American Literature

先日まで、辻邦生の高雅な世界に沈潜していたのですが、今週に入って、くだんの本を読み始めました。その名も「シェイクスピア・シークレット」。
シェイクスピアの正体への疑いが色々あるのは知っていましたが、実に興味深いのです。クリストファー・マーロウとか、フランシス・ベーコンがシェイクスピアの名を借りて戯曲を書いていたのではないか、という話しにとどまりません。舞台はイギリスからボストンに移り、それからユタ州、ニューメキシコ州、ワシントンDCへと飛び回ります。
主人公の女性とそれを助ける頼もしい従者という構造は、多分に逆ダン・ブラウン的ですが、それでもパターンは美しいのです。
まだ最後まで読み終わっていませんが、予想通りのどんでん返しに少しほくそ笑んでしまいました。それから、固有名詞が相当出てきますので、さらさらと上っ面で読んではいけません。研究書を読むぐらい注意深くないと。もっとも、とびっきり面白い研究書なのですけれど。
この本を読む前に、是非こちらのシェイクスピア別人説のウィキ記事をおすすめします。昨夜遅くまでこの記事を読んでいたのですが、これだけでも面白い。そして、なぜか恐怖を感じるのです。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2%E5%88%A5%E4%BA%BA%E8%AA%AC":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2%E5%88%A5%E4%BA%BA%E8%AA%AC

Japanese Literature,Tsuji Kunio

今日も無事に仕事を終えました。なんだか細々と忙しいですが、回っているコマは倒れませんので、しばらく回り続けることにします。
以前にも書きましたが、辻邦生の「嵯峨野明月記」を読んでいます。四年振りに読んでいるのですが、これまでは中公文庫版で三回ほど読みましたが、最後に読んだ四年前に、付箋を山嵐のように付けてしまいましたので、今回は重いのを承知であえて全集版で読むことにしました。
「嵯峨野明月記」は、全集の第三巻に「天草の雅歌」とともに所収されています。
しかし、俵屋宗達のモノローグを読んで感じるのは、よくもこれだけ画家に憑依して語ることができるなあ、ということ。画家の素養がなければ恐らくはここまで書けないのでは。もちろん、その後ろには、哲学的ないしは美学的な裏打ちがきちんとなされているわけです。恐らくは西田幾多郎の影響が色濃く感じられますし、ハイデガーの芸術論や最晩年の芸術論集である「薔薇の沈黙」で語られるセザンヌ論などが影響しているのだろうとは思います。辻文学は奥深い。哲学や美学の素養も必要ですから。私には哲学の素養も美学の素養もなさそうですが。
「春の戴冠」も、「嵯峨野明月記」と同じく画家が主人公ですが、あの本もやはり哲学的色彩が極めて濃かったです。ルネサンス期の新プラトン主義とキリスト教哲学の融合が通奏低音のように響いていましたから。
あとは、今回「嵯峨野明月記」を読んで感じているのは、文章の中に潜んでいる音の数々が実際に耳元でなっている様に思えていること。例えば、月に照らされた海岸の波の音と松籟の音の描写に、心底感嘆しています。それからちょっとした人間の動作が、その人間の性格を言い当てているようなところは、「小説の序章」で語られるディケンズ論との関連が感じられます。この方法もやっぱり「春の戴冠」でも数多く登場しました。
今日、この文章を書く中で、「嵯峨野明月記」と「春の戴冠」の類似性に思い当たりました。二つの小説の舞台は、一方は安土桃山時代、一方はイタリアルネサンス。時代は100年ほどしか離れていません。場所は地球の裏側ぐらい離れていますけれど。この二つの作品の中に立ち現れる芸術論の比較とか、「橄欖の小枝」や「薔薇の沈黙」などの芸術論との比較分析とか。私がもう15歳若ければ、取り組めたのですが。実に興味深いテーマです。今からでも遅くはないかもしれません。

American Literature

予想通り、本日読み終わりました。「ロスト・シンボル」。ちょっと意外な感想を持ちました。
最初は、娯楽小説を読む気満々で、読んでいて、たしかにそう言う目的は達せられました。それぐらい面白い。ちりばめられたある種衒学的とでも言われてしまいそうなほど、トリビアがたくさんで、目もくらむばかりの万華鏡なんですが、結末に至るにつれて、私の中の古い血が騒ぎ出した感じ。
昔、リッケルトという哲学者の本を読んでいましたが、彼はこういうことを言う(私の誤解でなければ)。
_昨日の私と、今の私は、時間的に隔絶されている。にもかかわらず、昨日の私と、今の私は、同じものとして何かしらの結びつきがある。記憶があったり、考えが似通っていたり。時間が経ったからといって、別人であるということは言い難い(そうも言えない場合もあるけれど)。_
_それと同様に、空間的に隔絶されている人間の間にも何らかの関連性があるのではないか。だからこそ、相互理解が可能なのである。それを可能にせしめているのは、人間の意識を極度に抽象化した意識一般Bewußtsein Überhauptとも言えるものなのである。_
かなり、私の主観が入っているけれど、こういうことを言っていたはず。「認識の対象」という本ですが。
うーん、私は、さっきまで、このリッケルトの考え方について行けなかったのですよ。
時間と空間を同列に扱うあたりは、あまりに純朴なカント主義者という感じがして、この考えを理解したり、体験したりすることはなかったと思っていたんですが、「ロスト・シンボル」を読んで、ちょっと考え方が変わった気がします。
他人同士なんて、全く理解できないと思っていたけれど、それでもなお、その可能性を求めて、哲学を始めたわけですが、結局答えは見いだせなかった。なぜなら、そこに科学的な方法論を確立するためだけの、方法論としての哲学、基礎付け学問としての哲学しか見いだせなかったから。
それは内容のない空疎なものに思えてきたという感もある。もちろん、僕の哲学センスがないと言うだけなのかもしれないし、勉強不足だったとも言えるけれど。もう少し、内容まで踏み込んでも良かったはず。あまりに形式にこだわっていたので。
ここでいう形式とは、カントで言う感性と悟性で、内容というのは、謎のもの。哲学において、内容を語るのは危険だと思っていましたから。語った時点で、それは宗教となり、僕らの言葉で言うと「抹香臭い」考えになってしまう。それは、ダークサイドに落ちるのと同じぐらい忌避されていたので。少なくとも僕の周りではそうだった気がする。だから、形式のほうへと逃げ込んでいって、気づいたら何もなかった、という感じだった気がする。
でも、もしかしたら、リッケルトの言うように、空間を隔絶していたとしても、なにかしらつながりはあるのかもしれない。そんな非科学的なこと、とか言っているのは、単なる偏った態度なのでないか。哲学を放りだしてしまったのは少し残念だったのかもしれない。
「ロスト・シンボル」で教えられるまでもなく、科学を押し進めた先に、なんらか宗教的なものが存在するというのは、予備知識としてあったけれども、それを自分のところまで引き下げて考えたことはなかったんだが、もう少し自分のところまで引き下げて考えてもいいのではないか。
何を言っているのか分からないかもしれませんが、結論を一言で言うと、単なる娯楽小説以上の体験が出来たと言うこと。
最近、辻邦生の永遠性の問題とか、一回性の問題とか、そういうことを考えている時期だったので、かなりの刺激を受けました。アマゾンの評価では、賛否両論あるようですが、まあ、私としては大変貴重な本に出会えた、と思ったのでありました。

American Literature

うふふふふ。ようやく、順番が回ってきました「ロスト・シンボル」。上巻を一日半で読み終え、目下、下巻を読破中。
うーむ、パタンは同じだが、水戸黄門と同じで、パターンを愛せるむきには素晴らしい上下巻です。
若干の歳をくってしまったラングドン博士は、以前よりも太りやすい体質になったらしいけれど、頭脳明晰で、国家を揺るがす(?)フリーメーソンの失われたピラミッドの謎を解くべく、奔走どころか、CIAまでも敵に回して大活躍をしております。
フリー・メイソンなんて、もう珍しくはないけれど、叩けばいろいろ出てくるものなのですね。小説に書いてあることがすべて真実だとは思いませんが、すべてがウソでもないことは、大人でなくても分かります。
しかし、「ダヴィンチコード」、「天使と悪魔」を読んで、「ロスト・シンボル」へ至ると、先にも述べたようにパターン化という面も強いのですが、それでも、ちりばめられた知識群を、垂涎しつつ堪能する悦びは、またとないもの。会社の行き帰りが楽しくて仕方がありません。
でも、もっと大事なこともあるんだけれど。。
きっと、明日読み終わると思います。
あ、今日は、シュナイダー指揮の「ローエングリン」を聞き続けました。これもこれで素晴らしいんだよなあ。
こんばんは、バイエルン放送協会で、バイロイト音楽祭の「ヴァルキューレ」が放送されます。リンダ・ワトソン、You Tubeで観たんですが、すごいっすねえ。今から楽しみ。ちゃんと録れると良いのですけれど。

Book

恒例の先月のまとめ。
* 辻邦生の本をたくさん読めて良かった! 
* 沈まぬ太陽も読了。うーむ、改革はなるのだろうか?
* 8月はやっと順番が回ってきた「ロスト・シンボル」。あとは、辻邦生の本をもう少し読もう、という感じで。

期間 : 2010年07月
読了数 : 8 冊
本・雑誌
辻 邦生 / 中央公論社 (1986-02)
読了日:2010年7月31日
言葉の箱―小説を書くということ
辻 邦生 / メタローグ (2000-05)
★★★★★ 読了日:2010年7月27日
ワーグナー (作曲家・人と作品)
吉田 真 / 音楽之友社 (2004-12-01)
読了日:2010年7月23日
本・雑誌
辻 邦生 / 中央公論社 (1986-06)
読了日:2010年7月12日
沈まぬ太陽〈5〉会長室篇(下)
山崎 豊子 / 新潮社 (2001-12)
★★★★☆ 読了日:2010年7月15日
湯殿山麓呪い村 〈下〉 (角川文庫―リバイバルコレクション)
山村 正夫 / 角川書店 (1997-02)
読了日:2010年7月8日
湯殿山麓呪い村 〈上〉 (角川文庫―リバイバルコレクション)
山村 正夫 / 角川書店 (1997-02)
読了日:2010年7月7日
沈まぬ太陽〈4〉会長室篇(上)
山崎 豊子 / 新潮社 (2001-12)
読了日:2010年7月6日

Japanese Literature,Tsuji Kunio

今日は辻先生の命日


今日は辻邦生氏の命日です。今から11年前の1999年7月29日午後零時四十分、軽井沢病院にてご逝去されました。当時、カミさんからの電話で、辻先生が亡くなった、ときいて、しばらくは言葉を継ぐことができないほどのショックでした。1925年9月24日のお生まれですので、当時まだ73歳。お若かったのに残念です。大変お忙しかったそうですし、自動車事故にあわれるなど、大変なこともあって、最晩年は大変お辛い状況だったようです。それでも仕事にまい進されて、最後まで原稿を離さなかったとか。
当時、私は追悼の意味をこめて一ヶ月間服喪し、アルコールを一滴も飲みませんでした。会社のビールパーティで、先輩に強要されましたが最後まで断りとおしました。
一度だけ少し言葉を交わしたことがありますが、ぜひ一度ちゃんとお会いしてお話をしたかったのですが、その願いもかなわぬまま。でも、そのほうがよかったのかもしれないなどと。

このところの辻体験、西田幾多郎との兼ね合い

このところ、急に「円形劇場から」とか「ある告別」を読んでなんだか展望が開けてきた矢先に訪れたご命日で、なんだかやっぱり僕はいつまで経っても辻先生の手のひらの中にいるんだなあ、ということを感じました。もちろん辻先生は私のことなどご存じないと思いますけれど。
今朝も、行きの電車で「春の風 駆けて」を読んでいました。以前読んだことがありますので、折り目、付箋、傍線から当時読んだときの感覚がよみがえってきています。おそらく2007年ごろに読んだのではないかと思います。
それで、その折り目の中に、辻先生が西田幾多郎の哲学について語るところが出てきます。私は常々西田哲学と辻文学の親和性に着目していましたが、その動かぬ証拠を再発見した感じで、なんとも名状しがたい気分でした。24ページです。特に「西行花伝」を読むと、その類似性には驚かされますので。
西田は、すべては純粋経験から始まり、純粋経験の中にある統一力が秩序となって、世界を形成する、といった感じの議論だったと思いますが(これであっていますでしょうか? I橋先生?)、辻邦生の場合、その統一力というものが美であるという捉えかたをしている、と最近は読んでいます。
辻先生も書いていますが、西田も辻も、論理明晰に哲学を語っていない。それは到底言語化し得ない原初的な体験なのであって、語れば語るほど離れていくもの。けれども、語らずにはいられない。そのため、西田の言説は迂遠であり、難解なものとなっている、ということ。これは辻先生の小説を読み込むときにも感じることです。一言で片付けられるわけはないのです。ましてやブログに、すべてを書くことなんてできやしない。でも書かねばならぬ、という衝動です。

小説を書くときのデモーニッシュなもの

それからもうひとつ。小説を書くときにデモーニッシュなもの、ミューズのようなものが降りてくる瞬間があって、ある種の憑依状態になって筆を進めるのがよい状態なのだそうです。たとえば山本周五郎が小説を書いていたときマーラーやシベリウスを聞いていたのだ、という話が出てくる。こうして音楽を聴くことが魔神性を呼び起こす最良の手段なのだとありました(188ページ)。これには私も同意します。
貼り付けた写真は当時のご逝去を知らせる新聞記事。これは、私のシステム手帳のポケットに11年間入っているものです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

辻邦生の思想の「激しさ」

それにしても、辻邦生の思想は激しいです。劇場が世の中を支えている。すなわち、これは、辻邦生自身によって、美が世界を支える、という直観に読み替えられますので。この直感は辻邦生がパルテノン神殿をアテネでみた体験がゆっくりと醸成されて形成されて行ったものだと考えています。その証拠に、「パリの手記」と題された日記集では、ここまでラディカルには書いていなかったですし、先日紹介した「ある告別」でも少し脇役に回っていた感がありますので。
私はまだここまでの直感を実際に体験したことはありません。美の存在は直観しましたが、それが世界を支えている、あるいは我々の生活を支えている、とまでは、まだ行きません。修行が必要。ですが、ここをどうしても超えなければならない。これは、パルジファルの試練ぐらい難しい気がします。もっと辻邦生の本を読ままいと。
まあ、言う人に言わせれば、辻邦生の美学は50年前の古びた美学と言うことになるのかもしれません。現に、それと似たようなことを言われたことがあります。
確かに、こんな時代を辻邦生が想定していたのか? パフォーマンス臭が強く実効性に疑問があるにせよ、かの事業仕訳で科学文化予算が切捨てられて、それでもなお財源が足らないなんて言う状況にあって、劇場に、世の中を支える美があるのだ、と能天気に言えるのか? 辻邦生がこの直観を得たギリシアの国家財政が破綻したと言う皮肉な事態も。パルテノンの美も財政危機を支えることは出来なかったと言うことではないのか。
その答えを求めているのが、現在ということ。いまいまはオフシーズンのオペラ。いろいろ映像を見たり聴いたりしたい欲求。本も読みたいところ。「円形劇場から」では、夏休みの時間が一つのモティーフとして使われていますが、私には夏休みはありません。よくて秋休みかな。。
頑張る。
辻邦生の本一覧は以下のリンク先を
“https://museum.projectmnh.com/webs/tsuji/tsuji-worklist.php":https://museum.projectmnh.com/webs/tsuji/tsuji-worklist.php

Japanese Literature

沈まぬ太陽 関連ページ
本当の「太陽」は沈んでしまい、「陽はまた昇る」となるかは分かりませんが、ともかく、山崎豊子「沈まぬ太陽」全五巻読み終わりました。良い社会勉強になりました。
しかし、書いてある内容は知らぬ者にとっては驚愕すべき内容です。もし本当だとしら、現状は極めて問題だと思いました。
主人公の恩地は、おそらくは鐘紡から総理によって招聘された新会長により、会長室付部長に抜擢されるわけですが、最後は新会長自身が政治的軋轢に翻弄されたあげくに更迭されてしまい、恩地も再びナイロビに左遷されてしまう、という救われない物語。唯一の救いは、ダークサイドの常務である行天が特捜部に事情聴取を受けたところでしょうか。
JALは、日航ジャンボ機墜落事故以降の経営難を打破するためにJASと合併したのですが、それも結局何の役にも立たなかったようです。そうした史的事実を見てみると、どうやら、山崎豊子氏が書いた「沈まぬ太陽」は極めて真実に近い小説である、と言われても、抗う術を私は知りません。真実は小説より奇なり。さりとて、真実は小説に含まれることもある。この小説を読むと、やはり、ちょっとJALに乗るのに躊躇してしまう。もちろん真剣に働いている方もたくさんいるのでしょうけれど。
なんだか、今年に入ってからのJALの動き方、歴史を繰り返しているように思えてなりません。
それにしても、サラリーマンはどこの世界でも同じだなあ。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

ちょっと遡行更新
うーん、また感動している。
辻邦生「ある告別」を「辻邦生全短篇2」にて読みました。2回読んだかな。
それで、過去記事を検索してみると、2年半ほど前に「ある告別」を読んで、同じようなことを考えているようです。ちょっと違う。この2年で私も変容したということでしょうか。
“https://museum.projectmnh.com/2008/02/11181405.php":https://museum.projectmnh.com/2008/02/11181405.php
あのときは、「若さ」と「美」を大括りしているようですが、いまはそうは思えない。全く別の原理だという直観。あのとき以上に「若さ」との訣別を意識しているのかもしれない。
2年半前の記事から引用。全体の分け方は適切のように思えます。
# パリからブリンディジ港まで:エジプト人と出会いと死の領域についての考察
# ギリシアの青い海:コルフ島のこと、若い女の子達との出会い、若さを見るときに感じる甘い苦痛、憧れ、羨望
# 現代ギリシアと、パルテノン体験
# デルフォイ、円形劇場での朗読、二人のギリシア人娘との出会い:ギリシアの美少女達の映像。
# デルフォイからミケーナイへ:光の被膜、アガメムノン、甘美な眠り
# アテネへもどり、リュカベットスから早暁のパルテノンを望む
# アクロポリスの日没
今回は、2番目のユニットと7番目のユニットを取り出して考えてみます。

若さの喪失直観

2番目のユニット「ギリシアの青い海」で語られること。
船上で、若い女の子二人と出会った瞬間に、若さの喪失を直観するわけです。
私が、最寄り駅に帰り着いたとき、近所の大学生の群団とよくすれ違うのですが、そのときの気分に似ています。まだ辛酸を知らず、屈託のない笑顔を浮かべる彼らの姿は、間違いなく以前の私の姿なのですが、決定的な断絶があると思わざるを得ません。

私は、実をいうと、少なからず狼狽した。それは、見てはならぬものを見た瞬間の気持ちに似ていた。なぜなら、それはまさしく自分がすでに若さから見棄てられたという実感から生まれていたからだった。こんな思いに襲われたことは一度だってなかったのである。(中略)もう自分は若くないのだという感じよりは、この孤独に取り残された感じの方が強く私にきた。それはいかにも若さから転落したみじめな没落を思わせた。

辻邦生全短篇2巻:78ページ
以前にも書いたかもしれませんが、私が若さを喪ったのはワイマールでドイツの若者に出会ったときです。決定的な瞬間でした。リヒャルト・シュトラウスが指揮者を務めたワイマールの劇場前広場で、ちょっとした若者達との苦い邂逅をしたのでした。
とはいえ、いまでは、齢を重ねるということは、悪いことばかりではないと思います。歳をとったから分かることもたくさんあります。おそらく歳をとらなければ「ばらの騎士」も「影のない女」も「カプリッチョ」も理解できなかったはず。

アクロポリスでの日没

最後のユニット。
主人公の語り手は、アクロポリスから日没を眺めるのですが、そこにやはり若者の一団がいて、夕焼けを眺めていて、バラ色に輝いているのです。ですが、いつしか太陽は沈むと、あたりは徐々に闇へと近づいていくのですが、若者たちの一団は放心したようにじっと動かないまま。その瞬間、若者たちが若さを失うということを直観するのです。

その瞬間、私が感じた感情を憐憫と名づけることにいくらか私は躊躇する。にもかかわらずそれはきわめて憐憫の情に似かよった感情だった。(中略)その瞬間、彼らが夕闇に沈んで、昼の役をおえたのみも気づかぬのと同じく、自分たちの「若さ」の役をいずれ終わらなければならないのに気づかずにいるのが、私には痛ましくてはならなかったのだ。(中略)どうして人はかくもみずみずしく健康で美しいものから離れなければならないのか。

辻邦生全短篇2巻92ページ
ですが、若さからの訣別こそ重要であると言うことが語られます。それは、主人公の語り手が、年老いた女が厚化粧をして、若々しい服装をしているのを見て、若さのイミテーションというおぞましさを覚えたことを思い出したからです。そして、次の直観。

おそらく大切なことは、もっとも見事な充実をもって、その<<時>>を通り過ぎることだ。<<若さ>>から決定的に、しかも決意を持って、離れることだ。熟した果実がそうであるように、新しい<<時>>に見たされるために、<<若さ>からきっぱりと遠ざかることだ。ただこのように若さをみたし、<<若さ>>から決定的にはなれることができた人だけが、はじめて<<若さ>>を永遠の形象として──すべての人々がそこに来り、そこをすぎてゆく<<若さ>>のイデアとして──造形することができるにちがいない。

辻邦生全短篇2巻93ページ

そして、この<<ただ一回の生>>であることに目覚めた人だけが<<生>>について何かを語る権利を持つ。<生>>がたとえどのように悲惨なものであろうとも、いや、かえってそのゆえに、<<生>>を<<生>>にふさわしいものにすべく、彼らは、努めることができるにちがいない」

辻邦生全短篇2巻94ページ
人生の一回性の重要性とか、生きていると言うことの奇跡的偶然性、あるいは、祝祭性。このかけがえのなさは、生きる喜びの源となるはず。
これは、辻文学をかたどる一つの重要な要素なのですが、改めて思うところは大きい。何やってるんだろう、わたくしは……、みたいな、焦燥。やりたいこと山ほどあるのに、完全に守りに入っている。もっと、攻めないとなあ。
やっぱり、辻邦生氏が、人生の師匠であるという事実。これは20年前から同じ。でも、まだ全部読めていない。入手可能な小説はすべて読んだけれど、論文集などでまだ読めていないものがあるんですよね。
がんばろう。
そして、もうすこし、ちゃんと読み書きできるようにならねば。それが読書ということらしい。

Book

6月に読んだ本、まとめたところ、8冊読めていました。先月と異なり、ストーリーものをたくさん読めましたので、個人的には満足。7月はもっと読みたいですねえ。
最大のおすすめは、ローラ・リン・ドラモンドの「あなたに不利な証拠として」でしょう。ハヤカワ・ミステリに収録ですが、文学的価値も極めて高い名著だと思います。おそらく駒月雅子さんの日本語訳も原作とあいまってすばらしいのだと思います。結構勇気が湧く本です。
吉田秀和氏の「オペラ・ノート」も印象的。後で書きますが、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」を再聴するきっかけを作ってくれました。
なにげに「沈まぬ太陽」も前五冊中三冊読み終わっていますが、いろいろ複雑な心境。残り二冊も楽しみ。

期間 : 2010年06月
読了数 : 8 冊
あなたに不利な証拠として (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローリー・リン ドラモンド / 早川書房 (2008-03)
★★★★★ 読了日:2010年6月24日
女たちのジハード
篠田 節子 / 集英社 (2000-01-20)
★★★★★ 読了日:2010年6月10日
オペラ・ノート (白水uブックス)
吉田 秀和 / 白水社 (2009-09)
★★★★☆ 読了日:2010年6月30日
風待ちのひと
伊吹 有喜 / ポプラ社 (2009-06-19)
★★★★☆ 読了日:2010年6月18日
ゴサインタン―神の座
篠田 節子 / 文藝春秋 (2002-10)
★★★★☆ 読了日:2010年6月15日
沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇
山崎 豊子 / 新潮社 (2001-12)
★★★☆☆ 読了日:2010年6月29日
沈まぬ太陽〈2〉アフリカ篇(下)
山崎 豊子 / 新潮社 (2001-11)
★★★☆☆ 読了日:2010年6月11日
鹿鳴館 (新潮文庫)
三島 由紀夫 / 新潮社 (1984-12)
読了日:2010年6月26日