辻邦生創作の秘密が満載──辻邦生「黄金の時刻の滴り」

12月に入りましたが、寒さもあまり感じることなく過ごしていましたが、そろそろ寒くなりつつあるようです。

実は、今週も関連事案で体調の急変があり療養しました。経験のないことなので、医師の言うことを聞くだけでした。夜間の救急外来など、これまで経験の無いことばかりで、とてもたくさんのことを学びました。ですが、これからが大変で、今はただ途方に暮れています。これからどうやって復旧しようか、という感じです。

とにかく、病が去ると、次に来るのは疲れですね。先日も、リハビリにと思い、洗濯物を干したのですが、それだけでくたびれて臥せってしまうという感じ。病院で座っているだけで辛い感じでした。本当に健康は大切ですが、どんなきっかけでなにが起こるか分からない、ということも感じました。もうあまり無理は出来ないのか、と想うと、寂しさを感じます。やるべきことを早くやらないと、とも思いました。

それで、夜もなかなか眠れませんが、そんな時の楽しみで見つけたのが、Kindle Paperwhite(2014年購入)を布団に持ち込んで読むということです。おかげで少し読書が進みました。

で、こちら。辻邦生「黄金の時刻の滴り」です。

Kindleではまだ半分と少しだけしかです。リルケ、カフカ、ヘミングウェイ、マンなどの文豪をテーマにした短編集です。

物語的にもとても面白いのですが、実のところ文学に関する考察が小説の中に含まれています。あとがきで辻邦生も書いていますが、文学論では書けない小説家(つまり取り上げられた文豪たち)の世界が描かれている、といえそうです。

ですが、小説家の世界を書いているのは辻邦生ですから、辻邦生が「自問自答」しながら書いているということになり、辻邦生の思う小説家の創作手法が書かれていることになります。

例えば、モームをテーマにした「丘の上の家」では、フィレンツェを舞台に、推理小説の組み立て方が描かれています。

また、カフカをテーマにした「黄昏の門を過ぎて」では、カフカのドッペルゲンガーが、コンサートや図書館、娼家で目撃されるという設定になっていて、小説家(=芸術家)が、人間のグロテスクな悲劇、奇怪な、不条理な、滑稽ないかがわしい生というものに形を与えるのだ、というようなことをカフカに語らせるのです。それは、なにか辻邦生の創作の秘密を文豪に語らせているようにも思えるのでした。

それにしても、Kindle Paperwhite 、ほとんど使っていませんでしたが、先日の療養生活以来、愛用しています。このあたりの話は、また機会があれば。

それでは皆様、良い土曜の夜をお過ごしください。お休みなさい。グーテナハトです。

4+

辻邦生「安土往還記」を読む

早いもので、今年も11月21日が来てしまいました。11月21日は辻佐保子さんの誕生日。冬も間近に迫り、東京の日の入り時間は16時半頃。ついこの間まで夏だったと言うのに、と思います。

いつも言っていますが、早く夏にならないかな、と思います。さしあたりは、正月めがけて頑張らないと、と思いました。

で、読んでいるのが「安土往還記」です。3回か4回か、それぐらい読んでいると思います。

それにしても、ほんとうに西欧合理主義的な織田信長像が見事で息をのみます。戦争ですら芸術(アルテ)として捉えられるのではないでしょうか。かずかずの残虐的な戦後処理(比叡山の焼き討ちなど)ですら、そうです。

主人公は、言うまでもありませんが、イタリア人で、新大陸で戦闘を経験したことのある人物。織田信長が長篠の戦いで使った三段構えの戦法も、このイタリア人の支援があったから、という設定になっていて、いまから500年前にあっても、なにか西欧とのつながりがあったという事実が、不思議なようでもあり、あるいは、だからこそ現在と500年前が地続きであるようにも思うわけで、物語世界と現実がつながっていることを身体で感じてしまうわけです。じつに見事な設定です。九鬼水軍の装甲船もやはりこのイタリア人の手になるもの、という設定も(史実には当たっていませんが)実に見事です。

西欧合理主義的、と言う観点で言うと、石山本願寺を攻め下すために、遠大な計画をもってそれに当たる、というところも、実に合理主義的です。鉄砲を供給している雑賀を征服し、前述のように九鬼水軍を鍛え、包囲網に城を築き、じわじわと締め上げる。これを読んで、何か、米ソ冷戦の末期に、アメリカがソ連をじわりと追い込んだという史実を思い出したのです。スター・ウォーズ計画をでっち上げてソ連を宇宙開発競争・軍拡競争に引き込み、原油価格をサウジと組んで引き下げ、あわせてアフガニスタンで疲弊させる、という遠大な戦略を彷彿とさせるのです。

史実はどうかは分かりません。しかし、残念なことに事実というものは歴史の中で失われるものです。歴史小説によって描かれる事実は、おそらくは実際にあったこととは離れているのかも知れませんが、それはそれで一つの真実として世界に屹立しうる訳です。そういう意味では、この安土往還記における織田信長は、ひとつの合理主義的な人物として、リアリティがある人物として、小説世界に確固として存在していると思います。

ただ、どうもこうした西欧合理主義的な織田信長像も、時代の要請において、どうあるべきなのか、ということまで考えなくてはいけないのではないか、とも思うのです。果たして、現代において、織田信長的な西欧合理主義の意味は何なのだろうか、と。1970年代から現在までの40年に何があったのか。その歴史的経緯を踏まえた評価を行わなくては、とも思います。冷戦の二極化から、現在の多極化の時代において、なにが言えるのか。

この後、そうした時代の視点に気づかせてくれた辻先生の文章をとりあげようと思っています。

今日は長くなりました。どうか、みなさまお身体に気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。

2+

安土往還記を読み始める

辻邦生「安土往還記」は、織田信長の戦いを描いた歴史小説です。

以前はいつ読んだのか、記憶がなかったのですが、このブログの記事を調べてみると、2006年に取り上げているようですので、12年前にはなにかしら読んだということと思います。

https://museum.projectmnh.com/2006/12/04225449.php

友人に勧めて喜ばれたりもしましたので、個人的には思い出深い小説でもあります。

今回12年ぶりに読んでみると、初期辻邦生の精密な表現に心打たれるのでした。いくばくか長い文章が連なる文体は、大寺院の甍の列のようにも思います。整然と輝き、それでいてその奥には神的なものが隠されているような。

読むのが何度目になるのか、分かりませんが、読み進めてみようと思います。新たな発見があるものではないか、とワクワクしています。

うちには、新潮文庫が二冊あります。左は1977年。右は1972年。アマゾンの画像とも違うものです。古い1972年のほうが痛みが少ないので、こちらを読むことにしました。定価は120円。古本での購入時は50円。中を開くと活字がとても小さく、いまだと活字を大きく印刷し、倍の太さになるでしょう。値段もきっと高くなるでしょう。本は高くなったなあ、と思います。

さて、やっと終わった今週。しばし休んでまた戦わないと。

それではみなさま、十月最後の週末をお楽しみください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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続「のちの思いに」──体験、記憶、想起──

昨日に引き続き辻邦生「のちの思いに」を。

「のちの思いに」、よく考えると最後まで通しで読んだのは初めてかもしれない、と思いました。

若い頃、辻先生はよく笑われていたとのこと。森有正が、80歳になったら笑わなくなるのでは、と評したそうです。で、現に最近笑うことが少なくなった、と辻先生が述懐されているのですが、このシーン、読むのがつらく思いました。晩年、事故に遭われたこともあり、身体が動かなくなっておられたそうで、やはり、この「のちの思いに」を書いておられた頃は、さまざまお辛い状況だったのだろうなあ、と思ったのでした。

後書きで、辻佐保子さんは、「お互いに覚えていることが奇妙に食い違う旅の光景をあれこれと語り合い、記憶と忘却が交錯するありさまを改めて不思議に思った」と書かれています。記憶はときに変質し、別のものに変わっていきます。まるで、金属が鋳造されなおすように(ジークフリートが、ノートゥングを鍛え直すように)、記憶は変わるのかもしれませんが、ほかの人とすりあわせをしない限り、記憶が変わっていることにすら気がつきません。おそらくは、記憶そのものが真実に変わっていくのでしょう。そうした記憶を元に、歴史が語られ、歴史書となり、それが真実になっていくこともあるのでしょうから、なにか記憶への畏れのようなものを感じずにはいられません。

おそらくは、人の数だけ記憶があり、人の数だけ歴史があるのだが、語られる歴史はそのなかの一つでしかない、といった感覚を最近は持っています。

長くなりましたが、今日はこのあたりで。おやすみなさい。グーテナハトです。

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のちの思いに──体験、記憶、想起──

昨日に続き、「のちの思いに」を読んでいます。辻佐保子さんの後書きには、「御世話になった方々へのお別れ」という趣旨のことが書いてありますが、辻先生が出会ったたくさんの人々との出会いが綴られています。

とくに、衝撃だったのは、辻先生のお母様が、避暑地の松原湖にみえたときの話。辻先生とお母様が二人で山登りを楽しみ、美しい池の畔で休んでいるとき「もう母はここに二度とくることはないのだ」という思いに達するのです。この達観、私には、人生の、あるいは記憶の悲しさ、とまずは思いました。それは非情であり容赦ないものではあるのですが、がゆえに、今、ここの大切さ、を認識すると言うことなのだと思います。

先日、「言葉が輝くとき」のなかから、「かりそめに過ぎて」というリルケの詩を取り上げました。かけがえのない体験というものは、おそらくは、記憶の中に生き続けるのだろう、と思います。

そういえば、2000年頃だったか、夜中に帰宅しているときに「あ、きっとこの瞬間をいつか忘れることになるだろう」と直観した瞬間を記憶しています。しかし、忘れることはなく、あの瞬間を今でも覚えています。それは、詩的ななかけがえのある瞬間というわけではありませんが、おそらくは一生涯あの微分点のような瞬間を覚えているはず。

いろいろ考えること数多……。

さしあたり、今日はここまでです。

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つれづれ──「のちの思いに」

東京地方は久々の快晴だったように思います。先週一週間は、なんだかずっと仕事場にこもって仕事をしていた、あるいは、外の風景を観る余裕もなくすごしたような気もします。

さすがにハードな一週間の後で、週末は、少しゆっくりさせてもらいましたが、今度は家の仕事が出来ませんので、難儀だなあ、と思います。

そんな中で、すこしばかり辻邦生「のちの思いに」を少しつまみ読みして、すこししんみりとした感じです。。最後のフィクションとなってしまったこの作品は、自伝的な風合いで、大学入学から、フランス留学、帰国後のことが描かれています。

と、かんがえたところで、先に書いた「しんみり」という言葉はあまりに軽すぎる、とも思いました。人生と記憶の素晴らしさと悲しさ、というところでしょうか。重いテーマです。

結局、つれづれを書くつもりが、辻先生のことを書いてしまいました。

明日からまた戦わないと。

それではみなさま、おやすみなさい。

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辻邦生 「言葉が輝くとき」よりリルケの詩「かりそめに過ぎて」

辻邦生はリルケに関係する著作がいくつかあります。一つは有名な「薔薇の沈黙」。美しい本です。

一方、先日、書棚にある講演録「言葉が輝くとき」を取り出していたところ、ここにもやはりリルケの素晴らしい詩について語られていました。

これは、1990年に不二聖心女子学院での講演「詩をよむ心」の講演録に含まれているものでした。リルケの「果樹園」という詩集に入っている「かりそめに過ぎて」という詩です。

かりそめに通り過ぎて

 

かりそめに通り過ぎて

十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ

それらの場所へ 遠方から なんと私は与えたいことか──

仕忘れていた身ぶりを つぐないの行いを!

 

もう一度──今度は独りで──あの旅を

静かにやり直したい

あの泉のところにもっと永くとどまっていたい

あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい……

 

つまらないと皆が言う

あの独りぼっちの礼拝堂まで登ってゆきたい

あの墓地の鉄柵の扉を押してはいり

あんなにも無言なあの墓地とともに無言でありたい

 

なぜなら 今や こまやかな敬虔な

ある接触を持つことが大切な時ではないか?──

ある人は この地上のものの強さによって強かった

ある人は 地上のものを知らないために愚痴をこぼす

辻邦生「言葉が輝くとき」27ページ

孫引きになってしまいますが、片山敏彦さんが訳されたものを辻邦生が引用し、若い女学生に説明をしています。さまざまな事物を見過ごすのではなく、かけがいのないものとして味わい直すと言うこと。それが、私たちをもう一度生きるという意味に立ち返らせてくれるのだ、ということ。こういったことを、辻邦生が静かに女学生たちに語っている姿が想像出来ます。

それにしても、この、今、ここ、を愛おしむ感興は、実に甘美であり、実に真剣であり、実に厳しいものです。

私は最初に読んだとき、「あの旅」と言う言葉に反応し、旅行という非日常において、なにか旅行で触れた事物への愛惜の念が描かれているように思ったのです。しかし、実のところ、人生こそが旅ですので、旅行というよりもむしろ日常において触れるさまざまなものへの愛惜なんだなあ、と思ったのです。

そのときどき、触れるものを大切にし愛しむというのはとても大切ですが、実際にはとても厳しいものです。すべてを愛おしむことは出来ませんので。ですが、たとえそうではあっても、やはりあの樹に触りたいし、あのベンチを愛撫したい。あの時、あの瞬間の思い出を死ぬまで大切にしたい。それでもやはり、すべてに触ることは出来ないし、失われた思い出もある、と言うことなんだなあ、と思います。

だからこそ、「敬虔」という言葉なんだ、と思いました。まるで、不可視である神を見るかのごとく、さまざまな事物すべては不可視であり、が故に、神的性格をも帯びて、敬虔な思いとともに、事物を見るということ、と思います。求めないと神は現れません。同じように、事物に接触=触れるという能動性において、この事物のかけがえのなさと、生きる意味が得られる、ということなんだと想いました。

今、この瞬間に全力を尽くすのが、生きると言うことです。私もそういう生き方をしてみたい、と想います。

思ったより長くなってしまいました。みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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全身的に生きる

ぼくは時どき思うことがある──ぼくらはもと大胆に、生きることを十全に引き受けて、ヒロイックに生きなければならないのではないか、と。

大胆に、ヒロイックに生きるとは、太陽や風や海や大地に直結して、<いま・ここ>を全身的に生きることだ。街を歩いているなら、街の中に全身的に入りこんでいる。食事をしているなら、食事の楽しさの中に全身的に入りこんでいる──ぼくはそういう生き方をヒロイックと呼びたいのだ。

「夏の光満ちて」186ページ

おそらくは14年ほど前に呼んだときに、鉛筆で印をつけていたところ、やはり今読んでも心に響くなあ、と思いました。

さまざまな試練や苦難と言うものが、生きると言うことにひもついています。現に、先日も仕事場で巧くいかないことがあるわけです。組織を代表して持っていた説明が炎上して、会議中に被弾したり。ただ、そういう経験すらも、なにか清々しく感じられるなあ、と。楽しくはありませんが、まあ、何かにその瞬間は入り込んでいることは確かです。

全身的に入り込む、というテーゼは、なにか勇気を与えてくれるようにも思います。全身的に入り込めば、まだまだ生きられるのではないか、言う感じです。人生は長く短い。この瞬間瞬間を全身で生きないと、と強く思いました。

さて、この週末台風が来るようです。被害がなければ良いのですが。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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9月24日は辻邦生の誕生日。そして「夏の光満ちて」を読む

9月24日は辻邦生の誕生日。1925年生まれですので、今年で生誕93年です。時が経つのは速く、さまざまなものが現実から記憶へ、そして歴史へと移り変わっていきます。おそらくは、後世においては辻邦生と同時期に生きてきたことをなにか愛おしく思うことがあるかもしれません。例えば、私の父が、少年向け伝記に登場するシュバイツァーのような偉人と同時期を生きていたことに憧憬を覚えるかのように。

最近、辻邦生「夏の光満ちて」を再読しています。と言っても、前に読んだのはおそらくは(記憶が正しければ)2004年頃と思います。14年前ですか。早いものです。

1980年に辻邦生はデカルト街に部屋を借りて、パリ大学で教鞭をとります。その一年間の日記が、文芸誌「海」に連載されていました。それが単行本となって刊行されているわけです。

とにかく、冒頭の東京からパリへ向かう高揚感とか、パリで部屋を借りて、調度品を整えるシーンとか、新車を買ってシャルトルまでドライブに行くシーンとか。読んでいるこちら側も、何かパリで過ごしている気分になります。

そのなかで、とても印象的だったのは、パリはローマを模倣している、というもの。ギリシア・ローマを模倣するがそこにフランスらしい優雅典雅がある、という一節。パンテオンのような事大主義的な建造物について言及している箇所における一節でした。

ナポレオンが皇帝になったのは、もちろん、西ローマ帝国の皇帝の継承なわけで、そういう観点でローマを模倣する、という解釈もあります。ですが、「背教者ユリアヌス」を読み、そこにあったローマの精神の普遍性のような議論を知っていたとすれば、それは、何か、建築だけではなく、精神のあり方にあるのだ、と思うわけです。

それは、辻邦生の一貫したギリシア・ローマへの尊敬や憧憬があるのだなあ、とも思います。それは、「背教者ユリアヌス」はもちろん、「春の戴冠」における新プラトン主義を思い出すものです。

この「パリはローマを模倣している」という一節で、パリを愛した辻邦生を貫くギリシア・ローマを体感した気がします。まるで、背中をなでるとき、その向こう側にある脊椎を感じる、といったような気分でした。

さて、最近あまり書けておりませんでした。一人の時間を少しずつ作り、いろいろと進めています。今後はもう少し書けるようにしたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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細川俊夫 ハープ協奏曲「回帰」─辻邦生の追憶に─

まずは、2001年、おそらくは東京都交響楽団の演奏会に行った際のパンフレット。もらったときにはすぐには気がつかなかったのですが、後から見返してみるとここに細川俊夫が辻邦生に捧げた「ハープ協奏曲「回帰」─辻邦生の追憶に─」についての記載がありました。もう17年前の資料です。折れたり汚れたりしているのはご容赦ください。

このハープ協奏曲、CDも発売されています。私の記憶では、2003年だったか、学習院大学で行われた辻佐保子さんの講演会の開始前にハープ協奏曲が会場に流れていたと思います。

先日このCDの話をとある場所でしたのですが、それ以来このCDを繰り返し聴いています。曲調としては現代音楽のトーンです。ハープがまるで和琴のように聞こえます。ライナーノートを読むと、嵯峨野明月記の最終部が引用されており、嵯峨野明月記や西行花伝といった日本を舞台にした作品にインスパイアされたものと考えました。決して明朗快活な音楽ではありません。しかし深みがあり、どこか悲しげで、それでいて達観を感じさせるものです。アルバムタイトルも《回帰》とあり、なにか永遠永劫の境地を感じさせます。ですが、私はまだそうした境地を知り得ていないはずもあります。

さて、今年の夏も名残惜しく過ぎていくような気がしてなりません。めまぐるしい現実の狂騒に疲れる毎日ですが、夏の午後に、太陽に灼かれる窓の風景を眺めながら、スピーカーから聞こえるハープとオーケストラの協奏を聴いていると、なにか現実こそが夢であるかのように思います。真の世界はあちら側にある。いや、「あちら」というべきではなく、「こちら」側か、などと感じています。

炎暑が続きますが、みなさまも、どうかお身体にきをつけてお過ごしください。

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