吉川英治「黒田如水」読みました。黒田如水は黒田官兵衛のことです。今年の大河ドラマですので、いきおい盛り上がりました。
Kindleは無料ですので、みなさまもよろしければ是非。
吉川英治を読むのは高校以来かもしれません。講談調ともいえる古風な歴史小説の趣が息づいていて、なんとも懐かしく、そして「感動」しました。
白眉は、織田信長が自分の過ちに気づくシーンでしょうか。
黒田官兵衛が信長に謀叛した荒木村重に囚われる場面。
信長は、黒田官兵衛が荒木村重に加担したと誤解し、人質にとっていた官兵衛の息子松千代を手打ちにするよう命じるわけです。松千代を預かっていたのが竹中半兵衛ですが、もとより松千代を手打ちにするつもりなどなく、偽首を信長に届けてお茶を濁すわけです。
結局、荒木村重は敗北し、官兵衛は加担どころか、一年にも渡って監禁されており、満身創痍で信長に面会するわけです。信長は、残忍な処罰を下しますが、そうした処罰は常に正しい判断に基づいていたという自負がありました。ですが、今回は官兵衛が寝返ったものと早合点してしまったわけです。
信長が、官兵衛に松千代を手打ちにしたことを知らせるところで、竹中半兵衛と若武者が登場します。この若武者が松千代。のちの黒田長政。竹中半兵衛は、信長に、自分は主君の命に背き、松千代を手打ちにしていなかったと告白し、ここで腹を切る、というわけです。
それを聞いた官兵衛は、松千代に、親同然の竹中半兵衛が、お前のために命を落とすのだから、お前もここで武士らしく腹を切れ、と命じます。
ここに至り、信長は、半兵衛を許し、自らの過ちを認めることになります。
という、この小説のクライマックス。ここで、いくばくかの感動を覚えてしまいました。感動をしたのは、信長が後悔する、という部分についてなのですが。
やはり、日本人はこういう忠君物語が大好きです。
高校生の頃には、純然たる歴史小説としか読めないのですが、会社組織を知った身にとっては、完全なまでな組織のメタファーになっています。
日本人は昔から変わらなかったのか、吉川英治が当時の日本人を歴史に投影したからか、吉川英治をはじめとした歴史小説のパースペクティブが日本人を形成したからなのか。
少なくとも、ここに描かれるのは、現代日本組織におけるごくごく普通の人間模様でした。ここに描かれているような忠君模様が、いまの日本を支えているのかもしれません。
ちなみにこの小説が発表されたのは1943年1月から8月です。太平洋戦争真っ只中で、例えば1943年4月には山本五十六が戦死するなど、敗色が濃くなる時期にあたります。
随所に見られる、天下統一の大業のためなら我が子の命など仕方が無い、という台詞は、もちろん執筆当時の状況を反映しているでしょう。この小説を読んだ「父親」は何人もいたはずです。
いろいろと考えることの多い一冊でした。
ではグーテナハト(?)です。
戦国も今も変わらない──吉川英治「黒田官兵衛」
寝ながら学べる構造主義
いまさら感あり、なかなか恥ずかしさもありますが、以下の本を読んでみました。寝ながらは学べないので、電車の中でKindleで読んでいました。
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構造主義の先駆としてのマルクス、フロイトを取り上げ、その後構造主義四銃士として、フーコー、レヴィ・ストロース、ロラン・バルト、ラカンを取り上げた入門書です。入門書ならではの深みと面白さというものがあり、今回読んでとても楽しかったです。
現在の相対主義的価値観が、どのように生じたのか、ということがよく理解できます。
私は、構造主義とは兎にも角にも主体が失われ、普遍的妥当性と客観的必然性が形式以外のところで失われる過程と捉えました。それは、まさに現代のあり方を捉えています。あるいは、構造主義が現代を作ることに加担した、ということなのだと考えました。
そういう文脈でとらえると、ロシアのクリミアへの勢力伸長や、中国の南シナ海や東シナ海での勢力拡大といった、力による現状変更も、国際秩序というある種の相対的価値観に囚われることなく、別の論理で説明のできるものだ、と思いました。
また、齢を重ねてから再びこういった哲学関連書を読むというのは実に興味深いものが有りました。特にラカンのオイディプスコンプレクスのあたりは、世の中を渡り歩くためには極めて重要な実践的概念だと思います。
ちなみに、同僚に構造主義を知っている人はあまりおらず、さすがに一般には知られていない概念なのだなあ、ということを再確認しました。こういう乖離も、舞台と客席の乖離につながるものだと思い、難しさを感じることがよく有ります。
今日の音楽はこちら。ディーリアスのフロリダ組曲。なにか落ち着く一曲。
ではグーテナハト。
続 舞台と客席の断絶は広く深いのか。
新潮社
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先日の件、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の93ページから記載されていました。
レコードマニアを小澤征爾が批判をしているシーンでした。
高価なオーディオ装置とレコードを沢山持っている人はだいたいにおいて忙しい人達だから、家にいる暇なんてなくて、音楽を少ししか聴いていない。お金のある人は忙しいのだから。
小澤征爾はそうしたレコード、CD、商品に対する嫌悪感を持っていて、都内の大型レコード店で、しばらく忘れていたそうした嫌な気持ちが甦ってきてしまった、というのです。
その嫌悪感が具体的にどういうものなのかは語られていません。
一方、村上春樹の音楽の聴き方はマニア的な聴き方ではない、と小澤征爾は述べます。村上春樹の音楽の聴き方がとても深い、というわけです。そうした中で、音楽に対する、小澤征爾の見方と村上春樹の見方が違うことがわかり、そうした違いが小澤征爾にとっては面白く新鮮だったようです。
最後に、村上春樹との対話をマニアのためにはやりたくなく、本当に音楽の好きな人たちにとって、読んでいて面白いというものにしたい、と小澤征爾が述べて、このシーンが終わります。
このシーンのあと、村上春樹が長い注釈を書いています。このシーンの重要性ゆえだと思います。
村上春樹の音楽の聴き方というのは、いろいろなレコードを買って、あるいはコンサートに熱心に通って、同じ演奏を違う演奏家で聴き比べる、相対化するということに喜びを見出し、自分にとっての音楽をひとつひとつ時間をかけて形づくってきた、というものだそうです。おそらくはこうした聴き方に小澤征爾は興味をもったのだと思います。
その後、やはり痛切ともいえる思いが述べられていました。
プロとアマをへだてる、あるいは創り手と受け手を隔てる壁というのは、かなり高いもので、相手が小澤征爾ぐらい超一流であれば、その壁は高く分厚いものになるというのです。
ですが、村上春樹は、音楽について正直に率直に話し合うことの妨げにはならず、音楽はそうしたことを許す裾野のひろい、懐の深いものであり、そうした高く分厚い壁を抜ける通路を見つけることが大切なのである、というわけです。
なるほど。
自分の音楽の聴き方というものを改めて考えるものでした。どこまでいけるものなのか。どこまでいくべきなのか。難しい問題です。
ではグーテナハトです。
Kindleを愉しむ今日このごろ。
近所のほうれん草?畑です。青々と若葉が吹き出していて、なんとも希望にあふれた光景です。未来にむかってこういう若々しさが保たれるといいのですが、どうも最近思うのは文明が疲弊し衰退しているのではないか、という気分です。まあ随分前から言われていることでは有りますが、昨今つとにつとに思うことが多くなりました。
さて、最近Kindleで本を読んでます。といってもiPhoneアプリですけれど。とにかくかさばらず、手軽に読めますので、重宝しています。
本はなんだかんだとかさばりますし、荷物が重くなります。私はどうもいつも荷物が多くかばんが大きいので、本をこういう形で手軽に持つことができるというのはありがたいことなのです。
こちらは吉川英治の「黒田如水」で、無料で手に入れることができます。ちなみに、大河ドラマはどうもあまり史実に敷衍していないようですし、評判もあまり良くないようですが、私は嫌いではなく、ずいぶん楽しんでいます。
こんな感じでマークもできます。
そして、マークをした部分を一覧表示もできますね。
紙の本の場合「何を持っていくか」という選択を外出前に常に強いられていましたが、Kindleはそういうことがなくなりました。これって、iPodがでた時に感じたのとおなじです。かつては、持ち出すCDを選ぶ時代でしたが、いまは、iPodにある程度音楽が入っていますので、持ち出す音楽に悩むということはなくなりましたので。
Kindleなんて、もう何年も前から使えるようになったわけですが、最近は本も増えてきて使いやすくなりました。もう少しほんの値段が下がるといいんですが、値段が下がるのも書籍文化にとっては今ひとつなのでしょうから、いまはこちらで一旦は滿足しておきましょう。
ではグーテナハト。
「わかったつもり」から深い読みへ。文章もオペラも同じ。
青葉が映える季節になりました。もう初夏と言ってもいいような一日でした。
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先日読んだこの本が、テクスト解釈を考える上で、わかりやすくまとめられていたので少し紹介します。
なぜ読んだのか?
15年以上も社会人をやって同じ仕事をやっていると、わかったつもりになっていることが多々あります。本人は理解しているはずなんですが、じつはミスリーディングをしているということがあり、すこし困っていました。こうしたことを防ぐためにも、何かしらのヒントが無いかと思い読んでみました。
結論から言うと、そういう「わかったつもり」に対する即効性のある対策を得ることはできませんでした。我々がテクストを「読む」時にいかに誤った読み、浅い読みをしているのか、ということを再認識することは出来ましたが、その対策が、自分がわかっていないことをわかれ、というソクラテスの「無知の知」のような教訓だったので(もっともこれが私がこの本を「わかったつもり」になっているだけなのかもしれませんが)。
自分がわかっていない可能性を常に意識し、細部にいたるまで読みを深めて行くことが必要である、ということでした。
「慣れ」てくると、段落を一瞥して「ああ、これはこういうことをいっているのだ」ということを経験的に察知してひとくくりの意味のまとまりとして認識してしまうことがあります。こういう「慣れ」が危険であり、細部に至るまで読みを深めるという愚直な営みが必要なんでしょう。
海軍大将で総理大臣をつとめた米内光政は、本をかならず3回読むということを信条にしていたのを思い出しました。あたりまえのことですが、テクストを細かい部分いたるまで読み込むことが真の理解に必要ということなんですが、まあ当たり前ですね。
テクスト解釈
テクスト解釈についての示唆は少なからず受けました。整合性を持っているれば、テクストの解釈は行かようにあってもよく、それが正しいとか誤っているという判断を下すことはできない、ということなのです。整合性を失った時に初めてその解釈は破棄されることになります。
この整合性という言葉が、この本を読んでもっとも印象的だったものです。
これはオペラ演出やその解釈に適用できるでしょう。演出家はオペラというテクストを使って解釈を進めます。テクストと整合性のあるかぎりにおいてあらゆる可能性が導出されるわけで、整合性があればこじつけであってもそれは誤っているとはいえません。
そして、聴き手も、そうしたオペラ演出を、整合性を保つ限りにおいて自由に解釈することができるわけです。
逆に言うと一辺倒な解釈では不十分で、それではわかったつもりなのだ、とも言えるわけです。今後はオペラも「わかったつもり」ではなく、脳みそが溢れるぐらいに考えないと、とあらためて思いました。
文脈
もう一つこの本で指摘されていた「文脈」という概念も、オペラ解釈と実に親和性のあるものだと思いました。文章を読むに際して、異なる文脈の適用が、異なる意味を引き出す、ということが指摘されていました。同じ描写でも、そこに文章には書かれない文脈、つまり想定や背景を付加することで、意味が変わるということです。
オペラ解釈も(あるいはあらゆるテクスト解釈も同じですが)、そこに語られない何かを当てはめることで、様々な意味を導出できるということです。たとえば《ローエングリン》にナチズムという文脈を適用することで、いろいろな意味が立ち会われてくるといったようなことです。
文章を「わかったつもり」ということだけにはとどまらず、オペラ、絵画、音楽といったあらゆるテクストを「わかったつもり」にはせず、さらにその先の整合性のある解釈をつくりだすことで、読みを深めていくということが重要なのでしょう。
ちなみに、この本は論旨はもちろん、本の仕立てや構成としても、実にわかりやすいです。文末に、これまでの論旨がわかりやすくまとめられていたのが素晴らしかったです。
それではグーテナハトです。
花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり。
土曜日の朝に、近所の桜並木に言ってみました。まだほとんど咲いていません。7時を回った頃なので人影もまばら。花の盛りの予感に満ちてはいますが、まだ静けさが漂っています。美しさの爆発的な力が薄黒い木々の中に破裂せんばかりにみなぎっているのを感じます。
風姿花伝を読んでいたんですが、「花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり」という言葉に出会いました。
花というのは季節に置いて咲くものであって、そのときにだけ咲くという「珍しさ」があるがゆえに、翫ぶわけです。いつも桜が咲いていたらこんなにも桜を楽しみにしないでしょう。
申楽も同じである、と言っています。
ということは、まあ芸術もまさに同じなんでしょう。
その先にはさらに厳しいことがたくさん書いてあり、音曲、振る舞い、物真似、全てにおいて巧くなければならない。桜、梅、菊のように一年中の花の種を持つべし、などと書いてあります。
考える事しきり。ですが、どうにも考えることが多すぎて。
ではグーテナハト。
辻邦生「嵯峨野明月記」と「小説への序章」から思う演繹法的世界認識について
辻邦生作品の最高峰の一つとも言える「嵯峨野明月記」を手にとっています。最近、仕事で、演繹法的手法をとって巧く行かず、帰納法的手法をとってなんとか進みだしたという経験をしました。
私のこの演繹法的手法を取りたがるという傾向は、どうもこの作品に影響されているように思います。
この「嵯峨野明月記」の中に狩野光徳という画家が登場します。光徳は世の中のものを全て描かなければならないという強迫観念ともいえる欲求を持ちながら若くして病に倒れることになります。
ですが、世界はそうした形で認識することはできないのです。
この辺りの世界認識の方法論については「小説への序章」においても語られていたはずです。世界そのものと一体化するという、西田幾多郎の純粋経験とでも言えるような文学的境地においてのみ世界認識に到達できる、という道筋でした。
これは、辻邦生の3つの原初体験の一つである、ポン・デ・ザールの直観と通じるはずです。辻邦生がパリ留学中にポン・デ・ザールでセーヌを眺めていたときに、このセーヌやパリ自体が自分のものである、という直観を得た、というものです。あのとき、世界と辻は合一していたわけで、そうした原初において相通じるところから、世界認識が開かれていく、そうした直観だったはずです。
ただ、それは芸術的文学的なものであり、実践的なものに適用することは難しいわけで、まあ、少し遠回りをしてしまいました。
昨今ジャズばかり。本当は週末に《死の都》へ行く予定なのですが、仕事で行けないかもしれません。残念無念。
では久々のグーテナハト。
伊福部昭「音楽入門」で昨今の問題を考えているところ
かつて読んだ伊福部昭の「音楽入門」ですが、昨今の問題を考える上での最も厳しい意見が書いてあります。
私はかつてこの本を読んだ時、どうも自分の考えとはすりあわない、と思っていました。リヒャルト・シュトラウス《ツァラトゥストラはかく語りき》が大なたでメッタ斬りにされてますから。
ですが、今回の事件を受けて、もう一度読み始めました。
で、こんなことが書いてあります。
私たちは、このように音楽以外のものの助けによって、その音楽に意味あらしめようとするような作品を軽蔑しなければなりません。
伊福部昭「音楽入門」47ページ
この本における「軽蔑」の仕方が半端ありません。絵画における裸婦像を例に取り、裸婦像を芸術的な眼差しでそれ自身を見るのであれば、それは芸術であるが、そこに性的欲求などを介してみた場合、その絵画は春画に堕ちる。であるから、、
同様に音楽にあっても、その方便で選ばれた題に基づいて諸々の連想をたくましくする態度は、その連想そのものがいかに美的なものであったとしても、いわば春画的な見方と言わざるを得ないことになるのです。
伊福部昭「音楽入門」42ページ
となります。
さて、少し先取りなのですが、あとがきが片山杜秀さんが書いておられて、例の小林秀雄の「モオツァルトのかなしさは疾走する」が取り上げられています。この文学趣味の行末が、今回の問題につながっているといえましょうか。
今回の問題は、ちょっと深いです。勝手に私が深く思ってしまっているだけだと思いますが。
Elektra / Wea (1992-11-03)
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今日もバレンボイム。ブル5。うーん、今度は疾走するブルックナー。これはかなり速い方のブルックナーです。ブルックナーのXXXXは疾走する。XXXXには何が入るのかな?
ではグーテナハト。
バレンボイムのブルックナーを聴く
ダブリューイーエー・ジャパン (1995-10-25)
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建国記念日の一日は、最近の疲れを癒やす一日になりました。少しゆっくり眠りましたし。
それでも、現行の構成を終えて、リードを削って、ウォーキングして、みたいなかんじ。朝食は寝坊したので抜きました。夕食は、友人が送ってくれた牡蠣を使ったパスタ。
ナクソスミュージックライブラリーに、TELDECが収められているのですね。バレンボイムのブルックナー交響曲も収録されていて嬉しい限りです。
今日はブル8。ブルックナーについては語りますまい。ブルックナーを語るのはハードルが高すぎます。それでもなお言えることは、バランスがとれている本格派の演奏ということでしょう。ベルリン・フィルの機能性を十分に活かしたものなんでしょう。隅々まで統御された丁寧な作りでいながら、ダイナミズムもある演奏というところでしょうか。実は好きな演奏かもしれない、と思います。
昨今音楽を語ることについてはかなり敏感になっています。絶対音感がないと語れない、という点が気になって仕方がないのです。
私にしてみると、多くの人々が例の交響曲に感動できるのなら、ブル8にも感動できるはず、と思うのです。ブル8が別の名前で別のストーリーがあって、日本でしかるべき形で演奏されると、きっと誰しもが泣くのだと思います。長さだって例の交響曲より少し長いぐらいなのですから。。ブルックナーといった有名な作曲家の名前が、逆に日本では一般に受け入れられないものとなっているのでしょうか。それほど文脈が重要ということでしょうか。
というわけで、グーテナハト。明日も頑張ります。
書評:フランス・オペラの魅惑 舞台芸術論のための覚え書き
昨年5月に図書新聞に寄稿しました書評ですが、そろそろ時間も経ちましたのでこちらにも掲載いたします。
フランス・オペラの魅惑 舞台芸術論のための覚え書き
この本は実に画期的でした。フランス・オペラはなかなか親しみにくかったのですが、この本のお陰でずいぶん開眼で来たと思います。振り返ってみると、《タンホイザー》と《ドン・カルロ》がグランド・オペラとしてあらためて取り上げられていたのが良かったと思います。19世紀オペラの中心はパリだったともいえるでしょう。現在だと、どうにもウィーンかミラノのか、ということになってしまいますが、当時はパリだったわけですね。
また、この本で「ユダヤの女」の聴くなかで気づいたのが、ラシェルという女の名前のことです。アレヴィ「ユダヤの女」からたどるラシェルという4人の女 」という記事を書きました。また、ラモーのオペラに親しめるようになったのもこの本のお陰でした。
今年も、音楽を考えることにこだわった一年にしていきたく、いろいろと計画を練っています。次の書評は1月4日の図書新聞に掲載される予定です。現在はその次の書評を執筆中です。これが難儀なんですが。。
それではグーテナハトです。