辻先生が亡くなってから15年という長い月日が経ってしまいました。このところ、辻作品を読み返しています。ちょうど「春の戴冠」をKindleで読んでいるところです。また、先だってゆかりの方とメールでお話する機会をありがたくいただきました。そのような中で、あらためて振り返りをしているところです。
辻先生が亡くなったは、1999年7月29日になります。まだ、同時多発テロもITバブルも起きていないころにあたります。
当時新聞の切り抜きが残っていました。朝日新聞ではあの天声人語が辻先生を悼んだものとなっています。告別式は7月31日でしたので、1999年8月1日に掲載されたものだと思います。これは辻作品はもちろん辻先生が出版社や編集者に愛されていた証左ではないか、と当時思いました。
今日はアルコールなしで過ごせました。いつまで続けられるか。。
それではグーテナハトです。
辻邦生没後15年によせて その1
高橋大輔「12月25日の怪物: 謎に満ちた「サンタクロース」の実像を追いかけて」
草思社
売り上げランキング: 267,715
先週紹介した高橋大輔さんの著作から。「サンタクロース」の起源を探求する旅です。
いや、これも本当に面白かったですよ。
もともと聖ニクラウスという小アジアの司教がサンタクロースの起源とされています。
聖ニクラウスが、なにゆえ赤いコートをきてトナカイにのるようになったのか。
あるいは、なぜ、サンタクロース村がフィンランドにあるのか。
そして、なぜ日本でサンタクロースがここまで受容されているのか。
そうした疑問を、高橋大輔さんは、トルコ、イタリア、オランダ、アメリカ、スイス、フィンランド、そして秋田へ赴き謎を解決していきます。
元々は、聖ニクラウスが、お金に困って娘を身売りしようとしていた隣人の家に、夜中に忍び込んでお金をおいてきた、という故事がサンタクロースがプレゼントを持ってくる、というモチーフに変化したのではないか、ということです。
その後、正ニクラウスの遺骨がイタリアに持ち込まれ、それがきっかけとなって欧州に信仰が広まりました。アメリカへは、移民が持ち込み、それをコカ・コーラが利用して現在のサンタクロースの起源となったようです。
言葉で書くのは簡単ですが、これも現地で様々な苦労や、人々との出会いの中で見出された説です。実際に読んでみるとその辺りのスリルがよくわかります。
それでは、なぜフィンランドにサンタクロースが住んでいるのか。あるいは、なぜ日本に受容されたのか。
この辺りもまた面白く、意外なあんな民俗習慣がサンタクロースと結びついているということが明らかになるあたりは、実に面白いです。がゆえに「怪物」なんですね。
やはり、現場に赴かなければ分からないことがたくさんあるということがよくわかります。ネット時代である程度の情報はわかるのでしょうが、それだけではわからないこともたくさんあります。現地でその場の空気を吸い、匂いを感じるということが大事なのでしょう。
昨夜は久々にノンアルコールで過ごしました。数カ月ぶりかも。今日もノンアルコールでがんばります。
ではグーテナハト。
高橋大輔「浦島太郎はどこへ行ったのか」
自宅のVTRやらカセットテープを処分しておりますが、なかなか興味深い映像や音源がたんまり発見されました。マイケル・ブレッカーが2000年に来日した時の映像や、2003年の小澤征爾のヴァルトビューネー・ガーシュイン・ナイトなど。失われた遺物を掘り当てた気分で、探究心が芽生えてきます。
先日みたこの映像。この方も世界を股にかけて探求をしておられる方です。前半に登場する高橋大輔さん。探検家の方。
この方、ロビンソン・クルーソーの実在のモデルが住んだ住居跡を無人島で探し当てたりしたそうです。
皆さんご存知の浦島太郎の物語を史的な裏付けを探しながら、その物語の成立の背景を探求する物語がこの本です。ノンフィクションですが、ほとんど物語的面白さでページをめくるスピードがどんどん早くなります。
まだ半分ぐらいですが、丹後半島、中国山東省、大阪、香川、尾道、鹿児島、沖縄、石垣島、とどんどんスケールが広がっていきます。
つくり話と思っていた神話や昔話が実話をベースにしているというのは、シュリーマンが有名ですし、高橋克彦さんもSFではありますが、神話を大胆に解釈しておられたりしました。高橋大輔さんのアプローチは、現地に足を運ぶフィールドワークですが、やはり現地に行かなければわからないことがあるようで、書物やウェブでは得られない気付きを沢山得ておられました。山東省で竜宮城のありかを見つけるくだりは圧巻でした。
やはり、書を持って街に出よ、あるいは書を持って野山や海へ出かけよ、ということなんでしょうね。
さて、私も高橋大輔さんご使用のルカンというバックパックが欲しかったのですが、カミさんに止められました。これじゃあ、大きすぎて使えないよ、とのこと。
でこちらのターンというバックパックにしたんですが、荷物が入らず往生しています。やっぱりルカンにするんだった。。
ではグーテナハトです。
Kindleで読む辻邦生 その1
今日もKindleで以下の二冊を読みました。本当に便利です。Kindleといっても、iPhoneのKindleアプリです。本当はKindle Paperwhiteを使いたいのですが、会社に持ち込めないので。
売り上げランキング: 9,412
この本は、辻邦生の小説の作り方が平易に書いてある本です。小説をかかない人間にとっても、物事を感動するにはどうしたらいいのか、ということがよくわかる本だと思います。
辻邦生は、夕暮れの美しい日にはマンションの屋上にあがって夕暮れを眺めていたようですが、マンションの住人からは変人扱いをされていたそうです。そういう日々の生活の中で感じる美しさというものを味わうことができるかどうか、というのが大事で、辻邦生の小説はそういう生きる上で大事なことを教えてくれる本なのだと思います。
売り上げランキング: 41,333
昨日紹介した「「たえず書く人と暮らして」辻邦生と暮らして」でも、辻邦生の小説の制作風景をかいま見ることができます。あんなに美しい小説群の裏側には、血のにじむような努力と、天才のひらめきが隠されているということを改めてかじることができます。
二冊ともKindleで購入可能です。スマホをお持ちの方はKindleアプリでもご覧になれますよ。是非。
その2はしばらく先かもしれませんが、多分書きます。
ではグーテナハト。
辻佐保子「たえず書く人」辻邦生と暮らして

近所の畑を夕暮れ時に撮りました。おそらくはじゃがいもの花。ボケ味がいまいちかも。どうも望遠レンズが故障しているらしく、いまいち巧く取れていません。この後どうしよう。修理すると高いし。
売り上げランキング: 38,690
Kindleで辻邦生の奥様である辻佐保子のエッセイを買いました。このエッセイは、辻邦生全集の月報をまとめたものです。辻作品の解題としては、傍らにいた方ですので幾つもの種明かしが詰まっていて、とても興味深いのです。あのシーンは本当にあったことなのか、といった驚きのようなものを感じるとともに、小説家辻邦生の創造力と想像力がいかにすさまじいものであるか、ということをよく理解できます。
究極的な美をめざ創造が、いかにして最終的な魂の救済をもたらすかという重い倫理的な課題、エステティカとエティカの相克に、辻邦生はたえず挑戦し続ける。
91ページ
学生の頃、現在東大名誉教授でいらっしゃるY先生の授業に出たことが会って、その時に新カント学派の真善美について話をしたら「いま、そんな真善美なんてのを信じているの!!」と驚き笑われた記憶があります。
「美が世界を支える」という辻邦生のテーゼは、真善美という古代ギリシアからの価値を、体得したものなのだと思います。それが、このエステティカ=美学とエティカ=倫理学の問題なのでしょう。エステティカが失われ、エティカが失われたら、その次に来るのはアレテイア=真実が失われるということでしょうか。
意外にも、「ある晩年」や「小説への序章」で描かれるギリシア賛美は、その後姿を変えていくようです。その辺りの変遷についての示唆が書かれていたのもこの本を読んだ収穫でした。(といっても二回目のはずですが、前回は気づかなかったのです)
やはり、辻邦生は私にとって大切な方です。今日も読んでいてボロボロ落涙しました。年をとったということもあるんでしょうけれど、素直に賛成できるから落涙するだろうなあ、と思います。
ではグーテナハトです。
スティーブン・キング「書くことについて」
小学館 (2013-07-05)
売り上げランキング: 3,913
最近、ペーパレスと自動化を進めようとしています。それはこの方の影響です。ジェイミー・ルービンというアメリカの作家の方です。
http://www.lifehacker.jp/2014/03/140312how_i_work.html
この方が、キングの本を読んでいるというので、私も少し読んでみることにしたのです。
まだ全部読めていませんがなかなか興味深いです。ともかく、余計な表現を削れ、とか、そういう教訓は、私も常に感じていることですので、共感したり。
まあ、私の場合はブログを書いて、書評を書いて、という生活なので、ストーリーテリングの観点はあまり必要ありませんけれど。
キングの本はかつて何冊か読んだことがあって、まったくぶっ飛んだかたなんだろうなあ、と思っていましたが、やはりそうでした。でも、これぐらいぶっ飛んだ人はいなくもないわけで、やはり努力を続けたからなんだろうなあ、とも思います。
なんだか紙の本を読むのは久しぶりです。なんちゃって。
結構お勧めです。あ、少し刺激は強いです。
ではグーテナハト。
戦国も今も変わらない──吉川英治「黒田官兵衛」
吉川英治「黒田如水」読みました。黒田如水は黒田官兵衛のことです。今年の大河ドラマですので、いきおい盛り上がりました。
Kindleは無料ですので、みなさまもよろしければ是非。
吉川英治を読むのは高校以来かもしれません。講談調ともいえる古風な歴史小説の趣が息づいていて、なんとも懐かしく、そして「感動」しました。
白眉は、織田信長が自分の過ちに気づくシーンでしょうか。
黒田官兵衛が信長に謀叛した荒木村重に囚われる場面。
信長は、黒田官兵衛が荒木村重に加担したと誤解し、人質にとっていた官兵衛の息子松千代を手打ちにするよう命じるわけです。松千代を預かっていたのが竹中半兵衛ですが、もとより松千代を手打ちにするつもりなどなく、偽首を信長に届けてお茶を濁すわけです。
結局、荒木村重は敗北し、官兵衛は加担どころか、一年にも渡って監禁されており、満身創痍で信長に面会するわけです。信長は、残忍な処罰を下しますが、そうした処罰は常に正しい判断に基づいていたという自負がありました。ですが、今回は官兵衛が寝返ったものと早合点してしまったわけです。
信長が、官兵衛に松千代を手打ちにしたことを知らせるところで、竹中半兵衛と若武者が登場します。この若武者が松千代。のちの黒田長政。竹中半兵衛は、信長に、自分は主君の命に背き、松千代を手打ちにしていなかったと告白し、ここで腹を切る、というわけです。
それを聞いた官兵衛は、松千代に、親同然の竹中半兵衛が、お前のために命を落とすのだから、お前もここで武士らしく腹を切れ、と命じます。
ここに至り、信長は、半兵衛を許し、自らの過ちを認めることになります。
という、この小説のクライマックス。ここで、いくばくかの感動を覚えてしまいました。感動をしたのは、信長が後悔する、という部分についてなのですが。
やはり、日本人はこういう忠君物語が大好きです。
高校生の頃には、純然たる歴史小説としか読めないのですが、会社組織を知った身にとっては、完全なまでな組織のメタファーになっています。
日本人は昔から変わらなかったのか、吉川英治が当時の日本人を歴史に投影したからか、吉川英治をはじめとした歴史小説のパースペクティブが日本人を形成したからなのか。
少なくとも、ここに描かれるのは、現代日本組織におけるごくごく普通の人間模様でした。ここに描かれているような忠君模様が、いまの日本を支えているのかもしれません。
ちなみにこの小説が発表されたのは1943年1月から8月です。太平洋戦争真っ只中で、例えば1943年4月には山本五十六が戦死するなど、敗色が濃くなる時期にあたります。
随所に見られる、天下統一の大業のためなら我が子の命など仕方が無い、という台詞は、もちろん執筆当時の状況を反映しているでしょう。この小説を読んだ「父親」は何人もいたはずです。
いろいろと考えることの多い一冊でした。
ではグーテナハト(?)です。
寝ながら学べる構造主義
いまさら感あり、なかなか恥ずかしさもありますが、以下の本を読んでみました。寝ながらは学べないので、電車の中でKindleで読んでいました。
売り上げランキング: 1,483
構造主義の先駆としてのマルクス、フロイトを取り上げ、その後構造主義四銃士として、フーコー、レヴィ・ストロース、ロラン・バルト、ラカンを取り上げた入門書です。入門書ならではの深みと面白さというものがあり、今回読んでとても楽しかったです。
現在の相対主義的価値観が、どのように生じたのか、ということがよく理解できます。
私は、構造主義とは兎にも角にも主体が失われ、普遍的妥当性と客観的必然性が形式以外のところで失われる過程と捉えました。それは、まさに現代のあり方を捉えています。あるいは、構造主義が現代を作ることに加担した、ということなのだと考えました。
そういう文脈でとらえると、ロシアのクリミアへの勢力伸長や、中国の南シナ海や東シナ海での勢力拡大といった、力による現状変更も、国際秩序というある種の相対的価値観に囚われることなく、別の論理で説明のできるものだ、と思いました。
また、齢を重ねてから再びこういった哲学関連書を読むというのは実に興味深いものが有りました。特にラカンのオイディプスコンプレクスのあたりは、世の中を渡り歩くためには極めて重要な実践的概念だと思います。
ちなみに、同僚に構造主義を知っている人はあまりおらず、さすがに一般には知られていない概念なのだなあ、ということを再確認しました。こういう乖離も、舞台と客席の乖離につながるものだと思い、難しさを感じることがよく有ります。
今日の音楽はこちら。ディーリアスのフロリダ組曲。なにか落ち着く一曲。
ではグーテナハト。
続 舞台と客席の断絶は広く深いのか。
新潮社
売り上げランキング: 29,692
先日の件、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の93ページから記載されていました。
レコードマニアを小澤征爾が批判をしているシーンでした。
高価なオーディオ装置とレコードを沢山持っている人はだいたいにおいて忙しい人達だから、家にいる暇なんてなくて、音楽を少ししか聴いていない。お金のある人は忙しいのだから。
小澤征爾はそうしたレコード、CD、商品に対する嫌悪感を持っていて、都内の大型レコード店で、しばらく忘れていたそうした嫌な気持ちが甦ってきてしまった、というのです。
その嫌悪感が具体的にどういうものなのかは語られていません。
一方、村上春樹の音楽の聴き方はマニア的な聴き方ではない、と小澤征爾は述べます。村上春樹の音楽の聴き方がとても深い、というわけです。そうした中で、音楽に対する、小澤征爾の見方と村上春樹の見方が違うことがわかり、そうした違いが小澤征爾にとっては面白く新鮮だったようです。
最後に、村上春樹との対話をマニアのためにはやりたくなく、本当に音楽の好きな人たちにとって、読んでいて面白いというものにしたい、と小澤征爾が述べて、このシーンが終わります。
このシーンのあと、村上春樹が長い注釈を書いています。このシーンの重要性ゆえだと思います。
村上春樹の音楽の聴き方というのは、いろいろなレコードを買って、あるいはコンサートに熱心に通って、同じ演奏を違う演奏家で聴き比べる、相対化するということに喜びを見出し、自分にとっての音楽をひとつひとつ時間をかけて形づくってきた、というものだそうです。おそらくはこうした聴き方に小澤征爾は興味をもったのだと思います。
その後、やはり痛切ともいえる思いが述べられていました。
プロとアマをへだてる、あるいは創り手と受け手を隔てる壁というのは、かなり高いもので、相手が小澤征爾ぐらい超一流であれば、その壁は高く分厚いものになるというのです。
ですが、村上春樹は、音楽について正直に率直に話し合うことの妨げにはならず、音楽はそうしたことを許す裾野のひろい、懐の深いものであり、そうした高く分厚い壁を抜ける通路を見つけることが大切なのである、というわけです。
なるほど。
自分の音楽の聴き方というものを改めて考えるものでした。どこまでいけるものなのか。どこまでいくべきなのか。難しい問題です。
ではグーテナハトです。
Kindleを愉しむ今日このごろ。

近所のほうれん草?畑です。青々と若葉が吹き出していて、なんとも希望にあふれた光景です。未来にむかってこういう若々しさが保たれるといいのですが、どうも最近思うのは文明が疲弊し衰退しているのではないか、という気分です。まあ随分前から言われていることでは有りますが、昨今つとにつとに思うことが多くなりました。
さて、最近Kindleで本を読んでます。といってもiPhoneアプリですけれど。とにかくかさばらず、手軽に読めますので、重宝しています。

本はなんだかんだとかさばりますし、荷物が重くなります。私はどうもいつも荷物が多くかばんが大きいので、本をこういう形で手軽に持つことができるというのはありがたいことなのです。
こちらは吉川英治の「黒田如水」で、無料で手に入れることができます。ちなみに、大河ドラマはどうもあまり史実に敷衍していないようですし、評判もあまり良くないようですが、私は嫌いではなく、ずいぶん楽しんでいます。
こんな感じでマークもできます。

そして、マークをした部分を一覧表示もできますね。

紙の本の場合「何を持っていくか」という選択を外出前に常に強いられていましたが、Kindleはそういうことがなくなりました。これって、iPodがでた時に感じたのとおなじです。かつては、持ち出すCDを選ぶ時代でしたが、いまは、iPodにある程度音楽が入っていますので、持ち出す音楽に悩むということはなくなりましたので。
Kindleなんて、もう何年も前から使えるようになったわけですが、最近は本も増えてきて使いやすくなりました。もう少しほんの値段が下がるといいんですが、値段が下がるのも書籍文化にとっては今ひとつなのでしょうから、いまはこちらで一旦は滿足しておきましょう。
ではグーテナハト。



![B00ICFI4O4[ミレー] Millet REQUIN 45 MIS0461 0247 (BLACK - NOIR) M](https://i0.wp.com/ecx.images-amazon.com/images/I/411q6pt%2B4BL._SL160_.jpg)
![[ミレー] Millet TARN 25 MIS0463 3332 (INK)](https://i0.wp.com/ecx.images-amazon.com/images/I/4126U%2B5-W3L._SL160_.jpg)






