夏休みも終わり、明日からはまた日常が戻ってきます。
普段はいけないところにいろいろいけましたので、いい休みでした。
今日は、こちらも少しお休みです。
おやすみなさい。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
いや、ほんとうにすいません。夏休みシリーズということで、普段行けないところに行っているのですが、今日は関東某所のIKEAに行ってきました。
2年ほど前にも行ったことがありますので、今日が2回目。
で、建物の中に入ったとたんに妙な感動が。
えーっと、ドイツの空港の匂いがするのですね。これ、なんですかね。ドイツっぽい匂い。むんむんくる、ドイツの匂い。
この匂い、べつにビールの匂いでもなく、ザワークラフトの匂いでもなく、塗料とか接着剤とか、そういう化学的な匂いなのです。
それだけで、もうテンションが最高潮に沸騰してしまいました。
レストランでもハイテンション。なんだか、ドイツの美術館とか、大学のメンザの雰囲気がさく裂していて、無駄にたくさん注文してしまいました。でも2年前に行ったときに比べて、食事の値段は上がったような気が。円安ですから仕方ないのかなあ、と思っています。
売っている品も、なかなかおもしろくて、美術館を見ているようでした。ちなみに、いつものように、家族はどんどん先に行ってしまい、私だけじっくり見る、というパターン。これも、美術館に行った時と同じパターン。
しかしなあ、IKEAは商売がうまいですよ。順路が固定されていて、その順に歩いていくと、購買意欲がどんどんそそられていくのですから。最初に、部屋のコーディネート例をいくつも見せられるのですが、これが本当におしゃれで、狭い空間を本当にうまく使って、しゃれたコーディネートができますよ、というプレゼンテーションになっているわけです。その後、そこに使われていた製品順路上に何度も何度も登場します。フロアもまさに美術館のように順路で構成されていて、IKEAの意図通りの順番で商品を見て回るということになるわけです。
(ちなみに、抜け道がいくつかあるので、それがわかるとなお面白いのですが。)
先ほども言ったように、順路に従って歩いていくと、いろいろな商品が繰り返し登場するのですが、子供向けのぬいぐるみなどは、アクセントのように随所に現れ、子連れ客はその都度その都度対処が大変そうでした。全然関係のない売り場に突然ぬいぐるみが売っているコーナーが出てきますので、サブリミナルのように、何度も何度も子供に刷り込まれるという感じ。食器売り場のぬいぐるみにご執心になってしまった子供に困ったお母さんの独り言がみみにはいってきたのですが、「ここで売っているわけじゃないのかな、あ、でもバーコードついてるから、買っても大丈夫そうだね」なんてことを言ってました。
極めつけは、展示フロアの2階から、倉庫のある1階へ降りたとき。そこにも、なぜか子供向けのおままごと道具がディスプレイされていて、「あれ、買い忘れてません?」というIKEAのメッセージを感じたりしました。
この繰り返し繰り返し現れるというのは、まるでワーグナーのライトモティーフのよう、なんて。いやいや、欧州人はそういう構築美には長けていますから、共通するものがあったりして。
でも、ホスピタリティは十二分だと思います。素晴らしいなあ、とおもいました。やはり、二度来てもらうためには、お客を楽しまさなければなりませんし、失礼があってもよくないわけで、そういう意図はいろいろと感じて、さすが!、と思いました。
というわけで、北欧にちなんだ楽曲を。といっても、ワーグナー。
スウェーデンの生んだ名歌手、ビルギット・ニルソンによる≪トリスタンとイゾルデ≫。まったく化け物のような楽曲なんですが。今日は、そこから最後の愛の死を聞いています。やっぱり、巧いのですが、なにか醒めた冷静さのようなものも感じたり。ベームもベームらしい雄大なもの。古き良き欧州って感じです。
それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。
夏休み3日目。もうすぐ半分。早いものです。
各国ともトリコロールを掲げて、パリのテロについての何らかの意思表示をしています。
昨日取り上げたように、Amazonのトップ画面にもフランス国旗の写真が載りました。ルネ・フレミングのフェイスブックのプロフィール写真は三色旗になりました。都庁や東京タワーもトリコロールに染められたようです。シドニーのオペラハウスも三色にライトアップされました。
世界各地でそうした動きがあったようです。
で、やはりあるのがそれに対する否定意見です。中東地域では、軍事作戦による民間人への被害があるのだから、ここでフランス国旗だけを掲げるのはおかしい、という議論。
おっしゃる通りです。
でも、トリコロールはフランス国旗である以上に、フランス革命のシンボルでもあるわけです。
ウィキぺディアによると、1789年にラ=ファイエット(あるいはバイイ)によって発案され、パリ市民軍の旗となったというものなのだそうです。世界史でも習った「自由・平等・博愛」という意味が象徴されている、とされます。それぞれの色がどの理念を示すのかは俗説なんだそうです。
興味深いことに、もともとは、青と赤がパリ市民軍の標章だったものに、ブルボン朝の象徴である白百合からの引用で白を加えたということなのだそうです。
この自由・平等・博愛という何か面映いほどの理念的な言葉が象徴するトリコロールが、ルーマニア、イタリア、チャド、メキシコなどの国旗に継承されているのだそうです。
おそらくは、今の文脈で捉えるのは、二つ、です。
一つはフランス国への連帯を示すためのトリコロール。もう一つは、フランス革命で成し遂げられたとされる普遍価値としてのトリコロール。
後者だとしたら、自由、平等、博愛という言葉を支持するという意味においては、別にパリのテロだけを追悼するものでもないということになるのでは、と思います。
ただ、ですね、こうした西欧の普遍的理念というものは得てして二重の意味を持つものです。その適用範囲というものが、西欧の中にとどまるのか、その外にまで波及するのか、という点。これが、西欧の持つ重層性ではないかと思っています。
これは、まるで一神教の言説と同じなのではないか、と。そのアガペー、つまり神の愛は異教徒には差し伸べられることはありませんから。
そしてなお、その理念は、時間が経つにつれ骨抜きにされ、権力に収斂されていくという問題もあります。
昨日も少し書きましたが、これは普遍価値のせめぎ合いであると同時に、普遍価値の本当の姿が何か、という問題でもあるのだとも思います。
結局のところ、あらゆる理念的なものは、時間とともに自壊していくものではないか、と思うのです。例えば、短期的には、1789年のフランス革命もやはり自壊していきました。1815年からのウィーン体制下での王政復古においては、フランス国旗もトリコールではなく、真っ白なブルボン朝を象徴する旗に戻ったのだそうです。
インターネットも、かつては自由の象徴だった気がしますが、今は様々な制限がかかったり、ウィルスやサイバー攻撃などの舞台になりましたし。
歴史の終わりのようなものを感じるばかり。これからどうなっていくのか。きっとなすすべなく笑い飛ばして見守るしかない、そんな気がします。辻邦生が「嵯峨野明月記」で語っていた境地なのではないか、と思います。
ちなみに、冒頭の写真は、それでもやはりフランスっぽいものを、ということで、雄鶏を載せてみました。
もう、本当に平和になるように願いつつ、事象の裏を見据えようとしつつ、おやすみなさい。
もう、何を書いても空々しいものになりそうなのですが、パリの同時多発テロの件については、本当に暗澹たる思いでニュースを見たり記事を読んだりしました。今朝、目が覚めたのが6時半前ごろ。Apple Watchをつけてトイレに行こうとした途端に、BBCのニュース番組の聞きなれたジングルがiPhoneから聴こえ、なんだろうね、またジハーディ・ジョンのニュース? と思ったら、パリのテロのニュースということで、驚いた次第。その後もBBCのアプリはニュースを伝え続け、はてはコンサートホールで100名の方が犠牲になったというニュースや、フランスが国境を封鎖した、というニュースなどがどんどん入ってきました。
BBCの速報に遅れることだいたい20分ぐらいで、日経の速報が入るという感じ。NHKは同じニュースをくりかえす、ということで、日系ニュースのスピード感などになんだか??という思いでした。BBCは、記者のツイートがリアルタイムに流れるというスピード感なんですが、なんだか、時代に遅れる組織と遅れない組織の違いはなにか、という、いつも思っていることを感じたり。
Amazonを夕方に開くと三色旗の画像が。
このスピード感。スピード感。スピード感!
本当に見習わなければなりません。早ければいいと言うものではない、という言葉をよく聞きますが、それはもう20世紀的な古い考え方に過ぎないのではないか、と。この20年で世界は十二分に変わっているのに、変わらない地域や領域もあり、変わらないことや戻ることを美徳とするという状況。
変わっているのはテクノロジーだけではない、ということも。西欧的な普遍的価値が揺らいでいるのではないか、という思いも、改めて感じるのです。テロがパリで起きたということは、それを象徴しているのではないか、と。フランス革命が起きたパリという地で、大きな反動が起きているのではないか。ウィーン体制が反動と思えないほどのという、なにか底知れない不安です。
絶対真理の存在があることを捨てざるをえなかった西欧文明に、この状況を思想的に支える力はあるのだろうか、とも。学者ではないにせよ、文学をすこしばかり学んだ身にとっては、簡単には答えが出せない状況です。
世界の変化のスピードはどんどん早くなるわけです。情報や人の動きがかつてないスピードになっているわけで、かつての100年スパンの歴史の動きがどんどん短くなっているのではないかとも。だとすると、この激しい動きはどこへ行くのか、それがわかるのはそう遠い未来ではないのかもしれない、などとも思ったり。
もちろん、今回の事件が、報道通りのものかどうかはわかりません。これはもしかすると、真珠湾攻撃のように、今後の展開にとって大きな意味を持つものである可能性もありますから。
今日は、仕事場の同僚が入っているオケの演奏で、ブラームスの交響曲第1番を。この19世紀という西欧文明にとっては稀有な幸福な世紀の記憶が詰まっているものと思います。こうした記憶の意味がどうなっていくのか、見て考えなければなりません。
私は、最終楽章のホルンとフルートを聴いて、世界の変わりようを思い、涙を流してしまいました。
辻邦生が存命ならなんと言ったか、そればかり思います。
では。また。おやすみなさい。
うーん、本当に難しく大変な1日でしたが、とりあえずは責務は果たせたのかもしれません。本当に果たせたかどうかはわかりません。慣れないことはするもんではありませんが、慣れるまで頑張れ、ということなのかも。
明日からまたハードな毎日が始まりそうです。頑張らないと。デューティがこなせない毎日で、少々焦り気味ではありますが。
今日はこちらで、落ち着いた気分になりました。
では、今日は取り急ぎお休みなさい。
夕方、仕事場の若い方が参加しているオケの演奏会に行ってきました。それも普通の演奏会ではなく、なんと、レーピンがショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を弾いたのです。
お恥ずかしながら、初めてミューザ川崎に行きました。コンパクトで、いいホールですね。残響がかなりあるなあ、という印象でした。通常のホールとは違う作りだなあ、とも。1F席がほとんどない、というのが少し驚きでした。
オケは、アマオケの皆さんでしたが、何とも素晴らしい演奏でした。フルタイムのオケとの違いもあるのですが、そうはいっても、じわりとくる感動を随分ともらいました。
アマオケを聴く機会はあまりないのですが、その中でもレベルは高いなあと(僭越ながらも)思いました。特に、木管とかパーカスとか、かなりの実力者ぞろいだなあ、と思いました。オーボエの方、巧かったなあ。
曲のほうですが、ショスタコーヴィチの持つ、ロシア的な大地の匂いとか、戦争や圧政に苦しみ悩む人々の思いとか、圧政の中でそれを笑い飛ばしてやろうという人間の力とか、そういうショスタコーヴィチの持つ精神性のようなものが随分と伝わってくる演奏でした。
レーピンが練習で色々とアドバイスしたとのことでした。プログラムの他の曲と、このヴァイオリン協奏曲では明らかに音が違うように思ったのも気のせいではないでしょう。
それにしても、アマオケをやっている方が羨ましいです。私はジャズをえらびましたので、こんなにクラシックのことばかり書いているにもかかわらず、いつも門外漢の気分でいます。おそらく、楽器ができてオケで吹いている、ということが、一つのステータスであり、あるいはフリーメーソんの入会の儀式のような、秘儀的な意味を持っているのではないかとすら思えてしまうことがあります。
もっとも、ジャズの方にもそういう何かしらの連帯感のようなものがあって、インプロヴァイズができるということが、あたかも隠された教徒の証、のように思えるときもあります。
今は、明日、急遽、演奏することになった曲を予習中。いつも好きで吹いている「酒とバラの日々」などスタンダード曲中心です。
明日も大変な1日になりそうです。
ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
公園の鶏。この子たちは、別にゲージに入っているわけでもないのに、いつもここにいます。人間も、結局はこういうものなのかもしれないですね。
さて、先日、PCのOSをアップグレードしました。OSはEl Capitinになりました。
で、感動的だったのは、日本語変換です。これ、変換ボタンを押さなくても、どんどんと変換をしてくれるのですね。このブログでは、専門用語とか、文学的表現をあまり使わないので、この自動変換で随分助かっています。
私は高校時代にキーボードでブラインドタッチができるようになったと記憶していますが、そのうちに、別の日本語入力機構が出てくるはずで、それに対応できるかどうか、不安を覚えていたとも記憶しています。高校時代から未来の新しい未知のテクノロジを恐れていた感があったのだと思います。
実際には、そうした文字入力のテクノロジは、20年ほど前のポケベルへの文字送信であったり、ガラケーの文字入力であったり、あるいはiPhoneのフリック入力だったりするわけです。そういった文字入力に、ある程度は同調し、今でもフリック入力は随分と使っています。ですが、やっぱり一番早いのは、キーボードで入力するブラインドタッチです。
これ、私にとっては当たり前の帰結なのですが、もしかすると、年代が変われば、そうとも言えなくなるのかも、とも思っています。フリック入力のほうがキーボード入力より早いという若者はたくさんいるのではないでしょうか、などと思ったり。
また、キーボード入力も、QWERTYではなく、親指シフトの方が早い、という話もありますし。
いずれにせよ、同じ場所に安住することなく、次の新しいテクノロジを咀嚼し取り入れないと、と考えています。鵜呑みはいけませんが、味見はしないと、という感じ。
お金はかかるかもしれませんが、抑えるところは抑えて、でも今後生きていく上で必要なものにはきちんと投資しないと。これはもう設備投資と一緒の世界です。企業も個人も同じですね。
今日は短くこの辺りで。おやすみなさい。グーテナハトです。
今日は、午前中からとある講演会の司会。しゃべりは少ないですが、かなり気を遣いました。講演の内容は、内容は書けませんが、とても素晴らしく、未来が見えた気がします。聴いていた方々もみなさんよかった、と言ってましたし。
今年に入って、このような司会などやることが多いのですが、なんか快感になってきました。なんなんですかね…。多分、学生時代にサックスでフロントとっていたからだと思います。このライブ感覚の、ドキドキする緊張が快感につながっているのだと思います。ドキドキというより、ワクワク感なんだと思います。
これまではそんな仕事やってませんでしたが、今年から組織の何でも屋みたいなところに来たもので、途端にそんな仕事が増えたのでした。
ただ、さすがに気はつかいます。相手がいることですし、それが相手への礼儀とも思いますので。
レベルは違うと思いますが、お笑い芸人さんたちは、本番前にかなり神経質になるみたいですが、その気分が少しわかります。
また、レベルは違いますが、指揮者の広上さんが、本番前に極度に緊張しておられるのをテレビで見たことがあります。それに近いものがあるのかも。
ライブならではの緊張の感覚を少し共感できているような気がします。
ちなみに、今日は想定外のことがたくさんあり、少々準備ができないまま始まったりして、ドキドキとかワクワクというより、スリリングなものだった気がします。スリルを味わうのも悪くはありませんでした。
今日はこちら。エラ・フィッツジェラルドが歌うYou’ve got a friend. 最後のとこらは、なかなか盛り上がります。キャロル・キングとは違う色合いで、面白いです。より、濃厚なYou’ve got a friendです。
たぶん、歌手の方々も同じなのかも、などと想像してしまいます。。ライブが快感なのも、緊張するのも。レベルは違うにせよ。
それでは、また。おやすみなさい。グーテナハトです。
今日は、大学時代からの知り合いで、ニューヨークで暮らしておられるサックス奏者の方と。
いろいろな話した中で大切だったことは、「歌うこと」の大切さ、でした。この「歌う」という言葉は実に多義的です。今回の文脈は、私の解釈では、自分の心の中かは、あるいは腹の底から出てくるもの、ということだったと思います。それは、「歌う」という言葉というよりも、表現しようとしていることそれ自体、というふうに捉えました。
ただ、手が動くままに演奏するのではなく、自分が本当に演奏したいことを演奏できているか、という厳しい問いである、と私は解釈しました。
それは、テクネーを磨かなければ成り立たないものです。がゆえに、楽器のテクニック、理論などの研鑽が必要であることは間違いないのですが、それはおそらくは単なる手段にすぎず、それだけではなにもなし得ないわけです。
ただ、「歌う」という、実に多義的な言葉の中には、本質に迫るべき厳しい態度があり、そこに到達する方法は絶対に説明されることはありません。ここが、あらゆるものにひそむ説明されざるところ、あるいは説明しえないところ、なのだと思います。
今回の会合のコーディネートは、大学からお世話になっている先輩です。この方の気配りには、本当にかなわないなあ、とあらためて。
今日はあるいは語りえぬ悲しい出来事が。世の中はそもそも不合理に作られている。そういう前提をまさに確認する一晩でした。
それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。
今日は、所用のため会社を早めに上がって、某電気街、つまり秋葉原へでかけました。
20分以上滞在したのは20年ぶりぐらいです。昔話はするつもりはありませんが、同じ場所でもこんなに変わるもんかね、と驚きました。。
あわせて、金沢行きの新幹線が走っていたのがホームから見えたのも不思議な気分でした。
まるで別の街に来た気分である。あるいは、よくあるSFのように、地球と同じ惑星がどこか別のところにあって、似ているんだけど違う街に迷い込んだ、という気分でした。
私の場合、随分エピソード記憶が強いみたいで、ついさっきのように、記憶が残まざまざとっていますので、そう思うのでしょう。
にしても、以前以上に居心地が悪い街になっているのは否めません。一方で、これが日本的な街だと思われているのか、外国からのお客さまがたくさんいたのにも驚きました。
おかげで、いろいろと勉強になりました。が、早々に帰宅しました。さすがに少し疲れる街です。
今日はこちら。ベームらしいルバートを楽しみました。
それでは今日は短く、おやすみなさい。