Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
新潮社

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今日も光悦の言葉から引用してみたいと思います。

荒々しく、獣じみて激しく生きることは出来なかった。私にはどんな形であれ、平行のとれた、静かな端正な生活が必要なのだ。それは諦念でもなく、逃避でもなく、むしろ本来の自分であろうとする決意といってよかった。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、286頁

私も、自分も今日をのがれる人の群れにまじって洛外へ歩いているが、この人々とは全く別個の世界に生き、そこに立っているのを感じた。(中略)自分がおそれてもおらず、失われるものにも全く無関心であるのを感じた。言ってみれば、私はこうした人々が一喜一憂する浮世の興亡や、栄耀財貨などを、加賀の夏、立葵が咲きほこるのを見て以来、自分に無縁のものとして切りはなしていたのだ。少なくとも私が書や能に打ちこんで生きることを心がけて以来、それらは日々刻々に私の外へと剥落していたと言っていい。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、326頁
「立葵が咲きほこるのを見て」というのは、加賀で志波左近と出会った光悦が、この世を一つの玻璃の手箱にたとえて、手箱の外に出てそれを静謐に眺める境地に達した時のことです(1月6日ブログ記事参照)その境地にあっては、浮世のこと、人間の栄枯盛衰や、経済の成り行き云々について徐々に無関心になっていくと言うわけです。それは、「本来の自分」になろうとする強い意志によって獲得された境地なのです。
こうした境地があることが分かっていて、この境地にすぐにでも達っしたいと思うのが常なる欲求なのです。この境地に達するための方策は、光悦とは違う方法で(ひいては辻邦生先生とは違う方法で)見つける必要があるということだと思います。それが「バランス感覚を保つ」ということだと思うのです(1月5日ブログ記事参照)。あきらめてはいけないと思いますが、本当に難しいことだと思います。