Tsuji Kunio

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私の記憶では、1998年ごろからだったと思いますが、週刊朝日百科が「世界の文学」と題して、全120巻の世界文学案内のようなものを刊行していました。文学に関する話題を、映画の場面などを使いながら、一望できる画期的なものだったと思います。

その、第100号に辻邦生が取り上げられています。歴史小説に関する評論で、書かれたのは辻邦生の親友だった菅野昭正さんでした。

前半は、ひたすら森鴎外の歴史小説論を書きながら、後半にかけて、歴史が本に記されているものである以上、歴史小説は本の小説であるといいつつ、いわゆる、森鴎外の「歴史其儘」と「歴史離れ」の融合が歴史小説であり、その顕著な実例が「背教者ユリアヌス」である、とします。そうした小説を書くための方法論が、「小説への序章」であり、それがいわば、小説についての本であるがゆえに、「小説の本」というわけです。「本の小説」を書くために「小説の本を書いた」というまとめ方は、辻邦生が創作ノートと哲学ノートの二つを駆使しながら小説を書いたという話が敷衍されているものと思われます。

ただ、菅野昭正さんの文章は、前半の歴史小説に関する論説が少し長いのです。多分、もっと書くべきことはあったのでしょうが、無理やり文字制限に押し込めたのではないか、と思うようにも思えるものでした。きっと、「西行花伝」や「春の戴冠」にも触れたかったに違いないのですが。そのせいか、「西行花伝」について言及されていないにもかかわらず、西行が文章中に突然登場し、「西行と遊女図」という絵が紹介されているという唐突感に気づきました。わかっている人が読めば、「西行花伝」を敷衍したものであることはわかるのですが。確かに欄外に注記などはあるのですけれど。

この第100号は「日本文学の現在」というテーマです。独立して取り上げられている作家は、中上健次、辻邦生、村上春樹、筒井康隆、宮本輝、宮尾登美子、河野多惠子です。その他に、村上龍、高橋源一郎、浅田彰、田中康夫、小林恭二、島田雅彦、吉本ばなな、など。ポストモダンやグローバリズム、といった観点で2000年頃当時の「日本文学の現在」を取り上げられている中で、辻邦生の「背教者ユリアヌス」が取り上げられているというのも、また何か不思議な感覚を覚えます。辻邦生だけが異色に思えるのです。

この号では、辻文学の特性は「高い理想的な何者かを目指す意志を支えとして、日々の現実を生きることに意味を発見する」、「辻邦生の小説は、現在の日本文学にはめずらしい理想主義と崇高な色調にいろどられる」と書かれています。別段、何十年も辻邦生を読んでいる私にとっては何ら不思議ではないことですが、この「めずらしさ」こそが辻文学の変わらぬ価値なんだろうなあ、と思います。

東京では桜咲く。私の近所でも一輪ほど咲いているのを見つけました。昼下がり私の街を1時間半ほどかけて自転車で縦断したときのことです。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

昨夜トラブルで徹夜。たまにあることなので慣れてます。

先日からブルックナーばかり聞いていたり。

ブルックナー:交響曲第8番(クラシック・マスターズ)
カール・シューリヒト
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でもブルックナーは、きっとダブルスピークではなく、素直に書けたのでしょうけれど、芸術は、おそらくはそこに現れた直接の意味と、その背後の意味と、二つ重ねて考えなくてはならないようになってしまう場合ももちろんあるんだと思います。信用できない語り手、問題。あるいは、作品全体が二つの意味を持っている問題。

音楽評論家の方がどこかで書いておられたのですが、洒脱な音楽を書くプーランクは、現実の凄惨さを踏まえた上で、それを乗り越える意味であえて洒脱な音楽を書いていたという見方があるみたいです。

これ、辻邦生の戦闘的オプテイミズムの考え方と似ています。逆境にあって理想を語るべし、というもの。ただ、がゆえに、歴史小説だったということも言えるのだとも思います。

昨日の徹夜仕事も、疲れた時にこそ真価が発揮されるみたいな感じがあります。あるいは、先日来休みなく働いている時も、そういう時こそきちんとした仕事をしないとみたいなことも言えます。逆境にあってこそ笑みを絶やすな、みたいな。

もっとも、あまり笑ってばかりだと、楽しているのではないか、と疑われるのでほどほどに、とも思います。難しいです。

それではお休みなさい。グーテナハトです。

 

 

Miscellaneous

どうも、最近は「変化」をネガティブにとらえがちなのかも。

帰宅しながら、聴いたこちら。

Bruckner: 9 Symphonies (9 CD's)
Universal Music LLC (2002-11-18)
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ヨッフムの振るブルックナーの交響曲第7番。これを聞いて、真っ先に寂しさを感じてしまったのですね。歴史の終わりに際して、ロマン派が大きく花開いた時代に書かれたこの交響曲の大きさとか美しさのようなものが、郷愁と哀愁を帯び散るように思えて。

ただ、歴史はこのブルックナーの交響曲第7番以降何度も終わっているのでした。まずは第一次世界大戦で終わり、第二次世界大戦で終わり。そして、もしかすると、それから何度も何度も歴史は終わっている。つまり断絶しているのだ、と。ただ、それは私がこの交響曲を聴いた30年前スパンで捉えているに過ぎないのだなあ、とも。30年前はまだソ連がありましたが、あれからも何度も歴史は断絶しています。ベルリンの壁が壊れ、9.11があり、数多の戦争があり、3.11があり。断絶という言葉をあえて使いますが、実際には歴史の転換点のようなものであって、その中で、失われるものもあれば、生きながらえるものもあるわけです。そうした生きながらえているものの一つにこの交響曲があるのかもしれませんが、その生き方もやはり変わっているのだとも思います。

今日この交響曲を聴きながら思ったのは、不協和音の多さやめくるめく転調でした。当時はおそらくはとても画期的なことだったのではないかと思うのです。ですが、同時代のフランス近代音楽や、その後のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンなどによって、その画期性は陳腐化したのでしょう。それでもなお、生き残っているのは、特定の領域に受容されるそれ自体の美しさのようなものがあったり、あるいはその時代時代で新たなパースペクティブを持っていたからでしょう。

ですが、私には、まだその新たなパースペクティブのようなものがわからず、もしかすると(私の勝手な想像ではありますが)、教授の職を得ようと、唯ひたすらに作曲に没頭し、ヴェルデヴェーレ宮殿の庭師の小屋に住むブルックナーの姿と、それを取りまく、フランス革命後の自由の気風とそれに対する反動の戦いが見えてしまい、それがどういったアクチュアルな意味を持つのかというのがよくわからず、ただただ、美しいという感想しか思い浮かばないのです。私はこの曲をドイツ旅行からの帰路、夕刻のシベリアで沈みゆく太陽が雲海を金色に染める風景を見ながら聞いたことがあります。あの神々しい風景がおそらくはこの曲と結びついていて、何かイデアールなものを想起させてしまうわけです。

私はこの文章を書く前に、寂しさを覚える、とまで思いました。歴史の終わりにあって、この美しさはすでに失われたのではないか、という思いからです。ですが、それは間違っているとも思いました。ただ単に、それは経験に左右されるものであったり、極度に19世紀ロマン派の考え方に拘泥しているからに違いないのです。確かにこの曲の実在のようなものは今ここにあるわけで、それが「歴史の終わり」のようなものを何度も何度も通り抜けながらもここまで至っていて、時折この極東の国でも演奏会にかけられるような状態にあるということは、「歴史の終わり」に際しても、この曲に美しさや力がのこっているだけではなく、「歴史の終わり」は「終わり」ではなく、次の「歴史の終わり」への道程に過ぎないということなのでしょう。

この曲はおそらくはこの後もしばらくは美しいものを表出し続けるでしょう。ただ、文化文明というものが本当に儚いということも我々は知っています。良いという価値が相対的であることも知っています。昨今、イタリアでは文化予算を増やしているようです。その理由が何であるにせよ、彼らは重要性をわかっているということも改めて思いました。また、日本人の我々が、この曲を聴いているということに対する疑問もやはりなお残ることは言うまでもありません。

 

 

Miscellaneous

頑是ない歌

http://www.aozora.gr.jp/cards/000026/files/219_33152.html

夜、帰宅の電車の中から、車両基地が見えた時、ふと思い立った言葉が「思えば遠くに来たものだ」でした。

誰の言葉だっけ、と探してみたら、中原中也でしたか。吉田秀和が「中也が」と呼び捨てにしているのをテレビで見て、驚愕したのが懐かしいです。

ま、みな思うことは一緒ですね。思えば遠くに来たものだ。だが、ここは思った場所ではなかったのだ、と。12歳の時のことを30歳で思うというも、何か合点が行くような。

ちなみに海援隊も「思えば遠くに来たもんだ」と歌にしているようですが、私は海援隊は聞いたことはありません。多分、高校の時に読んだんでしょう。

歳をとると誰しも思う言葉なんでしょうけど、「畢竟意志の問題」なんでしょうね。

今日はこちら。

ブルックナー: 交響曲第9番(クラシック・マスターズ)
カール・シューリヒト
ワーナーミュージック・ジャパン (2014-06-18)
売り上げランキング: 11,914

シューリヒトを初めて聴いた時の鮮烈な感覚を思い出しました。確かに、今聴くと、技術的にはいくらかのキズはあるのです。しかし、なにか清冽なうねりのようなもの、エッジの効いた輝きのようなものが確かにあるなあ、と。ただ、それが17年ほど前の記憶とすこいばかり形を変えていることに驚きます。時間。記憶。移ろいゆくもの。が、考えるのはあまり意味がないのかも。中原中也が言うように、

なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

でも、やっぱり

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ

というわけで、また明日。おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

音楽を語ることの難しさ。そもそも語ることはできないのに、無理やり書こうとしている感があります。音楽を語るためには、それを説明するというような形ではなく、別のやり方を使わなければならないのではないか。その別のやり方というのは、多分、辻邦生もやっていますが、おそらくは音楽と同じ芸術のレベルで語るということ。音楽に対する絵画であり、音楽に対する文学であり、のような。

そんなことをおもいながらこちらを。

ブルックナー:交響曲第9番
ブルックナー:交響曲第9番

posted with at 16.03.14
ジュリーニ(カルロ・マリア)
ユニバーサル ミュージック (2014-02-26)
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この演奏のよさも、言葉にするとどんどんこぼれ落ちていきそうな気がします。もっとも、言葉にする能力がないということになってしまうのかもしれませんけれど。しかし、すごいダイナミズムとパワーと、静謐さと繊細さなんだろう、と思います。こればかり聴いていると、人間や世界というのは、本当に素晴らしいものだけなのだ、と勘違いしてしまいそうです。

もっと本を読み音楽を聴かなければ。ですが、本を読み音楽を聴いても解決するものとしないものがあるのでしょう。無限大の本と無限大の音楽を把捉することはできず、がゆえに、ここにあるものから世界を掴むことしかできないのではないか。それでもなお、無限と向き合って無限と戦うことが大切なのか。戦い勝つことがじゅうようなのではなく、戦い続けるということ、無限との無限に続く戦いということが大切なのか。この底もなく果てもない膨大なHugeとかtremendousという形容詞がふさわしい世界に対峙するということはこういう恐怖と苦しさと嘔吐とむきあうということなのか。

だが、その戦いはおそらくは、今ここにあるものから世界を掴むという確信を得た時に終わるものなのかもしれないとも思います。あの、辻邦生の「嵯峨野明月記」に登場した狩野光徳という画家が、世間の全てを絵に描こうとして、その不可能性に絶望しながら息をひきとるようなことがあってはならないのでしょう。量の変化が質の変化に変わる瞬間のようなものがあるわけで、そこまでは無限との戦いをするんだと思います。

さて、土曜日に、仕事の山をひとつ越えました。昨日の日曜日は、朝から夕方まで仕事系の講習。今日は振替で休日にしました。今月に入って初めてのお休み。ですが、今日も朝から事務作業を。先ほどやっとおわり、ほっと一息つきました。明日から次の戦いに本腰を入れないと。

しかし、まあ、こんなに体を動かしてもなんとか持っているのは、もしかすると、やっぱり泳いでいるからかも。あるいは、最近始めた鳥の胸肉を食べる活動のおかげかも。鳥の胸肉は疲労回復に絶大な効果があるようです。

ちなみに、ここには、「疲れました」ということは書かないようにしているのですが、今日、ふと思い立って「疲」という文字で検索をかけてみると、出現頻度がこの3ヶ月増えてまして、毎日書かないと、と思うと、知らず知らず「疲れにくくなるように」とか「疲れを癒します」とか、間接的な表現で「疲れました」って書いちゃうんですね。いかんいかん。

ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms,Miscellaneous

昨今、なかなか時間が取れないというのは先日も書いた通りですが、なんだか考えることが仕事系に偏っている感じもあり、今日も、帰宅する地下鉄の中で、目を閉じながら色々と逡巡しながら考えを巡らせていたのですが、そのときブラームスを聴いてみようと思い、カラヤンのブラームスを。一瞬だけ、何か学生時代の淡い記憶のようなものを思い出しかけたりしました。この二週間、働いて、食べて、寝るだけの暮らしを続けるこうなるのかも。

で、こちら。

ブラームス:交響曲第1番&第2番&第3番&第4番
カラヤン(ヘルベルト・フォン)
ユニバーサル ミュージック クラシック (2003-09-26)
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今日たまたま聞いたのがカラヤンのブラームス。カラヤンは正直に言って今の私にはあまりにスタイリッシュです。世界が仮に間違っていたとしても、こういうものはあり続けるといいですね、と思います。

では、お休みなさい。

Miscellaneous

今日は寒い1日。昨日、暖かくなったんですが、忙しすぎて世界に目を配れず、気温の変化に対応しないで真冬並みのコートで出かけました。が、皆さんスーツの上着だけで過ごしている。で、やばい、と思い、今朝は薄手のコートで出かけようとしたのですが、ニュースで「寒くなりそう」といことでしたので、慌ててコート変更。帰宅時の冷たい雨になんとか耐えることができました。

昨年、2015年9月22日からが、できるだけ毎日投稿することを心がけてきました。が、3月初旬から途切れがちに。

直接のトリガーは、日々の仕事系が年度末に向けて厳しい状況にあるから。ま、年度末が忙しいのは別に普通なんですが、先手先手で手を打てずこうなってしまったというところです。土日に休まず働くと、じわりじわりと疲れの色が濃くなっていきます。何か、自分の体の中に、もう一つの自分の体があって、それが膨張してくるのですが、それが鈍い痛みとなっている、というような。

毎日書きたかったのは、どういう変化が起きるのか試してみたかったからです。1年間休まず書くと、色々と面白い、という話を聞いたこともあるからです。結論から言うと、半年だとなかなか変わりようはありませんでした。というより、エントリーの回数とエントリーの質のバランスが崩れるという危機感のようなものは感じたのだと思います。

まあ、スマホを使うことができていますので、どこでもエントリーを書けるインフラはあるはずですが、いかにエントリーにつなげる集中力をキープし、題材を選ぶか、ということが問題になるわけですね。時間とか体力もリソースですが、そのリソースをどう配分するか、という問題。これがなかなか難しいです。

切り口は考えればいくらでもあって、そうした切り口で切り抜けることが必要で、それは日々の仕事系でも役に立ちそうなものなのですが。。

明日、明後日と二日仕事場に行けば、休みとなる、はず。。

ではおやすみなさい。グーテナハトです、

 

Jazz

昨日はかけず。なんだっけか。。

マレーネ・モーテンセンを聞いてます。なにがいいのか、ということを考えていたのですが、今日わかりました。

まるで、管楽器のように速いフレーズを良い声で歌うところが、いいんだなあ、と。

まあ、何度も繰り返し聴くと、いろいろわかってくる面もあるのですが、それでもなおやはりカッコ良いのですね。変拍子とか、少し大変そうなんですが、なにか、オペラの難しいアリアにも通じるスリリングさなどがあります。

あとは、英語の発音が好きというのもあるなあ、と。デンマークの方なので、やはり、英語発音はネイティヴとは違うキレのようなものがあります。

あれ、アマゾンみていたら、マレン・モーテンセンになっている。デンマーク語だとマレーネだと思うのだけど。

ツイート的に取り急ぎ。

Richard Strauss

いやあ、さすがに厳しい1日でした。おかげで泳げず。こういう日もあります。

今日はこちら。《ナクソス島のアリアドネ》。初めて聞いたとき仰天しました。執事役は俳優が演じて、歌ではなくセリフです。一つの意味としては、確か、芸術の世界に生きる人と、そうでない人を区別するため、ということだったはずです。
今日聞いたシノポリ盤で執事を語る俳優さんの喋り方が結構過ぎで、何度聞いても惚れ惚れします。

R. Strauss: Ariadne auf Naxos (2 CDs)
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もう少し書きたいこともありましたが今日はここまで。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Alban Berg

昔から、ベルクには何か不可思議な思いがありました。オーストリア皇帝の隠し子であるヘレーネと結婚し、ハンナ・フックスという友人の奥さんと不倫関係にあり、虫さされが原因で敗血症でなくなる、という怪しげな空気。ほんとうに、冥界だか魔界なんかに引き込まれてしまうような、怪しさをかんじるのです。

そんな時に、この音源を聴くと、なおさらその思いを新たにします。

結構リバーブ感のある音源ということもあって、果てのない地下迷宮に引きずり込まれていくような感覚を持ちます。なんだか、このまま吸い込まれて消えてしまう、というような。

藤子不二雄のSF短編で、鉄道模型にはまった男の子が、消えてしまう、という話があったはずです。30年も前の記憶ですが。何か、そうした彼岸への扉が開いてしまうのではないか、という不安を感じながら来ている感じです。

明日、水曜日。ウィークデーは長いですね。。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。