Tsuji Kunio

今日は少し早めに上がりました。あえて少し物事を緩めた一日でした。

で、こちら。「國文學」昭和49年1月号の辻邦生特集。おそらくは1999年頃に買った記憶があり。

冒頭に辻邦生と菅野昭正さんの対談がありまして、この対談が実に生々しい緊張感に満たされています。お二人は友人同士と言うこともあり、菅野さんのおそらくは友情からくる暖かい批評がずいぶんと手厳しく、あるいはなにか辻文学が日本文学においておかれていた立場が垣間見えるのです。実際に対談がなされたのは1973年9月29日。「フォニイ論争」の口火が切られる1973年12月18日、19日に東京新聞・中日新聞に掲載された座談会「文学・73年を顧みる」よりも前ですが、なにかヒントがあるのではと思いながらこの対談を読んでいたわけです。

今日は多くを書きませんが、いくつか。

まずは、辻邦生が『廻廊にて』の執筆について、「旧来の自然主義リアリズムの方法に偏向しそうになって、それをさっき言った方法意識でささえささえ、やっと書上げた」(19頁)とあり、また『夏の砦』についても「日本の家庭内部が出てくるものだから、これも自然主義的な見方では捉えられないいわば純粋物質だけでつくるように苦労した(19頁)などとあります。この旧来の自然主義リアリズムというのが、現実をそのまま書こうとしてしまうということを指しているのではないか、と感じました。やはり、イマージュと呼ばれる、現実ではないリアリティを書くと言うことに苦労していたのだなあ、ということが分ります。

あくまでぼくの意識のなかでは、対象化の拒否、のり超えが意図されている。対照的な把握──ある事物を認識とか実践とかのレベルでつかむ、そういうかたちでのつかみ方ではなくて、それは自然主義文学に通じるわけだからそういうものでなくて、それを超えてたえずそれこそイマージュとして、つまりイデーを表現する具体的存在として使うという見方を自分の肉体に定着することが意図されていた。

「國文學」昭和49年1月号 學燈社、1974年、29頁

辻邦生が口を酸っぱくして言う、

実際にぼくたちが小説を書く場合、自分の経験、自分の知っていることについて書いたりしますが、初心者が書くと、それがつまらなくなってしまう理由のひとつは、見たもの、聞いたものが日常性にとらわれていて、普通のものでしかないからです。イマージュになっていないということが、非常に大きな要素としてあるんですね。

「言葉の箱」 中公文庫、2004年、29頁

ということだと思います。

この、現実をイマージュimageとして捉えるということ。これが実に大きなポイントであると感じており、理解の突破口になるのではないか、と想定しています。

今日はこのあたりで。おやすみなさい。グーテナハトです。