辻邦生作品の最高峰の一つとも言える「嵯峨野明月記」を手にとっています。最近、仕事で、演繹法的手法をとって巧く行かず、帰納法的手法をとってなんとか進みだしたという経験をしました。
私のこの演繹法的手法を取りたがるという傾向は、どうもこの作品に影響されているように思います。
この「嵯峨野明月記」の中に狩野光徳という画家が登場します。光徳は世の中のものを全て描かなければならないという強迫観念ともいえる欲求を持ちながら若くして病に倒れることになります。
ですが、世界はそうした形で認識することはできないのです。
この辺りの世界認識の方法論については「小説への序章」においても語られていたはずです。世界そのものと一体化するという、西田幾多郎の純粋経験とでも言えるような文学的境地においてのみ世界認識に到達できる、という道筋でした。
これは、辻邦生の3つの原初体験の一つである、ポン・デ・ザールの直観と通じるはずです。辻邦生がパリ留学中にポン・デ・ザールでセーヌを眺めていたときに、このセーヌやパリ自体が自分のものである、という直観を得た、というものです。あのとき、世界と辻は合一していたわけで、そうした原初において相通じるところから、世界認識が開かれていく、そうした直観だったはずです。
ただ、それは芸術的文学的なものであり、実践的なものに適用することは難しいわけで、まあ、少し遠回りをしてしまいました。
昨今ジャズばかり。本当は週末に《死の都》へ行く予定なのですが、仕事で行けないかもしれません。残念無念。
では久々のグーテナハト。
辻邦生「嵯峨野明月記」と「小説への序章」から思う演繹法的世界認識について
伊福部昭「音楽入門」で昨今の問題を考えているところ
かつて読んだ伊福部昭の「音楽入門」ですが、昨今の問題を考える上での最も厳しい意見が書いてあります。
私はかつてこの本を読んだ時、どうも自分の考えとはすりあわない、と思っていました。リヒャルト・シュトラウス《ツァラトゥストラはかく語りき》が大なたでメッタ斬りにされてますから。
ですが、今回の事件を受けて、もう一度読み始めました。
で、こんなことが書いてあります。
私たちは、このように音楽以外のものの助けによって、その音楽に意味あらしめようとするような作品を軽蔑しなければなりません。
伊福部昭「音楽入門」47ページ
この本における「軽蔑」の仕方が半端ありません。絵画における裸婦像を例に取り、裸婦像を芸術的な眼差しでそれ自身を見るのであれば、それは芸術であるが、そこに性的欲求などを介してみた場合、その絵画は春画に堕ちる。であるから、、
同様に音楽にあっても、その方便で選ばれた題に基づいて諸々の連想をたくましくする態度は、その連想そのものがいかに美的なものであったとしても、いわば春画的な見方と言わざるを得ないことになるのです。
伊福部昭「音楽入門」42ページ
となります。
さて、少し先取りなのですが、あとがきが片山杜秀さんが書いておられて、例の小林秀雄の「モオツァルトのかなしさは疾走する」が取り上げられています。この文学趣味の行末が、今回の問題につながっているといえましょうか。
今回の問題は、ちょっと深いです。勝手に私が深く思ってしまっているだけだと思いますが。
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今日もバレンボイム。ブル5。うーん、今度は疾走するブルックナー。これはかなり速い方のブルックナーです。ブルックナーのXXXXは疾走する。XXXXには何が入るのかな?
ではグーテナハト。
バレンボイムのブルックナーを聴く
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建国記念日の一日は、最近の疲れを癒やす一日になりました。少しゆっくり眠りましたし。
それでも、現行の構成を終えて、リードを削って、ウォーキングして、みたいなかんじ。朝食は寝坊したので抜きました。夕食は、友人が送ってくれた牡蠣を使ったパスタ。
ナクソスミュージックライブラリーに、TELDECが収められているのですね。バレンボイムのブルックナー交響曲も収録されていて嬉しい限りです。
今日はブル8。ブルックナーについては語りますまい。ブルックナーを語るのはハードルが高すぎます。それでもなお言えることは、バランスがとれている本格派の演奏ということでしょう。ベルリン・フィルの機能性を十分に活かしたものなんでしょう。隅々まで統御された丁寧な作りでいながら、ダイナミズムもある演奏というところでしょうか。実は好きな演奏かもしれない、と思います。
昨今音楽を語ることについてはかなり敏感になっています。絶対音感がないと語れない、という点が気になって仕方がないのです。
私にしてみると、多くの人々が例の交響曲に感動できるのなら、ブル8にも感動できるはず、と思うのです。ブル8が別の名前で別のストーリーがあって、日本でしかるべき形で演奏されると、きっと誰しもが泣くのだと思います。長さだって例の交響曲より少し長いぐらいなのですから。。ブルックナーといった有名な作曲家の名前が、逆に日本では一般に受け入れられないものとなっているのでしょうか。それほど文脈が重要ということでしょうか。
というわけで、グーテナハト。明日も頑張ります。
書評:フランス・オペラの魅惑 舞台芸術論のための覚え書き
昨年5月に図書新聞に寄稿しました書評ですが、そろそろ時間も経ちましたのでこちらにも掲載いたします。
フランス・オペラの魅惑 舞台芸術論のための覚え書き
この本は実に画期的でした。フランス・オペラはなかなか親しみにくかったのですが、この本のお陰でずいぶん開眼で来たと思います。振り返ってみると、《タンホイザー》と《ドン・カルロ》がグランド・オペラとしてあらためて取り上げられていたのが良かったと思います。19世紀オペラの中心はパリだったともいえるでしょう。現在だと、どうにもウィーンかミラノのか、ということになってしまいますが、当時はパリだったわけですね。
また、この本で「ユダヤの女」の聴くなかで気づいたのが、ラシェルという女の名前のことです。アレヴィ「ユダヤの女」からたどるラシェルという4人の女 」という記事を書きました。また、ラモーのオペラに親しめるようになったのもこの本のお陰でした。
今年も、音楽を考えることにこだわった一年にしていきたく、いろいろと計画を練っています。次の書評は1月4日の図書新聞に掲載される予定です。現在はその次の書評を執筆中です。これが難儀なんですが。。
それではグーテナハトです。
吉松隆さんのバルトーク論で視界が開けた。
「父バルトーク」の映画化
昨日、「父・バルトーク」を映画化するべき、と書きました。
きっと単館系。もしかしたらあえてモノクロ映画に仕立てられたりして。ニューヨークはモノクロなんだが、バルトークの回想に現れるブダペストの風景だけカラーみたいな。《タンゴ・レッスン》とか《オズの魔法使い》あるいは、《バンカー・パレス・ホテル》みたいな。浅はかですいません。でもだれか撮らないかな。
吉松さんがとらえるバルトーク
いや、でも同じこと考えている人はいるはず、と思い、ググってみると、いらっしゃいました。
その方は畏れ多くも。作曲家の吉松隆さんでした。
“http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/bartok01.html":http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/bartok01.html
このバルトーク論では、様々な諸相からバルトークを解釈していて、視界が開けた感覚です。
特に、リズムのストラヴィンスキー、無調のシェーンベルク、和声のドビュッシーのいずれもを取り入れていたという解釈は素晴らしくわかりやすかったです。
バルトークのわかりにくさというものは、つかみ所のなく、聴き手をどんどん先回りしているような感覚があります。あ、こういう曲なのか、と掴みかけたところで、ふっと全く違う曲に変貌してしまうというような。
あるいは、この部分、ベルクだなと思うほどの無調の感覚があると思ったら、ラヴェルのような色彩豊かな和声の世界が広がっている。リズミカルなところは、ストラヴィンスキーにそっくりでいながら、リヒャルト・シュトラウスが聞こえてくる、といった感じです。
もう少し突っ込んでみると。
吉松さんのバルトーク論から、以下の箇所が引用してみます。
根底にあるのは祖国ハンガリーの土着の民族音楽なんですけど、それにR=シュトラウスやドビュッシーの近代和声とストラヴィンスキーの原始主義的リズムの味付けが加わり、さらにシェーンベルクの十二音に対抗するかのような知的作曲法がその上にかぶさってる。
この、まるっきり異質で本来は混じり合いっこない素材3つに固執した挙げ句の個性こそが、バルトークの面白さであり、わけの分からなさなんですよね。
1つめは、民謡の5音音階と西欧の全音音階を組み合わせた新しい旋法と和声の開発。2つめは東欧の民族音楽の舞曲などから導きだされたリズムの素材化。そして3つめはそれらの素材の黄金分割やフィボナッチ数列などによる数学的処理。
なるほど。たしかに。バルトークのつかみ所のなさはこういう全方位的な、あるいは全てを包括する方法論によるのかもしれない、などと思いました。
この延長で吉松さんは、ストラヴィンスキーはロックに、ドビュッシーはジャズに、シェーンベルクは現代音楽や前衛音楽に、と位置づけてます。吉松さんは「独断」といいますが、私は吉松さんに賛成です。
そういう意味ではバルトークは全てを視野に入れていたということですか。これが本当のフュージョンなのかもしれない、などと思います。
おわりに
というわけで、今日も頭のなかはバルトークのことでいっぱいです。
昔、ベルクの弦楽四重奏だけを一週間ずーっと聴いていたことがありました。今は、それぐらい集中して聞いている感じです。そうするといろいろわかってくるはずです。充実してます。
ではみなさまグーテナハト。
バルトークの眼差しは?──「父・バルトーク」
「父・バルトーク」
以前から紹介しているこちらの本。映画化したほうが良いのではないでしょうか。それぐらい美しい父と子の物語です。
この本では、バルトークの写真が多数紹介されています。私はその写真群に目を奪われてしまいました。そのどれもが笑っていません。その点についてもすこし言及されています。バルトークは愛想よく笑ったりするようなことはなかったそうです。愛想笑いといった不誠実なことはしたくなかったということのようです。ですがそれ意外にも理由があるのではないか、と感じています。
また、愛想のない顔つきでありながら、その眼差しの中になにかしらのシニカルな目線を感じます。世界を斜めから見つめ、本質を見出そうとし、あるいは世界の虚飾を見破り、笑い飛ばしているかのように見えます。
この本の表紙でも、幼い息子を真剣に見つめる姿を見ることができます。これが本気なのかユーモアなのか。
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さてと。明日からはまた社会復帰をしなければ。
それではグーテナハト。
これは美しい小説なのかもしれない──「父・バルトーク」
これは、あまりにも美しすぎる。美しすぎる小説なのかもしれない。
そう思います。
今年の8月に出版されたバルトークのご子息ペーテル氏による「父・バルトーク 息子による大作曲家の思い出」です。
今日から本格的に読み始めましたが、素晴らしすぎて時を忘れました。まだ初めの4章ほどを読んだだけですが、戦前から徐々に顕になっていく物質主義の足音への抵抗や、一生の仕事に必死に向き合う真摯な姿など、我々が日常の社会生活の中で忘れなければならないことを思い出し少々落ち込みました。
そして、私にとっては価値のあるバルトークの考えがこちら。
ラジオやレコードプレーヤーがあると人は自分で演奏しようとする意欲を失い、たとえ未熟でも自分で演奏することで得られる満足感が得られなくなる
なるほど。来週はサックスを持って沿線にジャムセッションに行こうと思います。
明日も読む予定。この本についてもしばらくたってからまとめて発表の予定です。
ではグーテナハト。
やっと読み始めた永遠の0
私は、あまのじゃくなので、流行りものにはなかなか手を出さないのですが、先日実家に行った時に、父が読み終わったというので借りてきました。
百田尚樹さんは、探偵ナイトスクープの放送作家です。私は作家デビューをする前から存じてました。ナイトスクープで北野誠とからんでいたのを記憶しています。
それぁら。百田さんが半年ほど前に、日曜日12時からNHK-FMで放送しているトーキング松尾堂に登場して、なみなみならぬ気配りとトークと気配りの才能を披露したのも存じてました。
で、ようやく今日から読み始めたのですが、止まらないです。引きこまれてしまいました。
当初から、設定に戸惑いました。主人公の祖父がゼロ戦パイロットと言う設定で、しかも、熟練パイロットであったのに、神風特攻で戦没した、という設定に、首をひねったのです。
特攻隊員で熟練パイロット? そんなわけはないはずなんですが。
ですが、読み進めるにつれて、なるほど、このアンバランスな設定こそが、この本の真髄であり持ち味なのだ、ということです。私の疑問も、作中できちんと説明されていましたし。
半分ほど読みました。この本が話題になるのは、ある意味いいことなのかもしれない、と思います。これが、実務に活かされるともっといいのですけれど。そして、反省の念も。だからといって、それを変えることも難しいのですが。
さしあたり、本日は休戦。明日再戦。グーテナハト。
堅実なワーグナー伝──高辻知義「ワーグナー」岩波新書
1986年に刊行された高辻知義氏による「ワーグナー」。以前も一度読んだはずですが、もう一度読み直しました。
かなりまとまった緻密な一冊でした。ワーグナーを神格化することもなく、逆に誹ることもなく、中立の立場から冷静に論じていたと思います。
ただ、私は悠書館の「ワーグナー」を読んでしまっていたのです。悠書館の「ワーグナー」は最新の研究成果を取り入れた記述になっていました。ここで知った新たな事実は霹靂ものです。
ですので、私はこの高辻氏の記述の裏側に様々な事象を織り込んでいたようです。
たとえば、コジマがビューローと別れた経緯については、ワーグナーとコジマが通じたという事実と離婚という事実が記載されていただけですが、悠書館においては、ビューローが問題のある夫であったという事実が紹介されており、コジマの行動にある意味納得させられてしまうのです。私の中のビューローのイメージは、巨匠のそれですが、若き日は迷いのある日々だったようです。
さて、昨日はブログ休みました。どうにも先日の夜勤明けから、めずらしく風邪を患いました。
昨日は朦朧としながら、別件のインシデント対応を行いつつ、早めに帰宅してよく眠りましたので、今日は持ち直しました。
今日もこちらで落涙。ベン・ヘップナーは、柔和さだけでなく、雄々しさもあります。フォークトやコロにはない英雄的ヴァルターです。私の中のヴァルター像を変えなければならないかもしれません。
では、グーテナハト。
批評は美を創る── エディエンヌ・バリリエ「ピアニスト」アルファベータ
もしあなたが美を謳い上げるとすれば、それは美が存在するからではなくて、美を存在させるためなのです。多分これが批評家の正しい役目であり、尊厳なのです。多分そこから彼らも創造という作業に加わることができるのです。
メイ・ジンという美貌の中国人ピアニストをめぐる、フレデリック・バラードとレオ・ボルドフスキーという二人の音楽評論家の論戦は、不思議な結末を迎えました。
二人の架空の音楽評論家は、メイ・ジンをめぐる論争から、ほとんど個人攻撃とまでいえる過去の記憶への機銃掃射を互いに行い、血だらけになって傷つくのですが、奇妙なことに撤退と和解へと進んでいくのです。
それは、メイ・ジンを徹底的に攻撃したレオ・ポルドフスキーが、もう一度メイ・ジンの演奏を聴いたあとからでした……。
「ピアニスト」は西欧音楽の普遍性を論じながらも、書簡体小説として、書簡と書簡の間に横たわる空白の文脈への想像あるいは妄想へとさそう、文学を読む愉しみをももたらしてくれる「小説」でした。
もちろん、ここで論じられている問題は、既に論じつくされたことなのかもしれません。西欧音楽の普遍性なんていうものは、絵空事といえるのかもしれないわけです。
ですが、私は冒頭で引用した一節、これは敵であるフレデリック・バラードに対して、レオ・ポルドフスキーが、和解とも言えるメールを書くのですが、その中の一節です。
別に普遍的美などあろうがなかろうが関係なく、それがあるということを前提に、あるいは信じ、それを表現するということ。批評の素材として音楽そのものも重要だが、それを「美」として解釈することも、「美」を創造するプロセスである。
そういう議論です。
私はこの議論を諸手を挙げて賛意を示すわけには行かないのです。というのも、こうした言動は、当然では有りますが、批評家側からしか出てきません。これは自己賛嘆とでも言える言辞なのです。音楽家から同様な言葉が出てくればいいのですが、私はそうした言葉を聞いたことがないのです。
ですが、私の中に常にある疑問、生成者と受容者の関係に関する疑問の解決へと少し励まされた気がするのです。
生成できるものだけが、その美を享受することができるのか、という問題。生成者同士で、隠語のようにその秘術的な美を崇拝しあうのではなく、非生成者にも、美という秘仏の背光を浴びる権利あるいは可能性があるのではないか、ということなのです。さらに議論を進めて、その秘仏の背光を作り出しているのが非生成者である受容者ではないかということです。認識論的な問題かもしれません。受容者こそが生成された素材に美という価値を無意識に与えている。それを言語化レベルまで引き揚げることで、明示的な美を生成する……。
リスナーがいない音楽は意味が無い、といった浅い議論ではないはずです。
だからこそ、「創造」という言葉が出てくるのでしょう。
ただ、やはりどうしても、私はこの批評家が美を創造するという考えが、完全に胸のつかえをとるものではないようにも思っているのです。
総じて、本書には大きな満足を覚えました。そしていろいろなものを得ました。文学的にも美学的にも。
ただ、この後どうすべきなのかが、私にはわからないだけなのです。
ではグーテナハト。







