辻邦生が、嬉々として書いている文章を見つけました。先日から読んでいる辻邦生全集第18巻のなかに収められた 「幻想の鏡 現実の鏡」というエッセイです。ボルヘスが1979年に訪れた時の随筆です。冒頭、カフカ、トルストイ、シェークスピアとの架空会見を深夜に行っていることが明かされ、それは「黄金の時刻の滴り」の原型を表すものであり、その後のボルヘスとの会見のプロセスは、なにか、架空会見なのか現実の会見なのか、その協会が曖昧であるかのように語られていて、ああ、辻先生、言葉で実にのびのびと「遊んで」おられるなあ、と思ったのです。
架空会見では、カフカやシェークスピアに実際に台詞を語らせるあたりは、エッセイと言うよりは前述の通り「黄金の時刻の滴り」を彷彿とさせる実在の友人の名前(中村真一郎氏、清水徹氏、筒井康隆氏といった面々)の名前を取上げて見たりするのは、辻邦生の文章を数多く読んだ身に取っては、書くことが嬉しくて嬉しくてしょうがないという感じが伸びやかに伝わってきて、読んでいるこちらもなにかワクワクと楽しさを覚えるものでした。
この文章、当然大昔に読んだ記憶もあり、確かに「永遠の書架に立ちて」の収められていました。しかし、おそらくはこの文章を読んだのは、20年以上も昔のはずで、そのときにはこうした「遊び」の感覚はあまり感じなかったなあ、と思います。
さらには、やはり重要な記載があって、以下のようなボルヘスの言葉の引用は、実に本質的なものです。
たとえば「文学は言葉よりも、言葉の背後に人々が感じるものにあると思うのです」「人間が誠実に夢を見、自分の信ずること、歴史的現実としてではなく、現実性のある夢として信ずることを書けば、立派に書くことができると思います」「重要なのは、言葉ではなく、読者が言葉を通じて感じること、いやしばしば、書かれている言葉にもかかわらず感じることです」
こうしたボルヘスの発言は、現代の構造主義的な言語感にわずらわされている読者に、ある健康な、自然な感受性の目ざめを誘わずにはいまい。詩人・小説家が言語の魔術師であることは当然であるけれども、それが一級の作品に達するには、ボルヘスの言うように「情熱」が必要なのだ。「情熱なしには文学作品を書くことはできない」とも「純然たる言葉の遊びに堕する」とも言っているのである。
『幻想の鏡 現実の鏡』「辻邦生全集第18巻」 新潮社、2005年、347頁
歴史的現実ではなく、現実性のある夢、ということ。歴史的現実とは、科学の対象であり、認識の対象である、時間空間の形式のなかに存在する科学的とされる現実ですが、文学が書くものは、現実そのものではなく、現実性のある=リアリティのある夢=イマージュである、ということ。経験や体験をそのまま書くものではなく、文学的必然性、それはすなわちボルヘスの言を借りるとすれば「情熱」とともにあるものを、リアリティをもって書くことで、読者がイマージュを感じること。そういうことなんだと思います。
最近「フォニイ論争」のことをよく考え、いろいろ調べていますが、歴史的現実の有無をもってその真贋がとわれ、その結果として贋物である、つまり歴史的現実でないとするものが贋物でありがゆえにフォニイ=にせもの、まがいもの、という形で、捉えられたのが「フォニイ論争」だったように思います。ただ、この「フォニイ」という言葉も、対談のなかで、放談に近い形で語られ、それが論争になってしまったと思います。
このあたりはまた別途検討なのですが、少なくとも文学的な「情熱」がなければ「言葉遊び」になってしまい、これこそが正にフォニイなのであって、などなど、考えが拡がっていきます。
このところ辻邦生の文章を読む機会が増えていて、それは小説よりもこうした随筆のほうが一層身にしみます。小説の舞台裏をなにか感じたいという気分が強くなっています。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。