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一週間ほど前に撮った江戸彼岸。ほのかな色合いが実に美しいですね。

こういう美しさも世界。あるいはあまりある芥も世界。世界は多様で混沌としているわけですが、そういう混沌から、何の脈絡もなく、何かが決まったり、人の生き方が変わっていったりするもんなんでしょうね。ニュースを読んだり人の話を聞いたりして、そんなことを思った1日でした。

こういう世界にあって、パルテノン神殿に象徴される「美しさ」のようなものを希求した辻邦生はやはりすごいです。きっと随分と苦悩されたのだと思います。奥様の手記を読んだり、自筆日記を少しだけ拝見してそう思ったりしました。

「「たえず書く人」辻邦生と暮らして」の162ページ。

亡くなる一週間前から、午後のマーラーなどを聴く時間帯のあと、西向きの大きな窓に面した椅子に、日が暮れるまでじっと座っているようになった。

勝手な想像なんですけれど、夕暮れの山並みを眺めておられたのではないでしょうか。なんだかそういう気分です。

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)
辻 佐保子
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やっと週末。なんだか長い一週間でした。やるべきことは何も終わらず。。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

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ソメイヨシノ満開です。

ですが、東京地方は曇り空でした。さらに寒い。だいたい現在12度ぐらいのようですが、まるで冬のような感じです。曇っていることもあり、なんともかんとも。ただ、寒いと桜が散るのが少し遅れることにもなりそうです。

昨日から新年度。いろいろギアチェンジしないと。

きょうはこちら。

ブルックナー:交響曲第7番
バレンボイム(ダニエル)
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バレンボイムがシュターツカペレ・ベルリンを振った交響曲全集から7番を。バレンボイムらしい質実剛健な演奏。これがドイツ的なのかなあ。バレンボイムはドイツ人ではないですけれど。。

それでは。

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今日は振替休日でした。2年ぶりぐらいに川越の喜多院へ。

まったく意識していなかったのですが、行ってみるとなんとしだれ桜が絶好の状況で驚きました。徳川家光お手植えのしだれ桜の二代目という説明です。流れ落ちる滝のように桜が咲いている様子は実に見事です。ヒヨドリが何匹もこのしだれ桜に集まっていて、桜の花びらを食べているようでした。ヒヨドリが枝にとまったり、あるいは飛び立つとき、枝が打ち震え、桜の花びらが幾重にも散る様は、なにか詩的な感興を呼び起こすものでした。

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それにしても、なんだかんだ言って、日本人だなあ、と思いました。こうした風景はもちろんですが、本堂で護摩壇で火を焚きながら読経しているのを見て、本当に心に沁みるものがありました。日本人は本当に不思議です。

音楽的にも面白くて、太鼓のリズムに合わせてお経が読まれているわけですが、護摩壇で仏具を叩く金属音がポリリズムというか変拍子のリズムを叩いているというか、なにか太鼓のリズムに合わないようでいて、実は同期しているというリズム感に興味を覚えたりしました。

ちなみに、一眼レフも持っていたのですが重すぎてあまり使わず、結局きちんと撮れてスピード感をもって使えるのはiPhoneで撮った写真という状況です。コンデジの時代はもちろん終わっているのですが、一眼レフも危ないですね。。もちろん一眼レフの表現力がとてつもないのは言うまでもありませんが、そうだとしてもiPhoneのようなスマホでも、その場で様々な加工をしてスピード感をもってクラウドにアップできるというのは、10年前からするとほとんど信じられない状況です。

さしあたり、すこし癒された感あります。さすがに最近色々ありすぎました。また明日からがんばらないと。

ではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

 

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昼になって晴れました。三春のしだれ桜だそうです。

今日の東京地方、寒い1日でしたが、お昼頃からは日差しが照り、少し暖かくなりました。

近所の公園に行ってみましたが、ソメイヨシノはまだまだ。ですが、しだれ桜は随分と咲いていました。

明日も仕事関連の講習へ。ま、仕事は仕事ですが、仕事をもっと高速化しないと。

音楽の方は相変わらずブルックナーばかり。

Bruckner: 9 Symphonies
Bruckner: 9 Symphonies

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A. Bruckner
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今日は短く。おやすみなさい。

 

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SAKURA2016

東京では月曜日に開花となった桜ですが、本日、振替休日だったこともあり、近所の桜を見に行きました。曇り空だったので、青空にバッチリ映える桜は撮れませんでしたが、日の丸構図ですが、なんか水墨画みたいでいいかも、と勝手に思ったり。iPhoneで急いで撮ったのでピンが少し甘いです。

今日からまたヨッフムのブルックナーの聴き直しを始めました。第1番から順番に。やっぱり、激しい演奏だ。。

Bruckner: 9 Symphonies

Bruckner: 9 Symphonies

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あたためていたものがなんとなく言語化できてきたのですが、それがあまりに壮大すぎて、空恐ろしい。だが、やらないといけないことなので困っています。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

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昨夜トラブルで徹夜。たまにあることなので慣れてます。

先日からブルックナーばかり聞いていたり。

ブルックナー:交響曲第8番(クラシック・マスターズ)
カール・シューリヒト
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でもブルックナーは、きっとダブルスピークではなく、素直に書けたのでしょうけれど、芸術は、おそらくはそこに現れた直接の意味と、その背後の意味と、二つ重ねて考えなくてはならないようになってしまう場合ももちろんあるんだと思います。信用できない語り手、問題。あるいは、作品全体が二つの意味を持っている問題。

音楽評論家の方がどこかで書いておられたのですが、洒脱な音楽を書くプーランクは、現実の凄惨さを踏まえた上で、それを乗り越える意味であえて洒脱な音楽を書いていたという見方があるみたいです。

これ、辻邦生の戦闘的オプテイミズムの考え方と似ています。逆境にあって理想を語るべし、というもの。ただ、がゆえに、歴史小説だったということも言えるのだとも思います。

昨日の徹夜仕事も、疲れた時にこそ真価が発揮されるみたいな感じがあります。あるいは、先日来休みなく働いている時も、そういう時こそきちんとした仕事をしないとみたいなことも言えます。逆境にあってこそ笑みを絶やすな、みたいな。

もっとも、あまり笑ってばかりだと、楽しているのではないか、と疑われるのでほどほどに、とも思います。難しいです。

それではお休みなさい。グーテナハトです。

 

 

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どうも、最近は「変化」をネガティブにとらえがちなのかも。

帰宅しながら、聴いたこちら。

Bruckner: 9 Symphonies (9 CD's)
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ヨッフムの振るブルックナーの交響曲第7番。これを聞いて、真っ先に寂しさを感じてしまったのですね。歴史の終わりに際して、ロマン派が大きく花開いた時代に書かれたこの交響曲の大きさとか美しさのようなものが、郷愁と哀愁を帯び散るように思えて。

ただ、歴史はこのブルックナーの交響曲第7番以降何度も終わっているのでした。まずは第一次世界大戦で終わり、第二次世界大戦で終わり。そして、もしかすると、それから何度も何度も歴史は終わっている。つまり断絶しているのだ、と。ただ、それは私がこの交響曲を聴いた30年前スパンで捉えているに過ぎないのだなあ、とも。30年前はまだソ連がありましたが、あれからも何度も歴史は断絶しています。ベルリンの壁が壊れ、9.11があり、数多の戦争があり、3.11があり。断絶という言葉をあえて使いますが、実際には歴史の転換点のようなものであって、その中で、失われるものもあれば、生きながらえるものもあるわけです。そうした生きながらえているものの一つにこの交響曲があるのかもしれませんが、その生き方もやはり変わっているのだとも思います。

今日この交響曲を聴きながら思ったのは、不協和音の多さやめくるめく転調でした。当時はおそらくはとても画期的なことだったのではないかと思うのです。ですが、同時代のフランス近代音楽や、その後のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンなどによって、その画期性は陳腐化したのでしょう。それでもなお、生き残っているのは、特定の領域に受容されるそれ自体の美しさのようなものがあったり、あるいはその時代時代で新たなパースペクティブを持っていたからでしょう。

ですが、私には、まだその新たなパースペクティブのようなものがわからず、もしかすると(私の勝手な想像ではありますが)、教授の職を得ようと、唯ひたすらに作曲に没頭し、ヴェルデヴェーレ宮殿の庭師の小屋に住むブルックナーの姿と、それを取りまく、フランス革命後の自由の気風とそれに対する反動の戦いが見えてしまい、それがどういったアクチュアルな意味を持つのかというのがよくわからず、ただただ、美しいという感想しか思い浮かばないのです。私はこの曲をドイツ旅行からの帰路、夕刻のシベリアで沈みゆく太陽が雲海を金色に染める風景を見ながら聞いたことがあります。あの神々しい風景がおそらくはこの曲と結びついていて、何かイデアールなものを想起させてしまうわけです。

私はこの文章を書く前に、寂しさを覚える、とまで思いました。歴史の終わりにあって、この美しさはすでに失われたのではないか、という思いからです。ですが、それは間違っているとも思いました。ただ単に、それは経験に左右されるものであったり、極度に19世紀ロマン派の考え方に拘泥しているからに違いないのです。確かにこの曲の実在のようなものは今ここにあるわけで、それが「歴史の終わり」のようなものを何度も何度も通り抜けながらもここまで至っていて、時折この極東の国でも演奏会にかけられるような状態にあるということは、「歴史の終わり」に際しても、この曲に美しさや力がのこっているだけではなく、「歴史の終わり」は「終わり」ではなく、次の「歴史の終わり」への道程に過ぎないということなのでしょう。

この曲はおそらくはこの後もしばらくは美しいものを表出し続けるでしょう。ただ、文化文明というものが本当に儚いということも我々は知っています。良いという価値が相対的であることも知っています。昨今、イタリアでは文化予算を増やしているようです。その理由が何であるにせよ、彼らは重要性をわかっているということも改めて思いました。また、日本人の我々が、この曲を聴いているということに対する疑問もやはりなお残ることは言うまでもありません。

 

 

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頑是ない歌

http://www.aozora.gr.jp/cards/000026/files/219_33152.html

夜、帰宅の電車の中から、車両基地が見えた時、ふと思い立った言葉が「思えば遠くに来たものだ」でした。

誰の言葉だっけ、と探してみたら、中原中也でしたか。吉田秀和が「中也が」と呼び捨てにしているのをテレビで見て、驚愕したのが懐かしいです。

ま、みな思うことは一緒ですね。思えば遠くに来たものだ。だが、ここは思った場所ではなかったのだ、と。12歳の時のことを30歳で思うというも、何か合点が行くような。

ちなみに海援隊も「思えば遠くに来たもんだ」と歌にしているようですが、私は海援隊は聞いたことはありません。多分、高校の時に読んだんでしょう。

歳をとると誰しも思う言葉なんでしょうけど、「畢竟意志の問題」なんでしょうね。

今日はこちら。

ブルックナー: 交響曲第9番(クラシック・マスターズ)
カール・シューリヒト
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シューリヒトを初めて聴いた時の鮮烈な感覚を思い出しました。確かに、今聴くと、技術的にはいくらかのキズはあるのです。しかし、なにか清冽なうねりのようなもの、エッジの効いた輝きのようなものが確かにあるなあ、と。ただ、それが17年ほど前の記憶とすこいばかり形を変えていることに驚きます。時間。記憶。移ろいゆくもの。が、考えるのはあまり意味がないのかも。中原中也が言うように、

なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

でも、やっぱり

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ

というわけで、また明日。おやすみなさい。グーテナハトです。

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音楽を語ることの難しさ。そもそも語ることはできないのに、無理やり書こうとしている感があります。音楽を語るためには、それを説明するというような形ではなく、別のやり方を使わなければならないのではないか。その別のやり方というのは、多分、辻邦生もやっていますが、おそらくは音楽と同じ芸術のレベルで語るということ。音楽に対する絵画であり、音楽に対する文学であり、のような。

そんなことをおもいながらこちらを。

ブルックナー:交響曲第9番
ブルックナー:交響曲第9番

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ジュリーニ(カルロ・マリア)
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この演奏のよさも、言葉にするとどんどんこぼれ落ちていきそうな気がします。もっとも、言葉にする能力がないということになってしまうのかもしれませんけれど。しかし、すごいダイナミズムとパワーと、静謐さと繊細さなんだろう、と思います。こればかり聴いていると、人間や世界というのは、本当に素晴らしいものだけなのだ、と勘違いしてしまいそうです。

もっと本を読み音楽を聴かなければ。ですが、本を読み音楽を聴いても解決するものとしないものがあるのでしょう。無限大の本と無限大の音楽を把捉することはできず、がゆえに、ここにあるものから世界を掴むことしかできないのではないか。それでもなお、無限と向き合って無限と戦うことが大切なのか。戦い勝つことがじゅうようなのではなく、戦い続けるということ、無限との無限に続く戦いということが大切なのか。この底もなく果てもない膨大なHugeとかtremendousという形容詞がふさわしい世界に対峙するということはこういう恐怖と苦しさと嘔吐とむきあうということなのか。

だが、その戦いはおそらくは、今ここにあるものから世界を掴むという確信を得た時に終わるものなのかもしれないとも思います。あの、辻邦生の「嵯峨野明月記」に登場した狩野光徳という画家が、世間の全てを絵に描こうとして、その不可能性に絶望しながら息をひきとるようなことがあってはならないのでしょう。量の変化が質の変化に変わる瞬間のようなものがあるわけで、そこまでは無限との戦いをするんだと思います。

さて、土曜日に、仕事の山をひとつ越えました。昨日の日曜日は、朝から夕方まで仕事系の講習。今日は振替で休日にしました。今月に入って初めてのお休み。ですが、今日も朝から事務作業を。先ほどやっとおわり、ほっと一息つきました。明日から次の戦いに本腰を入れないと。

しかし、まあ、こんなに体を動かしてもなんとか持っているのは、もしかすると、やっぱり泳いでいるからかも。あるいは、最近始めた鳥の胸肉を食べる活動のおかげかも。鳥の胸肉は疲労回復に絶大な効果があるようです。

ちなみに、ここには、「疲れました」ということは書かないようにしているのですが、今日、ふと思い立って「疲」という文字で検索をかけてみると、出現頻度がこの3ヶ月増えてまして、毎日書かないと、と思うと、知らず知らず「疲れにくくなるように」とか「疲れを癒します」とか、間接的な表現で「疲れました」って書いちゃうんですね。いかんいかん。

ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms,Miscellaneous

昨今、なかなか時間が取れないというのは先日も書いた通りですが、なんだか考えることが仕事系に偏っている感じもあり、今日も、帰宅する地下鉄の中で、目を閉じながら色々と逡巡しながら考えを巡らせていたのですが、そのときブラームスを聴いてみようと思い、カラヤンのブラームスを。一瞬だけ、何か学生時代の淡い記憶のようなものを思い出しかけたりしました。この二週間、働いて、食べて、寝るだけの暮らしを続けるこうなるのかも。

で、こちら。

ブラームス:交響曲第1番&第2番&第3番&第4番
カラヤン(ヘルベルト・フォン)
ユニバーサル ミュージック クラシック (2003-09-26)
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今日たまたま聞いたのがカラヤンのブラームス。カラヤンは正直に言って今の私にはあまりにスタイリッシュです。世界が仮に間違っていたとしても、こういうものはあり続けるといいですね、と思います。

では、お休みなさい。