2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

行って参りました。新国立劇場の「さまよえるオランダ人」。
久々のワーグナーオペラでした。不協和音に痺れました。

ジェニファー・ウィルソン

ゼンダのジェニファー・ウィルソンは歌唱力は抜群でした。。ピッチの狂いなく、高音域もパワーを保持しながら難なくきちんとヒットしていくさまは本当に見事でした。完全に今日のナンバーワンでしょう。

男声合唱の素晴らしさ

次の男声合唱が素晴らしかった。PAが補完していた可能性もあるが、水夫達のワイルドな心持ちが十分に届いて来るものだった。カーテンコールでは、合唱団員にいつもにもまして盛んな拍手が贈られたし、珍しくブラボーもかかった。私は10年ほど新国立劇場に通っているが、合唱にブラボーがかかったのは初めてでした。

オランダ人のエフゲニー・ニキティン

オランダ人のエフゲニー・ニキティン。性質は抜群です。。オランダ人のミステリアスさをよく表現していました。ただ、前半特にピッチが不安定であったのが気にりました。不安を覚えながら聴いていましたが、後半はそうした問題もだいぶ解決してきました。ウィルソンとの二重唱におけるバトルは壮絶でした。

オケが……。

オケについては書くのはなかなか難しいなあ。。あえて書かないことにいたします。ホルンって難しいのでしょうね。

まとめ

久々の本格ドイツオペラでした。12月の「こうもり」以来。「こうもり」はオペレッタかもしれませんが。
しかし、今日も二階席の音響に物足りなさを感じてしまいました。日フィルで最前列の音響のすごさを体感して以来です。今日もボリュームを上げたくなる欲求が何度も。きっともっとすごいサウンドなんだろうなあ、と思います。一度で良いからS席前方ブロックで観てみたいです。

おまけ

帰宅しようとしたら会社に呼び出され、7時間ほど勤務。帰宅したら4時半。夜の都心のタクシーは刺激的。今日のタクシー運転手は記憶力がある方だったなあ。これまでの核実験総数は2085回。日本の原発は54基、フランスの原発は56基。などなど。営業マインドもあったし、経営のセンスもありました。

2011/2012シーズン,Classical,NNTT:新国立劇場,Opera

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はじめに

2月18日(土)、松村禎三の「沈黙」を新国立劇場でみてきました。
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重いオペラでしたが、個人的にはとても興味深いもので、あっという間の三時間でした。

ストーリー

言うまでもなく「沈黙」は、遠藤周作の名著です。

禁教下の17世紀に、マカオから潜入した宣教師ロドリゴが、弾圧されるキリシタン信徒を前に、信仰を捨てるか否かを迫られるという、本当に重い内容です。拷問され処刑されている信徒の姿を見て、いくら祈っても助けとならない神の真意とは何か? 信じてもなお苦痛に苛まれる。本当に救われるのか?
拷問のシーンや、火責め水責めの処刑の描写が激しく、水責めのシーンが津波を思い出させ、悲しみとともになんだか目を背けたくなるような気持ちになりました。
沈黙は大学受験のころに読みましたが、あのころの記憶が蘇えりました。
私には、「沈黙」と同じ文庫本に所収されていた「死海のほとり」のほうが印象的だったのですが、今回は、感慨をもう一度呼び覚ましてくれた気がします。
「死海のほとり」では、映画「ベン・ハー」では、あんなに人々を癒していたキリストが、無力な存在として描かれてた驚きがありましたが、今回もあらためて、信仰と現実の狭間の深淵をのぞき込んだ気がします。

音楽面

今回は予習音源が手に入らず、音楽をきちんと受け止められるか、不安でしたが、第一幕冒頭の火刑のシーンの強烈な不協和音に揺り動かされ、涙とまらず、というところでした。
サウンドとしては、ベルクに似ていましたので、全く違和感を感じることもなく音楽二敗って行けたように思います。あるいは、ツィンマーマンの「軍人たち」を思い出したり。
ですが、私には「ヴォツェック」に似ている用に思えてなりませんでした。例えばオケがユニゾンでなるところが、ヴォツェックがマリーを殺したあとに鳴り響くロ音のユニゾンにきこえたりしました。
独奏ヴァイオリンが効果的に使われていて、ロドリゴの心の迷いを、あらわしていたとおもいます。それからトランペットも効果的で、神の垂範を表していたり、教会の意見を表していたりしていたおもいます。
最も感動的だったのはオハルを歌った石橋栄美さんでした。なんというか、言葉にでない感慨です。一緒に生きて死のうとまで誓い合った夫のモキチが水責めで死ぬのを目の当たりにしたオハルは、食事をとることが出来ずに衰弱死します。
その前に「オハルは、今日の穴掘りに耐えられなかった」という歌詞がありましたので、集落の信徒全員が強制労働にかり出されいたのか、あるいは、彼ら自身の墓穴を掘るよう強いられていたのか、そういう背景を想像しました。
オハルは、モキチの幻影を観ながら息絶えるわけで、あそこは、一つのクライマックスでした。オハルの見せ場は、死の場面の前の、モキチの水責めにうろたえる場面にもありましたが、狂乱の場だとありました。いわゆるベルカントの狂乱の場ですか。。それにしては深刻すぎるなあ、と思います。
その場面で、石橋さんは、伸びのある、そして高い音に張りのある声で、儚く哀れなオハルを素晴らしく表現していたと思いました。
あの場面は、穿った見方をすると、お涙頂戴的な下世話な感じになりがちなんですが(私は今年に入って、そうした舞台を観て辟易した経験があります。このウェブログには書いていませんが)、そうならないギリギリの線で、巧く表現しておられたと思いました。出色の素晴らしさでした。

日本語のリズム

今回は当然ながら日本語のオペラです。今回の歌手の方々に、発音の面で大きな違和感を感じませんでした。
偉そうなことを申しますが、ドイツ語のオペラを観ると、日本人の歌手の方のアーティキュレーションに違和感を感じることがあります。そこで、音を弱めてはいけないはずなのに、どうして? みたいなもどかしさです。
欧州語を母語にしておられる方々にとっては当たり前なんでしょうけれど、おそらくは日本人には難しいことなのだと思います。もちろんきちんと歌える方もたくさんいます。あくまで確率論なんですが。
ところが、今回のパフォーマンスでは全くそうした違和感は感じませんでした。日本語のアーティキュレーションは日本語の使い手である日本人が最もよく分かっているということなのでしょう。これは、日本のポップスを聴いていても思うことです。
日本語とはいえ、面白いことに字幕がありましたが、あれは助かりました。長崎方言やキリシタン言葉は聞いただけでは分かりませんので、理解の助けになりました。

思うこと、しばし

しかし、我々は毎日踏み絵を踏んでいる気がします。そきういう観点でいうと、キチジローは我々の中に普通にいる存在なのでしょう。組織のなかにあっては、自らの本意とは違う行動を取るのは当たり前ですし、そこに正しさはありません。正しいことととるべき行動は常に乖離しています。
では、簡単に踏み絵を踏んで、役人に密告してしまうキチジローは、本当に自らに正直に生きていない弱い人間なのでしょうか?
私は、おや、と思う場面を見いだしました。
キチジローは、裏切り者の烙印を押されて、村の人間に相手にされなくなり、子供達にもさげすまれる存在になります。キチジローは、もう自分にはどこにも行くところがない、と嘆きます。もし、キチジローが信仰を守れば、そんなことはなかったのに。
そうなのです。キチジローにとっては、信仰というのもしかしたら周りの人間に認められるための手段でしかなかったのではないか、と思われるのです。
さらに考えを進めると、どうやら村の人間達は、信仰を通してしか人を認めることが出来ないのではないか、という考えに至ってしまいます。自分たちと異なる価値観を排除しようという観念。いわゆる日本的なムラ志向ではないか、と。
がゆえに、フェレイラは「日本は沼だ」言ったのではないか、と。個人個人が神と向き合っているのではない。村の皆が信じるが故に、我も我も、と信じているという共同体的錯誤ではないのか。そこには個人の考えはないのではないか、と。
フェレイラは、キリストの神が大日如来にすり替わる、と言いましたが、それでしかなかったのではないか、という残念な気持ちを抑えられません。

終わりに

今回も、素晴らしく考えさせられる舞台でした。オペラが現実へ働きかける力を十二分に持っていると言うことを改めて認識しました。
グレアム・グリーンが「二十世紀最大のキリスト教文学」と称えたそうです。
科学万能の現代にあっては、神の在不在という問題にとどまらず、すべてが原子核の集合分離に帰着してしまう世界の中で、いかに価値を見いだすか、という問題点にまで視界を開かせる「沈黙」の世界は、偉大なものでした。
まだまだ現代的価値を持っている作品です。遠藤周作、また読み始めようかなあ、と思います。
いろいろと興味深く、また懐かしくもあるパフォーマンスでした。

付録

「沈黙」は、2013年にアメリカで映画化されるそうです。
“http://www.imdb.com/title/tt0490215/":http://www.imdb.com/title/tt0490215/
今回の、新国立劇場のパンフレットには、私が大学時代に習った先生が文章を書かれていました。まあ、このテーマですと、私の大学が出てくるのは必然なんですが。
その先生の「キリスト教と文学」という講義を一年間とったのですが、生意気な私は辻邦生の「背教者ユリアヌス」を題材にして、超越的存在の神と、現世をつなぐ難しさをレポートにまとめた記憶があります。
それはそれで先生にとっても興味深かったらしく、わりといい点を貰ったんですが、先生には、キリストの受肉こそが、その解決の可能性だ、と示唆されたのを思い出しました。
当時は、受肉が普遍性を持つのか、理解できませんでしたが、若いがゆえの蒙昧なのでしょう。もうすこし考えてみてもいいかもしれません。
でも、すごく優しくて人間味の溢れる先生でした。今も元気で教鞭を執っておられて、大学にしかるべきポストを持っておられるのを知ってすごくうれしかったです。

Giuseppe Verdi,Opera

ヴェルディに開眼したかもしれない。

私にとって、苦手な分野だったヴェルディのオペラ。ですが、ようやく理解できるようになってきたのかもしれないです。
そう思えたのは、このCDを聴いたから。デル・モナコがオテロを歌った、カラヤン盤です。

4月に新国立劇場でオテロがあるので、予習しないとなあ、と、CD入れて、聴いたとたんに、たまげました。
こんなに格好良かったでしたっけ? みたいな。
私は、ヴェルディのあまりに素直なフレージングに戸惑うことが多かったのです。調性を外すことなく、なんだか純朴なフレーズに終始しているような。
ところが、今回は、それよりもサウンドのすばらしさに筆舌を尽くしがたい感動を覚えました。

理由は?

デル・モナコの超人的なトランペットヴォイスも当然のごとくすばらしい。実演だと卒倒するぐらい何だろうなあ。
カラヤンの音作りもいいです。冒頭からみなぎる緊迫感です。カラヤンらしくテンポをあまり動かさずに、ダイナミクスを鋭く作っていくあたりはさすがです。
ですが、一番大きな理由は、私の音楽聴取環境が変わったからなのだろうなあ、と考えています。
私のオーディオ、ONKYOのコンポなんですが、これまで10年間は死蔵して全く使っていませんでした。聴くのはもっぱらiPodで通勤時間だけという感じ。
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ですが、今年の夏に引っ越したのを機にオークションでスピーカーを仕入れて、オーディオで聴くようになって、新たな発見が続いています。
冒頭の爆発的な音響などは、ヘッドフォンで聴くのと比べると、当然ですがオーディオで聴かないと本当の意味がわかりませんでした。金管の煌めきとか、バスドラムの地響きなどは格別です。歌手の声も、奥行きがあるように聞こえます。
もっとも、オーディオに対する評価は、きわめて主観的ですので、私の感想はあくまで、特殊なものだとは思いますけれど。

当たり前のことですが

オテロに開眼したのも、オーディオで聴くようになって、カラヤン盤オテロのポテンシャルを私がようやく認識できたからだとおもいます。
あとは、夏はどうするかなあ。私の部屋にはまだ冷房がないのですよ。。この音量で窓あけて聴けないなあ。
音楽は奥深い。どれ一つとして手を抜けないです。もちろん時間と経済問題の損益分岐点を探るわけで、絶対的な解はないのですが、ベストを尽くさなければならない、と思います。

2012/2013シーズン,Classical,NNTT:新国立劇場,Opera

本日、シーズン券のお誘いが届きまして、2012/2013シーズンの予定がわかりました。
# ピーター・グライムズ(新制作)
# トスカ
# セビリアの理髪師
# タンホイザー
# 愛の妙薬
# アイーダー
# 魔笛
# ナブッコ(新制作)
# コジ・ファン・トゥッテ
# 夜叉ヶ池
うーん、ドイツものはタンホイザーだけか。。モーツァルトはのぞきますが。
それから、今のシーズンは新制作が4つありましたが、今回は2つ。相当財政が厳しいのでしょう。
取り急ぎです。

Miscellaneous,Opera,Richard Strauss

試されたのでした。。

昨日、とある方に、なぜ、ばらの騎士が好きなのか? と聴かれました。もしかしたら、そうした質問ではなく、私が勝手にそう解釈して、オリンピアのように自動的につらつらと言葉が出てきたのかもしれない。そういう感じ。それでまるで試されているかのような緊張感とともに。以下のように答えました。
1)どこか世間を批判的にみている洒脱さ。世の中を斜めからみて、そこに本質を見いだそうとする諧謔精神。
2)時間という最大の自然力に抗うことの出来ない人間の宿命を描く。
3)音楽素晴らしさ。登場人物の情感に寄り添うような丁寧な旋律や和声。
音楽のことはちゃんと言えなかった気がしますが。まだまだ語りきれていない。考えないと行けないなあ、と。
現代の時代精神との関連性についても少し話したような気がする。爛熟し熟れきった世界で、次の破局を予感しているようなところ。それは、もう現代の我々の状況と一致している。だから、そこから少しでも逃れたいために、こうした洒脱な世界に逃避するのか。あるいは、こうした洒脱な世界を利用して、なんとか生き抜こうとするのか。
意外というか、必然というか、我々は19世紀末から20世紀初頭にかけての時代を敷衍しながら生きているのかもしれません。

N響アワーでばらの騎士とカプリッチョを。

夜は、N響アワーで、シュトラウスの「ばらの騎士」組曲と「カプリッチョ」終幕の場を、プレヴィン指揮NHK交響楽団で。2009年のプレヴィンと、2011年のプレヴィンが登場するのですが、明らかに齢を重ねているのが分かり、少しショック。しかし、フェリシティ・ロットは大柄です。西洋人から観たドワーフやホビットは日本人のことではないか、と思うほど。
N響の音に、何か硬く重いものを感じました。動きたいんだけれど、足かせを嵌められているので自由に動けない、そうした感覚。先日、新国立劇場で「こうもり」を観ましたが、あのときに感じた感覚と少し似ているかもしれません。
昨日のN響アワーでの解説を拡大解釈すると、音楽界におけるロマン派の終焉は1948年のリヒャルト・シュトラウスの死によって訪れるということだそうです。確かにそうです。実社会のロマン派はナチス・ドイツ消滅まで待つことになるのでしょうけれど。

一つ前の世紀末の人々

さて、昨日お会いしたとある方に関連して、19世紀末から20世紀前半にかけてのオーストリアの文学者についての話を読んだり伺ったりしましたが、あまりの興味深さ、面白さに圧倒されました。みんなどこかでつながっている。欧州教養人は、それ全体で一つのサークルを形成しているのではないか、と思いました。
トラークルはヴィトゲンシュタインから援助を受ける。ヴィトゲンシュタインはケインズと友人であった。ヴィトゲンシュタインの兄は戦争で右手を失ったピアニストで、彼のためにラヴェルやシュトラウスが左手用ピアノ楽曲を作曲した。
あまりに人間的で、人間的すぎるがゆえに、精神を病み、決して幸福とは言えない人生を送ったけれど、後世に残したものはあまりあるもの。
これだけで、一週間はブログが持ちそうだな、と思います。
まだまだ知らないことがたくさんあるなあ。やること沢山あるけれど、頑張ろう。生きるためには、本を読んで文書を書き続けなければならないという宿命。それを改めて認識しました。

2011/2012シーズン,Classical,NNTT:新国立劇場,Opera

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こうもり@新国立劇場、行ってまいりました!

エッティンガーの指揮ぶり

驚いたのは、エッティンガーの指揮ぶり。これは賛否両論あるに違いありません。まずは鋼のような統率力が凄いです。序曲のスネアが軍楽隊に聴こえるほどの精緻な指揮ぶりでした。いつもより、東京フィルも気合が入っていたとおもいます。エッティンガーにかかると、ウィナーワルツの微妙なもたり感もすべて数値化され計算されているかのようです。
それから、音楽の力強さが半端ないです。テンポもすごく落とすところがあり、重い感じに仕上がっていました。ワーグナーばりかも、などと。。。
やはり、題材が洒脱な「こうもり」ですので、もうすこしゆるくかるくオケを動かしてもよい、という意見もあるかもしれません。
あとは、統率力のほう。この統率力で、東京フィルの音が先週と全く違って聞こえました。金曜日に聞いた日本フィル定期演奏会の山田和樹氏とは全く正反対です。指先の動きまで使って細かく指示を出している感じで、クリックも完全に全部統御している感じです。

完璧主義?

この完璧主義ぶりは、若さゆえなのかな、あるいはそうした性格なのか。影響を受けている指揮者は、バレンボイム、チェリビダッケ、カラヤンですので、やはり、性格なのでしょう。すでに、バイエルン国立歌劇場などでも旺盛な活動をしているエッティンガーがベルリンフィルの指揮台に上がるのはいつになるのでしょうか。そう遠くない将来実現しそうです。
http://www.dan-ettinger.com/eventarchive/

カッコイイおじさんたち。

私は、どうしてもカッコイイおじさんに憧れるのです。ですので、刑務所長フランクを歌ったルッペルト・ベルクマン、ファルケ博士を歌ったペーター・エーデルマン、それにコミカルな演技を見せた看守フロッシュのフランツ・スラーダのおじさん三人組には本当に感銘を受けました。微妙な表情とか、仕草とか。まったく。なんで、あっちの方々はみんなカッコよく歳取るんでしょうか。私の果たせるかどうかわからない目標。

ネタ

恒例のいわゆる「ネタ」ですが、2009年とかぶるところがありましたが、新しい趣向もあったと思います。結構日本語使ったネタがあったり、歌詞を変えていたりと、なかなかに面白かったです。少しやりすぎ感もありましたが。。。第三幕の「焼酎」ネタも健在でした。

まとめ

本日は取り急ぎ。「こうもり」のような軽妙なオペラはかえって難しいですね。
明日から仕事。頑張ろう。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

すっかり寒くなってしまいました。半月前までは、まだまだ暖かいなあ、と思っていたのに。今日は6時前に家を出ました。真っ暗でしたが、空気は澄んでいて気持ちがよいと思いました。
ルサルカの第二回目です。
演出について書こうと思います。今回の演出はとても素晴らしかったのです。
色彩も、照明も、衣装も、解釈もどれも楽しかったです。
USTREAMで演出のカラン氏のコメントを聴きたいところですが、なぜか観られないのです。。
(→今日の夜時点では観られました。研究を進める予定)
ですので、これは主観的な感想です。

光の美しさ

今回の演出は本当に面白かったし美しかったです。水をモティーフにしているだけあって、舞台には波紋が水底に描くゆらめきが照明によって描きだされていました。
これは、本当にゆらめき、まるで本当に水底にいるかのようにも見えました。これ、当たり前過ぎるほど自然で、うっとりと見入ってしまいました。

人間らしさとは何か?

私が今回の演出でもっとも感銘を受けた部分はここでした。
私がそれを感じたのは、第二幕の結婚式の舞踏会とされている部分でした。
深い赤のドレスに身を包んだ男女が四方の入り口から舞台上に現れてきます。舞踏会の客という設定ですので何十人という大勢です。彼らは一様に目の部分を隠すマスクをつけています。表情はもちろん視線がどこに向いて居るのかも分かりません。
ルサルカは、彼らに話しかけようと近づきます。ルサルカは言葉を発することが出来ませんから、おのずと身振り手振りとなります。ですが、そのたびに、深い赤のドレスの彼らは、身を翻し、あるうはルサルカをよけるようにして、ルサルカのアプローチを拒絶します。それも拒絶していることすら気がつかせないよけ方です。完全に無視を決め込んでいいるわけです。いみじくも花嫁だというのに。まさに、存在を抹消しようとしているようにも見えます。
ここでは、全く違う価値観で動く人間達の中で、拒否されあるいは無視されるルサルカの姿が濃密に現されていたと思うのです。
ルサルカは、水の精の世界から人間界へと向かうのですが、そこで拒絶されてしまうわけです。人間になりたいということで、進んで人間になったはずのルサルカを無視する人間達という構図です。
理由は何か? ルサルカが真の人間になっていないからなのか、あるいは、ルサルカが人間で、人間達が人間ではないのか。
この物語は、人類普遍の問題を描き出しているのでしょう。真の人間性とは何か? という問題です。自分とは異質なものを拒絶するというのは、人間社会において普遍的なものです。それは、第二幕冒頭で給仕達が交わす会話にも現れていました。王子は変な女を森の中から連れてきて、全くどうかしているよ、みたいな感じです。
それから、何も言葉を紡ぎ出すことの出来ないルサルカの姿は、真実を語ることが出来ない、あるいは自らの真性を表出することを許されないという人間のある種のきまりをとらえたメタファーだと考えられます。
この場面は、人間社会の側面を指摘した秀逸な表現だと解釈しました。

神への言及

ルサルカに逃げられた王子は、どうやら色目を使われた外国の公女にも捨てられたらしく、悶々とした生活を送っていて、どうにも我慢ならなくなり、森に分け入りルサルカを探そうとするわけです。誰がどう見てもだらしがない男なんですが、まあ、ルサルカと再会して、もう死んでも良い、ということで死の接吻を受けて王子は死に行くわけです。「愛の死」にしては王子はかっこ悪いです。トリスタンとは大違いだと思います。まったく。。
ところが、その後がとても興味深いのです。ルサルカは神に祈り始めるのです。今日、私が見ていた中で、神についての言及に気づいたのはここだけでした。あまりの唐突感に違和感を覚えました。これは、私がクリスチャンではないからでしょうか。あるいは水の精という「異教的」な存在が突然神へと近寄ったからでしょうか。
結局は祈ることしかできない、あるいは、思考を停止し、行動を停止して、神にゆだねるというのでしょうか?
すごく興味深いのですが、まだ答えは分かりません。芸術には結論はありませんがこの飛躍がなにかとってつけたものに思えました。学者なら、ここに文献持ってこれるんだろうけれど、悔しいです。

終わりに

今日も少し乱暴な妄想でしたが、観ているときにこんなことを考えていたので結構楽しかったのです。
次回は音楽面について書きます。これもまた難しいのですよ。。。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

始めに

行って参りました。ルサルカ@新国立劇場。
色々と考えることの多い三時間でした。生の音楽を聴きながら、色々思いを巡らすというのは本当に恵まれたことです。ありがたいです。
今回も色々と考えることが多かったです。オペラを観ると言うことの一つは考えることである、ということを、とある演出家が話していたのを思い出しました。
(今年の春に新国で上演された「コジ・ファン・トゥッテ」を演出したミキエレット氏の言葉です)
“https://museum.projectmnh.com/2011/05/29221501.php":https://museum.projectmnh.com/2011/05/29221501.php

あらすじ

念のためあらすじを。オリジナルのリブレットにはないであろう今回の演出を含めたあらすじで、かつ私の主観が入っています。

第一幕

(演出上の設定)
娘は子供部屋のベッドに横たわる。窓からは満月の蒼い光が差し込んでいて、娘の顔を照らしている。思い立った娘は鏡の前に向かう。鏡から離れても、娘の姿は鏡の中に残り続ける。驚いた娘は、鏡の中の自分に触れるのだが、途端に鏡の中の自分に手を引っ張られ鏡の中に吸い込まれる。
(ここからは本編)
主人公のルサルカは、森の中に住む水の精のヴォドニクの娘なのだが、いつも湖の畔を訪れる王子に恋をしてしまう。人間になるためには、魔法使いのイェジババの薬を飲む必要があるのだが、人間になるのと引き替えに声を出す能力を奪われてしまうのだった。ルサルカは迷わず薬を飲み、王子の前に姿を現す。王子は、ルサルカの美しさに心奪われ、結婚することとなる。

第二幕

結婚式が開かれることになるのだが、王子とルサルカは心を通わすことが出来ない。言葉を交わすこともできず、思いを伝えることが出来ないのだ。そのすれ違いは早くも王子の心を別の女性へと向かわせる。結婚式に招かれた外国の公女の誘惑に負け、公女へと心を移してしまう。結婚式の舞踏会で全く孤立してしまうルサルカは、恐怖と絶望を抱き、王子の元を離れ森へと戻る。

第三幕

人間の世界にも戻れず、水の精の仲間にも戻ることも出来ず、森の中で孤立するルサルカは、イェジババに助けを求める。ルサルカがこの状況を脱するためには、王子への復讐、つまり王子を死に至らしめなければならない。逡巡するルサルカ。王子は、ルサルカが姿を消して以来、心を失い鬱状態になっている。森へ分け入った王子は、ルサルカと再会する。王子はルサルカの死の接吻を受け死に至り救済される。
(演出上の設定)
ルサルカは娘に戻る。だが、どこか大人びた表情で。ベッドに戻り。蒼い月の光に照らされる。人形(兵士か王子?)を棚に座らせ、物憂げな表情で窓の外を眺め続ける。
h3.人魚姫との類似
カミさんにあらすじを説明したら、「人魚姫と同じじゃん!」といわれました。「人魚姫」のプロットを忘れていたのです。調べてみると、声を喪うというところは同じでした。
小さい頃の記憶では、悲劇であったがゆえに、あまり好きな話ではなかったのです。どうも、こうかわいそうな終わり方には昔から弱くてですね。。だから一回読んだだけだったのだと思います。まだ悲劇を許容できるほど成熟していなかったのだと思います。
確かにそうかも。「人魚姫」は、王子は幸せになり人魚姫だけが悲劇でしたが、「ルサルカ」は王子もろとも悲劇的結末ですね。こっちのほうがまだいいかも、と思いました。このあたり、ひねた見方もあるんですが。。このあたりはこれから書きます。

さしあたり

寒い一日でしたが、一ヶ月の新国立劇場は素敵でした。
明日は演奏面などを。その次は、演出や解釈などを書きます。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

Ustream

一昨日のオペラトークの模様、USTREAMで見られますね。
“http://www.ustream.tv/channel/rusalka":http://www.ustream.tv/channel/rusalka
記憶がよみがえりました。

調性のこと。

ルサルカ自体のことではないですが、池辺さんが興に乗って、楽理的なことをピアノを弾きながら説明していたのが、すごく面白かったです。
同じメロディを移調して聴かせてくれて、それぞれの違いを説明してくれました。ルサルカの調性がなぜ変ト長調なのか、を音で説明してくれたというわけです。池辺さんの説明があったからそう聞こえただけかもしれませんが、調性ごとに意味合いや印象があるというのが実感できた感じです。
私がジャズサークルにいた頃はこういう議論はあまり聞かなかった気がします。絶対音感を持っていないので、音程差のみに重きを置いていた節があります。ジャズのシステムがそう言うものということもありますが。

弦楽器奏者はフラットを苦手とする。

それから、弦楽器奏者にとってのフラットの意味合いも興味深かったです。
弦楽器奏者はフラットが多くなるほど辛いらしいです。シャープの方が演奏しやすいらしいのです。がゆえに、フラット系の調性だと、緊張感がでてくるのだとか。
これ、昔、マイケル・ブレッカーがインタビューで言っていたことと重なりました。マイケルは、ギタリストはシャープ系を好むが、管楽器奏者はフラット系を好む、と言っていました。メセニーとアルバムを作っていた頃の発言だったと記憶しています。
昨日会ったギタリストにも聴いてみたのですが、やはりそう言うものらしいです。彼はうまく言葉に出来ないようでしたが、どうも「下がる」というところに抵抗があるらしいです。フレットが有限だから?とも思われます。

池辺晋一郎氏名言集

その1
(ベト3を弾き終わってから)
池辺氏:この曲、ヒデオ(英雄)って言うんですけど。。
新井氏:違います(ピシャリ)
その2
この曲は変ト長調でフラット5つなんです。これ、ふらっとこういう風に書いたわけじゃなくて……
その3
チェコにはちぇこっといったことがあるんですが
そのxx 
つづく。。。。

おわりに

本公演が楽しみです。いま、せっせと予習中です。とりあえず、ルネ・フレミングがバスティーユで歌っているDVDを入手し、チェコ人のヴァーツラフ・ノイマンが振ったスプラフォンの音源も入手しました。
二週間後が楽しみです。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

今日は、わたくしの夢がひとつかないました。
会社帰りに新国立劇場に行くというのが夢でした。会社の引越で、仕事場が都内になりましたので、なんと、定時を一時間過ぎた頃に会社を出ても、今日のオペラトークに間に合うという僥倖。
うれしい。
でも、少し仕事残してしまいましたが。
12月の始めに「ルサルカ」を聴くのですが、その予習をかねて、池辺晋一郎氏が登壇するオペラトークにいってまいったというわけです。
じつは、仕事が忙しくて、行けるかどうか、ぎりぎりまで分かりませんでした。ですので、チケットは買わないままだったのですが、今日の午後になって、なんだか行ける気配だったので、新国立劇場のボックスオフィスに電話をしたのです。
ところが、いつも使っているフリーダイヤルにかけることが出来ません。携帯からはNGなので。
しかたがないので、固定電話にかけたのですが「現在使われておりません」のつめたい電子音声が。。どうやら、10年前の電話番号にかけていたらしいのです。
それで、別の電話にかけると、なんと、新国立劇場の営業部につながってしまいました。ところが、担当の方、すごく親切でした。
私が、①ルサルカのオペラトーク、チケットありますか? ②遅れて入場しても大丈夫ですか? と聴くと、確認して折り返し電話してくださるというのです。マジですか。。。素晴らしすぎる、新国立劇場!
しばらくしてから、電話をかけてくださって、チケットもあるし、遅れて入っても大丈夫とのこと。ですが、チケット残数少ないので、お早めにどうぞ、とのことでしたので、ボックスオフィスの電話番号を教えてもらい、チケット発券してもらいました。
18時に会社をでて、地下鉄を乗り継いで初台へ。中央カウンターでチケットを受け取ってオペラパレスホワイエに。席、ほとんど埋まってるじゃないですか。そして、案内のかたは、「本日は満席の予定です」ですって。
チケット買っておいて良かった!
つづく。
USTREAMで生放送していたようです! -まだアーカイブは見られませんが、これから見られるようになるでしょうね。-
アーカイブ、こちらで見られます。
“http://www.ustream.tv/channel/rusalka":http://www.ustream.tv/channel/rusalka