2013/2014シーズン,Alban Berg,NNTT:新国立劇場,Opera

ヴォツェックについては、今日も色々考えて、なかなかおもしろいアイディが出てきましたが、少し時間を置いてから書こうと思います。
今日も遅いので少しだけ。
とにかく、今回のゲオルク・ニグルのヴォツェックは素晴らしかったですね。2009年のトーマス=マイヤーは、かなり低音の質感のある声でしたので、ヴォツェックの凶暴性が際立っていたようにも思いましたが(ビデオで見直しました)、ニグルの場合は、打ちひしがれ絶望の淵に立った苦悩するヴォツェックでした。
それにしても、《三文オペラ》で語られるように、「道徳は贅沢」なんですかね。

もし自分が金持ちで、帽子をかぶり、時計や、鼻眼鏡、それに立派な言葉がありゃ、道徳的にもなれる理くつだ!

第一幕の大尉ともダイアローグで語られるヴォツェックの言葉です。
ここが問題なのです。
では、グーテナハト。

2013/2014シーズン,Alban Berg,NNTT:新国立劇場,Opera

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偉大な民族というものは、自らの歴史を三通りの原稿、つまり行いの本、言葉の本、芸術の本によって書き表す。この三冊中のいずれも、他の二冊を読まなくては理解できない。しかし三冊の中で信頼に値いするのは、最後に上げた本だけである

孫引きですいません。ケネス・クラーク「芸術と文明」のなかに出てくるラスキンの言葉です。

今日の新国立劇場の《ヴォツェック》をみて、文明の真実がまさに凝縮されたパフォーマンスだったと強く思いました。それは文明の歪みを文明が健全に表出したものだったのだ、と思います。文明の歪みをすくい上げるということこそが、文明を文明たらしめているものではないか。そういう意味でも「美が世界を支える」という辻邦生が言うところのテーゼを確信することができたと思います。
ただ、今日のパフォーマンスは、世間一般の《美》ではないのでしょう。ですから、耐え切れなくなった方は途中で席を立ったのだと思います。
ですが、私は、掛け値なしに最高に美しい舞台だったと思います。これは2009年の舞台を観た時よりも一層そう思いました。
冒頭のポスターに描かれた酒場のシーンがまさにそうでしょう。
天井から吊り下げられたボックス、舞台に貼られた水、水の反射面のゆらめきが劇場中に反射している、グロテスクな酒場の客、舞踏のシーン、無表情に演奏するバンダ、バンダを支える黒子あるいは労働者、そして唯一人間らしいヴォツェックとマリー。
このめちゃくちゃな不統一感こそが、世界を映し出す真実です。世界は不統一でグロテスクで不条理なものです。身悶えするヴォツェック、理不尽な要求を哲学的論説に隠してヴォツェックをいたぶる大尉、科学技術信奉のためにならなんでもする医者の姿は、既視感にあふれています。舞台上は現実世界そのものです。
そんな中にあって、水面がゆらめき、ライトアップされた舞台の背面の波打つ文様に心を打たれ、そして忘れることのできないほど美しいエレナ・ツィトコーワーの歌声が響き、ベルクの管弦楽が波打ちうねります。
今回のパフォーマンスの意図はこちらのリンクを御覧ください。演出家本人が2009年に新国立劇場のオペラトークで話された内容をまとめてあります。
ヴォツェック・オペラトーク@新国 (2)
今日はこれで書き終えようと思いましたが、大事なことをもう一つ、明日に伸ばさず今日書きます。
本当にレベルの高いパフォーマンスでした。最も感銘をうけたのはエレナ・ツィトコーワのマリーでした。2003年でしたか、《フィガロの結婚》のケルビーノで新国立劇場に登場で聴いて、2007年《ばらの騎士》のオクタヴィアンを聴いて、本当に凄い方だと思いましたが、今回もそのときの驚きと同じかそれ以上の感動を覚えました。
他の方もすごかったのですが、取り急ぎ次回へ。ではグーテナハトです。

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繚乱です。
仕事場近くで見つけた八重桜。なんだかもう繚乱な感じ。
明日はなんとか《ヴォツェック》に行ける予定。
しかし、究極的には何も解決しておらず。
一体音楽を語るとはなんなのか。音楽を語ることをについて音楽家がどう思っているのか、ということ。
我々には聴くことしか許されていないのか。決定的な断絶を音楽との間に感じてしまう今日このごろです。晩年の辻邦生が音楽について語ることが少なくなったのもこういうことが理由なのかもしれない、などと思ったり。
まあ、迷う暇があれば音楽を聞いて本を読め、ということになるんですが。
取り急ぎグーテナハト。

Miscellaneous

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桜の続き。うつろいゆく時の流れ。
先月から大変な状況で、プライベートな予定はほとんどキャンセルしました。ジェットコースターに乗っているような毎日でした。というか、今もそうなんですが。
おかげで、「ラインの黄金」もキャンセルしました。まったくついていません。週末の「ヴォツェック」は死守したいところです。
というわけで、心機一転さっぱりした今日この頃。
いまだに音楽との関わり方を見出せずにいる毎日です。まったく、どうすればいいのやら。
今日はプレヴィンのシュトラウスを2曲。《ツァラトゥストラ》と《家庭交響曲》。
この典雅と皮肉の織りなす壮麗壮大な伽藍は、西欧音楽の一つの終着点なんだろうなあ、と思います。その延長にコルンゴルトなんかもいるんだと思います。
そうそう。この前思いついたのが、西欧音楽はカトリシズムと同じく普遍性を希求している様式であるということ。がゆえに、我々も理解し得るということなのか?、のんてことを思いつきました。
ではグーテナハト。

Book,Photo

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土曜日の朝に、近所の桜並木に言ってみました。まだほとんど咲いていません。7時を回った頃なので人影もまばら。花の盛りの予感に満ちてはいますが、まだ静けさが漂っています。美しさの爆発的な力が薄黒い木々の中に破裂せんばかりにみなぎっているのを感じます。

風姿花伝を読んでいたんですが、「花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり」という言葉に出会いました。
花というのは季節に置いて咲くものであって、そのときにだけ咲くという「珍しさ」があるがゆえに、翫ぶわけです。いつも桜が咲いていたらこんなにも桜を楽しみにしないでしょう。
申楽も同じである、と言っています。
ということは、まあ芸術もまさに同じなんでしょう。
その先にはさらに厳しいことがたくさん書いてあり、音曲、振る舞い、物真似、全てにおいて巧くなければならない。桜、梅、菊のように一年中の花の種を持つべし、などと書いてあります。
考える事しきり。ですが、どうにも考えることが多すぎて。
ではグーテナハト。

2013/2014シーズン,Music,Oboe

せっかくの禁酒を超克して、現在燃料補給中。
今日はこちらで燃料補給。
引き続き《死の都》。本当に考えることが沢山です。
このオペラは、第一次大戦後に初演されました。失われたものへの惜別と、あらたなものへの希望、というテーマは、まさに戦間期ヨーロッパにおいては求められていたものに違いありません。これは、先日のオペラトークで音楽学者の広瀬大介さんがおっしゃっていたことです。
では、次の希望とはなんだったのか。残念ながらそれはナチズムでもあった、という可能性において気付くべきでしょう。ですが、ナチズムは第一次大戦前の模倣に過ぎないという見方も出来ます。
マリエッタが、失われたマリーの記憶であるとしたら、19世紀の失われたドイツ帝国のそっくりさんは、ナチズムに当たります。
マリエッタこそが、奇怪なナチズムだったのか、と思うと、驚きを禁じえませんが、古きよき価値を纏いながらもそこになにかしらの胡散臭さや危険性を感じるという意味では、マリエッタがナチズムの予感だとしても驚くことはありません。
マリエッタの所業は夢でした。夢でよかったのです。ですが、現実は夢ではありませんでした。マリエッタの激しく妖しいダンスの禍々しさがそのまま欧州大陸を覆ってしまったのでしょう。
コルンゴルト父子は、惜別を過去への追想を超えた、全く別の次元のものとして考えていました。ですから、パウルは、ブリュージユを去ったのです。
失われたものを取り戻すということは、そういうことなのかもしれせん。
我々は今喪われたものを取り戻そうとしているのでしょうか。実はそれは危険なことではないか。マリエッタと懇ろになり、身を滅ぼすものではないのか。そうしたことに思いを巡らせた一日でした。
グーテナハトです

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落日。日はまた昇るのでしょうか。
先日から読んでいるこちらの本。

城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)
辻 邦生
講談社
売り上げランキング: 337,645

辻邦生作品の中でも特に大好きな作品の一つである「ある告別」が収められています。ここで、辻邦生が初めてアテネに行った時にパルテノン神殿を観た感動が記されています。ですが、ここにおいてはまだ明示的にそのパルテノン体験が語られているわけではありません。

言葉の箱 小説を書くということ (中公文庫)
中央公論新社 (2012-12-19)
売り上げランキング: 20,928

「言葉の箱」とよばれる講演集の中で、そのパルテノン神殿を観た感動を文学的にどのように解釈したのかが平易に語られています。つまり、芸術によって秩序をもたらすという視点が取り上げられます。美が世界を支えるというものです。
これほどの芸術至上主義が一言で受けいられるわけはないかもしれません。私も腹の底から理解するのに何年もかかってしまいました。
ですが、今回の《死の都》の舞台を観た途端、ああ、これが人間の底力で、世界を支えているのはこういう舞台なのだ、と直感したのです。
舞台両側面の棚には所狭しにマリーの思い出の品が並べられ、床にも沢山の箱が置いてあり、一つ一つに写真がはられているという豪華さです。
その舞台の様子は昨日もだした以下の写真で垣間見ることができると思います。
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この舞台を見て、あっけに取られない人ははずですし、みながみな美しく絢爛だ、と思うのではないかと想像します。幕が開いた途端、輝く舞台におののいてしまったのです。
ですが、先に進もうとする私を後ろから引っ張る力があって、引き止められてしまったのでした。
常にさいなまれる聴衆とはなにか、という問題と、西欧芸術の至極を日本文化がどう咀嚼できるのか、という問題。
両方の観点において私はアウトサイダーです。正規の音楽教育を受けておらず、日本人として日本文化の中で育ったということ。そうした人間が、この舞台を本当に理解できるのか。それは量的な不足ではなく、乗り越えられない質的な差異ではないのか。
この問題は非常に有名な問題でこれまでも語られ続けていますから、個人的にどのように考えるのかは、これから整理する必要がありそうです。そんなことを考えていると、その他のこともあいまって、やること考えることが多すぎて頭がおかしくなりそうです。すこし冷却しないと。
なんてことを考えましたが、涙なしには視られない舞台であり、感動し続けたことは間違いないのですが。
まだ続きそうです。グーテナハトです。

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Oboe

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《死の都》第二回。妄想が膨らみ続けています。
私の大学時代の先輩も見にいらしていて、FBで少しだけやりとりをしました。
そんな中で思ったのは、マリーの挙措自体が男性が作り上げた幻想なんだろうということ。いわゆる永遠の愛を信じる男の身勝手さというものです。
これまでも、オペラにおいて、男によって作られたヒロインたちの姿を見続けました。新国立劇場の今年の演目である《カルメン》も《蝶々夫人}もそうでした。
奔放なカルメンも、貞節な蝶々さんも、永遠に生きるマリーも、華やかで自由なマリエッタも、みんな男が作ったものです。
そこにいくばくかの真実はあるのでしょう。芸術に昇華されたものとも言えるのかもしれません。ですが、どこかにねじれを感じるのです。
そのねじれは、今回のマリー においてまさに現れたのでしょう。
演出意図としては最高で、パウルの描くマリーをよく表現していました。本当に素晴らしい物でした。
ですが、それは男が勝手に作ったものでした。パウルがマリエッタと懇意になると、マリーは顔を覆います。これは、もう、パウル=男の身勝手でしょう。本当にそうなんですかね。パウルの思い上がりではないですか、などと思ったりします。
原作とは異なり、マリエッタですら、パウルの夢の中で勝手に作られたものになっています。まるでサロメのダンスを彷彿とさせるマリエッタのセクシャルな踊りもパウルが作り出したものにすぎません。パウルの妄想です。
それを作り出したのが、パウル・ショットことユリウス・コルンゴルトなのです。ウィーンの法律家にして音楽評論家。体制側にくみした保守的な男が作り上げる女性は、男の欲望や幻想を投影したものに過ぎないと捉えられても仕方がない面もあるような気がするのです。
マリエッタが「これは女の闘い」といいますが、それもパウル=男=ユリウスの幻想ですので、よく考えると滑稽にも思えるのです。
ですが、これには続きがあるはず。ここから先は私の妄想ですが。
今日の仕事はいつもとは違うお仕事でした。刺激的。
ではグーテナハト。

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今日も所用に明け暮れ。悩み多き一日。
あ、オーボエのレッスンが刺激的でした。音楽は生きるのに必要。演ることも聴くことも。
明日はお仕事です。グーテナハト。