Japanese Literature,Literature,Tsuji Kunio

はじめに

辻邦生文学のこと。久々に。
読んでいないわけではありません。常に文庫本がカバンの中に忍ばせてあって、気が向いたときには読んでいます。
昔は、辻文学の甘美で雄々しいストーリーに惹かれていましたが、この数年は処世訓のようなものを見いだすことが多いです。本当にこの方の小説群は私にとって聖書と思えるぐらい大事だな、などと。

引用してみる

「ただ一回だけの<<生>>であることに目覚めた人だけが<<生>>について何かを語る権利を持つ。<<生>>がたとえどのように悲惨なものであろうとも、いや、かえってそのゆえに<<生>>を<<生>>にふさわしいものにすべく、彼らは、努めることが出来るに違いない」
これ、「ある告別」という作品の最終部に近いところ。今朝バスの中で読んで、少し引っかかったので。
作品の舞台は半世紀前のギリシアで、主人公が若い女性二人連れと知り合ったり、ギリシアの田舎で娘とであったり、パルテノン神殿で啓示を受けたりする、ストーリー性はあまりない作品です。これは、数ある短篇の中でも「城」や「見知らぬ町にて」と同系統のエッセイのような短篇小説です。

随想的短編群

辻作品を読み始めた大学生のころは、このストーリー性が希薄な短篇群がどうにも苦手でよく分かりませんでした。それよりも「背教者ユリアヌス」とか「安土往還記」のような歴史ドラマの方が面白くて仕方がありませんでしたので。
しかしながらこのストーリー性のない短篇群がいつごろからか、じわりじわりと私の中で水位を上げてきて、いつしかこういう作品にも深く感動するようになっていたようです。
この文庫にそうした短篇群が多く収められています。私がカバンに潜ませているのはこの文庫本です。
城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)

生の一回性

生の一回性って、よく出てくるテーマですが、今の私が本当に体得できているかは不明。というのも、わかったつもりのことが、本当は今まで分かっていなくて、最近になってようやく体得した、ということが多いから。歳をとったのでしょう。良い意味で。だから、きっとこの「生の一回性」も、もうしばらくすると、大きな扉がギギギとあいて、別の認識体となって迫ってくるんだろうなあ。
最近思うのは、大事なことは身の回りにこそたくさんあると言うこと。そういうことを大事にするのが一回限りの人生を巧く過ごすためのこつではないかなあ、などなど。
今日は少々残業。久々にシャカタクを聴いて、その後「愛の妙薬」を聴いて。夜になるとずいぶん涼しいですが、迫り来る夏が怖い。冬将軍は居るけれど、夏将軍っていうのは聴いたことがない。

NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

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本日も演出のこと。あまりに楽しく興味深いことがあります。もう一度観に行きたいぐらいなのですが、さすがに時間が。。。残念すぎる。

最高! 池のシーン

第一幕ではピクニック場だったところは、第二幕になると、池に早変わりしていました。その池の周りで、デスピーナ、フィオルディリージ、ドラベッラが話をしているんですが、脈絡なく、フィオルディリージ、ドラベッラが池の中に入るのです。池は浅くて、膝下ぐらいの深さ。池は本当に水が張ってあって、水音が聞こえるぐらいです。で、そこにパンクロッカー調のグリエルモとフェルランドがやってきて、そこで、いきなり服を脱ぎ始める。マジですか! 
ほとんどストリップ状態で、劇場内からもクスクスという笑い声が聞こえます。で水泳パンツ状態な二人は池の中に入って、フィオルディリージとドラベッラに色目を使いながら、水を掛け合って、ついには池の中に身を横たえて寝そべったりする。あそこはほんとに面白かった。すごく意味のあるシーンで、無理して目を引こうという男二人の一生懸命さがよく分かります。

賭は成立するのか?

最近日本ではやっている八百長ですが、欧州人は八百長はしないのでしょうか。グリエルモもフェルランドも、何故に、アルフォンソの言うがままになっているんでしょうか。八百長すれば賭には勝てるはずなのに。
先日のオペラトークでも、アルフォンソの掌の上で若者達が動いているに過ぎないのだ、という話がミキエレット氏自身から語られました
そこで気がついたのはアルフォンソの奇妙な仕草。
今回の演出では、若者四人をアルフォンソがコントロールしているかのようなそぶりを見せます。私が気づいたのは二カ所でした。最後の結婚式の場面で、若者達四人をアルフォンソが座らせようとするところ。肩に手を置いているように見えましたが、よく見ると、手は肩に触れておらず、まるで魔術のように四人操って、を座らせようとしていました。グリエルモはだけはなかなか言うことを聴かない感じでしたけれど。
アルフォンソの魔術のようなものに操られているから、八百長をせずに、グリエルモもフェルランドも諾々と演技をしつづけたということなのかな、と。
ここは私ももう少し考えてみないと。

ふくろう

第二幕、夜になると、キャンピングカーの上にフクロウがとまっていましたね。あれはかわいい。何か意味があるはずなんだけれど、分からない。。。おそらくは文化史的な意味合いがあるはず。ミネルヴァのフクロウ? フクロウは知識の源泉であったり、理性や哲学を象徴するものでもあった、ということか? オリジナルの「コジ・ファン・トゥッテ」の最後は唐突な理性賛美に終わるということもあるから? などなど。

サッカー

やっぱり、ヨーロッパを理解するためにはサッカーが大切なのでしょう。キャンピングカー前のテーブルに置かれていたポータブルテレビに映っていたのはサッカーの試合でした。私もサッカーの勉強をするのが今年の目標。がんばります。

音楽面

音楽面のことなのか不明ですが、公演中日だった6月5日は、他の人比べて今ひとつな部分があったようです。確かに、ピッチの狂いや、オケと間合いが巧く取れていなかったり、という部分は少し感じました。
それから、あまりに演出が楽しくて、音楽まで気が回らない瞬間が何カ所かあったかもしれません。。。だから、語るのが難しいのかもしれません。
ともかく女声陣3人が素晴らしい。まずは、ダニエラ・ピーニのドラベッラ。リッチな低音域に支えられた太く豊かな声で、芯もしっかりとした安心の歌声でした。第一幕の独唱はすごかったです。この方のオクタヴィアンを聴いてみたいです。おそらくはレパートリ違いと思いますけれど。
あとは、フィオルディリージのマリア・ルイジア。ボルシも良かったです。前半、ピッチが乱れる場面があったものの、第二幕の聴かせどころでは外すことなく聴かせてくれました。この方のヴィオレッタはすごそうです。
デスピーナのタリア・オールも良かったですよ。私はこういう役どころを歌われる方が大好きです。
ちょっと意外だったのは、最後に公証人に変装した場面で声色を変えなかったところ。あそこは、面白いことをやってくれるんじゃないか、と期待していたのですが、普通に歌っておられました。

最後に

というわけで、楽しかったコジ・ファン・トゥッテについてはここまで。本当に素晴らしい公演でしたし、それに関連したオペラトークと、舞台美術講演会などがあって、この一ヶ月間はコジ・ファン・トゥッテを十全に楽しめました。新国の企画に本当に感謝します。ありがとうございます!
あとは、他の方々の感想も気になります。これから探してみようと思います。
次は、今週末にせまった「蝶々夫人」の予習をしないと。

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新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その1
新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その2
新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その3
【短信】「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術に行ってきました!
新国立劇場のリハーサル室に潜入!── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その1──
登壇された方々── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その2──
もう一度、コジの演出と舞台について── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その3──
コジの制作の舞台裏── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その4──
大道具小道具そしてQA── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その5──
「コジ・ファン・トゥッテ」のチケットはこちらから。11日が最終日です → チケットぴあ
舞台写真 は “こちら":http://www.nntt.jac.go.jp/opera/20000154_frecord.html

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先日舞台美術の観点でしたが、解釈面も書いてみないと。

最初の読み替え─グラビアを見る二人

まずは最初からして面白かったです。フィオルディリージとドラベッラが、お互いの恋人の写真を見て嘆息するシーンは、雑誌のグラビアをみてイケメンモデルの品定めをしているシーンに置き換えられています。この読み替え、二人のその後の成り行きへの複線ということになりましょうか。最初から変化球を投げられて、ワクワクしました。

徴兵のシーン

あとは、戦争へ行く部分の演出も素晴らしいです。。先日も少し書きましたが、ヨーロッパの場合、兵役がありますので、日本人よりも軍隊との間合いは違うのではないかと思っています。かなり古い話になりますが、辻邦生の作品の中に「洪水の終わり」という話があります。その中で、大学の夏期セミナーに参加したフランス人の学生が、アルジェリア戦争に徴兵されるシーンがあって、そのことを思い出したり。あとは、以前スイスに行ったとき、軍用列車を観たときのことも。普通の駅に兵士が乗った列車が停車していたんですが、あのときは現代日本では絶対に観られない風景だっただけに、驚いたのを覚えています。
脱線しますが、自衛隊員は、町中を制服で歩くようなことをあまりしないようです。わざわざスーツに着替えるのだそうです。ただ、一度だけ、町中で海上自衛隊の一等海佐を観たことがあります。ただし、それは呉港の客船待合室でしたけれど。
話がそれました。
徴兵されるシーン、一般的な演出では船に乗って出発なのでしょうが、キャンプ場ではそう言うわけには行きませんので、ジープが登場しました。兵士が迎えに来るという設定です。合図がクラクションなのはしっくり来ました。

グリエルモとフェルランドの変装はなぜばれないのか?

あとは、アルバニア異国情緒のある服装は、ヘヴィーメタルかパンクロッカーの服装に替わっていました。髭を生やして、鋲がたくさん打たれた革ジャンを着て、ピアスをしているという感じ。すごく面白いです。
ただ、そもそもの台本からしてそうなんですが、女性が、自分の彼氏の変装を見破れないということがあるんでしょうかね。私はその点については大きな疑いを持っています。さすがに声質やら、顔の骨格でばれるのではないかと。ばれないと思っているのは男だけかもしれません。というのも、私の奥さんは、顔認識能力が極めて高く(?)、先日もその能力に驚いたのですよ。まあ、女性には先天的にそうした能力が備わっているのではないか、と。でも、そこをやめちゃうと物語が成り立たない。難しいところです。

補遺:私の奥さんの顔認識能力の高さについて

先日、私の奥さんと歩いていたときのこと。とある場所で、えらく背の高い美人な女性とすれ違ったのです。すれ違ったあとに、奥さんは「あれ、佐藤しのぶさんじゃない?!」と言うのです。私は慌てて引き返して再度確認してきました。確かにあの深い声は佐藤しのぶさんに間違いない。そしてあの背の高さも。さすがに顔をじろじろ見るのははばかられましたので、ちゃんとお顔を観ることは出来ませんでしたが。ともあれ、私なら絶対に気がつきません。私はそんな経験を幾度となくしております。渋谷で大物カップルを目撃したり、新国で意外な有名人カップルを目撃したり。いずれも私は全く気がつかず、奥さんが教えてくれたものです。
ワクワクしっぱなしの今回の演出についてはもう少し続けようと思います。明日は池のことを書こうと思います。

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「コジ・ファン・トゥッテ」のチケットはこちらから。明日はマチネでコジ・ファン・トゥッテ。 → チケットぴあ
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NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

はじめに

いやはや、もう、本当に楽しい3時間半でした。新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」。一緒に行ったカミさんも喜んでいたようです。

コジのストーリーはオリジナルなものからみると、少しく無理があったり、なんだか都合が良すぎて、どうもなあ、と思うこともありましたが、今日の演出での読み替えを見ると、リアルにありそうな話しに思えます。少し軽薄とも言える若者文化の中にあっては、こういうこともあるんじゃないかなあ、と思います。

キャンプ場!

ミキエレットの演出とファンティン美術によって初台に現れたキャンプ場のセットは、周りに首都高やオペラシティがあることをしばし忘れさせ、若い日の何かしらのキャンプやら臨海学校なんかの記憶を思い出させてくれました。

特に第二幕のキャンプファイヤーの場面。曲調がまさにキャンプファイヤー的で、幼き日のことを思い出しました。ああいう場面は、確かに若者にとってはドキドキ感がありますね。あの感覚が良く伝わって来ました。

徴兵される部分も、ヨーロッパならあり得るなあ、と思いました。海軍のフリゲート艦の模型を使うあたり、「オランダ人」の演出みたいでしたが面白かったですし。あの模型、第二幕では、アルフォンソのレセプションの奥の本棚に飾ってありました。

神は細部に宿る

本当に細部まで緻密に練り込まれた舞台美術で、草の生え方とか、階段の隙間から草が生えていたりとか、もう至る所に仕掛けがたくさんで、目がくらむようでした。神は細部に宿る、ってこういうことを言うんでしょうね。

先日も書いたように、コカコーラの缶や、毒薬の設定の食器洗剤、生ビールベンダー、バーベキューセットなど、小道具のほとんどはイタリアから調達したようです。

あとは、テレビではサッカーが放送されてましたね。ポラロイドカメラ、今日は写真が出てこなかったようで、事務所の中から写真を持って来たりしていました。あの写真、結婚証明になっているのです。

やはり、こだわりを持って、細かいところまでしっかりとやるのが芸術的仕事です。割り切りを強いられる現実の仕事とは大違い。私もそういう仕事をしてみたい。

音楽面は明日書きます。

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NNTT:新国立劇場,Opera

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引き続き、5月28日(土)に、東京初台の新国立劇場地下2階リハーサル室Bで催された「「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術~イタリアの工房から~」の模様を。今日で終わります。

後半の講演

後半は、大きな液晶画面に写真を表示させて実際の様子が分かる感じでした。やはり写真を見るとイメージが湧いてよく理解できました。写真が載せられないのが残念です。

小道具のこと

今回の演出はイタリアのキャンピング場ですが、小道具はイタリアから持って来ているようです。ケロッグ、食器洗剤、コカコーラなどはイタリアで売られているものを使っているようです。これは白石さんが調達したとのこと。それだけではなく、ジェラート屋のショーウィンドに埋め込まれた冷凍容器なんかも本物を使っているそうです。
小道具というのか分かりませんが、今回の舞台にはジープが登場するようです。車を舞台に上げるときには、エンジンなどを取り除いてから上げるのだそうです。そうしないと舞台上で動かすのが難しいから。中古車を買って中身をくりぬいて使うのですね。まあ冷静に考えれば当然なんですが、舞台はお金がかかります。
それから、面白かったのは、バーベキューセットのこと。舞台に登場する際には、ある程度使い込まれた状況にしなければならないと言うことで、実際に新品のバーベキューセットで肉を焼いて、使い込まれた感じを出したそうです。バーベキューをしている写真がスライドに出てきて「これは仕事中の写真です」と説明されると、みんな受けていました。

舞台の運び出し

できあがった舞台は日本へ船便を使って送られます。今回の場合、コンテナ7本半を使って日本に送り出したのだそうです。高さのあるセットなどは、組み立て式にして分解して荷詰めをするそう。だから、立木のセットなどは、幹を分割し、組み立て式にするそうです。

そのほか

コジの舞台美術の話だけではなく、モデナ歌劇場の様子も写真とともに紹介されました。たとえば、昔の名残で舞台裏まで通じる通路は馬車が入れるようになっているとか、舞台上で火災が起こった時に供えて、柄が非常に長い鎌が舞台裏に供えてあって、火災が出たら舞台の幕を切り落として天井への延焼を防ぐのに使うのだ、など、興味深い話がたくさんありました。

Q&A

最後にパオロ・ファンティン氏へのQ&Aがありました。

演出のアイディアは誰が出すのか?

時と場合による。演出家のこともあれば舞台美術家のこともあります。

演出に映像を使うことことについてどう思うか?

すべてのものは、意味あるものでなければならないコストカットのために使うのではだめだ。映像が必然的なものでなければ使うべきではない。

(白石さんの補足)

イタリアでも舞台画家が少なくなってきているそうです。舞台背景を描くときに使う下書き用の木炭も売られなくなり、柳の枝で自作していらっしゃるそうです。また、映像だけではなく、プリントアウトに変わってきてしまっていて、ますます厳しい状況だそうです。

舞台上の音と音楽の関係。水音は邪魔にならないか?

美術に魂がこもっていなければならない。美しいだけではなく意図がなければならないのです。水を使うのには必然性がある時だけ。もちろん指揮者の了解は取っています。歌手も最初は驚きますが、演技演出の意図に合えば、歌手の表現を助けてくれるものになるのです。

終わりに

長々と書き連ねました。全内容をかけたわけではありません。最近仕事が忙しく、平日は家で何も出来なくなってしまいました。推敲するまもなく、電車の中で書き続けて、その都度アップしていました。今後表現は見直すかもしれません。
ネヴィオ・カヴィーナ氏のことも書かなければなりません。当日の主役のお一人である白石さんの旦那様でいらっしゃるネヴィオさんは、物静かな方です。コジのプロダクションに直接参加してはいらっしゃらないですが、白石さんをご家庭にあって支えられたのだそうです。あとは、もう一人の主役であるパオロ・ファンティン氏は、5月28日のお昼頃に日本へ到着したとのことで、時間通りいらっしゃるか分からなかったのだそうです。ファンティン氏が遅れた際には、白石さんとネヴィオさんのトークに差し替えられる予定だったそうです。なるほど。。内助の功です。
あ、それから、面白かったこと。
リハーサル室の前に、小さな子供、4歳ぐらい? がお母さんと一緒に座っていたのです。子供は絵本を読んで屈託がない様子。なんでこんな子がいるんだろう? と思っていたんですが、子供は着物を着ていました。ああ、この子は蝶々夫人の息子役なんだなあ、と得心しました。

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引き続き、5月28日(土)に、東京初台の新国立劇場地下2階リハーサル室Bで催された「「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術~イタリアの工房から~」の模様を。長くなってしまいました。。
後半は舞台美術コーディネータの白石さんによる今回のプロダクションの舞台裏のお話でした。

見積もり依頼と取材

最初に。パオロ・ファンティン氏から白石さんに見積もり依頼が昨年の冬にあったのだそうです。そこで、舞台を作る上での材料と技法を考えるのだそうです。そのためには取材研究が必要になります。舞台の標高、どこの国の設定なのか、季節はいつか、など。それから資料写真もたくさん撮ったり入手したりするそうです。木々の樹皮の感じ、コケの月具合、池の水の色、などなど。そこまで取材するのですか、という驚き。

舞台の作成

舞台の作成はモデナで行われたそうです。リナルド・リナルディ社という会社にフリーランスの舞台美術家の方々が結集して作成を始めたのだとか。
今回のコジの舞台は、凹凸のある舞台ですが、そうした起伏は発泡スチロールで作られるそうです。とはいえ、重量を抑えたり、輸送を考慮するなかで、木枠で型を作ったしながら、作るのだそうです。
実際の写真などを見せていただきながら説明していただき本当に興味深かったです。
今回の舞台は、新国立劇場の回り舞台を一回り大きくしたものなのだそうです。新国の回り舞台の大きさでは足らないというパオロ・ファンティン氏の意見があり、予算の関係などで色々調整が大変だったのだそうですが、なんとか大きくできたとのこと。現実と理想の闘いはどの世界にもあります。
もう少し続きます。

NNTT:新国立劇場,Opera

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昨日に続いて、5月28日(土)に、東京初台の新国立劇場地下2階リハーサル室Bで催された「「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術~イタリアの工房から~」の模様を。今日は前半一時間にお話された舞台美術担当のパオロ・ファンティン氏によるお話を。

コジの演出意図について

今回のコジの演出意図としては、舞台上に身近で分かりやすい人間ドラマを作りたい、というコンセプトなのだそうです。これは、演出のダミアーノ・ミキエレットとパオロ・ファンティンが話をしたときに出てきたコンセプトだそうです。
先日も、オペラトークの紹介の際にも書きましたが、四人の若者が夏のバカンスをキャンピング上で過ごすという設定です。
舞台装置は映画の設定に似た回り舞台です。これは、舞台が回ることで、映画のカメラワークのような効果を狙っているのだそうです。歌手は、回り舞台に乗って歌っているのですが、舞台が回ると、視界から去っていくわけです。これが、カメラワークに擬されている、ということと思われます(まだ実際に観たわけではありませんが)。会場の入り口には、舞台装置の模型が置いてありました。写真は撮れませんでしたけれど。
回り舞台にはたくさんのシーンが設えられています。ピクニック場、バール(バーのこと)、ジープ、キャンプ場のレセプションなどです。場面は台本設定に対応づけられていて、たとえば、フィオルディリージどドラベッラの寝室はキャンピングカーになっていたりするようです。

オペラ演出の二つの要素

さて、ファンティン氏によれば、オペラ演出では、二つの考慮点があるとのこと。一つは場所をどうするか、もう一つは人物設定をどうするか、です。
今回の場所はキャンピング場です。自然の中とはいえ、リゾートホテルではありません。より自然環境との距離が近いということです。これは、人間の持っている「自然な部分」を引き出すための設定で、「自然な部分」とは、本能的であったり、動物的であったりするわけです。
登場人物の設定ですが、フィオルディリージ、ドラベッラ、グリエルモ、フェルランドは、都会からやってきた自然に不慣れな四人の若者に置き換えられています。また、狂言回し的な存在であるアルフォンソは過去に恋愛に失敗し傷を負ったキャンピング場のオーナーという設定で、デスピーナはキャンピング場のバールの女給仕という設定です。

今回の演出におけるストーリー

第一幕では、冗談のつもりでアルフォンソのかけにのった男性陣二人ですが、徐々に本気になってきて、嫉妬を抱くようになります。嫉妬こそ人間の本能的な部分のなかでもネガティブで強いもの。
第二幕では日が暮れて夜になるのですが、昼間は明るく楽しげだったキャンピング場も、夜になると真っ暗になり、恐ろしさや不安感を抱くよう環境に様変わりしてしまいます。そこで、ますます嫉妬という本能が助長されて言うという構造になるのだそうです。(このあたりは、まだ観ていないので何とも言えませんけれど)
結局は、冗談のつもりだった賭事の結果、恋人を裏切るという過ちを犯してしまうわけですが、これはもう元に戻せない、ぬぐい去れない過ちです。そういう後味のわるさがあるフィナーレになるようですが、詳しくはあえて不明のままに……。

おわり

ともかく一夏で大人になった四人の若者ということになりそうです。このあたりは今週末を楽しみにしたいと思います。
明日は、舞台美術コーディネータの白石さんのお話。これは本当に興味深いものでしたよ。