辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻 邦生 (2004/08) 新潮社 |
だが、おれは、ようやくこの世の背理に気づくようになった。(中略)この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)この世の背理に気づいたものは、その背理を受け容れるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。(中略)それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。
辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、413頁
絵師とは、ただ絵を乾坤の真ん中に据えて、黙々と、激情をそのあかりとして、絵の鉱道を掘り進む人間だ
辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、414頁
宗達の独白から二箇所引用してみました。
前者の「世の中は背理であるが、それを憎むのではなく、哄笑するのだ」というところ、ここに辻文学の秘密がかくされているのではないかと思うのでした。それは志波左近が「心意気」を拠所にして生きているのと似ています。人生を玻璃の手箱にたとえて、手箱の外に出て手箱を見遣る境地と同じなのです。不正、汚辱、矛盾、苦悩に満ちたこの世の中を憎悪したり、怨恨を抱いたり、性急な是正を求めるのではなく、あくまでその外に立って哄笑するのみという境地なのです。それは宗達の場合「黙々と絵の鉱道を掘り進む」ことによって求められるのであり、光悦の場合は書を書くことによって求められていたのでした。
これを読む我々はいかに生きるべきなのでしょうか?文学に人生訓を求めることは時に危険なことがあります。しかしながら、この文章を読んで自らの生き方に宗達の言葉を当てはめたいという誘惑を絶つわけには行かないと思います。
言葉で理念だけを述べるとすれば、世の中の背理、矛盾、悪弊を笑い飛ばし、自ら天命と思う仕事にただただ邁進するということだと思います。言葉で言うのはきわめて簡単ですが、これを実践に移すには果敢な決断力と勇気が必要とされそうです。
嵯峨野明月記も終わりに近づきました。次回は光悦の最後の独白を取り上げてみたいと思います。