この本、おそらくは20年ほど前に読んだはずです。辻邦生がお父さまに抱く深い愛情を感じる作品。父祖を語る、ということはそういうことなんだと思います。
まだ読み始めですが、辻邦生のお父さまが亡くなるシーンは、何か深い悲しみとともに、荘重で重々しいものにも感じました。英雄の死のシーンにも重なるもので、この筆致もまたお父さまへの愛情なんだろうなあ、と思いました。
引き続き読みます。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
いやあ、素晴らしかったです、ユリアヌス。
さしあたり読み終わり、余韻に浸る感じ。
巻末の「ユリアヌスの廃墟から」も素晴らしくて、しばし読みふけってしまいました。小説家の舞台裏が満載。もちろん、一度は目を通しているものではありますが、その時々の問題意識に応じて、学ぶものも変わります。トーマス・マンやノサックの事例から、小説を書くに当たって意識されていたことがあらわになっていました。
まあ、その気になれば、旧い文庫本で続きも読めますが、あえて、来週の第二巻発売を待つことにします。一応予約してるので、わくわくしながら待ちます。
短信的に今日はここまで。
みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
辻邦生作品を読むと、あれ、このシーン、どこかで読んだなあ、ということがたまにあります。初めて読んだときには当然気づきませんが、辻邦生を読み始めて四半世紀もたつと、そういう気づきもあります。
今日、「背教者ユリアヌス」を読んでいたのは以下のような部分でした。
ユリアヌスが、ゾナスという学生とニコメディアで逢ったあとのこと。二人で神殿跡を訪れるシーン。この、神殿の廃墟を訪れるというコンセプト、「ある告別」にもあったなあ、とおもったのです。「ある告別」は、イタリアからギリシアへ向かう船旅に始まり、ギリシアの神殿跡で壮絶な夕暮れを見て、人間の若さ、すぎゆく時と雄々しく別れる、という作品。辻邦生文学の非常に重要なコンセプトであるパルテノン神殿が描かれている作品でもあります。
この場で「ある告別」を語ることは趣旨ではないのでこのあたりでいったん止めますが、このなかで山の中をあるいて神殿跡を探し出すシーンがあるのです。そこで二人のギリシアの娘と言葉をかわし、神殿跡へと至る、というシーン。あそこで「カスタリアの泉にゆくのはこの道よ、ね」と娘が道を教えてくれるのです。かたや、「背教者ユリアヌス」では神殿に至る道に「カストリアの泉」が現れます。微妙な表記ゆれはありますが、関連しているようにも思います。
(左が「ある告別」、右が「背教者ユリアヌス」)
このカスタリアの泉は、デルフォイにあった霊泉で、神託に訪れた参拝者が身を清めたようです。「ある告別」においては、デルフォイにあることになっていますが、「背教者ユリアヌス」では場所が異なりますが、なにか神殿に向かう参拝者が身を清めるために使う泉のことを指しているんもではないかと推察しました。
おそらくは、いずれも実際にギリシアに行かれたときの経験が元に昇華したシーンではないか、と考えます。「パリの手記」においては、1959年8月26日にデルフォイをおとずれ、佐保子さんが、道を聞いたジプシーのようなギリシアの美少女と仲良くなった、とありました。この美少女が、「ある告別」で道を教えてくれた娘に昇華したのではないか、などと想像しました。
作家が作品を生み出す舞台裏を垣間見た気がいたします。
というか、この調査をするなかで、もう一つ、複数も作品における興味深い関連性を発見し、辻文学への理解が深まったのでした。それはまた。
さて、明日の東京地方は雨だそうです。気温が上がり、暖かいのはよいのですが、雪国では雪解けにともなう思わぬ事故が懸念されているようです。どうかみなさま、体調や天候の変化にはおきをつけください。
それではおやすみなさい。グーテナハトです。
先日から「西行花伝」を読み始めていたのですが、なかなか進まず、そうこうしているうちに、「背教者ユリアヌス」が復刊し、そちらにも手をつけ、Kindleでは「言葉の箱」を繰り返し読みつつ、「銀杏散りやまず」を読まないと、という、今日この頃。
結構進んでいます。いやあ、面白いですね。20年ぶりぐらいに読んでいますが、本当に面白い。漫画にでもしたらずいぶん受けるんじゃないかなあ、と。少女マンガになりそう。誰か書かないかなあ、などと。
今回は、加賀乙彦先生の後書きを読んだこともあり、「風」に注目して読んでいます。至る所に「風」がでてきますが、それがもしかするといわゆる精霊としての神々の息吹のように読めてしまいます。解釈というのはそういうものです。
ユリアヌスがギリシア古典に親しむあたりは、なにか「春の戴冠」を彷彿とさせるものがあったりして、そうした作品間の連関なども気づいてくると面白いです。
一応、木曜日ぐらいには読み終わる想定で、その後は「西行花伝」にもどるか、「銀杏散りやまず」に向かうか。…
いずれにせよ読書へのスタンスに気合が入っていないので、予定を立てて読むことにしました。皆さんはやっておられると思いますし、私も、一年間に100冊タッチした年には、計画を立てていたみたいです。3日で一冊読むと、100冊年間で読めますが、どうかなあ?
文学の本もあれば、仕事の本もあるけれど。
もっとも、立花隆さんによれば、本は全てを読んではいけないそうです。見切りをつけるのが大切とのこと。
踏まえて、進めていこうと思いました。
さて、11月と12月にずいぶん働いてしまいました。前にも書いたもしれませんが。寝不足と深夜の食事を続けた結果、体重が恐ろしいことになっていました。やれやれ、節制しないと何もできないです。さしあたり、お菓子はやめて、ご飯の量を減らし、アルコールも減らさないと。
というわけで、みなさまもお身体にお気をつけてお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。
背教者ユリアヌス、ゲットしました。
帰宅の電車で加賀乙彦さんの解説を読んで、今まで気づかなかった、あんなことやこんなことが、たくさん分かってしまい、恐怖に身震いしています。
実は、題名からして恐ろしいことになっている本なんだ、と。
私は、ユリアヌスは浪人時代と大学時代に2回読んだだけ、ということに思い至りました。それ以降得た知識や経験を使いながら、もう一度ユリアヌスを読むと、違う読み、深い読みができるに違いない、と思いました。
で、結局何が恐ろしいのか?
初版の日付が恐ろしいのです。
これだけだと、ダジャレと思われますが、そうではありません。私は、加賀乙彦さんの解説の最後の3行の異様さにハッとさせられ、読み返して、ことの重大さに気づき、身震いが止まらなかったのです。
きっと、一般的に有名なことで、私だけが気づいていない事案なんだと思います。
で、私も加賀さんに倣って、明示的にはこれ以上は書きませんが、読み始めて四半世紀でこの驚きですので、辻邦生の偉大さを再認識しました。
今、西行花伝を読んでいるのですが、どっちを先にするか。困りました。
ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
今年に入って、「西行花伝」を読み始めているのですが、どうも進みません。
この感覚、昔、哲学書を読んでいたときの感覚に似ています。読んでいるそばから、いろいろ気になることが頭の中をよぎってしまうのです。
ああ、そういえばこのエピソードは「銀杏散りやまず」でも登場したな、とか、この語り手である藤原秋実が西行を思う気分が、どうも没後20年に迫ろうとしている辻邦生を思う気分に重ねってしまうなあ、などと。
あともう一つ。
私は通勤時間しか本を読む時間が捻出できません。ですので、まわりの音を遮るために音楽を聴いているのですが、「西行花伝」を読むときにふさわしい音楽は何か?ということを考えてしまうわけです。
さしあたりの結論はこちら。アルゲリッチのバッハでした。
なにか、この硬質で冷たく感情のない短調の美しさが、「西行花伝」に通底する美しさにぴったりのような気がしています。このあたりは完全に好みですので、おすすめするものでもないのですが、純粋な感想としてのご紹介です。
少し話を戻すと、藤原秋実が西行を知る者に話を聞いて回る、という物語の構造自体が、なにか1999年という二十世紀の最終幕においてこの世を去った辻邦生のことを探そうとしている我々の営みに重なるものがあるように思います。辻邦生のことを知ろうとしているのか、あるいは辻邦生文学のことを知ろうとしているのか。常々、文学を語ることと、世界を語ることを混同してしまうことがありますが、それと似たようなものなのでしょうか。
さしあたり、きょうはここまで。みなさま、おやすみなさい。
今日、書店にて背教者ユリアヌスを目撃。
いや、私は別の書店で予約していたので、今日は買いませんでした。そもそも、書店に行ったこと自体が想定外でした。
平積みになっていて、なんだか嬉しくなりました。
思わず、「あ!、辻邦生の背教者ユリアヌスだ! これ面白いんだよなー」と大声で独り言でも言おうかと思いましたがやめておきました。
それでは、みなさま、おやすみなさい。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
毎年、攻めようと思うのですが、本当に攻めているのか?、と思います。今年はもっと攻めないと。
お仕事をされている方もいると思いますが、みなさまもどうか良いお正月をお過ごしください。
今年もあとわずか。
なんだかあっという間でした。
世界も激動ですが、個人的もたくさんのことがありました。仕事も目まぐるしく変わりました。
大切なことはただできることをきちんと考えて確実に行うと言うことでしかありません。大切なことを果たしてできていたのかは後になってみてわかることです。積み重ねが物事を作りますので。
来年はもう少しアグレッシブな一年にしたいものです。
辻邦生関連で言いますと、夏にあった学習院大学史料館での辻邦生ミニ展示と講演会が本当に素晴らしいもので、とても多くのことを考えました。ただ、秋に恵比寿で会った展示と講演会は故あって参れませんでした。残念。
来年の学習院大学史料館も展示は「背教者ユリアヌス」です。夏が待ち遠しい今日この頃です。
今年はコンサートには全く行くことができず。公私において多忙極まる毎日でした。そんななかで、できたことと言えば、マーラー5番の聞き比べをしたことが記憶に残っているぐらいでしょうか。ただ、そんな中、なにか音楽の希少性と重要性を再認識したとも思います。音楽の奥深さ、あるいは畏ろしさ、のようなものをあらためて感じたと思います。
総じて、今年は記事を書く機会が少なく、反省することしきりです。書くことが、考えることであり、ひいては存在することである、というのがモットーなんです。来年はもっと存在したいものです。
あるいは、来年はよい年になることを本当に願っています。地政学、経済の面で、世界史的重大局面にあるなかで、個人としてなせることは本当にないのですが、ともかく人間の叡智と倫理性が、人類史的に向上していることを願わずにはいられません。願うことしかできない、ということ自体が、問題の深刻さを物語っているようにも思います。
本年も本当にお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
よい年をおむかえください。
すでにご存じの方も多いと思いますが、中公文庫から「背教者ユリアヌス」が復刊となりました。まずは、第一巻が12月22日に刊行されています。
中公文庫のTwitterで紹介されているのをキャッチしました。
長々と失礼しました。全四巻、これから毎月の刊行を予定しております。夜が一番長い日から春に向けてのこの季節、お供の一冊としてお手にとっていただけたら幸いです。
— 中公文庫(中央公論新社) (@chuko_bunko) December 23, 2017
なんだか、「ある生涯の七つの場所」が文庫化されたときに、2ヶ月に一度の刊行が待ち遠しくてならなかったのを思い出しました。もちろん、旧い中公文庫は持っています。すこし迷います。
そんなことをかいているうちに、2017年ものこり1日となりました。明日で最後。さて、振り返りをする時間はあるだろうか?
それではみなさま、おやすみなさい。