Book,Classical

岡田暁生氏「西洋音楽史」の書評的随想。5月13日に書いた第一回に引き続き、第二回をお届けします。

副題の「黄昏」

さて、「神の死」を議論しようとするときに、注目しなければならないことがある。それは副題が「クラシックの黄昏」とされていることだ。これは、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」四部作最後の作品である「神々の黄昏」を下敷きにしている、と考えるのが一般的だろう。
「神々の黄昏」とは、リヒャルト・ワーグナーの手による、「ニーベルングの指環」四部作の最後の作品の名前である。「ニーベルングの指環」は、神々の没落を、黄金でできたニーベルングの指環の争奪と絡めて描く大叙事詩である。
「神々の黄昏」の最終部分においては、神々の住まう城ヴァルハラが、神の長であるヴォータンの娘、ブリュンヒルデが身を投じる業火によって焼きつくされることになる。神々の時代が終わり、新しい世界が到来するのだ。[1]
これらが、「黄昏」という言葉が西洋音楽史という文脈の中で持つ意味として了解される。

神々の死のあとには何がくるのか?

では、ワーグナーが描いた神々の黄昏の後に来たるべき新しい世界とは何なのか? 解説書などにおいては「愛」である、とされている場合が多い。
だが、それは違うのだと思う。「愛」などという、なかばキリスト教的な言辞は、神々亡き後の世界を表現するには不穏当で、空々しさを感じる。なぜなら、神々の死後の世界は破壊と殺戮と欲望の歴史だったからだ。二つの世界大戦、核競争、歪んだ資本主義、テロの時代……。神々の亡き後は、秩序なき時代へと向かっているように思えるのだ。
ただ、それは世の本意ではないはずだ。神々の黄昏のあとに来るものは何だったのか? 神々の死んだ後に、その権能を肩代わりしたのは西洋音楽のはずだった、というのが、前述のとおり本書の意図と思える。「はずだった」というのは、それがうまく行かなかったからだ。

新たなる宗教的法悦こそ音楽

たとえば、マーラーやシェーンベルクが音楽をどのように捉えていたのかが以下のように紹介されている。少し長くなるが、以下の部分を引用してみる。

 音楽がどんどん世俗化していったバロック以降の音楽史に在って、マーラーは再び神の顕現を音楽の中に見出そうとした作曲家だった。だが宗教が死んだ19世紀に生まれた彼にとって、「在りて在るもの」としての神は、決して自明ではなかったはずである。(中略)なんの疑いもなく「神はある」とは、彼には言えなかったはずだ。(中略)しかしながら、この悶絶するような自己矛盾こそが、マーラーの音楽を現代人にとってなおきわめてアクチュアルな──あれほど感動的な──存在にしているものであるに違いない。(中略)「いかに現代人は再び神を見出し、祈ることを学ぶに至るのか」という問い、これこそまさにマーラーの全創作のモットーでもあったに違いないだろう。

194ページ

神を殺してしまったせいで行き場が亡くなった、「目に見えないものへの畏怖」や「震撼するような法悦体験」に対する人々の渇望があったに違いない。そして19世紀において、合理主義や実証主義では割り切れないものに対する人々の気球を吸い上げる最大のブラックホールとなったのが、音楽だったのである。

169ページ
 確かに、コンサート会場は、宗教儀式にも近いものがある。たとえば「バイロイト詣で」という言葉が、(邦訳だけだとしても)それを端的に表している。バイロイト音楽祭は、ルルドやエルサレムのような聖地へと変貌を遂げている 
(「バイロイト詣で」という言葉は、Wikipediaにおいては、アルベール・ラヴィニヤック”Le voyage artistique à Bayreuth”という書籍のタイトルにあてられた訳として登場する。このタイトルには「詣で」といった宗教的な意味合いはないように思える。明治以降の日本における西欧文化受容にあって、たとえば哲学堂で、ソクラテスとカントが釈迦と孔子とともに四聖として神格化されているのと同じような崇拝志向が追加されているようにも思える。したがって、私の「バイロイト音楽祭が聖地へと変貌している」のは、日本だけなのかもしれない。これについては継続調査が必要)
 あるいは、コンサートで涙をながし感動する、であるとか、商業音楽においてもカリスマ的なアーティストのコンサートが個人崇拝の宗教儀式のような恍惚感をもたらすものであるだろう。

[1] ただ、ここでいう神々とはなにか、諸説あるだろう。ここでは、単純にニーチェの文脈において「神」とはキリスト教における神を指している。だが、ニーベルングの指環の文脈においては「神々」とは別の意味を持つ。例えばいわゆる王侯貴族などがそれにあたるのではないか、というのが私の平常における意見である。
続く
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ヴェルディのナブッコ神話、についてのシリーズですが、ヴェルディの解説書を二冊借りてきたところ、ナブッコの初演のエピソードがあまりに淡白なものにとどまっていることに気づきました。一番扇動的なのが「物語 イタリアの歴史」のようです。
この話を書かないといけないのですが、手元に資料がないので、先日第一回をのせた、岡田暁生さんの「西洋音楽の歴史」についての小論を載せます。随筆書評ですので学術的なツッコミはご容赦とともにご指摘くださると助かります。あと一回書く予定です。
っつうか、音楽自体のことを書いていないのですね、最近。それよりも、オペラあるいは音楽が指し示す現代批評性に興味が向いています。

Book,Japanese Literature

昨日、村上春樹氏「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」読了しました。


なにより、すべてを語ることはなく、謎の円環が閉じられることはありません。半分哲学書の感もある辻邦生先生作品であればもっと書かれるかもなあ、などと思いました。

この点は、最近「文学」を読むことがほとんどなかったので、懐かしさを感じました。

読者=受容者に解釈を委ねるのはオペラ演出と同じ。立ち止まらず考えることを要求されます。というか、それが楽しいですね。

前半の不条理感が素晴らしく、非現実的な状況がかえって現実世界の不条理を現しています。世界は論理ではありませんので。

意識と現実の狭間を描いていたのは素晴らしくて、自分の思念や想像が現実とつながっているのではないか、という怖れや疑いをリアルに感じるます。ここはすばらしいところ。特に夢と現実の結節の可能性を描いたところは素晴らしいと思うのです。疑いながらも事実が指し示すのが、夢が現実化している可能性であると言う点。ここに一番胸を打たれました。あまりにリアルですから。

その分、後半、明らかにされる物語は、幾分か整合性のある現実的なもの。もっと超常的な話でも良かったのでしょうけれど。それでも謎は残されているのですが。

あとは、この本、若い人が読むとどう感じるのか、少し興味があります。きっと違うのでしょうね。

「巡礼の年」、と来ましたから、タイトルを知った時から、リストだと思っていましたので、それは予想通り。加えて私の好きなブレンデルの録音が出て来たのは嬉しかったです。私が愛することのできる数少ないピアノ曲ですから。私もスカンジナビアの夏に「巡礼の年」を聞いてみたいものです。

気づいたらiPodにベルマンの「巡礼の年」も入っていて、驚きました。「第二年イタリア」だけでしたが。

Book,Classical

はじめに

先日から二回目を読み終わった、岡田暁生さんの「西洋音楽史」ですが、色々考えるのですよ。日曜日に一気に載せようとしましたが、体調不良のため一旦撤回しました。仕切りなおして今日から連載で。
ではどうぞ。

神なき時代の音楽とはなにか?

2005年に出版された岡田暁生氏の「西洋音楽の歴史」は、新書で平易な書き方ながら、歴史の中の時代時代において変転していく音楽の「意味」を論じたものである。つまり作曲家やその作品の羅列ではなく、当時の政治社会情勢、あるいは思想状況を背景に、音楽がそれぞれの時代にどの意味をもったのかを明らかにする。

結論めいたもの

だが、この本は単なる歴史本ではないのだ。叙事的に語るだけでなく、現代における音楽の「意味」を措定している。ここが極めて画期的な論なのである。
この「意味」とは何か。私は以下のようにまとめてみた。
「神を失った現代人にとって、西洋音楽が、あるいは西洋音楽の末裔であるポピュラー音楽がそれに代わるものとして求められている、あるいは求められていた。神の秩序の代替として。」
これが、本書を読んで強く思った、音楽のアクチュアリティである。

年代記としての西洋音楽史

繰り返しになるが、本書は、西洋音楽史と位置づけられているわけで、当然ながら中世から叙述が始まる。叙事的に語られる中世音楽への淡々とした記述が、前述の私が思うところの結論である「西洋音楽が神の代替となる」への下敷きとなっていることに気付くことになる。
つまり、当然のことながら中世当時の音楽は超越的秩序の現れとされており、神を表現する方法でもあったわけで、そうした音楽の機能が、「神の死」の後の19世紀において、再び復活した、という、回帰の構造が見えてくるのである。「音楽史」という音楽の年代記的記述でなければこうした構造をとることはできなかったということになるだろう。

編集後記

この原稿、今月になってようやくわかりはじめたScrivenerというライティングソフトで書いています。これがもう画面が美しく機能的ですっかり虜になってしまいました。Macを使いたかった理由の一つがこのソフトだったので嬉しい限りです。みなさまも是非!
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カテゴリ: 仕事効率化
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Book,Classical,Music

先日二度目を読了した岡田暁生「西洋音楽史」、読み終わったあとも、書き抜きをしたり、文章を書いたりして考え続けています。これは本当にお勧めですね。2005年出版ですので、もう8年前の本です。帯には「流れを一望」とありますが、一望どころか、どこから見れば眺めがいいのか教えてくれる良書です。


それにしても、全体の構造まで随分考えられたものだと思います。

まず、副題が『「クラシック」の黄昏』ですから。「神々の黄昏」を意識しているわけです。この神なき時代の音楽のありようを書いている終幕部分へむけての部分は圧巻です。

徐々に手の内が明らかになり、最後に、冒頭の中世の音楽の項目に思い巡らすことになります。循環形式的です。

新書ですので大変わかりやすく、それでいて、つくところはついていると思いました。こうしたパースペクティブを教えられたのは大きいです。
GW明け。ですが、GWも一日おきに会社に行きましたから。今日はやけ食いです。
ではまた。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

 

<楽しさ>のないまま、ただ時間を効果的に使うというのは、いかにも多くを生きたように見えながら、生きることから切りはなされ、無縁な仕事を集積させるにすぎない。いかにすべてを<楽しみ>のなかに取り戻すか──それが<今>に生きる鍵であるに違いない。

辻邦生の言葉です。「風塵の街から」から。

効率は大事ですが、それは楽しみのためにあるべきことなのですね。

ここでいう楽しみとは、おそらくは生きる悦び、と言った意味で、単なる娯楽とは違う意味合いと思います。

効率的に楽しみのために仕事をするのはOKだと思います。仕事でもこうあるべき。実現できるように頑張ります。

 

写真は辻邦生ゆかりの学習院大学の風景です。

明日は雨の中試験を受ける予定。

 

Opera,Tsuji Kunio

アレヴィの「ユダヤの女」を知る機会がありました。本当に興味深いのでご紹介です。

こちらの本を参考にしました。素晴らしい本です。別の折に詳しく紹介する予定です。

アレヴィの「ユダヤの女」についても、別の機会に紹介しますが、今回は登場人物のラシェルについて。というか、ラシェルをめぐる面白い事実について、です。

プルーストのラシェルという女

「ユダヤの女」の登場人物の一人が、タイトルロールと言ってもいいのかもしれませんが、ユダヤ人女性のラシェルです。このラシェルという名前ですが、「フランス・オペラの魅惑」においては、プルースト「失われた時を求めて」に登場するラシェルという娼婦の元ネタではないか、と指摘されています。ラシェルはサン=ルーに愛されるのですが、その後女優になるという設定です。

辻邦生のラシェルという女

実は、辻邦生「夜」という作品にもラシェルが登場します。この「夜」という小説は、4人の主人公の独白が組み合わされたもので、そのうちの一人である高級官僚が関係をもつ娼婦の名前がラシェルでユダヤ人の女という設定になっています。

こちらについては、「失われた時を求めて」を読んでいた頃には気づいていたんですが、その時は私はアレヴィの「ユダヤの女」まで辿ることはできていません。

辻邦生がラシェルを登場させたのは、おそらくは「失われた時を求めて」からとおもいますが、作中設定としては、フランス人としてはユダヤ人女性がラシェルという名前であるといういことは、アレヴィからもプルーストからも想起できる共通認識なのでしょうか。

実在したラシェル

さらにおもしろい事実。ラシェルというユダヤ人の女優は実在しているんですね。19世紀半ばに活躍した悲劇女優だそうで、本名はエリザベート・フェリクス。1837年にパリでデビューしています。テアトル・デュ・ジムナーズ マリー・ベルという劇場にて「La Vendéenne」でデビューしたとあります。


アレヴィの「ユダヤの女」の初演は1835年です。

では、1837年にデビューした時に、ラシェルと名付けたのは誰か?

ウィキペディアによれば、舞台監督の監督のポワソンという男のようです。ですが、ラシェルというのは、このエリザベートが普段使っていた「名前」を選んだのだそうです。ですので、ラシェルの原点がアレヴィによるものなのかどうかはわかりません。アレヴィから来ているのか、偶然なのか。

プルーストのラシェルは、もしかしたらこちらのラシェルも関係するかもしれません。女優になるというのはパロディにも思えますし。謎です。

そもそものラシェルとは?

ラシェルとは、聖書においてはラケルと表記されるようです。創世記に登場する人物で、ヤコブの妻に当たる人です。

知れば知るほど面白いです。

というわけで、また明日。書くことがたくさんですが、もっと書く速度を上げないといけないですね。がんばります。

Tsuji Kunio

森さんは日本人が文化の上澄みをすくい取って、それで文化摂取が出来たと思い込む態度に絶望感を抱いていた。文化は、結果ではなく、結果に至る前経験が大事なのだ。

辻邦生「薔薇の沈黙」 7ページ

巨大な経験の堆積であるヨーロッパ文明というものが、こういう人間経験の無限の循環過程、その複雑な発酵過程だと言うことに思い至ったとき、僕はなんともいいようのない絶望感に襲われる。歴史とか、伝統とか、古典とかいう言葉の意味が、もう僕にはどうしようもない、内的な重みをもってあらわれてくる。

森有正「バビロンの流れのほとりにて」 152ページ

 

西欧文明を理解するなんていうのは、まったく、途方もない話です。

すでに不可能なことは分かっています。試みようとすれば、ろうそくに近づく虫のように焼き尽くされて命を失うことは分かっています。ですので、適度に距離を保って、周りを旋回するしかないわけです。っつうか、危うく焼き殺されるところだったことも。危ない危ない。

辻邦生も森有正も西欧を徹底的に考えた方で、こういう文章の重みは、支えきれないほど。

因果なことに、なんで、西洋音楽を聴いているのかなあ、などと。

ファイル:Catherine de Medicis.jpg

先日も、イギリス人に「日本料理は他国のまねだ!」と言われて、非常に腹が立ちまして、イギリス料理批判をしようとしましたが、そこは思いとどまり、「そもそも「独自性」とはなんだ!」と居直って、フランス料理がカトリーヌ・ド・メディシスによってフィレンツェからもたらされことを指摘して、世界に名だたるフランス料理ももともとはイミテーションであると規定し、溜飲を下げました。写真がそのお方。ロレンツォ・メディチの孫娘で政略結婚でフランス王家に嫁いだお方。

音楽も、日本において受容され、そこで引き続き「発酵」を続けているわけで、その「発酵」の過程を見ているのだ、という解釈が、先鋭的ではない解釈なんでしょうね。

明日は、久々の完全オフ。大掃除と年賀状にいそしむ予定。

Tsuji Kunio

真に生きるとは、たえず不安、危懼、懸念に心がゆさぶられ、日々を神仏に祈りたい気持ちで過ごすことでなければならぬ。不動心を得たいというのは、誰しもが念願することではあるけれど、高齢になって世の名利の外に立ち、常住平静の心境に立ちいたってみると、若い迷妄の時こそが、生きるという、この生臭い、形の定まらなぬものの実体であったと思い知るのである。

嵯峨野明月記 から。

確かになあ。

いろいろあった頃のほうがきっと充実していたのでしょう。いまもいろいろあるのだけれど。

明日でいったん戦線離脱。昨年のクリスマスは仕事でしたが今年は自宅謹慎の予定。

Book,Classical,Japanese Literature,Literature,Murakami Haruki

今月の贅沢。Microsoft ナチュラルエルゴノミクスキーボード。

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トスカのことを書くのが久々の長文だったので、肩こりがひどくなってしまいました。せめて家では楽に文章を書きたいので試してみることにしました。

 

この本、以前から気になっていたのですが、図書館で見つけていそいそと借りて読んでいます。

驚きに満ちた本で、久々に感動しています。

小澤征爾の半端ない半生はもちろん、村上春樹の衒学的とも言える造詣の深さ。村上春樹ってジャズ畑のかたで、若い頃はジャズバーを持っていたぐらいなんですが、クラシックのききこみ方、こちらも半端ないです。小澤征爾もたじたじな場面もあったり。。

やはり天才は何をやっても天才なんですね。

それにしても思うのは、小澤征爾の人柄です。回想の中で、いろんなビッグネームに可愛がられたり仲良くなったりする話が出てきます。バーンスタイン、カラヤンはもちろん、クライバー、ルビンシュタインなどなど。フレーニやパヴァロッティとも親しいのですね。

小澤征爾が、「レコード・マニア」を余りよく思っていないということも。曰く、高いお金出してオーディオセットなんて買うけれど、お金を持っているということは忙しいと言うことで、結局音楽を聴く暇がなく、実は音楽について分かっていないのである、とのこと。

申し訳ありません。

私の人生、なんども変わっている気がしますが、この本でも変わったかもしれない。

これからは今まで以上にもっとまじめに音楽を聴いて、言語化していかないと、と決意を新たにしました。

そう思えるぐらい充実した一冊でした。大変おすすめです。

 

※ 本当かどうか分かりませんが、ウィキペディアによれば、小澤征爾の名前のうち「征」は板垣征四郎の「征」、「爾」は石原完爾の「爾」なんだそうです。

それではまた。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

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昨日の言葉

「時は去りて帰らず、言祝げよ、このよき時を」

ですが、

昨日書いたとおり、これは、辻邦生の大河小説「春の戴冠」でシモネッタとヴェスプッチ家の婚礼の場面で出てくるものです。

「春の戴冠」はルネサンス最盛期のフィレンツェを舞台にボッティチェッリやロレンツォ・メディチが活躍する政治小説、芸術小説、哲学小説です。

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日本人の書いたものとは思えません。小さい頃から外国の児童文学ばかり読んでいた私にとっては、まさに天からの恵みのような小説です。

 

さて、シモネッタは、この「春の戴冠」においてはボッティチェッリ「春」のモデルになった人物とされるヒロインです。

 

シモネッタは、婚礼前に、「春の戴冠」の語り手である古典文学者フェデリゴにある告白をしていました。自分には名も知らぬ好きな男が居るのだが、結局分からないままで、やむなくヴェスプッチ家へ輿入れするのだ、と。

その婚礼の後半の仮面舞踏会の場面。

フェデリゴが、仮面をつけたジュリアーノ・メディチと話をしていると、そこに仮面をかぶった女性が現れます。

ジュリアーノ・メディチは、フィレンツェを支配するメディチ家当主ロレンツォの弟にあたる男です。ロレンツォとともに仮面をつけたまま婚礼会場に現れ、そのまま仮面を取らないでいるわけです。

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仮面をつけていると、誰からも追われず責任をとる必要がない。勝手気ままでそれはそれでいい。でも、仮面をつけた女を愛することは出来ない。

 

だが、仮面の女性は、それに反駁します。

いや、ひょっとしたら、仮面をつけた男を愛せるかもしれない、と。

 

では、この場でお互い仮面を外して、愛せるかどうか試してみようじゃないか。

で、ジュリアーノと仮面の女性は仮面を外します。

 

仮面の女性はシモネッタ。

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で、ジュリアーノは負けたという。婚礼の花嫁が自分のことをを愛せるわけないじゃないか、と。

 

ですが、シモネッタは気絶してしまう。

 

シモネッタの名も知れぬ好きな男とはこのジュリアーノ・メディチであったのだから。。

 

思うに少女漫画的な場面と言われるかもしれないです。だれか漫画化すればいいのに。なんて。

でも、ずいぶんと仕掛けのある場面で、一つの「春の戴冠」の中のクライマックスのひとつです。

 

もちろん、史実はそうではないと思いますけれど。

「春の戴冠」のなかのジュリアーノとシモネッタは、芸術的存在に昇華されていて、天使のように描かれています。本当はジュリアーノには隠し子が居て、その子が後に教皇クレメンス七世になる、とか面白い話がたくさんあるんですけれどね。

 

また読まないとなあ、「春の戴冠」。

 

またしばし夢の中でした。

 

それではまたあした戦場でまみえましょう。