。ですが、それは英雄たるものの必要条件ではあるかも知れないけれど、十分条件じゃない。というより、先日以下の文章で述べたとおり、私(我々?)はすでにミーメのパースペクティブに乗っ取られているのです。以下のリンクにミーメと私たちの関係を書きました。
“https://museum.projectmnh.com/2010/02/18220812.php":https://museum.projectmnh.com/2010/02/18220812.php
ミーメにしてみれば、ジークフリートなんて世間知らずの馬鹿な若者で、とりあえず、指環を取ったら、ダマし殺して奪っちゃおう、なんて思っている。ここまで酷くはないにしても、似たようなことをやったこと、普通の大人の社会人ならありますよね。私もあります。もちろん法律に反するようなことはしてませんけれど。[4]
でも、おそらくは純粋善の立場から言うと、おそらくはジークフリートは英雄でしょう。悪事を働くような邪な大人の知恵なんて持ち合わせない純粋な男。女を愛するが、簡単に人を信用してダマされてしまうという過剰なまでの善人。
こういう人、他にご存じないですか?
私は、4月4日に東京文化会館で「パルジファル」を見る予定ですが、ライナーなどを読んで研究していると、「愚者たる英雄パルジファル」という記述があるのに気付きました。そうなんです。パルジファルは愚者なのです。愚者であるが故に神聖であるという直観的事実です。[5]そこではたと気づいた。
なるほど、パルジファルとジークフリートの間にはつながりがある。愚者であるが故に成し遂げられることがあったのです。ジークフリートが死ななければ、ヴァルハラは滅びず、おそらくは指環はラインに戻ることはなかった。パルジファルがいなければ、アンフォルタスは死にいたり、クンドリも解放されることはなく、聖杯とはなり得なかった。[6]
(パルジファルのあらすじまでは一寸書けませんのでこちらを "==>":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB )
で、ちょっと待ってくださいよ。この愚者の神聖性って、実はイエス・キリストの一つのとらえ方によく似ている。かつて遠藤周作の「死海のほとり」(だったと思うのですが)を読んだ覚えがあるのですが、ここに登場するキリストは、何をもなしえない、奇跡など起こせない一般人としてしか描かれていないんです。「ベン・ハー」に登場する神的な救世主[7]ではありませんでした。その遠藤周作のキリスト像と重なったんです。
そうか。英雄と言っても、パースペクティブが変わればどうにでも解釈出来てしまうんです。ヒトラーだって英雄だったし、サダム・フセインだって、英雄だったはず。でも、ワーグナーの描くこの二人の英雄は位相が違うのですね。
そのことが分かったのは、今回のパフォーマンスでの大きな収穫。
でも、やぱり、ジークフリートが火葬され、ブリュンヒルデが同じく火に身を投げ入れ [8] その火がヴァルハラを焼き尽くし、指環がラインに戻っていくという事態は何を指しているのか? ここばかりは理由が分かりませんでした。まだ考えないと。
まだ「神々の黄昏」シリーズは続きます。次はギービヒ家の話になる予定。
fn1. ハンニバルもそう言う意味では英雄です。
fn2. ここで、ブリュンヒルデはこういうんです。「ジークフリートを守るために、あらゆる秘術を使った。だが、ジークフリートの背中にだけはまじないを掛けなかった。なぜなら、ジークフリートは的に背中を見せるようなことをしないからだ」と。ここ、実に興味深い。まず、「秘術を使った」という部分。これ、私の中でほとんどイゾルデ像と一致するんです。タントリスという偽名を使っていたトリスタンを、自分の許婚者の的でありながらも秘伝の術で直すというプロット。ブリュンヒルデもイゾルデも愛すべき男に何らかの秘術を使っていたというのですから。
fn3. 業績だなんて言うと、教授や准教授の世界にも似てますが。
fn4. あ、そう言えば、踏切って、自転車降りて渡らないとダメなんですよね。それは破ったことがあります。
fn5. ニーチェなら「ルサンチマン」といって揶揄するでしょうけれど。
fn6. だとすると、「指輪物語」に登場するゴクリ(ゴラム)は、指環を河口に放擲するという隠された使命を遂行した愚かなる英雄なのか?? ガンダルフがそれをほのめかすシーンがありましたね。
fn7. 彼は、ハンセン病患者を意図もたやすく癒したりするのです。
fn8. この部分、どこかに書いてあったと思うのですが、インドの藩王が死んだときに、妻も一緒に荼毘の火に飛び込むという話を思い出させます。ジュール・ヴェルヌ「八十日間世界一周」でアウダ(でしたっけ)をパスパルトゥーが救う場面、覚えてらっしゃいませんか?