たまにはジャズの話を。
何度か触れましたが、私はサクソフォニストでした。これも何度か書いたことがありますが、耳が肥えてきましたので、自分の演奏にまったく良いところを見出せなくなっていて、封印しているところ。まあ、時間や体力があれば、なんのこれしき! と練習しまくるんでしょうけれど、学生ころのようの練習時間は持っていませんので。悲しいものです。
とはいえ、今でもジャズは良く聴いているのかもしれません。「リング」に疲れたときには、例のシャカタクを聞いたり、マイケル・ブレッカーを聴いたり。私のジャズ嗜好は異端ですので、ほかの方から見たら、なんじゃい、という話になりましょうけれど。
本日は来年度の人事発表の話ということで、来年度はこれまで以上にずいぶん大変な年になりそうで、朝から少々気分が悪かったのですが、ブレッカーブラザーズの「サムスカンクファンク」と、チック・コリアの「ハンプティ・ダンプティ」に癒されました。いずれの曲も学生時代にお世話になりながらバンドで演奏しました。
特に「ハンプティ・ダンプティ」は思い出深い。後輩のベーシストのバンドでテナーを吹くはずだった方が、ライヴの日にちを間違っておられて、来られなくなってしまったのです。途方にくれる後輩。それで、私にお鉢が回ってきました。急遽、後輩のテナーを借りて、「ハンプティ・ダンプティ」と「インプレッションズ」を吹きましたねえ。1997年冬のことだと思います。
「ハンプティ・ダンプティ」とは、「不思議の国のアリス」に登場するキャラクターですが、ピアニストのチック・コリアが、「マッド・ハッター」というすばらしいアルバムの中で、実に複雑な転調を含みながらも、ドライヴ感のあるスタイリッシュな曲に仕上げています。「ハンプティ・ダンプティ」は、コード進行の難しさもさることながら、テーマフレーズも少々難しいのです。ちょうど楽譜はなくて、(あっても初見でふけませんし)、出番寸前までCD聞いてコピーして、なんとか本番に間に合わせました。
この演奏、ピアノがチック・コリア、ベースがエディ・ゴメス、ドラムがスティーヴ・ガッド、テナーがジョー・ファレルという、私にとって理想ともいえるカルテットです。ジョー・ファレルのインプロヴァイズは、複雑なコード進行をメロディアスに処理する実にすばらしいもので、これ、ほとんど一緒に歌えるぐらいまで聞き込みました。
さて、今日気づいたのは、ベースのエディ・ゴメスのピッチのこと。ベースはフレットレスですので、ピッチの正確さが要求されます。同輩のベーシストは、修正ペンでネックにしるしをつけてましたからね。ゴメスのピッチ、必ずしもいいとは思えないのですが、なぜだか違和感を感じない。この感覚、ディートリヒ=フィッシャー・ディースカウ氏の歌を聴くときの感覚に似ているんですね。ピッチの微妙なずれすら計算されているのではないか、という感覚です。
そういえば、マイケル・ブレッカーとランディ・ブレッカー兄弟は「トランペットとテナーのピッチは必ずしも正確に一致させる必要はない」とインタビューに答えていたのを思い出しました。ピッチのずれすらも美的価値に高めることができている、ということでしょうか。
とある録音の「ヴァルキューレ」と「ジークフリート」を聞いたのですが、とある方のピッチが狂っていて(そんなに激しくはないのですが)、違和感を覚えた後だけに、そうじゃない場合もあることを再認識した次第。ピッチがずれるとはどういうことなのか、そうそう簡単に結論が出るものではないのだなあ、と考えています。
チック・コリア「マッド・ハッター」にみるエディ・ゴメスのピッチなどなど
ワーグナーと<<指輪>>四部作
文庫クセジュに入っているこの本。ジャン=クロード・ベルトン氏によるリングの簡便な入門書です。購入したのはずいぶん前でしたが、実際にリングを見聞きしないと理解は進まなかったです。今回は良い時期に読んだと思います。
やはり、指環や黄金は資本主義を象徴しており、アルベリヒに支配されたニーベルング族が働かされている情景は労働者階級のそれを思わせるとの記載がありました(127ページ)。私の仮説の裏づけになりました。読んで気づかされたのが、黄金についての考察が私に足りなかったこと。指環と黄金を同一視しすぎていました。でもやはり黄金もしもべこそ資本主義ですし(金本位制だった昔を思い起こします)。また、この本でもユダヤ系財閥のロスチャイルドについての言及が見られました(112ページ)。
ライトモティーフ(示導動機)の位置づけについての記載もありますが、ちゃんとライトモティーフを整理しないといけません。勉強がてらMIDIに落としてまとめたい、という欲求はかなり前からあるのですが。まあ、これだけ聴いていればなんとなくはわかってくるのですが、ちゃんとまとめたいところです。
けれども、やはりジークフリートの死と、ブリュンヒルデの自己犠牲こそ、権力への激しい欲望に対する愛の勝利を象徴する、というくだり(72 ページ)は、どうにもまだ理解ができません。このカタストローフ的な破壊は、二つの大戦を予言していたとも取れますが、その結果が「愛の勝利」だとしたら、そんなものはまだどこにもありません。完全な破壊はまだ起きていないということでしょう。また、それを期待するのはあまりに無節操で馬鹿正直です。
この最後の問題は、わからないまま。今月の「神々のたそがれ」を聴くことになりそうですが、なにがわかってくるのか楽しみです。
それから、それに関連して、少し感動した一節を。二重引用は学術論文ではタブーですが、ブログではいいですかね。
生命、幸福、栄光と人間の努力は、地上を影のようによぎり、そして消え去っていく。美の刻印のみが、素材の上に永久に彫り刻まれて残るのである。(ニコス・カザンツァキス(1885~1957)) (158ページ)
この「生命、幸福、栄光、努力」は、逆の意味も含んでいるはず。「死、滅亡、不幸、凋落、恥辱、倦怠」は、影のようによぎるだけ。後に残るのは、なんらか美的なものである、という直感。危険を承知で、あえて引き付けると、辻邦生の「美が世界を包む」、「美が世界を形成する」という考えと通じ合っている。
そうなんですよ。メディチ家の男たちより、ボッティチェルリやミケランジェロの作品こそが現代も大きな力を保っているのですから。
しかし、とはいえ、食べて眠り起き上がらなければならないということも事実。難しいものです。だが、ジークフリートとブリュンヒルデの死がもたらしたものが、美だとしたら……。
もうすこし考え続けましょう。
憂愁のピアソラ:タンゴ・ゼロ・アワー
大好きな「クラシック名曲探偵」を見ました。今回見た回で取り上げられていたのはアストル・ピアソラ。10年ほど前に池袋のHMVのクラシックコーナーで、ピアソラがプフィツィナーの近くにおいてあったのに衝撃を覚えたことを思い出しました。我が家のCDラックでもやっぱりプフィツィナーの隣がピアソラです。
当時はピアソラブームで、ご存知のとおりヨーヨー・マやクレーメルがピアソラを取り上げていた時代。大学の後輩キーボーディストが、最も敬愛するミュージシャンがピアソラだ、といっていたりしたことも。ピアソラは、パリ留学中にあのナディア・ブーランジェに習っていたんですねえ。彼の音楽こそまさに真正のフュージョン音楽といえましょうか。
私がはじめて聴いたのは、今日ご紹介の「タンゴ・ゼロ・アワー」。このアルバムには苦い思い出がありますが、ちと今は触れないでおきましょう。
# Tanguedia III
# Milonga del Angel
# Concierto Para Quinteto
# Milonga Loca
# Michelangelo ’70
# Contrabajisimo
# Mumuki
* Astor Piazzolla, bandoneon
* Fernando Suarez Paz, violin
* Pablo Ziegler, piano
* Horacio Malvicino, Sr., guitar
* Hector Console, bass
ピアソラについて語る資格はないかもしれませんが、ちょっと書かせてください。
当時、この曲を初めて聴いた途端に浮かんできたイマージュは、大変月並みですが雨に打ちぬれた欧州だか南米だかの古い都会の風景でした。人々の暗い情念、焦燥、憂鬱、諦念などなど(なんだか、村上龍とかこういうこと言いそうですよね)。
人通りのない夜の欧州建築が立ち並ぶ交差点で、道路は絶対に石畳。オレンジ色のナトリウムランプが交差点から互い違いにワイヤーでつり下げられている風景。誰もいなくて静まりかえっている。聞こえるのは雨が傘にたたきつける粒状の音。時折、水音を立てながらヘッドライトが走り去っていく。明かりの漏れた窓から、誰かの怒鳴り声とか、叫び声、赤ん坊の泣き声が聞こえる。ずっと、そこに立っているんですよ。ずっと。
このアルバムでは、ピアソラのバンドネオンがすばらしいのは当然なのですが、それにもましてヴァイオリンの使い方が実に独特で衝撃を覚えたものでした。ヴァイオリンがクラシック以外で使われた例といえば、まあステファン・グラッペリとか有名ですけれど、そういう正統的な使い方じゃないんですね。特に一曲目ヴァイオリンの使い方、初めて聴いたときはショックでした。
昨夜、この曲を聴いて、まあ「リング」疲れもあって、一日聴いていたんですけれど、気分はブルーな感じ。
ちょっとシャカタク聴きたくなりました。あはは。
2月に読んだ本のまとめ
はやいもので、もう3月になりました。早速先だって立てた"読書計画":https://museum.projectmnh.com/2010/01/19063029.phpの達成状況を。2月は3日少ないので大変でしたが、まあなんとか読めたかなあ、と。冊数は8冊ですが、雑誌を結構読みましたので、9冊の目標達成と言うことにしたいと思います。ふう、なんとかなりました。
読んだ本は難しい本ではありませんので、お恥ずかしい限りなのですけれど。
“http://mediamarker.net/u/shushi/read/fin/date/201002/":http://mediamarker.net/u/shushi/read/fin/date/201002/
期間 : 2010年02月
読了数 : 8 冊 |
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竹田 青嗣 / 筑摩書房 (1994-09)
読了日:2010年2月28日
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ラジオライフ / 三才ブックス (2008-09-20)
読了日:2010年2月21日
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ジョン・J. ナンス / 新潮社 (1997-07)
★★★★☆ 読了日:2010年2月20日
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ネルソン デミル , トマス ブロック / 文藝春秋 (2001-12)
★★★☆☆ 読了日:2010年2月16日
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本・雑誌 |
ジョン・J. ナンス / 早川書房 (1995-06)
読了日:2010年2月5日
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本・雑誌 |
ジョン・J. ナンス / 早川書房 (1995-06)
★★★★☆ 読了日:2010年2月14日
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内田 幹樹 / 原書房 (2006-06)
★★★★☆ 読了日:2010年2月17日
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田口 美貴夫 / 講談社 (2004-09)
読了日:2010年2月2日
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でも、本当に楽しい本ばかりでした。J.J.ナンスの「着陸拒否」が2月のベストレコメンドです。もちろん、完璧ではありませんけれど、とても参考になりましたし、むさぼるように読むという読書快楽を十全に味わうことが出来ました。
今月も読むべき本は山積してます。あと、辻邦生の本を読まないといけませんね。それから、ニーチェ関連と、ワーグナー関連も。少しは難しい本を混ぜていかないと、いつまで経っても勉強にならないですしね。
今月も頑張りましょう!
ブーレーズの「リング」とニーチェなど
あっという間に春ですね。今日は暖かい一日でした。
今日もリング漬けです。ブーレーズがバイロイトで振った「ジークフリート」の第三幕を聴いております。
- 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
- 指揮者==ピエール・ブーレーズ
- 管弦楽==バイロイト祝祭管弦楽団
- ヴォータン==バリトン==ドナルド・マッキンタイア
- ミーメ==テノール==ハインツ・ツェドニク
- ジークフリート==テノール==マンフレート・ユング
- ブリュンヒルデ==ソプラノ==ギネス(グィネス)・ジョーンズ
結構重い部分もある演奏というのが第一印象でした。ブリュンヒルデのギネス・ジョーンズさん、強力なんですが、覚醒の場面でピッチにずれがあって、ちょっと残念。これ、映像も持っているんですが、全然見ていない。まずは音源からですね。ミーメのツェドニク氏、ここでも良い味出してます。
昨日から、思い立って「ニーチェ入門」を再び手に取りました。もう邦訳であったとしても原典にあたる体力が今今はありませんので、竹田青嗣のわかりやすい新書版で復習しています。この本の欠点はわかりやすすぎるところでしょうか。わかった気になっていると足下をすくわれますので、注意しなければなりません。あと、図に書くのはNGだ、と先輩に言われたこともありました。
いずれにせよ、一時期はワーグナーに傾倒していたニーチェですので、リングとの関連性はやはり否定できません。一昨日に書いた「ジークフリート」の最終部分で「ほほえむ死」というところ、永遠回帰を雄々しく肯定するあたりとつながるように思えてならないです。
あと、ニーチェの「神」と、私が言っていた貴族階級的神のつながりは、この本を読む限りでは見いだせない感じ。もう少し考えないと。来月の「神々の黄昏」で答えが見つからないかなあ。
さて、今日は良いことが二つありました。
# この前受けたTOEICの点数、あがっていました。良かった。これで会社に報告できます。ベトナム現地法人に異動にならないかしら。でもまだまだですな。先は長い。コツコツやろう。
# 先ほどつぶやきましたが、最近、人生最大重量更新中だったのですが、脂肪だけじゃなくて筋肉が増えているらしいことが判明しました。確かに最近ふくらはぎが、部活動していた頃のように硬く太くなってきました。ズボンがきつくなり始めましたが、太っているだけじゃなかったんですね。
アフォリズムをひとつ。 つり革広告「若い人とつきあわないと歳食うぞ」。けだし名言。
神は滅び、人は微笑み、死を迎える。
うーむ、難しい話しになってきました。
いったいジークフリートとブリュンヒルデを結びつけたものは何か?
指環? ファフナーの返り血? つまり、ミーメの心の中を読めたようにブリュンヒルデの胸中を推し量ることが出来たから、口説き落とせたのか? あるいは、運命、だなんていう月並みな言葉でしか説明できないのか。
昨日まで、私は、世界を支配する指環か、ファフナーの返り血がジークフリートを一瞬にして成長させたとのでは、と思っていましたが、どうにも袋小路に入り込みました。私はブランゲーネの媚薬のような何かが、ブリュンヒルデとジークフリートを結びつけたのではないか、と推測していたのですが、方向を間違えている気がしてきました。
ちょっと状況を整理しますと……。
ブリュンヒルデの覚醒からしばらくの間、ジークフリートをどんなに心配し、愛していたか、と歌い上げます。これは、ヴォータンに背き、ジークムントを助け、ジークリンデを庇っていたことを示しているのですが、ここではかなり踏み込んで「愛していたのだ」と歌う。まあ、長い眠りから覚めて忘我の状況にあるので、いささか感情的なのでしょうか。
ところが、ジークフリートが求愛が続くと、いささか調子が変わってきます。かつて神聖なる戦いの女神であったブリュンヒルデが、ヴォータンの孫とはいえ、人間の男の妻となり従うということの屈辱を切々歌い始めます。
それでもなお、ジークフリートは迫り続ける。もちろん詩的な言葉で(どこで覚えたんだろう? でもすばらしい)。
すると突然、まるで点から光が差し込んだように「ジークフリート牧歌」のフレーズが差し込んでくるのです。最初のブリュンヒルデのフレーズは短調ですが、まだ心が揺れていることがわかる。ですが、その後徐々に高揚へと向かい、クライマックスへと導かれる。
ジークフリートが、どうしてブリュンヒルデの心を動かしたのか。あるいは、ブリュンヒルデはなぜ心を動かしたのか。リブレットを読んでいるのですが、なかなか分かりません。
クライマックスで歌われるのは永遠の愛などではありません。ブリュンヒルデは、ヴァルハラと神々の破滅を歌い、一方でジークフリートこそが永遠であると歌います。ジークフリートはブリュンヒルデこそ、永遠で恒久で宝なのであると歌います
最後に二人が歌う言葉は「ほほえむ死」。Lachender Tod ! ここ、実にニーチェ的。永劫回帰の中で、一度でも幸福を感じ、肯定せよ、という強い意志。これは、新国立劇場のパンフレットで茂木健一郎氏と山崎太郎氏の対談の中でも述べられていました。
すこし指摘しておきたいのは、神として永遠の存在だったブリュンヒルデが、神性を奪われ人間という有限の存在へと落ちたと言う事実。これは、まるでイエス・キリストの受肉にも見えてきます(アタナシウス派=ローマカトリックにおいてはイエスは神性を失いませんでしたけれど)。
「神は死んだ」と言ったニーチェ。
次は、どうやらニーチェの世界に踏み込まなければならなくなりそうな予感。けれども、ここでいう「神」とは、ニーチェの言う「神」とは少し位相がずれているとも考えています。昨日書いた通り、神が貴族階級だとしたら。
まだ、ブリュンヒルデをジークフリートが口説き落とせた理由は分かりません。底なし沼にはまり込んだ気分で、まだ諦めずに考えます。
会社では、難しいプログラムを読む後輩を「こんなもの、人間の考えたものだ。考えればかならずわかるんだ!」といって励ましていますが、さすがにワーグナーの考えたもの、あるいはそれ以降蓄積された解釈群ともなると、人間が考えたというような生半可なものではないようです。
明日も頑張ります。
ジークフリートはなぜブリュンヒルデを口説けたのか?
むむむ、もう私のなかはリングだらけで、毎日のように「ジークフリート」と「神々の黄昏」を聴いています。今はブーレーズの1980年のバイロイトでブーレーズが振った音源です。これ、かなり強力な演奏です。
- 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
- 指揮者==ピエール・ブーレーズ
- 管弦楽==バイロイト祝祭管弦楽団
- ヴォータン==バリトン==ドナルド・マッキンタイア
- ミーメ==テノール==ハインツ・ツェドニク
- ジークフリート==テノール==マンフレート・ユング
- ブリュンヒルデ==ソプラノ==ギネス(グィネス)・ジョーンズ
この音源については一寸置いておいて、ジークフリートとブリュンヒルデの関係について考えてみたいと思うのです。
私は、これまで、どうにもジークフリートのことが理解できませんでした。
育て親のミーメが、黒い裏心を持っているとはいえ、多少は感謝の心を持ってもいいのではないか。確かに恐れを知らぬ英雄だけれど、恐れを知らぬとは、結局無知であることを知らないに過ぎない。
ソクラテスは「無知の知」が重要であるといいますが、ジークフリートは明らかに無知によりすぎている。世間知らずの怖いもの知らず。これはもう、堅気ではない。不良中学生と変わらないではないか、と。
その一方で、いざブリュンヒルデに出会った途端に、彼が女性であることを見抜く。ジークフリートは女性と話したことがあるのでしょうか? 森の小鳥ぐらいではないか。まあ、動物のつがいを見たことはあるようで、人間にも男性と女性がいることぐらいは知っていたかもしれませんが、ミーメはジークフリートに「俺はお前の父でもあり母でもある」なんていうでまかせを言わせてしまうぐらい、ジークフリートは外面上、男性と女性の区別について理解を進めていなかったと思われるのです。
それが、最終幕のブリュンヒルデとの邂逅と目覚め以降、饒舌な求愛の言葉を口にし始める。どうして、ジークフリートほどの奥手な男が、元は神の一員でもあったブリュンヒルデを口説けてしまうのだろう、という疑問。これには、どうにもアプリオリな(先天的な)記憶の遺伝がなければ説明がつきません。
この問題を解くのは難しそう。でも、凄く考えがいがありそうで、今日も仕事しながらブツブツと考えていました。。
私は昨年の夏にバイロイト音楽祭「トリスタンとイゾルデ」をウェブ映像で見ています。ブリュンヒルデの目覚めのシーンを見た途端、あ、これは「トリスタンとイゾルデ」第一幕なんだ、と直感したのです。作曲順で言うと、「ジークフリート」の第二幕の作曲を終えたワーグナーは、いったん「ジークフリート」を離れて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「トリスタンとイゾルデ」を完成させ、その後「ジークフリート」の第三幕に戻ってきます。
ご存知のとおり「トリスタンとイゾルデ」第一幕の最終部においては、侍女のブランゲーネが、トリスタンとイゾルデが要求した毒杯の代わりに、媚薬を飲ませることで、トリスタンとイゾルデは禁じられた愛情関係に陥ってしまう、というもの。
では、ジークフリートとブリュンヒルデの間には、なにがあったのでしょうか?
今日、机を立って、ブラブラとトイレへと向かうときに、閃きました。
ああ、ジークフリートは大事なものを持っているではないか、と。
続きは明日。もう少し考えをまとめる必要がありますので。
* ワーグナー作品というよりワーグナー文学、ワーグナー思想の守備範囲の広さと解釈多様性。考えれば考えるほど楽しいですが、もっと勉強しないといかんですね。
*っつうか、最近思いつきで仕事している気がする。歳食ったんだなあ。。。気をつけないと。
黄昏れる神々の集う映画
「リング」に登場する神々とは、貴族階級ではないか、という仮説。
ジークフリートがはけたあとの新宿駅で、この仮説に思い当たったときに、ひとつの映画を思い出していました。
それは10年近く前に恵比寿で見た映画でした。第一次世界大戦後のイギリス貴族の屋敷を描いた作品で、あの中で、時代が変わり行く中で貴族たちが商売に手を出して失敗したり、遺産目当てのおべっかを使ったり、といった、貴族たちの没落の様子が描かれていたのです。
でも、どうしても題名が思いつかなかった。それが3月14日の夜のこと。
昨日の帰宅後、ブログを書いていて、どうにもその映画のことが気になったのですが、なかなか思い出せませんでした。監督の名前も思い出せない。
それで、うちの奥さんに聞いたんです。
私:「あのさあ、貴族の屋敷に集まって、主人と使用人の立場をコントラストにした映画って、なんだっけ?」
奥さん:「え、それ「ゴスフォードパーク」のこと?」
私;「そうそう、それだ。すごいね、よくわかったね」
奥さん:「だって、今衛星放送でやってるよ」
私はあまりの偶然に言葉も出ませんでした。テレビをつけたら、やってる。「ゴスフォードパーク」。
マジですか。。。
すごいシンクロニシティです。運命的なものを感じました。
奥さんは、夕食作りながら、キッチンの小型テレビで見ていたんですね。ですので、後半は二人で食事を食べながら見ていました。私の仮説の話しをすると、奥さんが前半部分で、「貴族たちは自分を神だと思っている」という意味のセリフがあったと教えてくれました。まさに私の仮説と一致する符号でした。録画をしていたので、さっき確認しました。確かにそう言うセリフがありました。
「ゴスフォードパーク」では、けだるい貴族の集まりの最中、当主が殺されるというのが本筋の物語。まあ、犯人探しはひとつの謎なのですが、それだけがこのストーリーを牽引しているのではありません。その周りにいくつもいくつも置かれた多様で豊かなエピソードがストーリーを肉付けしてよりいっそう味わい深く意味深いものとしています。
映画館で見たときもかなり見ごたえがありました。奥さん曰く、さすがに料理作りながら見られるほど簡単な映画ではなかったとのこと。そのとおりだと思います。
そう言えば、「ゴスフォードパーク」で殺される当主は、従業員の女性達と関係を持って、生まれてきた私生児たちを施設に入れた、という設定でした。まるでヴォータンのようです。
さて、「リング」のほうですが、ブーレーズがバイロイトで振った演奏の音源を手に入れました。早速iPodに入れて、「神々のたそがれ」を聞き始めました。
神々とは誰なのか?
その資本主義貨幣経済のもとで消えていった「神々」とは誰なのか?
これは、今回ジークフリートを見て閃いたのですが、貴族階級ではないか、というのが今の私の一つの考えです。天上界でのんびり長寿の秘訣であるリンゴを食べて、死んだ勇士達を集めて防衛を固め、城を築いて、酒宴を催し、ヴァルキューレ達が接待する。とはいえ、いざ戦いが始まれば、先頭に立つ人々。ノーブレス・オブリージュ。まさに貴族階級。
フランス革命以降、貴族階級は資本階級に支配権を取って代わられる。けれども、王政復古や1948年の革命弾圧で19世紀中は滅ぶべき運命になんとか抗おうとする。結局は二つの大戦で決定的にその命脈を絶たれてしまうわけです。原因の一つは産業革命と資本主義だったはずで、それがアルベリヒのリング。貴族達はなんとかその後の資本主義世界で生きていこうとするのだが、適応できたのはわずかに過ぎない。もちろん、貴族の末裔で権力を握った人々もいます。ド・ゴールとか。でも、それは彼が貴族だったからではなく、彼が機会と能力に恵まれたからでしょう(もちろんその「機会」を得るのは貴族だったが故に容易だったとも言えますけれど)。
音楽家にとっても、19世紀は大きな転換点だったのです。18世紀までは音楽家達は王侯貴族お抱えでしたが、19世紀になるとそうも行かなくなるわけです。だから大衆向け(といっても、貴族も資本家もその一部だったはずです)のオペラや演奏会が催されるようになる。
一部の例外を除いては。
その一部の一人がワーグナーなのは言うまでもありません。横やりを入れられながらも、自らの理想である神聖なるバイロイトを創建できたのは、バイエルン国王ルートヴィヒの庇護と援助のおかげです。
ワーグナーは、貴族達の滅び行く運命を見通していた。それは、「神々の黄昏」最終幕の大洪水に飲み込まれるヴァルハラ城が暗示しています。そこに哀惜と諦観を感じていた。ヴォータン=さすらい人の、無抵抗の嘆息はそうした気分であるはずです。
それで思い出した映画やら本は数あまた。
また長くなりますので、また次回に。
短信:3月5日、新国立劇場「ヴォツェック」がNHKで放送されます。
以下リンク先の通り、「ヴォツェック」が3月5日のNHK芸術劇場で放送されます。
http://www.nhk.or.jp/art/current/music.html#music0305
もう一度あの舞台を見られるとは。感涙です。