さしあたり、今日から夏休み。小旅行を幾つか予定中。やりたいことがたくさんあるが、どれだけできるかな?
まずは毎日音楽を聞いてブログの更新をしたいと思います。
こちらは、先日広島の友人にいただいたカキ。大粒で大変美味でした。
今日聞いているのはシベリウス二番をセーゲルスタムの指揮にて。夏に聞くと涼しい曲ですが、冬に聞いても格別です。ドイツ音楽と語法が違います。逆にドイツ音楽の特殊性がわかるのかも。相対主義。
ではまた明日。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
さしあたり、今日から夏休み。小旅行を幾つか予定中。やりたいことがたくさんあるが、どれだけできるかな?
まずは毎日音楽を聞いてブログの更新をしたいと思います。
こちらは、先日広島の友人にいただいたカキ。大粒で大変美味でした。
今日聞いているのはシベリウス二番をセーゲルスタムの指揮にて。夏に聞くと涼しい曲ですが、冬に聞いても格別です。ドイツ音楽と語法が違います。逆にドイツ音楽の特殊性がわかるのかも。相対主義。
ではまた明日。
報告遅れましたが、9日(土)に新国立劇場で「愛の妙薬」を聞いて来ました。
徹夜明けの新国立劇場にも慣れた気がするけれど、なんだか日常との乖離に涙が出るほど。
今回のキャストのかたがた、みんな安定していて、素晴らしかった。
シラクーザ、キャンベル、ジローラミ、成田さん、九嶋さん、みんな良かったなあ。
しばし現実を忘れました。
今回も合唱が素晴らしかったし。
シラクーザが歌いだして、あー、こりゃ贅沢だー、と思いました。いつも書いてますが、これを東京で見られるという奇跡に感謝ですよ。
新国立劇場でシラクーザを聴くのは今回が三回目です。一回目が、あの伝説の2002年の「セビリアの理髪師」。そう、私が初めて聞いた実演オペラ。
これも何度も書いてるんですが、今回も書きます。
当時の新国立劇場はダブルキャストで、シラクーザは降り番でした。
で、第二幕。なかなか始まらなくてやきもきしていたら、スタッフが舞台上に出てきて、アルマヴィーヴァ役のテノールが風邪のため二幕以降歌えない、ということになりました。
で、代わりに登場したのが、シラクーザ! 場内湧きに湧きましたよ! 風邪を引いたテノールに申し訳ないぐらい。
その後のシラクーザの素晴らしい歌唱とコミカルな演技を堪能して、私は新国立劇場に通うようになったというわけです。
そうか、シラクーザのおかげだったのですね。
二回目は「チェネレントラ」でしたね。あの時もすごかった。生まれて初めて、劇中でアンコールで同じ所を歌う、というのに出くわしました。
https://museum.projectmnh.com/2009/06/14195823.php
アディーナを歌ったのはニコル・キャンベル、前回のプロダクションのアディーナとくらべて背が高くて、身のこなしが都会的で、劇中で本を読んでいる姿がなんだか先生みたいでしたが、歌はめちゃうまいです。声はやわらかみのある感じです。「ばらの騎士」の元帥夫人を聞きたいなあ、とおもいました。フィガロの伯爵夫人を歌っているから、行けそうですね。
あとは、ドゥルカマーレを歌ったレナート・ジローラミ。
もう、こういう方が居らっしゃるからオペラが楽しくなるわけですね。
軽妙洒脱な演技がすごくてすごくて。こういうのを見るにつけて、オペラとかヨーロッパの懐の深さを感じてしまいます。
この分野で日本人が勝つのは並大抵ではないなあ、とおもいます。
まあ、西欧人が歌舞伎役者になるのが難しいのと同じ理屈だと思いますけれど。
演出もめちゃ楽しい。
原色をふんだんに使った衣装が、映える舞台。本をうまく使った舞台設営。
現代アートのを見てる感じで、本当に楽しいです。
で、今回もありましたよ。
ドゥルカマーレの「愛の妙薬」のグラマラスな売り子が、第二幕の最初に、タクトを振り上げようとする指揮者のジュリアン・サレムクールに売りつけるシーン。
二幕の雨に、売り子さんが客席でスタンバっていて、サレムクールの方をポンポン、とたたいて、薬を売ります。
サレムクール、嬉しそうに投げキッスしてました。2本目はコンマスの弦にお札をつけて買ってましたね。
こういうの楽しくて大好きです。真後ろ二列目で見てたので、余計に面白かったです。
今回はないかな、と思ったんですが、ありましたね。
サレムクールの指揮、重みがありながらも推進力がある感じ。私は全然軽さを感じませんでした。ですが、それはストーリーを阻害するものではなく、かえって引き締めているものに思えました。
バレンボイムの弟子、という先入観があったかもしれませんが、そう感じました。
しかし、私の体調は最悪でした。
前日の8日、5時半に起きて、そのまま24時間働いて、帰宅したのが9日の午前6時半。4時間仮眠して初台に行きました。
レッドブル投入しましたが、さすがに集中力な持たないです。。
寝落ちはしませんでしたが、疲労が鉛のように体の底に溜まっていて、気持ちが感動に向かおうとする時に足を引っ張るのですね。せっかくの第二幕最後のシラクーザ、気持ちが付いて行かなかった。これはショックです。
で、10日も仕事して。
今日は流石に休みましたが、さっきから寒くて寒くて。体温調整ができていないようです。
次回はアイーダですね。
昨日から、カラヤン盤、ムーティ盤、アーノンクール盤を聞きました。
そしたら、今日のNHK-FMで、リストがピアノ用に編曲した「トスカ」が流れていて、おもしろかったですよ。
昨日の深夜にもBSプレミアムで「アイーダ」放送されていましたしね。
それでは、また。
公開が遅れたのは、パンデミックな日々のため。毎日刺激に溢れていて、なんだかドラマを見ているような毎日。なーんちゃって。
タンホイザーですが、この物語も単なる勧善懲悪を、超えているとなあ、と。
ヴェーヌスベルクが悪で、教会が善という二元論が通常想定されるものだと思います。
ですので、カトリシズムに偏重しているという向きもあるようですが、よく考えると教皇は神の真意を見抜けなかったわけです。
タンホイザーを教皇は許さなかったのですが、神は奇跡を起こし、タンホイザーを赦しましたから。
権威に、エリーザベトの愛が勝ったのですかね。
エリーザベトの自己犠牲と教会の権威が、イエス・キリストの受難とユダヤ王やパリサイジンといった権威の対立関係に対応しているというの読み過ぎでなければ、これは教会批判になるのですね。
無責任妄想ですが面白いです。
そうそう。何かを思いついたとしても、私より前に六億人がすでに思いついているのである、という名言を読みました。これももちろんその類。その先に進まないとなあ、と思う今日この頃。微速前進しているんですがね。
昨日、2月2日に新国立劇場で「タンホイザー」を見て来ました。
今日は夜遅くなってしまいましたので、これからすこしずつ深堀りしますが、いままでの「タンホイザー観」が変わってしまいました。
全体的にはそんなにドラスティックに変わったわけではないのですが、演出一つで物語が大きく変質することに改めて驚きました。
まあ、ヴェーヌスにおける、リンダ・ワトソンとエレナ・ツィトコーワの違いなんですけどね。
画像は、私の参考CDであるハイティンク盤。こればかり聴き過ぎたのかもしれません。ルチア・ポップがエリーザベトを歌うのですが、巧すぎて巧すぎて、かえってエリーザベトっぽくなく思えるようになりました。
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昨夜は、大学生時代の音楽サークルの先輩後輩と久々に。とある方とは15年ぶりに飲んだのですが、全く変わっていなくて、タイムスリップした観があります。若返りの飲み会。
過剰な追憶モードは慎みたいものですが、たまには過去を振り返って自分の今の立ち位置を確認するのもいいものだと思いました。
そういう意味では、ブレブレな人生だなあ。
そうそう。今日もあのバークレー出身のギタリストと会話を。
こっちもとても面白かったです。
ではまた明日。
1月27日の老ギタリストとの授業。
前半はインド音楽についてひとしきり話を聞く。インド音楽の二つの要素はMicrotoneと独特なScaleシステムであるとのことだ。
Microtoneは、微分音と訳される。
私見では、これはインド音楽だけの概念ではなく、西洋現代音楽においては微分音を出せるピアノなどが作られているのだが、そのあたりとは話がかみ合わなかった。
もう一つ重要なこと。
偉大なクリエイターは常に、別のものを探し続けるということ。
インドのスケールをコルトレーンが取り入れたのもそうした一環。
(だが、彼にコルトレーンのどのアルバムにおいてそうした要素が顕著なのか、聴いてみると、いつものように、すべてである、という答えが返ってくる。禅問答のようだ)
では、何故、70年代にこうした主張が出てきたのか。
まあ、これは、いわずもがななんだが、戦後の経済や社会のリビルドが終結し、マテリアルからスピリチュアルへ興味が移った時代が1970年代なのだ、という歴史解釈だった。
米国は特にベトナム戦争もあったし。
彼の言説はすこし興味深い。彼はスコットランドからオーストラリア、ニュージーランドと渡り歩き、ボストンのバークレーに1969年に入ったと言う。つまり、戦勝国に滞在しているわけだが、それでも戦後の社会が崩壊していて、リビルドが必要だったというのだ。そうか、戦勝国もそういう歴史認識をすることがあるのね、と新鮮だった。
彼がギターを始めたきっかけ。友人がギターを弾いていたのだが、ドミナント13thに惹かれたって言っていたと思う。
彼に「輪廻」という日本の言葉を教えてあげたら喜んでいた。cyclicの日本語訳は何だっけ、という話のなかで。で、サンスクリット語は知っていたみたいだ。
今日は諸事情で早帰りし、大学の大先輩と同期と一席。
グローバルな世界を覗けて刺激フルな時間だったなあ。
私も来世を信じて頑張ろう。
写真は有楽町周辺の並木道。そうか。ライトアップは年中やるものなのか。石の都市の底に這う光る並木道という風情。
先日の話の繰り返し。
老ギタリストの会話で最も感銘を受けたのは以下のような会話。
「モーツァルトは生まれながらにして技術を持っていて無意識界にコネクトすることが出来た。シンフォニー全体(whole)を頭の中に細部に至るまで保持することが出来たのだ」
「それはどうしてなのでしょう?」
「それは、彼がその人生の前のいくつもの人生において研鑽を積んでいたからだ。人間に出来ることは有限だ。人生は短い。にもかかわらず、それが出来るのは、前世において研鑽を積んでいたからにほかならない」
途方もない怪しい考えかもしれませんが、天賦の才とか、生まれながらにして、という能力を合理的に説明する方法は、実はこれしかないのかもしれないなあ、などと。
偉大な才能と触れる機会が多ければ多いほど、こうした直観に行き着く可能性が高いのかもしれません。
だとすると、来世があるから、何歳になっても努力する意味があるということになります。死を目前にした老人となってもなお向上するためには、現世を超えたものを想定するのは、方法論的にはまっとうです。
人生は経過点に過ぎない、ということなんでしょう。
私も、ずいぶんものごとを諦めましたが、そうそう諦めることもないのかもしれません。
次の世界で生きるかもしれませんからね。
未来のわたしをもっと大切にした方がいいなあ、と思います。
これ、仏教思想では常識なのかもしれませんが、恥ずかしながらそちらのほうは不勉強ですねえ。反省。
今日は振替休日で、たまった作業を順次片付け中。
それでは。
先日から話をしているバークレー出身の老ギタリストの話が興味深いので備忘録的に。
彼の言葉の断片を。
彼は1970年代にバークレーに入ったのだそうだ。つまりは、ヒッピー世代に当たる。であるからこうした思想を語るのだろう。
おそらくはそこでときめく偉大なジャズメンと知り合ったのだろう。
才能の溝を説明するには輪廻転生で説明するしかない、ということなのだろうか。
私は、バッハがジャズ的であるということを、インテンポ、通奏低音と言った文脈で解釈しようとしたが、彼はもっと違う位相でそれを感じていたらしい。
そんなことをきいていたその翌日、、フィナンシャル・タイムズの過去記事でラヴィ・シャンカーの死亡記事を読んで、シンクロニシティにおののく。
こうしたことを直接の言葉で聞くことができて良かった。今週末も一時間ほど話す予定。どんな話に水を向けてみようか、と思案中。
素晴らしい経験だと思う。