うーん、本当に難しく大変な1日でしたが、とりあえずは責務は果たせたのかもしれません。本当に果たせたかどうかはわかりません。慣れないことはするもんではありませんが、慣れるまで頑張れ、ということなのかも。
明日からまたハードな毎日が始まりそうです。頑張らないと。デューティがこなせない毎日で、少々焦り気味ではありますが。
今日はこちらで、落ち着いた気分になりました。
Erato (2014-10-07)
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では、今日は取り急ぎお休みなさい。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生

うーん、本当に難しく大変な1日でしたが、とりあえずは責務は果たせたのかもしれません。本当に果たせたかどうかはわかりません。慣れないことはするもんではありませんが、慣れるまで頑張れ、ということなのかも。
明日からまたハードな毎日が始まりそうです。頑張らないと。デューティがこなせない毎日で、少々焦り気味ではありますが。
今日はこちらで、落ち着いた気分になりました。
では、今日は取り急ぎお休みなさい。
夕方、仕事場の若い方が参加しているオケの演奏会に行ってきました。それも普通の演奏会ではなく、なんと、レーピンがショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を弾いたのです。
お恥ずかしながら、初めてミューザ川崎に行きました。コンパクトで、いいホールですね。残響がかなりあるなあ、という印象でした。通常のホールとは違う作りだなあ、とも。1F席がほとんどない、というのが少し驚きでした。
オケは、アマオケの皆さんでしたが、何とも素晴らしい演奏でした。フルタイムのオケとの違いもあるのですが、そうはいっても、じわりとくる感動を随分ともらいました。
アマオケを聴く機会はあまりないのですが、その中でもレベルは高いなあと(僭越ながらも)思いました。特に、木管とかパーカスとか、かなりの実力者ぞろいだなあ、と思いました。オーボエの方、巧かったなあ。
曲のほうですが、ショスタコーヴィチの持つ、ロシア的な大地の匂いとか、戦争や圧政に苦しみ悩む人々の思いとか、圧政の中でそれを笑い飛ばしてやろうという人間の力とか、そういうショスタコーヴィチの持つ精神性のようなものが随分と伝わってくる演奏でした。
レーピンが練習で色々とアドバイスしたとのことでした。プログラムの他の曲と、このヴァイオリン協奏曲では明らかに音が違うように思ったのも気のせいではないでしょう。
それにしても、アマオケをやっている方が羨ましいです。私はジャズをえらびましたので、こんなにクラシックのことばかり書いているにもかかわらず、いつも門外漢の気分でいます。おそらく、楽器ができてオケで吹いている、ということが、一つのステータスであり、あるいはフリーメーソんの入会の儀式のような、秘儀的な意味を持っているのではないかとすら思えてしまうことがあります。
もっとも、ジャズの方にもそういう何かしらの連帯感のようなものがあって、インプロヴァイズができるということが、あたかも隠された教徒の証、のように思えるときもあります。
今は、明日、急遽、演奏することになった曲を予習中。いつも好きで吹いている「酒とバラの日々」などスタンダード曲中心です。
明日も大変な1日になりそうです。
ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
公園の鶏。この子たちは、別にゲージに入っているわけでもないのに、いつもここにいます。人間も、結局はこういうものなのかもしれないですね。
さて、先日、PCのOSをアップグレードしました。OSはEl Capitinになりました。
で、感動的だったのは、日本語変換です。これ、変換ボタンを押さなくても、どんどんと変換をしてくれるのですね。このブログでは、専門用語とか、文学的表現をあまり使わないので、この自動変換で随分助かっています。
私は高校時代にキーボードでブラインドタッチができるようになったと記憶していますが、そのうちに、別の日本語入力機構が出てくるはずで、それに対応できるかどうか、不安を覚えていたとも記憶しています。高校時代から未来の新しい未知のテクノロジを恐れていた感があったのだと思います。
実際には、そうした文字入力のテクノロジは、20年ほど前のポケベルへの文字送信であったり、ガラケーの文字入力であったり、あるいはiPhoneのフリック入力だったりするわけです。そういった文字入力に、ある程度は同調し、今でもフリック入力は随分と使っています。ですが、やっぱり一番早いのは、キーボードで入力するブラインドタッチです。
これ、私にとっては当たり前の帰結なのですが、もしかすると、年代が変われば、そうとも言えなくなるのかも、とも思っています。フリック入力のほうがキーボード入力より早いという若者はたくさんいるのではないでしょうか、などと思ったり。
また、キーボード入力も、QWERTYではなく、親指シフトの方が早い、という話もありますし。
いずれにせよ、同じ場所に安住することなく、次の新しいテクノロジを咀嚼し取り入れないと、と考えています。鵜呑みはいけませんが、味見はしないと、という感じ。
お金はかかるかもしれませんが、抑えるところは抑えて、でも今後生きていく上で必要なものにはきちんと投資しないと。これはもう設備投資と一緒の世界です。企業も個人も同じですね。
今日は短くこの辺りで。おやすみなさい。グーテナハトです。
今日は、午前中からとある講演会の司会。しゃべりは少ないですが、かなり気を遣いました。講演の内容は、内容は書けませんが、とても素晴らしく、未来が見えた気がします。聴いていた方々もみなさんよかった、と言ってましたし。
今年に入って、このような司会などやることが多いのですが、なんか快感になってきました。なんなんですかね…。多分、学生時代にサックスでフロントとっていたからだと思います。このライブ感覚の、ドキドキする緊張が快感につながっているのだと思います。ドキドキというより、ワクワク感なんだと思います。
これまではそんな仕事やってませんでしたが、今年から組織の何でも屋みたいなところに来たもので、途端にそんな仕事が増えたのでした。
ただ、さすがに気はつかいます。相手がいることですし、それが相手への礼儀とも思いますので。
レベルは違うと思いますが、お笑い芸人さんたちは、本番前にかなり神経質になるみたいですが、その気分が少しわかります。
また、レベルは違いますが、指揮者の広上さんが、本番前に極度に緊張しておられるのをテレビで見たことがあります。それに近いものがあるのかも。
ライブならではの緊張の感覚を少し共感できているような気がします。
ちなみに、今日は想定外のことがたくさんあり、少々準備ができないまま始まったりして、ドキドキとかワクワクというより、スリリングなものだった気がします。スリルを味わうのも悪くはありませんでした。
今日はこちら。エラ・フィッツジェラルドが歌うYou’ve got a friend. 最後のとこらは、なかなか盛り上がります。キャロル・キングとは違う色合いで、面白いです。より、濃厚なYou’ve got a friendです。
たぶん、歌手の方々も同じなのかも、などと想像してしまいます。。ライブが快感なのも、緊張するのも。レベルは違うにせよ。
それでは、また。おやすみなさい。グーテナハトです。
今日は、大学時代からの知り合いで、ニューヨークで暮らしておられるサックス奏者の方と。
いろいろな話した中で大切だったことは、「歌うこと」の大切さ、でした。この「歌う」という言葉は実に多義的です。今回の文脈は、私の解釈では、自分の心の中かは、あるいは腹の底から出てくるもの、ということだったと思います。それは、「歌う」という言葉というよりも、表現しようとしていることそれ自体、というふうに捉えました。
ただ、手が動くままに演奏するのではなく、自分が本当に演奏したいことを演奏できているか、という厳しい問いである、と私は解釈しました。
それは、テクネーを磨かなければ成り立たないものです。がゆえに、楽器のテクニック、理論などの研鑽が必要であることは間違いないのですが、それはおそらくは単なる手段にすぎず、それだけではなにもなし得ないわけです。
ただ、「歌う」という、実に多義的な言葉の中には、本質に迫るべき厳しい態度があり、そこに到達する方法は絶対に説明されることはありません。ここが、あらゆるものにひそむ説明されざるところ、あるいは説明しえないところ、なのだと思います。
今回の会合のコーディネートは、大学からお世話になっている先輩です。この方の気配りには、本当にかなわないなあ、とあらためて。
今日はあるいは語りえぬ悲しい出来事が。世の中はそもそも不合理に作られている。そういう前提をまさに確認する一晩でした。
それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。
今日は、所用のため会社を早めに上がって、某電気街、つまり秋葉原へでかけました。
20分以上滞在したのは20年ぶりぐらいです。昔話はするつもりはありませんが、同じ場所でもこんなに変わるもんかね、と驚きました。。
あわせて、金沢行きの新幹線が走っていたのがホームから見えたのも不思議な気分でした。
まるで別の街に来た気分である。あるいは、よくあるSFのように、地球と同じ惑星がどこか別のところにあって、似ているんだけど違う街に迷い込んだ、という気分でした。
私の場合、随分エピソード記憶が強いみたいで、ついさっきのように、記憶が残まざまざとっていますので、そう思うのでしょう。
にしても、以前以上に居心地が悪い街になっているのは否めません。一方で、これが日本的な街だと思われているのか、外国からのお客さまがたくさんいたのにも驚きました。
おかげで、いろいろと勉強になりました。が、早々に帰宅しました。さすがに少し疲れる街です。
今日はこちら。ベームらしいルバートを楽しみました。
それでは今日は短く、おやすみなさい。
今日はピアノを弾いたりして楽しみました。楽譜みながら、スタンダードを弾くのは結構楽しいですね。バルトークの教え「下手でもいいから楽器をやろう」を実践してみました。
ピアノは随分苦手でした。
小学1年から習い始めましたが、当時、音楽を聞く環境がなく、音楽に親しまないまま、ピアノを強制されていましたので、全くやる気なし。
バイエルなどやってましたが、一日30分10回弾け、などと強制されれば、小学校低学年はやる気無くしますわな。。
あのとき、もっとレコードやラジオを聴いて、音楽に親しんでいれば随分違っていたのではないとおもうのですが。
で、その後音楽に目覚めたのが小学校5年の秋でした。ちょうど今頃の季節。
そこで、ピアノやっておけばよかった、と後悔したものの、トラウマのようなピアノの記憶が邪魔したり、今更やってもおそいか、というあまりに老成した考えのため、再開せず。
両親が手助けしてくれればよかったんですが、そういうこともなく。
中3の時に、独学でベートーヴェンの月光ソナタの第一楽章をかろうじて弾けるようになったところでストップしました。
ですが、ピアノ自体は、サックスのトレーニングのためにその後も何度か触っていて、ひたすらハノンを弾く、ということをやっていた時期もありました。
おかげで、大学に入った頃にサックス吹き始めた時には、随分と指が回りました。
しかしですね、やっぱりピアノはその後も演るべきだったはずで、音楽理論をやるには、やはり鍵盤とか指板がないとイメージわかない部分はありますから、みたいな。
まあ、今から思えば、いろいろなところで機会を逸しているということに気づいているわけですが、それにめげずに、「借りもの人生」ですので、人生を大切にしないといけなくて、優先順位をつけて取り組んで行くべきなんだろうなあ、と思います。
時間と機会がもっとも大切です。
今日もこちらを聴きながら過ごしています。なんか、いいんだよな、と。この構成された美しさのようなもの。
多分、パット・メセニーのアルバムのようなストーリー性なんだと思います。スナーキ・パピーズ、注目。Apple Musicでもフォローしています。コネクトによると、いまチェコ・スロヴェニアツアー中のようです。
それではみなさまつれづれでしたがおやすみなさい。
なんだか、今年度からデイタイムの仕事の質が変わりまして、いろいろと好きにやらせてもらっているということなのかも、などと。やること多くて、帰りは遅いですし、組織的にはメインストリームから外れた感もあるのですが、学ぶことたくさんだし、新たな可能性のようなものを見出したり。
まあ、人には得意不得意といろいろありますが、得意なことを遅くまでやるというのはいいことなのかもね、と。
ただ、その得意なこと、というのも、よくよく考えると、別に自分独りで得たものじゃないわけです。別に、努力して得意なわけではないので。
あるいは、努力したとしても、努力できる分野とそうでない分野があるはずで、努力できる分野で努力できたというのも、結局は自分だけでやったわけではないわけです。
そうすると、結局のところ、自分の業績のようなものは全く無いわけですね。あるとすれば、なにか意味はわからないけれど、自分ができる部分があるということ。
これ、3年前に、バークリー音楽院出身のギタリストと話した時のことを思い出します。
彼は、音楽の才能というのは、前世からの積み重ねに過ぎない。モーツァルトも、前世からその才能を引き継いだに過ぎない。人生というのは、一つ一つの人生がビーズが連なる首飾りのようなものに過ぎないのだから、ということを言っていた記憶があります。
(まあ、英語で話したので、私の曲解もあるかもしれないですが)
それを踏まえて、先日、ジャズを吹いた時のことをまた思い出したりして。なんだか、1年ぶりぐらいに吹いたのに、それっぽく吹けたりしたんですが、あれって、自分の努力とかではなく、与えられたもののように感じてしまったわけです。
いや、それは確かに外から見れば私が吹いているわけですが、私にして見れば、誰かに吹かせてもらっている、というような感覚を得たのでした。
まあ、よく言われる「生かさせてもらっている」みたいな言い方がありますが、私はそこまで得心しているわけではないにせよ、私の存在すら、誰かからの借りものであるかのような、感覚を覚えてしまったりして。
私の存在すら借りものだとすれば、私の所有物さえ、結局はだれかからの借りものだったりするような気もしてくる感じで、なんだか変な方向に考えが向いてますね。
逆に言うと、借りたものは、大切に扱わないといけないので、ということも言えます。だから、いまのここで全力をつくすのか、みたいな。
まあ、絶望の深淵のようなものから生還すると、こんなこと感じてしまうのかも。何が起きても、静謐に諦観できる感じがしたりも。短期的な思い込みかもしれないですが。
なんだかこういう文学的(?)な予感めいたものを、電車に乗りながら思いついたりしていました。
哲学やって、辻文学を読んだりと、完全にアウトサイダーなので、仕方ないです。
さしあたりはまた明日。おやすみなさい。
機能は、ドゥダメルとバレンボイムでしたが、今日は、アバドとブレンデルのブラームスのピアノ協奏曲第2番。
峻厳という言葉がふと思い浮かびました。私のなかのブレンデルのイメージは、リストを静謐に透徹に弾くという感じで、それもこれも、巡礼の年第2年を30年ほど前に聴いたからに他ならないわけです。村上春樹で有名になってしまった音源ですけれど。
で、やっぱり最初聴いた時から、和音のタッチがリストに聴こえてしまいました。ブレンデルが弾いている、という先入観からなのか、本当にそうなのかはわかりません。
なんだか、上品なんだよなあ、と。それで澄み切った感じ。
で、勝手にこんな風景を思い出していました。
ベルリンのジーゲスゾイレからみた東ベルリン方面。今から見るとくぐもってますが、当時は珍しくさわやかな秋晴れでした。
それにしても、ピアノの聴き比べというのもなかなかおもしろいです。音色の違いというのもありますが、タッチの雰囲気とか微細なテンポどりとか、そういう細かいニュアンスが全体の雰囲気というものを形成しているわけです。
ジャズの場合だと演奏の違いのブレというのは非情に大きいわけですが、クラシックの場合はもっと微細で絶妙な世界で勝負していることになります。昨日も述べたようにこういう相違が、Apple MusicやiTunesで簡単にそしてよく分かるようになりました。
これは、底なしの楽しみかもしれない。そう思います。
さて、時間配分を変えてみたこの数週間ですが、まあ確かに家に関する雑務はスピーディーになってきました。家族とメッセージでやりとしながら、通勤電車の中で家事を済ませてしまう、というスタイル。
しかし、スピーディーすぎても良くないこともある。難しいですねえ。
「思いついたらすぐ実行」
これ、私の幼稚園の頃の口癖だったようですが、良く言えばスピード感、悪く言えばあわてんぼうですね。
でも、スピードこそが価値の時代となりました。失敗してもスピードで取り返せばよい、みたいな。
ただ、スピード出すにも燃料が必要です。食事も燃料ですが、睡眠も燃料ですね。
ということで、今日は寝ることにします。
おやすみなさい。グーテナハトです。
10月も半ばにさしかかろうとしています。そういえば、近所のプールで泳ぎ始めてから一年が経ちました。
これも何度か書いていますが、また書いてしまいます。
近所のプールは夜中までやっていますので、仕事場を21時半ごろに出たとしても、少しは泳いで帰れる感じで、仕事がそれ以上に遅くなったり、飲みに付き合っていたりする場合以外は極力泳ぐようにしています。
一年前は、一年経ったら、もっと痩せて、身体も疲れにくくなって、いい感じになっているはず、と思いましたが、ちょっと違う結果が出ています。
まず、前より頭が回るような気がしています。これ、自分だけが思っているだけですが、なんだか昔より判断が早くなったような錯覚を覚えています。それと同時に、スピード感も増したような錯覚も覚えています。主観的なものなので、周りからみたらどう見えるかはわかりません。
もう一つ、安静時心拍数がかなり下がりました。健康診断で「徐脈」と診断されて、「あれ、スポーツ心臓だわ」なんて、軽く思っていました。確かにApple Watchつけて寝ると、夜中は心拍数が35とかになっていました。2秒に一回しか鼓動していないという、なんだか冷凍冬眠(?)みたいな状態。
ですが、先日両親に「それは不整脈の一種で、ヤバイかもしれないから病院に行け!」と脅されて、恐る恐る病院に行って、安くないお金を払ってホルター心電図を16時間付けました。
結果は、平均心拍数65で正常。ただし、最小心拍数は38で、やっぱり徐脈です。ですが、不整脈なんかも全くなく、別途やっていた血液検査も全く正常らしく「治療のアイディアはありません」というコメントがついて結果が帰ってきました。
ちなみに、ホルター心電図の結果は、東大医学部に送られたらしくそこで検査するんですが、お医者は「東大の判断だ」ということを強調していました。まったく。東大と某医療機器メーカーのビジネスモデルにすぎないんですが。
結論。スポーツ心臓になってしまった、と思うことになりました。確かに最近は20メートルぐらい息継ぎ無しで泳げるようになってます。だからといっていいことが何かあるのかはわかりません。
いまでも、疲れはとれず、週末はダウンしてますし、今日も小一時間散歩して、もっと歩かないとね、と反省したり。
とはいえ、毎日運動をするというのは、スポーツ心臓になるとか、なにかしらのことはあるので、続けないとねと思いました。
今日はこちら。
1996年ごろに、UNIXマシンのプロファイルに「最近のお勧めはMadhatter」と書いたら先輩に「何言っとるんじゃい! こんな古いアルバム!」と言われました。オリジナルのリリースは1978年。言われたのは18年後の1996年。いまはその19年後の2015年。これは、いわば、1948年に、「ああ、37年前に《ばらの騎士》の初演を観にドレスデンに特別列車に乗って行ったんだが、あれはいい思い出だ」と言っているのと同じです。今となってはクラシックです。
この半年以内にNHK-FMの「世界の快適音楽セレクション」で、このアルバムが紹介されました。この番組は、とあるお題についての音楽を紹介するという趣向の番組で、もう16年ぐらい続いているようですが、あの時のお題は「帽子の音楽」で、ファリャの三角帽子と並んで、このアルバムのなかからThe Madhatter Rhapsodyが紹介されていました。ジャケットのチックが帽子をかぶっているから、というのが選定理由でしたが、きっと選定された人がこのアルバムが好きだったから無理やり入れたに違いない、などと思ったりしました。
この最終曲The Madhatter Rhapsodyは、不思議な事にフロントであるジョー・ファレルがあまり登場しないので、ソロはキーボードのみ。で、ここではチック・コリアとハービー・ハンコックの二人がキーボードでソロを撮っているという寸法。ふたりとも、それぞれの持ち味をだしたソロでバトルしています。まあ、ぶっ飛んでるのはチック・コリアのほうです。
ちなみに、残念ながらこのアルバムはApple MusicにもiTunesストアにも収録されていないです。良いアルバムなんですが。
それではまた。お休みなさい。