Béla Bartók,Book

「父バルトーク」の映画化

昨日、「父・バルトーク」を映画化するべき、と書きました。

きっと単館系。もしかしたらあえてモノクロ映画に仕立てられたりして。ニューヨークはモノクロなんだが、バルトークの回想に現れるブダペストの風景だけカラーみたいな。《タンゴ・レッスン》とか《オズの魔法使い》あるいは、《バンカー・パレス・ホテル》みたいな。浅はかですいません。でもだれか撮らないかな。

吉松さんがとらえるバルトーク

いや、でも同じこと考えている人はいるはず、と思い、ググってみると、いらっしゃいました。
その方は畏れ多くも。作曲家の吉松隆さんでした。
“http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/bartok01.html":http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/bartok01.html
このバルトーク論では、様々な諸相からバルトークを解釈していて、視界が開けた感覚です。
特に、リズムのストラヴィンスキー、無調のシェーンベルク、和声のドビュッシーのいずれもを取り入れていたという解釈は素晴らしくわかりやすかったです。
バルトークのわかりにくさというものは、つかみ所のなく、聴き手をどんどん先回りしているような感覚があります。あ、こういう曲なのか、と掴みかけたところで、ふっと全く違う曲に変貌してしまうというような。
あるいは、この部分、ベルクだなと思うほどの無調の感覚があると思ったら、ラヴェルのような色彩豊かな和声の世界が広がっている。リズミカルなところは、ストラヴィンスキーにそっくりでいながら、リヒャルト・シュトラウスが聞こえてくる、といった感じです。

もう少し突っ込んでみると。

吉松さんのバルトーク論から、以下の箇所が引用してみます。

根底にあるのは祖国ハンガリーの土着の民族音楽なんですけど、それにR=シュトラウスやドビュッシーの近代和声とストラヴィンスキーの原始主義的リズムの味付けが加わり、さらにシェーンベルクの十二音に対抗するかのような知的作曲法がその上にかぶさってる。

 この、まるっきり異質で本来は混じり合いっこない素材3つに固執した挙げ句の個性こそが、バルトークの面白さであり、わけの分からなさなんですよね。

1つめは、民謡の5音音階と西欧の全音音階を組み合わせた新しい旋法と和声の開発。2つめは東欧の民族音楽の舞曲などから導きだされたリズムの素材化。そして3つめはそれらの素材の黄金分割やフィボナッチ数列などによる数学的処理。

なるほど。たしかに。バルトークのつかみ所のなさはこういう全方位的な、あるいは全てを包括する方法論によるのかもしれない、などと思いました。
この延長で吉松さんは、ストラヴィンスキーはロックに、ドビュッシーはジャズに、シェーンベルクは現代音楽や前衛音楽に、と位置づけてます。吉松さんは「独断」といいますが、私は吉松さんに賛成です。
そういう意味ではバルトークは全てを視野に入れていたということですか。これが本当のフュージョンなのかもしれない、などと思います。

おわりに

というわけで、今日も頭のなかはバルトークのことでいっぱいです。
昔、ベルクの弦楽四重奏だけを一週間ずーっと聴いていたことがありました。今は、それぐらい集中して聞いている感じです。そうするといろいろわかってくるはずです。充実してます。
ではみなさまグーテナハト。

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「父・バルトーク」
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以前から紹介しているこちらの本。映画化したほうが良いのではないでしょうか。それぐらい美しい父と子の物語です。
この本では、バルトークの写真が多数紹介されています。私はその写真群に目を奪われてしまいました。そのどれもが笑っていません。その点についてもすこし言及されています。バルトークは愛想よく笑ったりするようなことはなかったそうです。愛想笑いといった不誠実なことはしたくなかったということのようです。ですがそれ意外にも理由があるのではないか、と感じています。
また、愛想のない顔つきでありながら、その眼差しの中になにかしらのシニカルな目線を感じます。世界を斜めから見つめ、本質を見出そうとし、あるいは世界の虚飾を見破り、笑い飛ばしているかのように見えます。
この本の表紙でも、幼い息子を真剣に見つめる姿を見ることができます。これが本気なのかユーモアなのか。
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さてと。明日からはまた社会復帰をしなければ。
それではグーテナハト。

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これは、あまりにも美しすぎる。美しすぎる小説なのかもしれない。
そう思います。
今年の8月に出版されたバルトークのご子息ペーテル氏による「父・バルトーク 息子による大作曲家の思い出」です。
今日から本格的に読み始めましたが、素晴らしすぎて時を忘れました。まだ初めの4章ほどを読んだだけですが、戦前から徐々に顕になっていく物質主義の足音への抵抗や、一生の仕事に必死に向き合う真摯な姿など、我々が日常の社会生活の中で忘れなければならないことを思い出し少々落ち込みました。
そして、私にとっては価値のあるバルトークの考えがこちら。

ラジオやレコードプレーヤーがあると人は自分で演奏しようとする意欲を失い、たとえ未熟でも自分で演奏することで得られる満足感が得られなくなる

なるほど。来週はサックスを持って沿線にジャムセッションに行こうと思います。
明日も読む予定。この本についてもしばらくたってからまとめて発表の予定です。
ではグーテナハト。

Book


私は、あまのじゃくなので、流行りものにはなかなか手を出さないのですが、先日実家に行った時に、父が読み終わったというので借りてきました。
百田尚樹さんは、探偵ナイトスクープの放送作家です。私は作家デビューをする前から存じてました。ナイトスクープで北野誠とからんでいたのを記憶しています。
それぁら。百田さんが半年ほど前に、日曜日12時からNHK-FMで放送しているトーキング松尾堂に登場して、なみなみならぬ気配りとトークと気配りの才能を披露したのも存じてました。
で、ようやく今日から読み始めたのですが、止まらないです。引きこまれてしまいました。
当初から、設定に戸惑いました。主人公の祖父がゼロ戦パイロットと言う設定で、しかも、熟練パイロットであったのに、神風特攻で戦没した、という設定に、首をひねったのです。
特攻隊員で熟練パイロット? そんなわけはないはずなんですが。
ですが、読み進めるにつれて、なるほど、このアンバランスな設定こそが、この本の真髄であり持ち味なのだ、ということです。私の疑問も、作中できちんと説明されていましたし。
半分ほど読みました。この本が話題になるのは、ある意味いいことなのかもしれない、と思います。これが、実務に活かされるともっといいのですけれど。そして、反省の念も。だからといって、それを変えることも難しいのですが。
さしあたり、本日は休戦。明日再戦。グーテナハト。

Book,Opera,Richard Wagner

1986年に刊行された高辻知義氏による「ワーグナー」。以前も一度読んだはずですが、もう一度読み直しました。

かなりまとまった緻密な一冊でした。ワーグナーを神格化することもなく、逆に誹ることもなく、中立の立場から冷静に論じていたと思います。

ただ、私は悠書館の「ワーグナー」を読んでしまっていたのです。悠書館の「ワーグナー」は最新の研究成果を取り入れた記述になっていました。ここで知った新たな事実は霹靂ものです。
ですので、私はこの高辻氏の記述の裏側に様々な事象を織り込んでいたようです。
たとえば、コジマがビューローと別れた経緯については、ワーグナーとコジマが通じたという事実と離婚という事実が記載されていただけですが、悠書館においては、ビューローが問題のある夫であったという事実が紹介されており、コジマの行動にある意味納得させられてしまうのです。私の中のビューローのイメージは、巨匠のそれですが、若き日は迷いのある日々だったようです。
さて、昨日はブログ休みました。どうにも先日の夜勤明けから、めずらしく風邪を患いました。
昨日は朦朧としながら、別件のインシデント対応を行いつつ、早めに帰宅してよく眠りましたので、今日は持ち直しました。

今日もこちらで落涙。ベン・ヘップナーは、柔和さだけでなく、雄々しさもあります。フォークトやコロにはない英雄的ヴァルターです。私の中のヴァルター像を変えなければならないかもしれません。
では、グーテナハト。

Book

もしあなたが美を謳い上げるとすれば、それは美が存在するからではなくて、美を存在させるためなのです。多分これが批評家の正しい役目であり、尊厳なのです。多分そこから彼らも創造という作業に加わることができるのです。


メイ・ジンという美貌の中国人ピアニストをめぐる、フレデリック・バラードとレオ・ボルドフスキーという二人の音楽評論家の論戦は、不思議な結末を迎えました。
二人の架空の音楽評論家は、メイ・ジンをめぐる論争から、ほとんど個人攻撃とまでいえる過去の記憶への機銃掃射を互いに行い、血だらけになって傷つくのですが、奇妙なことに撤退と和解へと進んでいくのです。
それは、メイ・ジンを徹底的に攻撃したレオ・ポルドフスキーが、もう一度メイ・ジンの演奏を聴いたあとからでした……。
「ピアニスト」は西欧音楽の普遍性を論じながらも、書簡体小説として、書簡と書簡の間に横たわる空白の文脈への想像あるいは妄想へとさそう、文学を読む愉しみをももたらしてくれる「小説」でした。
もちろん、ここで論じられている問題は、既に論じつくされたことなのかもしれません。西欧音楽の普遍性なんていうものは、絵空事といえるのかもしれないわけです。
ですが、私は冒頭で引用した一節、これは敵であるフレデリック・バラードに対して、レオ・ポルドフスキーが、和解とも言えるメールを書くのですが、その中の一節です。
別に普遍的美などあろうがなかろうが関係なく、それがあるということを前提に、あるいは信じ、それを表現するということ。批評の素材として音楽そのものも重要だが、それを「美」として解釈することも、「美」を創造するプロセスである。
そういう議論です。
私はこの議論を諸手を挙げて賛意を示すわけには行かないのです。というのも、こうした言動は、当然では有りますが、批評家側からしか出てきません。これは自己賛嘆とでも言える言辞なのです。音楽家から同様な言葉が出てくればいいのですが、私はそうした言葉を聞いたことがないのです。
ですが、私の中に常にある疑問、生成者と受容者の関係に関する疑問の解決へと少し励まされた気がするのです。
生成できるものだけが、その美を享受することができるのか、という問題。生成者同士で、隠語のようにその秘術的な美を崇拝しあうのではなく、非生成者にも、美という秘仏の背光を浴びる権利あるいは可能性があるのではないか、ということなのです。さらに議論を進めて、その秘仏の背光を作り出しているのが非生成者である受容者ではないかということです。認識論的な問題かもしれません。受容者こそが生成された素材に美という価値を無意識に与えている。それを言語化レベルまで引き揚げることで、明示的な美を生成する……。
リスナーがいない音楽は意味が無い、といった浅い議論ではないはずです。
だからこそ、「創造」という言葉が出てくるのでしょう。
ただ、やはりどうしても、私はこの批評家が美を創造するという考えが、完全に胸のつかえをとるものではないようにも思っているのです。
総じて、本書には大きな満足を覚えました。そしていろいろなものを得ました。文学的にも美学的にも。
ただ、この後どうすべきなのかが、私にはわからないだけなのです。
ではグーテナハト。

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私の友人。大学の授業発表で、彼と対談をしました。卒業式あとの徹夜の飲み会で、かれは、武満徹を論じて、しきりに日本と西欧のギャップをどう埋めるか、ということを話していました。私は当時は全部西欧に合わせてしまえばよい、と思っていましたので、そうした議論に心から参加することができず、傍観者として議論を楽しんでいた記憶があります。
しかしながら、「全部西欧に合わせてしまえば良い」などということはできるわけもなく、だからこそ、和魂洋才という言葉が生まれ、フォークでうどんを食べるような奇異な状況に相成っているわけです。
で、いつも思っている疑問。西欧音楽を我ら日本人が演奏して聴くという奇異な状況をどう説明するべきなのか。
ドイツ人にはわかるが、日本人には分からないフーガやハーモニーの感覚があると聴いたことがあります。言語によって体の底に染み付いた音韻の感覚というものもあるでしょう。体格の違いや文化の違いにによって声質はかわります。ウィーンのホテルのフロントの親父は、背筋が凍るほどの豊かなバス・バリトンの声をしていて、こんな方々が普通にいる国は恐ろしいと思ったり。
そりゃ、小澤征爾や千秋真一のような天才はいて、日本と西欧をひとっ飛びにして繋げられる人はいますが。
で、今日から読み始めたのが、エディエンヌ・バリリエの著による、「ピアニスト」という本です。秀逸な音楽書を出版するアルファベータからの逸品。
二人の音楽評論家が、美貌の中国人ピアニストの演奏会をめぐって言論戦争を繰り広げるという血湧き立つ架空言論戦記です。
一人は、この美貌の中国人ピアニストに、音楽の真髄を見ますが、一人は、これは中国による文化侵略(とまでは書きませんが)とまで行きそうな西欧国粋主義的音楽論者です。
一体西欧音楽とは何なのか。西欧音楽を非西欧人が演奏するというのはどういう意味なのか。それは西欧への非西欧からの侵略なのか、あるいは西欧音楽の普遍性の象徴なのか。
「美貌のピアニスト」の奏でる音楽と「太って汗をかきながら演奏するピアニスト」の奏でる音楽は同じなのか。音楽におけるビジュアルとはなにか?
いま半分まで読みました。
二人の議論は、噛み合っているようで噛み合っていません。戦闘状態にある二国が互いに理解し合えないようなものなのでしょう。それが、リアリティを更に高めています。これぐらい憑依しないと小説家にはなれないということなんでしょう。
かつて、ニフティサーブで繰り広げられていた音楽議論を思い出しました。少なくない時間をかけて、思考とレトリックで戦い続けたアマチュア論客も、こうした議論を繰り広げていた記憶があります。そうした議論の中身は私の記憶には残っていませんけれど。
議論が収束することはありえないはず。そんなに分厚くもないこの本の終末はどうなるのか。いくばくかの予想はあっても、それは明日もまたページをめくる意欲を削ぐものではありません。
では、グーテナハト。

Book,Richard Wagner

過ごしやすくなった今日このごろ。嬉しい限りです。
先日の続きを書きます。夜更かしですが。。

ヴァーグナー大事典における記述


ドイツを焦土とした三十年戦争が終わったのは1648年のウェストファリア条約です。ここで国際法や国家の概念が現れたというのは世界史における必須問題です。
その後ルイ14世ものとで絶対王政を確立し、強大となったフランスは、帝国主義的領土拡張政策をとり、1681年にストラスブールというかシュトラスブルクを武力占領し、1689年にプファルツ継承戦争でプファルツへの侵攻を開始します。ドイツ諸邦は対抗し、失敗に終わるかと思いました。
が、フランス政府は近世史上初めて、一地域を全て無人の地と化すことを決意しました。フランスに対して中立を宣言し、フランス軍を友好的に招き入れた、神聖ローマ帝国直轄歳のシュパイヤー、ヴォルムス、オッペンハイムは、フランス軍によって焼き払われました。大聖堂は爆破され、歴代ドイツ皇帝の墓所は暴かれて略奪され、住民は放逐されました。その後、ハイデルベルクなどのフランス国境からライン川の間に位置する数十の都市と数千の村が襲われ、組織的に壊滅させられ、住民は根絶やしにされました。
この焦土作戦は、ドイツ国民に深い心理的ショックを与え、長期にわたって、道徳的退廃を産み出し、社会心理を荒廃させたのです。
これ以来、ドイツとフランスは宿敵どうしとなり、その後の歴史や文化において通奏低音のように、ドイツにフランスへの敵対心を与え続けることになるのです。

裏取り


こうした見方を、私は(恥ずかしながら)知りませんでした。私は、ドイツのフランスへの敵対心はナポレオン戦争によるものと思っていたからです。ですが、それよりももっと古く根が深いものだったということなのでしょう。
この部分はコンラート・ブントというドイツ人の歴史学者による原稿です。被害者側の記述なので、いささか感情的なのかもしれません。
手元にあった山川出版社の世界歴史大系ドイツ史第二巻における記述では、「プファルツの焦土化」という言葉が取り上げられていますが、文化史的な背景については語られていません。
確かになにかしら非人道的な事実があったのでしょう。
ただ、そうした史実と思われる出来事をどう解釈するかは、その後の捉え方です。先日書いたように叙述された歴史は恣意性を帯びるのです。真実などはありません。あるのは解釈だけです。
当時のフランスは、武力に物を言わせて、言いがかりをつけては隣国を侵略するという侵略国家だったようですね。とくにマザランからルイ14世による親政になってからのことだと書かれていました。絶対王政、王権神授説。諸芸術のパトロンであり、自身もバレエを嗜んだルイ14世ですが、こうした一面も持っているのですね。独裁者は芸術を愛するということなんでしょうか。

その後

この延長線上にあるのが、ワーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》にあるフランスへの敵対心であり、1871年の普仏戦争であり、第一次大戦であり、ナチスのフランス侵攻なのでしょう。
そしてようやく、最初の「焦土化」から300年近くたった第二次世界大戦後、欧州議会の本部をストラスブールに置くということに象徴されるように、ようやくドイツとフランスはお互いを許しあったかのように見えます。
そうです。300年もかかるのです。こうした問題は、それぐらい腰を据えなければならないということなのです。

なんとか後記

やっとかけました。
それにしても、叙述されたことの難しさ、というものを感じます。歴史なんて、だれかが書いた一言で簡単に代わるものです。誰かが新聞に書けばそれが事実になってしまうということなのですね。
音楽評論もまさにそうなのでしょう。書いたことと音楽自体はまったくリンクしませんし、検証不可能です。当然ですが歴史よりも恣意性は高いです。大学の先生が音楽評論の妥当性について批判していたのを思い出しました。
逆に言うと、歴史も音楽評論ぐらいのものだということも言えるのでしょうね。
まったく世界は難しいです。
ではグーテナハト。

Tsuji Kunio

9月24日は辻邦生の誕生日でした。1925年生まれですので、ご存命であれば88歳です。
お気づきお通り、邦生という名前は、誕生日からとられたものです。ですので、忘れようがありませんね。
現実は、辻邦生の世界とどんどんかけ離れていきます。フランスへ留学した1950年代から60年代にかけてと、現代世界の違いと言ったら、筆舌に尽くしがたいものがあるでしょう。
現代は、理想が失われた時代、と私は思っています。あるいは、理想を外に出せない、あるいは理想は必ずしも有用ではない時代、とでもいいましょうか。
それが正しいこととも思えませんが、現代は、重要なのは真理ではなく功利である、とも思います。そうした引き裂かれる時代にあって、一度立ち止まり、振り返って足元を見るのに、辻邦生の著作ほど相応しいものはないでしょう。
天上界から眺めているであろう辻邦生の魂は、いまごろ、こんな世の中をどのような感想をもってながめているのでしょうか。
なんだか随分遠くに来てしまったように思います。私達は。
では、グーテナハト。

Book,Richard Wagner


これは、素晴らしい著作です。
バリー・ミリントンはこれまでの「ヴァーグナー大事典」や「ワーグナーの上演空間」といった、ワーグナー関連の研究書の監修をしていましたが、この「ワーグナー バイロイトの魔術師」は、最新の研究成果を取り入れた画期的なワーグナー本ですね。
ワーグナーはなにかしら悪意をもって批判される向きもあるわけですが、そうした批判を見直す良い機会をもらいました。
歴史というものは、後世の研究、もっといえば様々な意図で塗り替えられるものです。普遍的妥当性などというものは歴史には全く存在しません。全ての歴史は叙述された時点で恣意的に塗り替えられます。したがって、我々が信じている歴史的事実というものは、誰かの意図によってねじ曲げられていることが多々あるということです。
私は、それをヴェルディがリソルジメントで果たした役割を検討した際に嫌というほど思い知りました。
ワーグナーもしかり。これまで喧伝されてきたワーグナー像というものも、何かにねじ曲げられている可能性もそうでない可能性もあるということです。さらに言えば、ワーグナーほど後世に利用された作曲家もいないはず。それは音楽だけではなく、オペラのリブレットを創ったことで思想をも創ったからですね。
止まらなくなりましたので、この辺りで一旦ストップしますが、昨今つとに思う歴史的真実を考える上でも、この本は刺激的です。
まだ全てを精読したわけではありませんが、この本については近日中にきちんとまとめる予定です。