「黄金の時刻の滴り」を開きました。中条省平さんが、辻邦生の文学表現の白眉として取りあげていた文章を読みたくなったからでした。それにしても単行本は美しい装丁で、タイトルの文字は光が反射して虹色に光ります。
それは、「花々の流れる河」というヴァージニア・ウルフをモティーフにした小説の一節で、花屋の温室に花がその匂いとともに咲き乱れている感覚が絢爛に描かれている部分でした。たしかにその部分は凄いのですが、読み進むに連れて、それ以上に衝撃を受ける部分に行き当たり、どうにも涙が止まらず、以来なにか悲しみに打ちひしがれている気がします。
まず以下の部分。
「本当ね。この夏、私は、あなたと一緒に何度か至福を味わったわ。それは、無意味な人生のなかに懸る虹なのね。すぐ消えるとしても、とにかく美しいことは事実だわ」
「奥さま、私は、虹は消えないと思います」
「消えない?」
「ええ、消えません。それは美しい至福の時として心に生きつづけます」
「無意味のなかに沈み込まないで?」
「沈み込むことはないと思います。この夏奥様と味わったあの歓喜は、いまも胸のなかに生きつづけると思います。どんなに無意味な人生がつづいても、この嬉しさは壊せません。たぶん嬉しさのほうが地球より大きい球になって、地球を包み込むのだと思います。地球が滅びても、喜びの大きな球は滅びないんです」
歓喜が、無意味とされる人生の中にあっても、消えずに残る。それは地球を包み込むものだ、という感覚。これは、実によく分かる感覚で、かつてからどうやら幸福感というものを息継ぎのようにして生きていた感覚もあり、その瞬間瞬間の幸福感があることが重要である、と考えたこともあり、そうだとすると、この「消えない虹」があること自体を頼りに生きている感覚はリアリティのあるものです。
あるいは、この嬉しさが地球を包み込むという感覚も、なにか地球を象徴とする世界全体を、嬉しさという感覚に満たされたと言うものであり、それもあながち間違っていないと信じたいイメージなのだろう、と思います。
さらにこちら。
「ええ、死の淵に引きずりこまれるとき、仕方なく諦めて、中途半端な気持でいるのはいやね。私は、死を前に置き、生きることを完成させて、きっぱり決心して、満足して、そこに飛び込んでゆきたいわ」
「だが、死は不意にくるぜ」
「だから、いつも用意していたいのよ。そのときそのときで死に不意を衝かれないように」
そうでした。あの方は現実という変転する時間の流れのなかで確かなもの、不動のものを求めていました。それが時の変転を超えて現われることは、私たちは、ともにコーンウォールの海岸の朝に深く経験していたのです。あの方はこの不変の美の喜びのなかに生き、それを作品に描こうと努めていたのでした。そしてそれが作品のなかでしか確実にできないことはあの方の悲劇といってよかったかもしれません。生きることは、変転する流れに身を委せることであり、なかなかそれを超えて不変の実在に達することができなかったのです。もし流動する現実の時を、不変堅固な実在とするには、人は、一瞬一瞬死ぬほかないのです。つまり一瞬一瞬、現実を不変の実在へ──喜びに満されたそれ自体で完成した時へ、変容する以外に方法はありません。
思い出すのはル・コントの「髪結いの亭主」で、幸福とされる状況で命を絶つ主人公が画かれていて、あの感覚を大学時代にありながらよく分かっていた記憶があり、「先にアイディアをとられた」と、悔しかったのを憶えています。
結局、いかに死ぬかということが重大で、一瞬一瞬を死に、一瞬一瞬において生きるということを求められて折り、生きることは厳然とした義務と権利であり、我々が全うする必要があり、また世界から負ったものであることは間違いのないことで、その中で「嬉しさの虹」を見いだし、息継ぎをするように生きるということに他ならないわけですね。業のように辛いことではありますが。
今日の東京地方は曇り。さえない一日でしたが、来週は晴れるようですね。佳き日々になることを願いつつ。
おやすみなさい。グーテナハトです。