Opera,Richard Wagner

起き上がって、窓の外を見ると銀世界。今年は雪の日が多い関東南部です。幸いなことに道路にはあまり積もっていませんでしたので、足を滑らすこともなく駅にたどり着きました。会社の窓からも雪国のような光景が広がっていて、ちょっとした感動。ところが、お昼を過ぎるともう雪は跡形もなく消え去っていました。一瞬だけ訪れた幻想世界。ですがすぐに現実に戻っていくわけですね。忘れないうちに、書いておかないと。
と言うわけで、新国立劇場のジークフリートを見て思ったことを書くシリーズは4回目です。2回ぐらいで終わるはずでしたが、まだ続きます。
ジークリンデを助け、ジークフリートを育て上げたミーメですが、ジークフリートには嫌われ、ミーメは嘆いています。こんなにも世話してやっているのに、何でお前はこうも俺を邪険に扱うのだ、と。ジークフリートはどうしてミーメの家に戻ってくるのかわからない、と言いますが、実は自分の父母のことを聞きだすために戻ってきているに過ぎないことに気づきます。ともかく、ジークフリートはミーメを忌み嫌い最後には殺害してしまう。育ての親であるにもかかわらず。
私は見ていて、ミーメが被害者のように思えてならない瞬間がありました。「表層的」に見ると、ミーメの常識はわれわれの常識に近いものがあります。恩を与えたのだから、感謝されえた当たり前だ、というような。せめて、育ての親に謝意ぐらいあらわしてもいいのではないか。そういう意味ではジークフリートはグレた中学生のようにも思えてきて、何が英雄だ、と、まあこういう感想を抱きます。さすらい人=ヴォータンは、ジークフリートのことを「自由に行動する天真爛漫な若者」、と言いますが、これはもう世間知らずの生意気な若者ととってもおかしくない。少なくとも今回の演出やキャストにおいてはそう感じるのです。
では、「表層」から「深層」へと進んでいくと、ミーメの野望は、ジークフリートにハフナーを退治させ、指輪や隠れ兜を手に入れ、世界を支配しようというものであることがわかります。結局、ジークフリートに手を焼きながらも、世話をするのはこの野望を達成するための手段であるに過ぎないわけです。下心がありながらも、世話を焼くミーメの姿は実に醜い。
ですが、こういった姿をどこかで見たことありませんか?
私は、あります。それは自分です。
会社でレトリックを使って泳ぎ回っていますが、まさにそれって、ミーメ的だなあ、と。これ以上書くと、あたりさわりがありますので書けませんけれど。しかし、財や権力を求めるために時に平身低頭し慇懃無礼で、時に恫喝して何かをコントロールしようとする範型的な社会人の姿はミーメに映し出されています。
無限大に善であるということは、生存を放棄することに等しく、そういった単純な性善説とか、原理主義に基づいて生きていくことは不可能であり、どこかで折り合いをつけ、内心ではなにか後ろ髪を引かれながらも、やむなく進まなければならない。そういうわれわれの姿を、蒸留し抽出したのがミーメであり、これこそ昔から変わらぬ人間の姿ではないか、と。
もちろん、すべてがすべてとは申せません。だからこそ、リングというファンタジックな物語にあっては、余りにリアルであるが故に、ミーメは死すべき運命にあるのだなあ、と考えた次第。ところが現実世界においては、ミーメでなければ生きていけないのです。