Anton Bruckner,Book,CD紹介,Classical

先日も書いたとおり、エーリヒ・クライバーの伝記を読んでいます。

その中で紹介されていた失神に関するエピソードを。

運命の失神

1927年3月、ベートーヴェン没後百年祭の演奏会のこと。
ボンでエーリヒ・クライバー指揮による演奏会で交響曲第5番が取り上げられました。その日はどんよりと曇った日でした。
スケルツォから終楽章へ突入する瞬間、雲の切れ目から一筋の太陽の光がガラスの屋根から差し込んできました。
途端に立ち見で聴いていた学生たちが気を失ったそうです。
戦時中、エーリヒ・クライバーが夫婦で南米の小さい町を歩いていると、男が近づいてきて「私は、あのベートーヴェン百年祭演奏会で気を失った学生の一人なんです」と話しかけてきたそうです。
これは伝説とされていますが、先日出版されたエーリヒ・クライバーの伝記で紹介されているエピソードです。
あそこで突然光が差し込むなんて、出来過ぎた話です。本当なら私も失神したはず。

神は存在する?

これって、朝比奈隆がザンクト・フローリアン協会でブルックナー交響曲第7番を降った際に、第二楽章が終わった途端に、教会の鐘がなった、というエピソードを思い出しました。神様はいるのかも。
このアルバムです。



私はかなり遅い目のテンポをとり、広間の残響と均衡をとりつつ、演奏を進めた。十分な間合いを持たせて第2楽章の和音が消えた時、左手の窓から見える鐘楼から鐘の音が1つ2つと4打。私はうつむいて待った。ともう1つの鐘楼からやや低い音で答えるように響く。静寂が広間を満たした。やがて最後の鐘の余韻が白い雲の浮かぶ空に消えていった時、私は静かに第3楽章への指揮棒を下ろした。

朝比奈さんの言葉です。
第2楽章はレクエイムです。ザンクト・フローリアンに眠るアントン・ブルックナーに演奏が届いたのかもしれません。
ここでも私は失神するかもしれません。
鐘の音を確かめるためにCD聴き始めましたが、このアルバム、いろいろ言われていながらも、かなり感動的です。おすすめ。
ドライブした演奏。朝比奈さんがグイグイ引っ張ります。デュナミークの統率感は格別。
1975年の録音ですから、もう38年前ですか。

失神とは?

先日、読響の《アメリカン・プログラム》で、失神寸前と書きましたが、まあ、音楽で失神をするというのはよくある話なのでしょう。
失神とは「大脳皮質全体あるいは脳幹の血流が瞬間的に遮断されることによっておこる一過性で瞬間的な意識消失発作」です。
この内、音楽を聞いて失神するのは「神経心原性失神」のうち「血管迷走神経反射性失神」と呼ばれています。長時間の起立、驚愕、怒り、予測外の視覚、聴覚刺激、ストレスなどによるものが多いようです。
おそらくは、立ち見の学生は、立った状況で、予測外の視覚と聴覚刺激によって血流が脳から失われ、崩れ落ちたのでしょうね。
というわけで、また明日。

Book

今回も、随分と楽しい時間を過ごせました。NHK交響楽団の首席オーボエ奏者である茂木大輔さんが1997年に出版した「オーケストラ空間・空想旅行」です。

茂木さんはミュンヘンに留学しておられたのですが、留学から卒業して欧州のオケで活躍するに至るまでのエピソードが綴られています。
興味深い欧州オケ事情から、東ドイツの音楽状況など、場所と時代を超えて、知的好奇心を刺激するものです。
あとは、抱腹絶倒なエピソード。
アメリカに演奏旅行に行った際に、茂木さんと、現在ベルリン・フィルでオーボエを吹いているアルブレヒト・マイヤーがおかした失敗が面白すぎるのです。電車とバスに乗り遅れて、夜中のボストンをうろつく場面や、ニューヨークで集団詐欺にしてやられる話など。あのクールで知的な印象のアルブレヒト・マイヤーが騙されちゃったのか、なんていう感慨に浸れます。
あとはレーゲンスブルクのお城で催された貴族のパーティーのエピソードも。晩餐会のBGMの演奏で法外なギャラを貰ったであるとか、ロック・バンドも呼ばれていたのだけれど、それがミック・ジャガーだったとか、信じられないようなエピソードなども。
本当に楽しい一冊でした。
明日はみなとみらいへ出撃です。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

すべてが、背理なのだ。この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく、正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)だが、この世の背理に気づいた者は、その背理を受けいれるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。だが、それは嘲笑でも、憫笑でもない。それは哄笑なのだ。

「嵯峨野明月記」は、今や私にとっては生きる指針にほかならないかも。
この引用、もう何回もやってます。
「この世は背理である、ただ、笑い飛ばすしかない」
この「この世は背理である」というテーマこそ、「風神雷神図屏風」を描いたとされる俵屋宗達が「嵯峨野明月記」のなかで、喝破するテーゼです。
すべての誤謬に怒りを表すのではなく、笑い飛ばせ、というもの。戦闘的オプティミズムとでもいいましょうか。
「ツァラトゥストラ」を読んでいて、この場面を思い出しました。まあ、当たり前なんですが。
それ以来、私は怒っているとき常に笑っています。なーんちゃって。
この「背理である」という言葉、数年前に流行った「起きていることはすべて正しい
」と同じことを指しているのでは、とも考えています。
嵯峨野明月記、実は辻美学の一つの頂点なのではないか、と思います。辻邦生の小説論である「小説への序章」とも内容がかなりかぶっています。「小説への序章」の中でディケンズ的表現とされているものが、「嵯峨野明月記」の中で使われていることもよくわかります。
今日で一週間終わり。月曜日休みだったから、短い一週間でした。週末は読書と書物とコンサート。ああ、勉強もしないと。

Book

さて、先日に続き立花隆さんの本。

アマゾンで観たときには想像できない分厚さでした。
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それで、まえがきにこんなことが書いてあります。

しかし、このように書棚の全容をパチパチ撮られるというのは、あまり気持ちがいいものではない。自分の貧弱な頭のなかを覗かれているような気がする。さして美しくもないからだのヌード写真を撮られているような気がしてきたりする。

とのことですが、まあ、そんなことあるわけないです。ここは、ちょっと卑下し過ぎですよ。まったく。
いずれにせよ、広範な分野にまたがった蔵書には感銘を受けること間違いありません。
印象的なのは、ウィトゲンシュタイン、マリア信仰、アーサー王伝説、井筒俊彦など。もちろん、農協、共産党、脳死といった、立花さんの著作に関する部分も面白いです。
短いエッセイ風の書棚解説で、立花さんの頭のなかを少し覗き見ることができます。一般教養へのよい道標ですね。是非一度目を通してみてください。
それにしても、これだけの蔵書を持つのは、ある意味夢です。ビル一棟すべて書棚だなんて、嬉しすぎます。
週末。ですが、まだ仕事をしている人がいるので、もう少し起きていましょう。何もなければ、今週も「仕事」の本を読み耽る予定。

Book,Classical


手に汗握るエピソードのかずかずでしたよ、本当に。
NHK交響楽団の首席オーボエ奏者の茂木大輔さんのエッセイ集。というより、これは音楽家の波瀾万丈、スリリングならドキュメンタリーです、
楽器をやらなければわからないことというものがあります。どんなにオケ好きでも、楽器をやっていれば、楽器から眺めたオケの批評ができますが、楽器をやらない者にとっては、そうした見方がわかることはありません。
ですが、この本を読めば、そうした楽器を通したオケの見え方がよくわかります。
例えば、ベルリンフィルのかつての首席オーボエ奏者だったシェレンベルガーが、マーラーの九番第一楽章の最後で見せた信じがたい演奏。茂木さんの解説を読めばその恐ろしさは想像できます。

オーボエが苦手な、「小さい音、低い音、非常に長い音」という条件を3つとも備えた「三重苦ソロ」である。下手をすれば音そのものがスタートしないか、してもエンストして途切れるか、もっと悪い時にはぶがっ! と爆発してすべてをぶち壊す可能性があるという、恐ろしい場所なのだ。

ああ、想像できます。
(全然比較にならんですが)、私もかつて2年ほどやっていたプログレ・バンドで、ハチャメチャにしごかれていた時、そういうことがありました。
それからこんな下り。

一時間半の休みの間に、おれは、「天才」リードにも、早くも寿命が来たのではないか、と思うようになった。おれは「天才」と同じ日に生まれた「兄弟」を取り出して、楽器につけてみた。
「いける!」

信頼していたリードが、いつの間にかヘタっていたという恐怖。リードを変える判断の恐ろしさ。

あとのリードは、すべて、音色、ピッチ、反応など、何らかの意味で完全不合格だったのだ。ということは、このメイン・リードにもし刃物を入れて、凶とでた場合、バックアップには入れるリード、リリーフは、今回については一本もない、という、まさに背水の陣なのだ。

ああ、もう想像するだけで恐ろしい状況です。ライブ前にリードが全部ダメになってしまっうのではないかという恐怖。
私もかつてはサックスを吹いていました。
サックスはシングルリードで、オーボエはダブルリードですので、難しさは全く違います。また、サックスの場合、リードは出来合いのものを買ってきて選ぶだけですが、茂木さんの場合はリードを自作されていますので、大変さは比べようもないです。
それでも、あのリードの手持ちがなくなる感覚や、へたったリードがいうことを聞かなくなる感覚がよくわかり、読みながら肝を冷やしました。
それ以外にも、シャルル・デュトワの完璧主義とか、「ビータ」と呼ばれる演奏旅行のことなど、茂木さんの独特のタッチで軽妙に料理されるオケ好きにはたまらないエピソードの数々。
1998年と言いますからいまから15年も前の本ではありますが、輝きは失われませんね。その他の茂木さんの本も読まないと。
明日で今週は終わりますが、わが部隊の精鋭は明晩夜間戦闘任務に。私も少しは援護しないと。

Book

 
最近、読書が面白いのです。
色々理由がありますが、一番大きな変化は本を買い始めたことかも。
この数年間は、所蔵場所に困るということで、本はなるべく図書館で読んでいたのですが、故あって買ってみることにしました。図書館の本は当然線を引いたり書き込んだりすることは能わないわけです。持っている本であっても、いつか売るかも、と思うと、線を引いたりマークするのも躊躇します。
ですが、考えを変えました。
個人差があるんでしょうが、私の場合は、線を引いて、書き込まないとどうにも読んだ気分になれません。
というわけで、本を買って、線を引いて書き込みをする読書を始めたところ、これが本当に本当に楽しいわけです。
この快感は、幼き頃、早く寝ろ、と親にどやしつけられて、泣く泣く布団に入りながらも、「真っ暗にすると怖いから」とでっち上げてつけてもらった豆電球の光でリンドクレーンを読み続けた時の快感に匹敵するかも。
先人もみんな同じ考えのようで、立花隆氏も同じことを書いておられます。
(もっとも、職業作家の方々は、書籍の売上を伸ばさなければならないので、いきおいそうしたことを書くのでは、とも思いますが)
立花隆氏の「『知』のソフトウェア」における、書籍の読み方のポイントは以下のとおり。

  • 本は現物を手にとって見なければ価値評価を下すことが絶対にできない。
  • (読んでいない本は)目の前に積み上げておいて、これだけ読まねばならぬのだと、自分に心理的圧迫感を与えよ。
  • 精神集中の役に立つのはきわめつきに難解な文章の意味をいくら時間がかかっても良いから徹底的に考え抜きながら読むことである。なぜ自分にはこの意味がわかならいのかと、自分の頭の悪さに絶望しつつ、それでも決して本を投げ出したりはせず、なかば自虐的にとことんしつこく考えて考え抜くのである。
  • 読むに値しないくだらない本であると分かるものがあったら、その本はただちに読むのをやめて捨てる。
  • 一般に本を読んでいてわからないことに出会ったら、すぐに自分の頭の悪さに責を帰さないで、著者の頭が悪いか、著者の説明の仕方が悪いのではないかと疑ってみることが大事。
  • 速読を求めてはならない。速読は結果である。

というわけで、日々電車の中で読書中です。私もかつては哲学科の末席を汚していましたので、もう少し本が読めるようになりたいものです、などと思ったり。
読書が面白い理由は他にもあります。それはまた今度。
※※※
昨日からの勤務。
7月2日は、19時に出社して翌日5時まで勤務
本日は、帰宅後仮眠して、14時半から21時まで勤務
日にち感覚がめちゃくちゃです。

Tsuji Kunio

昨日とりあげた「樹の声海の声」の主人公の名前は咲耶といいますが、「夏の海の色」に登場する女性の名前も咲耶でした。今気づきました。なんで気づかなかったのか。
「夏の海の色」は、100の短篇からなる「ある生涯の7つの場所」シリーズに収められている短篇です。夏の城下町で過ごす主人公と、夫と別れ、子にも先立たれた若い女との交流が描かれています。その若い女の名前が咲耶です。
セミが鳴きしきる、日の当たる夏の城下町は、私にとって夏の原風景のようなものになりました。そんな城下町に実際に行ったことはありませんが、この本の印象が強すぎて、イメージが出来上がってしまっています。
ちなみに、この「夏の海の色」に登場する海辺の街は、私の想像では湯河原だと思います。辻邦生は戦争当時湯河原に疎開しています。この物語に、いかのような箇所があります。


そうした夜、寝床から這い出して窓から外を覗くと、月が暗い海上に上っていて、並が銀色に輝き、本堂の裏手の松林の影が、黒く月光のなかに浮び上がるのが見えた。

私は、湯河原でこの風景と同じ風景を観たことがあるのです。白く輝く月光が黒黒とした太平洋上に燦と輝き、大洋のうねりが月の光を揺らめくように映し出していました。
きっと同じ場所で観たに違いない、そう思ってしまうのでした。
あすで仕事は終わり。でも週末も仕事があります。

Tsuji Kunio

弘さんの友達は、みんな有名になっている。志賀も田村も有島も木下も武者も……。いまじゃ彼らのことを誰一人知らない人はいない。弘さんだって生きていれば、必ずいい仕事をした人だ。たった十年、十一年──その歳月の差が、これだけの違いをつくるんだな

樹の声海の声3 239ページ
いや、本当にそうです。どれだけ生きてどれだけ続けたかが大事です。執念で生き延びることが最も大事。
辻邦生が、江藤淳の自殺を厳しく批判したというエピソードが佐保子夫人の回想に出てきます。生への飽くなき欲求は辻文学の特徴の一つです。死への憧憬といたテーマはほとんど出て来ません。
ただ、不思議なことに、短編においてはかならず「死」が出てくるように感じたことがあります。当初はそれが辻文学の特徴かと思っていました。ですが、今から思えば「死」が裏返しになって「生」の重要性を裏打ちしているのだ、と思うのです。
「ランデルスにて」で死んだ女性、「ある秋の朝」で死へと疾走する脱獄囚、「夜」で交通事故にあってなお恋人のもとへ歩こうとしたアンナ、などなど。。
まずは生きること。生きて成し遂げることなんでしょうね。
「樹の声海の声」は、大学受験のために東京に来た時に、神保町の三省堂で全巻一気買いをして、受験終了後読みふけりました。もう20年ほど前にもなります。あの頃の読書体験は本当に宝物です。
樹の声 海の声 (3 第2部 上) (朝日文庫)

Tsuji Kunio

 
起こりもしないことを思いわずらわぬこと。何か起こったら、その時それにぶつかればいい。結果を思わぬこと──それが行動のこつだ。

 
雲の宴
確か、樹の声海の声の主人公朔耶の母親も似たようなことを言っていましたね。さしあたり、まだ良くわからないことについては、最善のシナリオを考えておけばいい。思い悩むのは、事が起きてから、といった感じだったと思います。
なかなかその境地にまでは達せませんし、さすがに最悪のシナリオを考えないとビジネスが成り立ちませんが、そうあれれば幸せだと思います。
明日は出張。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

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辻邦生「光の大地」を読んだのは、発売されてすぐだったと思いますので、おそらく15年ほど前のことだと思います。
タヒチやアフリカを舞台にしたエキゾチックな物語で、ヨーロッパの香りたかい辻邦生作品の中にあっては異色の作品といえるかもしれません。物語の語り口も親しみやすく、おそらくは新聞小説ということもあり、想定する読者層が違うからだと考えています。
ですが、通底するテーマは辻邦生作品ならではです。生きることの喜び、しかしながら、その喜びを追求しようとするときに性急な改革を求めると必ず失敗するという冷厳な事実。これが私が思う辻邦生作品群の一つのテーマです。
この作品においても、クラブ・アンテルというリゾートをトリガーとして、宗教団体による「性急な改革」が描かれています。もちろんそれは失敗に終わります
このクラブ・アンテルというリゾート企業ですが、おそらくは、クラブ・メッドを下敷きにしているはずです。アンテルは、フランス語で「中」という意味で、クラブ・メッドのメッドは地中海の意味です。アンテルは地中海の「中」をとったのではないか、と想像しています。
私は、辻ご夫妻がタヒチにいらっしゃった時の写真をどこかで見ているのですが、どこだったのか探し出せていません。それをみるとすこしヒントがみえるかも。
先日行ってきたのは、沖縄にあるクラブ・メッドでした。辻作品の中のように、スタッフが活き活きと働いていましたが、現実と小説が違うこともあるようです。
滞在中は楽しい毎日で、帰宅してから社会復帰するのが非常に大変でした。
冒頭の写真は夜明けの海岸から撮ったものです。先日読んだ本によれば「プロの写真家は失敗写真を絶対人に見せることはない」とありました。何百枚と取りましたが、あと数枚しか出せません。。
さて、この「光の大地」ですが、構成が不思議なのです。主人公のあぐりが宗教団体の被害にあって、そこから恢復する場面が他の作品と違うのです。通常の辻作品の「恢復」の場面はもっとみじかく、エピローグほどしかないのですが、「光の大地」の恢復の場面はエピローグよりももっと長いですが、場面としては短いのですね。本当はもっと長い小説だったのではないか、などと思う時もあります。