今日も、シュトラウスのヴァイオリン・ソナタを聴いています。20代前半で、よくもここまで豪奢な音をかけるものだ、と思います。
ですが、やっぱりシュトラウスの若さのようなものも感じます。まるで、奔放なオクタヴィアンが書いているような、そんな感じも受けています。
才能というものは、厳然としてあるんですが、特に音楽においてはなおさらです。いつも思うのですが、ヴァイオリンのソリストを前にして弾くオケのヴァイオリンのメンバーの気持ちというものはどういうものなのか、と思います。おそらくは、才能というものをきちんと熟知しているのだと思います。おそらくは、オケにいるということ自体で、才能を持っておられるのでしょうけれど、その才能の閾値のようなものも理解されているのでしょうか、などということをよく考えます。
努力だけでは抗えない世界というものがありますし、才能と努力があっても運がなければ、ということもあります。
数年前のバークリー音楽院を卒業したギタリストとの会話を思い出します。彼が言うには、才能とは、おそらくは、前世からの積み重ねなのだ、ということでした。彼は、ブラインドを操作するビーズ上の紐を、まるで僧侶が読経する時のように一つ一つ指で数えながら、人間の人生というものは一つ一つのビーズのように連なっているものだ、というのでした。モーツァルトが、たった一回の人生であそこまでできるわけがない、とも言っていました。
結局は、才能とか自分のできることというのは、自分の努力だけでなしえたものではなく、前世から得たものなのか、あるいは、天から与えら れたものなのか、というところにすぎない、ということなんでしょう。別に、それらは自分とは全く関係ないもの、なんだと思います。
そう思うと、あらゆるものが、自然に思えるようになるのかもしれません。もっとも、この考え方は、才能というものを自覚している向きにはいいのですが、まだ自分の才能トイいうものを見つけられていない人には難しい考え方になるのかもしれなです。
結局は自分探しなんですが、まあ自分を探す前に、なんでもやってみよう、ということなんだと思います。スピードとピヴォットです。
で、見つけた才能はきちんと責任を持って面倒を見てあげないといけないということなんだとも思います。
いつも同じようなことを書いていますが、この曲を聴いたり、才能ある音楽家の方のことを読んだり聞いたりして、改めてそう思いました。
今日は、そのシュトラウスのソナタを、この天才二人の演奏で。絢爛です。
パールマン(イツァーク)
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風邪をひきかけていて、喉が痛かったのですが、泳いだら治りました。あるいは治ったような気がしています。体を動かすと、血流が良くなって、耐性が強められるのではないか、なんてことを勝手に思っています。
それではお休みなさい。グーテナハトです。