Opera,Richard Strauss

iPod Classicは、メニュー操作でMusicを選ぶと、収録されているアルバムのジャケットをランダムに表示するのですが、昨日、フレミングさんがシュトラウスを歌う「シュトラウス・ヒロイン」のジャケットが表示されまして、これは聴かずにはいられない、と思いまして、何度か繰り返し聞いています。

このCDでは、「ばらの騎士」の第一幕最終部と第三幕の最終部を楽しむことができます。いずれのシーンもマルシャリン(元帥夫人)役が大活躍する場面。大活躍というと大立ち回りという感じがしますが、見せ所といったほうがいいでしょうか。あるいは、「ばらの騎士」の物語の大きな見せ場ともいえましょう。

私はばらの騎士の物語的頂点は三つあると思っています。一つ目は第一幕の最終部、二つ目は第二幕のばらの献呈の場面、三つ目は第三幕最終部の三重唱、です。このアルバムではそのうち二つの場面を聴くことができるというわけです。

第一幕の最終部では、時がたち齢を重ねていくことへの諦念と、いずれオクタヴィアンが自分の元を去っていくことに違いない、という予感が歌われます。自分の若い頃を「まるで去年の雪を探すようなもの」と喩えています。にくい喩え。この境地はやはり30歳を過ぎないと分からないかもしれません。設定上、マルシャリンも30過ぎということになっています。オクタヴィアンは、マルシャリンのそんな気持ちを全く理解できない。若いのですから当然です。若い頃はいい意味で無知ですので、そうした時間への諦念や死への心構えなどはできてない場合が多いですから。今のオクタヴィアンにはマルシャリン以外は見えていないわけです。

第三幕の最終部では、とうとう自分の元を去っていくオクタヴィアンを送り出すと場面。マルシャリンの歌詞を引用。

私が誓ったことは、彼を正しい仕方で愛することでした。彼(オクタヴィアン)が他の人を愛しても、その彼をさえ愛そうと。この世の中にはただ話を聞いているだけでは信じられないことがたくさんある。けれども実際にそれを体験した人は信ずることができるけれど、でもどうしてだかは分からない

カラヤン盤「ばらの騎士」のライナーより

そうそう、そうなのですよ。ここには、オクタヴィアンが去っていくことの諦念と、時間の流れへの諦観が重ねて歌われているわけです。オクタヴィアンと時間が重ねられている。 時の大切さを教える格言はいくつもありますが、若い頃にはその真の意味が分からないのですよ。わかり始めるのは自分が老いへの下り坂を歩いているらしいということが分かり始めてから。 人にも夜とは思いますが、きっと20台の後半からそれが分かり始める。時間の自由を奪われ、階段を上るたびに息が切れ始め、腹囲に脂肪がつき始める頃になってようやく……。私の場合なのですが……。

きっと今は若いオクタヴィアンもゾフィーもいずれはマルシャリンのように時間への諦念を覚えるに違いないという予感。今は若いからいいのですよ。だから二人には分からないのです。

マルシャリンは、時間への諦念に至り、若さの喪失を受け入れ、若さと訣別するわけですが、次は生への諦念と、老いへの準備と、死の了諾というステージがくるはず。時間への諦念とはそういうもの。だからこそ、シュトラウスは第三幕の最終部の三重唱を自らの葬儀で演奏してほしいと望んだのでしょう。

フレミングの声は本当に豊かな声。ビブラートの振幅が少し大きく感じることもありますが、苦手というところまでは行きません(以前にも書きましたが、ビブラートの振幅が大きすぎる女声がどうも苦手でして……)。指揮のエッシェンバッハの意向なのか、フレミングの意向なのかは分かりませんが、演奏はテンポがかなり抑えられています。フレミングの包容力のある豊かな声に包まれる感じ。いいですね。

第三幕最終部は本当に感動的な演奏。演奏者の力もありますが、やはりシュトラウスの音楽の作りと、ホフマンスタールとシュトラウスによって磨き上げられた最終幕に至るまでの物語の力の所産です。