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人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
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相変わらずベルクを聴く頻度を増やしています。日曜日から今日にかけては、メッツマッハーの「ヴォツェック」を聞いています。何度も聴かないと難しいです。
マリーの子守歌のところは、アバド盤よりテンポを落ちていて、耽美的で惑溺的で情感的。 アバド盤がどんなに冷静な演奏だったのかが分かります。 少々ハーモニーが乱れるところがあるけれど、そうそう気にはなりません。
しかしマーラーの影響が大きいですね。マーラー的すなわち悪魔の舞踏にも思えるレントラー。あるいは「ばらの騎士」のオックス・ワルツのフレーズさえも聞こえてくるような気もしますね。カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」のような男声合唱が入りますし。ベルクの音楽が過去や未来とどれだけつながっているのか、という感じです。
それにしても、マリー役のソプラノのアンゲラ・デノケAngela Denokeさんが強力。アバド盤のベーレンスさんに迫る勢い。サロメもレパートリーのようですが、意外にも「ばらの騎士」のマルシャリンも歌っておられる。1997年のザルツブルク音楽祭では、アバドの指揮でもヴォツェックのマリーを歌っていらっしゃるようです。
週末は穴を開けました。こんなに穴を開けたのは久しぶり。少々疲れているらしく、いつも書いている時間に睡眠を入れざるを得なかったりして、ついつい、というところ。今日から復活予定です。
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会話とは難しいものですね。なかなか言うことが伝わらない。それが日本語であろうと英語であろうとも。 というのも、今日(土曜日)は人と話をすることが多かったからです。
「英語」といったのは、意を決して英会話に通うことにしたので。近所に数年前に英会話教室ができたのですが、ようやくと重い腰を上げて、という感じ。もっと早く行っておけばよかった。
今日からスタートだったのですが、まあ、簡単な完了形の練習で「このアドヴェンチャーやったことある?」みたいな感じで、ダイヴィングや、サーフィンといったスポーツをお互いにたずねあっていく。
イギリス人の講師の彼が
「サーフィンやったことある?」
とたずねて来たので、
「ないよ」
と答えてみる。そうしたら、
「やってみたい?」
とたずねられたので、
「いいや、やりたくない.」
と答えてみる。
「なんで?」
というものだから、
「いやあ、サーファーの方々と話す自信ないので……」
みたいな感じで答えると、講師は大笑いをして
「僕もそうだよ、キャラがちがうんだよねえ」
ってかんじで、二人で大盛り上がり。
彼は、歴史が好きで、ノルマン・コクェストに興味があって小学時代にフランスのノルマンディ地方に行ったことがあるらしい。ロシアに行って警官にパスポートを取り上げられて、賄賂を要求されたりとか。 結構気が合うかんじでめずらしく予定時間オーバー。でも、残念なことに来週でその講師は転勤してしまうのだそうです。残念至極。
近々会社でTOEICのテストがあるらしいので、がんばります。英語のヒアリングをしているもので、クラシック聴く時間が少し減ってしまうのが痛いのですが。
週末はバッハやブルックナーも聴きました。土曜日の6時からのNHK-FMで、ブランデンブルク協奏曲第6番を18世紀カメラータの演奏を聴いたのですが、こちらは清浄で無垢なバッハ。涼やかで心が休まりました。ブルックナーは、第8交響曲をブロムシュテットの指揮で。それから某ピアニストの演奏で、バッハのピアノ(チェンバロ)協奏曲を聴いたのですが、こちらは少々とっつきにくかったです。
サン・ピエトロ大聖堂のクーポラ(丸天井)の上に登ってみようということで、聖堂右側の通路から上り口へ。エレベータで途中まで行くか、エレベータを使わないで歩き登るか思案したのだが、ここでユーロをケチってしまったのだ。健康づくりにもいいだろうということで、歩いて登ることに。まあ、最初のほうは問題なし。エレベータシャフトにしつらえられた階段を回り昇っていく。エレベータは屋上まで。ここからはエレベータで登った観光客も足で登ることになる。クーポラの外壁と内壁の間をうねる狭い階段で天井に向けて登り始めるのだが、やはりさすがに疲れる。閉所恐怖症のきらいには、たまらない場所だと思うし、強迫観念が強いきらいには、いつ崩れ落ちるか分からないという恐怖。
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無事にクーポラの頂上にでると、晴れ渡るローマの空と、輝く市街地。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレからみたフィレンツェ市街とはまったく規模が違う。さすがに世界の都、ローマだ、というところ。ヴァチカン市国の庭園は世間離れした、都会の中の息抜きの一隅という感じ。セミが鳴いているのが聞こえる。トレンタリアの引込み線がヴァチカン市国内に入っていて、鉄道駅が設けられている。世界最小の国でありながらきちんと駅を持っている。かつては教皇専用列車などが、欧州へむけて発着して行ったのだろうな、などと想像を膨らませてみる。庭園の奥には似つかわしくない鉄塔が建っているが、どうやらヴァチカンのラジオ局の模様。どんなに小さくても独立国なのだ。
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それにしても、天気がよく、気温がぐんぐん上がっている。無理してクーポラに登ったのはちょっと厳しかったのかもしれない。このあたりから疲れが出始める。 クーポラから地上に降り立って、ガイドブックのお勧めのレストランに向かうのだが、12時から開店ということで、入り口には椅子が二脚おかれていて店内に入れない。あと10分で12時だというのに……。仕方がなく、サンタンジェロ城の方へ歩いていく。
強い日差しと石畳の照り返し。サングラスをかける白人が多い。Guardia di Finanza)とかかれた銀色の車。これは財務警察。イタリアの警察組織は面白いのである。
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12時を過ぎて、件の店へ。ボンゴレを頼んだのだが、これがめっぽううまい。というか、これよりうまいボンゴレを食べたことがない! 日本人にしてみれば味付けは少しきついし、オリーブ油も多目なのだが、それが逆に新鮮に思える。なによりパスタの茹で具合が絶妙。昔、レストランによく行っていたころ、都内某所のイタリアンでも絶妙のパスタ茹でに感動したことがあったけれど、それ以上。観光客相手のレストランだとは思えないうまさ。
パスタを食べて、1リットルの炭酸水を飲み干して、元気を出して再出発。今度はヴァチカン美術館へ向かうのだ。
昨日書いた記事、公開してませんでした。せっかく書いたのに……。
仕事はかなりマズイ状態。明日も朝からシビアなミーティング。来月に稼働を控えたプロジェクトだというのに、メンバーの引き上げが発生。しかも、キーパーソンだったりするので痛いのですが。これはちょっと頭使って凌いでいかないとまずいなあ、という予感。まあ、うまくいくのでしょうけれど。
さて、先日タワレコで入手したシノポリがシュターツカペレ・ドレスデンを振ったベルクのCD。「抒情組曲からの三章」と、「ヴォツェク断章」、そして「ルル組曲」のカップリング。シノポリがどんなベルクを聴かせてくれるか、楽しみでしたが、私の大好きなアバド盤と比べると、意外にも遅いテンポでじっくりと料理しております。遅いテンポでの演奏は、複雑な曲になればなるほど、楽曲を拡大して見ることができるわけで、シノポリの演奏はまさにそれにあたっています。アバド盤を聞き慣れている身にとっては、ここはもう少し早くしてほしいなあ、と思うところもあるのですが、それはもう少し聞き込むことで解決していくことでしょう。
不思議なのは、ルル組曲の三曲目「Lied der Lulu」の歌詞。Alesanndra Marcが歌っているのですが、ブーレーズ盤、アバド盤、シェーファーのDVD盤と少々歌の旋律が違うのです。版の違いがある訳ではないと思うのですが。これは継続調査。
録音場所ですが、ルカ教会ではなく、シュターツオーパ・ドレスデンです。残響音はあまりないですね。ルカ教会だともうひと味違う録音になったでしょうね。
しかし、ドレスデン、恋しいなあ。シュターツオーパ・ドレスデンの写真を載せますね。また行きたいなあ、ドレスデン。
送信者 DRESDEN REISE 2006 |
iPodが故障しました。バックライトをつけると画面に線が入るように。しかもその線は増殖している……。原因は分かっているのですが、悔しいので書けません。ただいえることは、修理代金が高いこと。お小遣いが吹っ飛びました。というより、お小遣いがこの一年間赤字のままなんですけれど……。もうCDは買えません。
ところが、昨日はふらりと新宿のタワレコに行ってしまったのですよ。そこで、シノポリがDSKを振ったルル組曲のCDがあって、即買いしてしまいました。そうしたら、なんと10月10日から19日まで、新宿店の全CD15%引きになるパスカードをもらってしまった。10月13日はトゥーランドットを観に行きますので、タワレコにふらりとよってしまいそう。株価が下がる可能性より高い確率。ごめんなさい→財務大臣。
ともかく、いま新宿のタワレコで買い物をするとパスカードがもらえるようですよ。お近くの方はおすすめです。私は、お小遣いが赤字のみであるにもかかわらず、何を買おうかと画策中です。たぶんショスタコーヴィチのオペラか、ベルクの作品になるか、というところだと思います。
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さて、昨日の刺激的なオペラ・トークで面白いことを黒田恭一さんがおっしゃっていました。リコルディ社からでているトゥーランドットのヴォーカルスコアなのですが、トゥーランドット役の歌詞はイタリア語とドイツ語が並列して書かれているのだそうです。理由は、トゥーランドット役はドイツ系の女性歌手が歌うことが多いから、ということです。インゲ・ボルクやビルギット・ニルソンが実際にトゥーランドットを歌っていたそうですし。なるほど。確かに冷たくも気高いトゥーランドット姫には、ブリュンヒルデ歌いが適任かもしれません。
ちなみに、オペラトークでは、実際にリュウのアリアとカラフのアリアをピアノ伴奏で聴くことができました。
第1幕より
第3幕より
リュー:浜田理恵 カラフ:水口 聡
浜田さんは、10月のトゥーランドットの実演でもリュウを歌われます。さすがにうまい。水口さんの「誰も寝てはならぬ」、力強くてすばらしかったですよ。
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新国立劇場2008年/2009年シーズンの冒頭を飾るのが、プッチー二のオペラ「トゥーランドット」です。今日は、指揮者のアントネッロ・アッレマンディ氏と、演出のヘニング・ブロックハウス氏、そして音楽評論家の黒田恭一さんの司会で催された「オペラトーク」に行って参りました。
会場は新国立劇場中劇場。お客さんは半分ぐらいでしょうか。 結論から申し上げますと、実に濃密な90分で、これで1000円の入場料だなんて信じられないぐらい。私にとっては、「オペラトーク」に出てから聴く「トゥーランドット」は、以前の「トゥーランドット」ではなくなっています。
黒田恭一さんといえば、小さい頃からNHK-FMで親しんできた音楽評論家でいらっしゃいますが、もう七十歳のお歳だそうで、時の流れを感じます。まずは最初にお一人で壇に上がられて、イタリア・オペラにおけるプッチーニの位置、あるいはプッチーニにおけるトゥーランドットの位置についての概論が示されます。
ヴェルディの「アイーダ」、「オテロ」で頂点を見たイタリアオペラですが、「アイーダ」後、「オテロ」後のイタリアオペラ作家にとって新しいこととは何かという問いに、ヴェリズモという流れがあり、レオンカバッロ「道化師」やマスカーニ「カバレリア・ルスティカーナ」が生まれるわけです。プッチーニもヴェリズモの文脈において「ボエーム」を作り、プリママドンナオペラを導入することで「トスカ」を完成させます。
それでも飽きたらず、次は「異国情緒」の導入をすすめ「蝶々夫人」を完成させ、「西部の娘」へと続きます。 そして、「トゥーランドット」で目指したものは、19世紀末から20世紀にわたる新しい音楽です。プッチーニが、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」の詳細を研究していたのはもちろんのことですが、それ以外にもマーラー、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、ラヴェルなどの影響などが「トゥーランドット」において現れている、と指揮者のアッレマンディは述べていました。
「トゥーランドット」は、イタリアオペラが最後に咲かせた大輪の花です。国破れ流浪の王子となったカラフが、氷の冷たさをもつ美しいトゥーランドット姫の三つの謎に答えて、晴れてトゥーランドット姫と結ばれるというお伽噺的オペラ。ですが。そんなに事情は簡単ではありません。問題はいろいろあります。
「トゥーランドット」の問題のうち最大のものが、未完のオペラであったということ。プッチーニは「トゥーランドット」を完結させることができませんでした。うかつにも、私は、喉頭癌が悪化して、手術に失敗して死亡したがゆえ、と信じていました。 ところが、演出のヘニング・ブロックハウス氏はの指摘は、実際のところプッチーニは死の「二年前」(注:おそらくは1923年の夏にはリュウの場面にたどり着いており、死去するのは1924年11月であるから、ブロックハウス氏は二年とおっしゃったけれど、実際には一年半ぐらいは時間的猶予があったのではないか、と思われる)に、問題の「リュウの死」の場面を書いて、そこから先に進むことができなかったのです。プッチーニはスケッチに「ここから先は『トリスタンとイゾルデ』になる」といって絶筆しているというのです。ヘニング・ブロックハウス氏は、つまりは、トゥーランドットとカラフの「和解」にはもう一つオペラが必要である、という示唆ではないか、と述べておられました。
指揮者のアッレマンディは、プッチーニの「トゥーランドット」においては、他の作曲家、たとえばモーツァルトと比較して、実生活とその作品には断絶がないのだ、ということを指摘します。モーツァルトは貧窮や病気に悩まされながらも、明るい曲調の音楽を書くことができました。しかしながら、「トゥーランドット」においては、プッチーニの置かれた状況を色濃く反映しているのだ、というのです。
リュウのモデルとなったのはドリアという小間使いで、プッチーニ家にきたときには十六歳でした。確かにプッチーニはドリアを気に入っていたことや、後にプッチーニの妻エルヴィラからの執拗な追求に苦しみ自殺したというエピソードは有名です。そして、私が知っている限り、ドリアとプッチーニの間には肉体関係はなかったとされていて、それはドリアの司法解剖によって明らかにされたのだ、というエピソードだったはずです(※1)。 しかし、ヘニング・ブロックハウスは、実は司法解剖にあたった医師は、プッチーニの友人なのであるから、プッチーニの意を汲んで真実を明らかにしなかったのではないか、と言うのです。真実は謎のままですが、プッチーニとドリアの間になにもなかったはずがない、とヘニング・ブロックハウス氏は示唆していました。
※1:それが不思議なことに、このエピソードをどこで読んだのか分からないのです。家にあるプッチーニの伝記数冊を当たったのですが発見できません。
リュウの最後の場面で、合唱は「眠っておくれ! 忘れておくれ! リュウよ! 詩のような娘よ!(dormi ! Oblia! Liu! Poesia !)」と歌います。リュウを「詩」と呼ばせているのです。そしてその詩は永遠の眠りにつく。つまり、プッチーニの詩的感興はここで潰えたのです。もうこれ以上書くことはできなかった。妻のエルヴィラを象徴するトゥーランドット姫(※2)と、自らの象徴であるカラフの和解(※3)を描くことはできなかったのです。ですから、フランコ・アルファーノやルリアーノ・ベリオの補遺盤が不完全であるのは仕方がないのです。
※2:トゥーランドット姫の冷たい高貴さは妻のエルヴィラの象徴ではないか、という解釈も示されました。
※3:ただ、現実世界では、プッチーニとエルヴィラは和解するのですが、時はすでに遅く、プッチーニは病に倒れるわけで
す。
ほかにも興味深い話しがたくさん。ヘニング・ブロックハウスの演出プランも種明かし的に披露されました。詳しく書くのは道義上問題がありますので詳しくは触れませんが、どうやら劇中劇を導入した入れ子構造のプランのようです。10月の公演がすごく楽しみです。
うーむ、切ない。ジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」を読了。アメリカに渡ったインド人夫婦の物語から始まり、その息子ゴーゴリを焦点に物語は進む。いわばゴーゴリのビルドゥングスロマン的物語。家族との別れ、女性との出会いと別れが、淡々とした筆致で描かれていく。 ゴーゴリと世代が同じぐらいと言うこともあって、感情移入してしまう。もちろんゴーゴリのほうが優秀なんですが。
少々ネタバレですので色を変えます.
私がこの物語でもっとも印象的だと思ったのは、描き込まれた幾重もの出会いと別れ。それは女性であったり肉親であったり。人と人とはいつかは必ず別れるものだけれど、それはいつ訪れるのか分からないということ。特に父親の死のシーンはツンとくる。ある種の畏怖を持って接していた父親が突然いなくなる。いや、いなくなるだけならいいのだが、父親の遺体と対面し、父親が単身赴任していた部屋で生活の跡に接するのはあまりにもつらすぎます。
この作品は、三人称一元描写なのですが、描写の主体が章によって変わっていくのがおもしろい。最初は母親のアシモの視点からはじまるのですが、そのうちにゴーゴリの視点が主なものとなり、ゴーゴリの妻モシュミの視点となったり。読者はそうした視点の飛躍をも楽しむことができます。 それから、プロットにおける因果律のうち、結論に当たる部分を語りすぎないところも気に入りました。結論は読者の想像にゆだねられるか、後日談としてさらりと触れられるだけであることが多い。結論まであまり書き込むべきではない、というのはよく言われることだけれど、結論の端折り(はしょり)かたがうまいのです。
しかし、読み終わってなぜか落ち込みました。ほかの理由もあるのですが、感情移入しすぎかもしれませんね。落ち込んだ理由としては、この本だけではなくほかの要因もあるのですが……。
日曜日の夜(月曜日未明)にNHK-BS2で放映されている「クラシック・ロイヤルシート」。10月のラインナップは充実。
すばらしすぎる。
ちなみに、9月22日は、新国立劇場の「ドン・カルロ」、です。
こういう時のために受信料を払っているわけですので、しっかりと元を取らないと。
ベルクの「三つの管弦楽曲作品6」は1915年に作曲されます。ベルク30歳頃。初演は1923年に第一曲、第二曲が初演されます。指揮はウェーベルン。全曲演奏は1930年です。ベルク45歳の時です。マーラーの影響が聞き取れるのはもちろんですが、シェーンベルクの「五つの管弦楽曲」の影響も受けています。
聴いていますと、マーラー風のレントラーやマーチが聞こえてきますし、極めつけはマーラーの交響曲6番のようにハンマーが使われているということもあり、やはりベルクはマーラーの後継者の一人なのだなあ、ということが分かります。
曲は「1.前奏曲(56小節)」、「2.輪舞(121小節)」、「3.行進曲(174小節)」の三曲からなる無調的音楽。シェーンベルクに献呈されています。本来は1914年9月13日のシェーンベルクの誕生日に完成して献呈するつもりだったようですが、第二曲目が間に合いませんでした。
カラヤン盤とアバド盤を聴いていますが、構築美や力強さを見せるのはカラヤンであるのに対して、アバド盤は繊細美麗ながら聴くものの不安をかき立てるような情緒性にあふれています。好みとしてはアバド盤かなあ。カラヤン盤は、弦楽器が本当にきれい。カラヤン=ベルリンフィルの音だなあ、と思います。
楽譜が読めるといろいろと楽しそうですが、ベルクの譜面はあまり見かけないですし、アマゾンにもなさそう。あるところにはあるのですが、高くて手が出ない。没後73年ですので著作権はきれていると思うのですが(日本ですと50年、EUやアメリカは70年)。そろそろ安く出してほしいですね。
アバド盤はAnvil Films Studioでの録音。以前にも書きましたがこのスタジオの音は結構よいですね。リヴァーヴ感が少々長めでほどよく、しかも丸く柔らかい。アバドの演奏に言いしれぬ不安さを感じる要因はこのリヴァーヴ感にある、と言っても良いと思います。カラヤン盤の録音場所はベルリン・フィルハーモニーです。こちらは聞き慣れた音です。
それにしても、仕事帰りの電車の中で聴くベルクは最高! どうしてこんなに心が落ち着くんでしょうかね。まあ今日は金曜日ですので、解放感もありますけれど。
仕事あ相変わらずテンパッていて、参っています。最近は朝早く会社に行くことにしています。午前中の方が捗りますので。そのかわり、夕方になると急に効率が落ちますねえ。最近はトラブル続きですので、今週末は近所の神社にお参りしようと思っています。っつうか、気合い入れて頭使って仕事しようと思います。