Tsuji Kunio

ラジオドラマCD 西行花伝 ラジオドラマCD 西行花伝
(2006/06)
エニー

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西行花伝のラジオドラマCDを発見しました。早速注文してみました。とても楽しみです。

西行花伝 西行花伝
辻 邦生 (1999/06)
新潮社

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ちなみに、西行花伝はなぜ「花伝」なのでしょうか?おそらくは能の形式である「夢幻能」を意識しているのではないかと思うのです。夢幻能とは、

亡霊が主人公(シテ)となって、僧(ワキ)の前に現れ、過去を語り、僧の供養を受けて成仏する

松岡心平『能 狂言 風姿花伝』週刊朝日世界の文学第28巻、2000 8-230ページ
という構造です。そこで何が起こるかというと、ワキが観客の代表としてシテの物語をリアリティーを感じながら聞いている、ということを演じている訳です。自ずと観客もワキと同じ立場に立って、リアリティを持ちながらシテの物語に没入していくことができ訳です。
このワキとも言うべき語り手が登場するケースが辻邦生作品の中には非常に多いと思います。いま思いつく限り並べてみると…。

  • 春の戴冠(サンドロをフェデリゴが語る)
  • 夏の砦(支倉冬子をエンジニアが語る)
  • 廻廊にて(マーシャを日本人画家が語る)
  • 西行花伝(西行を弟子が語る)
  • 安土往還記(シニョーレをディエゴ・デ・メスキータが語る)
  • ある生涯の七つの場所(宮部音吉を「私」が語る)

などなど、枚挙にいとまがありません。作品中の脇役ないしは語り手が、主人公を語ることで、物語世界のリアリティがより強固なものに補完されていくのです。
さて、辻作品関連のCDといえば、以下もあります。

細川俊夫作品集 音宇宙(9) 細川俊夫作品集 音宇宙(9)
細川俊夫、東京少年少女合唱隊 他 (2004/02/21)
フォンテック

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冒頭のハープ協奏曲が辻邦生に捧げられていますが、辻邦生はこの作品の完成を心待ちにしたそうですが、完成を待たずして99年の夏に急逝しまったのです。2001年3月31日6時からサントリーホールにて、秋山和慶指揮、ハープは吉野直子、東京交響楽団によって初演されました。学習院大学で2004年の晩秋に行われた辻佐保子さん(辻邦生の奥様)の講演に際して、講演前の待ち時間にこの曲流されいたのを覚えています。

Classical

ベートーヴェン:交響曲全集 ベートーヴェン:交響曲全集
アバド(クラウディオ) (2000/09/30)
ユニバーサルクラシック

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ビデオに録っていた話題のドラマ「のだめカンタービレ」を観ました。第四話までとりあえず見終わりましたが、いやあ、本当にベートーヴェン交響曲第7番はいい曲ですし、感動的ですね。のだめがピアノで7番を弾いているシーンは圧倒的な感動。こんなにいい曲だったっけ?という感じ。胸が締め付けられるような感動を覚えました。やはり音のないマンガ版より音のあるドラマ版のほうがいいですね。その後アバド版を聴いてさらに感動を新たにするのでした。

Opera

Richard Strauss: Capriccio / Sawallisch, Philharmonia Orchestra Richard Strauss: Capriccio / Sawallisch, Philharmonia Orchestra
Richard Strauss、 他 (2000/08/15)
Angel

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会社に向かう満員のバスの中で、思い立ってipodをスクロールして、サヴァリッシュ盤を聴き始めたのですが、冒頭の弦楽合奏でもう泣いてしまうのでした。昼休みにはクレロンと伯爵の朗読シーンと、フラマンが作曲するソネットに泣いてしまうのでした。ハープシコードの端正な和音と、それに寄り添うように弦楽合奏が絡んでくるあたりの優雅さといったら!カプリッチョはシュトラウス芸術の結晶化した花です。
もちろん、それは、ドレスデンで観たカプリッチョの記憶と間違いなくつながっていて、照明の落とされたザクセン州立歌劇場で、指揮のペーター・シュナイダーが、薄暗いオーケストラピットのなかで唯一天から差し込むスポットライトで浮きあがって見えていて、彼の指揮棒の動きにあわせて、弦楽部の一番前に座る首席奏者たちがおもむろに弓を動かし始める瞬間の緊張感と、静かに始まる弦楽合奏がもたらす絹糸に触れたような酩酊感が思い出されたからでした。
9月にNHK-BSで放送されていたカプリッチョも本当によかったです。
10月にドレスデンでカプリッチョを見ることに決めた数日後、NK-BSでカプリッチョを放映することを知ったのでした。まさにシンクロニシティの様相です。
この映像はウルフ・シルマーがパリで振ったバージョンで、ライブ録音なのだろうけれど、あとから映像をかなりいじっていて、すばらしく大胆な演出に仕立て上げていました。月光の音楽以降の伯爵夫人のモノローグが、幕中劇として扱われているのです!ルネ・フレミングが伯爵夫人を演じていたのですが、歌っているルネ・フレミングを客席からルネ・フレミングが観ているという構造。心躍る大胆さでした。「自分の演奏を客席からみてみたい」という欲求は音楽家の方なら一度は持つことがあると思うのですが、それを編集で具体化してしまったあたり、大胆でした。フレミング、よかったなぁ。賢明で誇り高く美しい伯爵夫人を見事に演じていたと思います。
しかし、本当にいい思い出だなあ、カプリッチョ。また見られるものならみたいオペラだなあ…。

Classical

Violin Sonatas
Violin Sonatas

posted with amazlet on 06.11.13
Johannes Brahms Maria João Pires Augustin Dumay
Polygram Int’l (1993/03/16)
売り上げランキング: 26597

ヴァイオリンソナタ第1番ト長調作品78を、デュメイとピリスのコンビで聴いてみました。いいなあ、ブラームス!久々にブラームス作品を聴いて本当に癒されました。四方八方から滅多打ちにされたあとにこういう演奏に触れると、深く癒されるのを感じます。できれば、窓から暗い海岸が見える薄暗い部屋で、独りになって聴いてみたいなあ、という感じです。
このコンビは、フランクのヴァイオリンソナタやブラームスのピアノ三重奏曲第1番でも競演しているのですが、それらの録音と同じく、溶けてしまうぐらい柔らかくて甘いアンサンブルなのです。デュメイのヴァイオリンは豊かな倍音をよく響かせています。ピリスのピアノは、ソフトペダルを踏みっぱなしなんじゃないかと思うほど柔らかくて優しいタッチです。この録音ではドイツ的な厳格さではなく叙情性を楽しむことができるのです。もしかしたらこういう音が苦手な方々もいるんじゃないか、とも思うのですが、僕は幸福なことに楽しむことができるようです。
聞き始めるとピリスの静かな和音に導かれてデュメイがそっと弦に弓をおく瞬間が感じられます。最初のヴァイオリンの六つの音符でもう参ったという感じ。この演奏にひれ伏さざるを得ません。穏和な感じの主題は展開部で激しく情感的に揺さぶられます。第二楽章は陰鬱な感じに歌い上げられています。救いなのは長和声で終わることでしょうか。そして第三楽章はすこし寂しげな舞曲風な楽章です。寒風に吹きさらされているドイツの田舎の街を独りで歩いている感覚です。最後はきちんと長和音で終わってくれるのが救いでしょうか。
この曲は1878年から79年にかけて作曲されました。そのころのブラームスは作曲家としてしっかり認知されていました。苦しみながら書いた交響曲第一番も既にできあがっていましたし、交響曲第二番も完成を見ていました。このころのブラームスはとても精神的に安定しているはずなのです。なのに、この寂寥感は何なのでしょうか?北ドイツ人のブラームスが持つ憂愁感が現れている、と片づけてしまいたいところですが、もう少しいろいろと想像するのもいいと思います。

Miscellaneous

土曜日は風邪を引いて寝込んでしまいました。大変な迷惑をかけてしまいました。体調管理は大事ですが、ついつい無理をしてしまいがちです。しかし無理をせずばなんとする、という感じです…。

Classical

Schumann: Liederkreis Op.39/Dichterliebe Op.48 Schumann: Liederkreis Op.39/Dichterliebe Op.48
Dietrich Fischer-Dieskau、 他 (1990/10/25)
Philips

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シューマンの「詩人の恋」作品48と「リーダークライス」作品39を、ディースカウとブレンデルのコンビで。
詩人の恋はハイネの詩に曲がつけられています。どれもがロマン的な恋愛感情を歌ったものでです。あまりに若々しすぎて、ふつうの健康な人間にとっては女々しい詩かともとらえられてしまうおそれがあると思います。ですが、詩人や音楽家のように、常に魂と格闘している人間にとっては、アクチュアルな問題なのです。それは恋愛感情にとどまるものではなくて、たとえば真善美の追求といった問題にまで拡大できるのだと思います。解説書には、シューマンが妻(クララ・シューマン)に対して抱いていた感情がこの曲を作らせしめたと書いてありましたが、果たしてそれだけなのでしょうか、という疑問を抱いてしまいました。単なる恋愛感情を赤裸々に述べるのではなく、もっと高次なレベルにまで昇華できうるのが芸術家の芸術家たる所以の一つなのではないでしょうか。
「詩人の恋」では、歌詞が未解決の和声で終わることが多いのです。それを解決するのが伴奏のピアノなのですが、この仕掛けも、すこしうがって考えてみると、詩人が歌手でピアノがその相手だったりするのではないか、とも思えてきます。最後の解決はピアノが与えるのですが、それは、詩人にとって必ずしも望んだ解決ではないはずで、だからこそ短調の和声で曲が閉じられることが多いのです。
「リーダークライス」のほうはアイヒェンドルフの詩に曲がつけられています。「詩人の恋」にくらべて、詩の意味するところは多くのアレゴリーで覆われていて、その深い森の中に分け入っていく努力を必要とします。やはりそこには喪ったものに対する愁然たる思いが満ちているような気がします。9曲目「悲しみ」では夜鶯の歌に込められた深い嘆きには誰も気づかない、と訴える部分があります。この部分も健康的な大人にしてみれば、なんと女々しいことを!と思う向きが多いと思います。しかし、それが芸術家の栗シミなのでしょう。ただの石ころに見えるものであっても、それが宝石の原石であることを見抜き、懐でゆっくり暖め熟成さえ、いつの日か美しい宝石に磨き上げてしまうのが芸術家というものなのでしょう。
12曲目「春の夜」は、春の到来に寄せる歓喜が歌われているように思えますが、果たしてそうなのでしょうか?ここでも夜鶯が登場し、「あの人はおまえのもの!」と歌います。しかしそこに込められた真の意味は、誰にも分からないのです。それは9曲目「悲しみ」で暗示されています。春ほど美しい季節はありませんが、春ほど残酷な季節もないのです。皆が皆春の美しさを享受できるとは限りませんから。
ディースカウは低音から高音まで本当によく聴かせてくれています。低音で雄々しい詩人を歌うかと思うと、今にも消え入りそうなナイーブな高音で、嘆く詩人をも演じています。ドイツの生んだ良心がここにもあるのだな、と思ったのでした。

Tsuji Kunio

楽興の時十二章 楽興の時十二章
辻 邦生 (1990/11)
音楽之友社

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辻邦生全集〈8〉 辻邦生全集〈8〉
辻 邦生 (2005/01)
新潮社

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マーラー:交響曲第3番 マーラー:交響曲第3番
アバド(クラウディオ)、ラーション(アンナ) 他 (2002/03/13)
ユニバーサルクラシック
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その作家の作品の中で、一番最初にであった作品ほど印象深いものはありません。

それはまるで、ある音楽作品を聴くのが初めてで、その演奏がきわめて印象深かったとき、音楽作品と演奏が深く結びつき、まるで音楽作品と演奏が切っても切り離せない不可分な関係にあるかのように思えるのと似ています。実は、その音楽作品の演奏は、さまざまな演奏者によって行われていて、その演奏の解釈はそれぞれにおいて違うはずで、もちろんどれがもっとも優れた演奏であるといったような命題は陳腐な命題となるのでしょうけれども、その音楽作品を聴いた私にとっては、初めて聴いたその演奏が最も優れた演奏に思えてならないのです。

作家の作品においても、最初に出会った作品において、八分がたその作家の評価を定めてしまいかねず、それがいい方向に向かえば、その作家との良い関係を築くことができるでしょうし、それが悪い方向に向かえば、その作家との関係を修復するのは難しくなることでしょう。そして、前者であったとすれば、それは恩寵とでも言うべき幸福な関係となるに違いないのです。

私が辻作品に出会ったのは、高校2年の年で、炎暑に見舞われた京都から下る東海道本線の座席について、今は休刊となってしまった「音楽芸術」誌を開いたときでした。「樂興の時 十二章」と題された連作短篇集の第11話「桃」がそれだったのです。マーラーの交響曲第3番をモティーフにしたその作品は、老外交官が死に際して己の人生を振りかえるにつけて覚える苦い悔恨と、幼い孫の無邪気さや看護婦の若い力による諦観が描かれていました。

タイトルの「桃」は春の若々しさを想起もさせ、また人間の根源的欲求をも感じさせるモティーフで、老外交官が中国奥地へ赴いたときに、霧中から突如あらわ得る桃畑のイメージが、精神の底深いところに常に存在する若々しさや生への根源的欲求を象徴しているのでした。

マーラーの交響曲第3番では清純な少年合唱が登場しますが、幼い孫たちのイメージと重なります。少年合唱は「ビム、バムBim Bam」という歌詞で始まります。鐘の音は、ミサを想起させますし、果ては葬送をも想起させるのです。短篇中にゴシック文字で挿入されるエピソードに登場する子供たちの姿は、交響曲第3番の少年合唱でもあり、あるいは老外交官を彼岸へと導く天使たちの行進なのかもしれません。

老外交官の苦い悔恨を読んで、自分はそうならぬよう人生を生きなければならぬ、と読んだ当時強く決心したものでした。しかし、現実はそうも上手くゆかないようです。今朝方の通勤電車の中でもう一度短篇を読み返してみたのですが、老外交官の覚えた悔恨に似た人生の苦みを噛みしめたのでした。

しかし、老外交官は、幼い孫たちや若い看護婦との邂逅によって救済され彼岸へと旅だったようにも読めるのです。辻作品はどれも一遍的な解釈を許しません。答えを与えることはしないのです。そこにあるのは現前とした事実の提示とあるべき理想の姿の示唆です。読み手は、事実の提示と理想の示唆の間で、まるで解決を求める不協和音の響きのような心地よい不安定感を感じつつ、その両者を止揚する努力を決意させられてしまうのです。僕が今朝方感じたのもやはり同じ止揚への決意でした。

しかし、なんということでしょう。これまで辻作品を幾度となく読んで何度もこの止揚への決意を感じたはずだったのに、現実世界の濁流に呑み込まれて、そこをただ泳ぐことに必死で、岸辺へと向かい濁流から身を上げる努力を怠っていたことに気づかされたのです。それが、先ほど述べた悔恨に似た苦みだったのです。 ですが、次の二つの引用をもって、辻邦生作品から「生きること」の大切さを再認識したいと思うのです。 そして、また止揚への努力へと自らを奮い立たせようと思うのです。

生きると言うことに後も前もない 今があるだけだった こうして黄金にきらめく海を泳いでいるように今がすべてであり いましかなく 今に抱かれるとき 今は豊かな母の胸に変わっていた

「樂興の時 十二章」/辻邦生/1991年/音楽之友社/200ページ

「オレンジを齧っていたね。あれが生きるってことかもしれない」 「オレンジを齧るのね。裸足でね」 「そうだ、オレンジを齧るんだ。裸足でね、そして何かに向かってゆくのさ」

「サラマンカの手帖から」/辻邦生/1975年/新潮文庫/282ページ

「桃」についてはまだまだ語りたいことがたくさんありますし、辻邦生作品について語りたいことはもっとたくさんあるのですが、今日はひとまずこのあたりで終わりにしておきましょう。

Classical

Symphonies 1-4 Symphonies 1-4
Schumann、Sawallisch 他 (2002/04/09)
EMI Classics

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ホルンの音に導かれて、瑪瑙細工のように厚みはあるけれどその奥から金色の光が差し込んでくるような、聴き手に寄り添うってくるやわらかい弦楽部の序奏部。金管部と弦楽部との対話が続き、弦楽部の高音域から低音域までの幅広い音帯の中で、自在に繰り広げられる和声の響きが、まるで整然と駆ける軽騎兵団ような軽やかさで主題を展開させて行きます。展開部のフーガの伸張も見事。ゴシック教会の天井の梁が均質かつ複雑に絡み合っている様子を思い出させます。ヴァイオリンとコントラバスのユニゾンの力強さについてもぜひ書き加えておきたいと思います。本当に見事な弦楽部の調和です。
サヴァリッシュの指揮は本当に安定しています。ドイツ的といってもそこにはさまざまな意味が含まれることになるのですが、そのなかでも「良心」と呼ばれるものがここに宿っていると言っても過言ではないと思います。そして、録音は1972年台。サヴァリッシュは1923年生まれですから、もう49歳なのに、この若々しさは何なのでしょう?第二楽章の駆動感は特に素晴らしいものがあります。第三楽章の後半部のデュナミークへの牽引力も卓然たるものがあります。第四楽章の祝祭感はハ長調という調性がもたらすものなのでしょうか?しばしば短調の和声をはさみながらも、その針路は常に高揚へと向かっています。金管の華やかなファンファーレとティンパニーの力強い四分音符がこの晴れ晴れしい交響曲の幕を閉じます。ここには内心にいくばくかの不安を抱えながらも希望と明るさを持ったシューマンがいます。私たちはその後のシューマンを知っているだけに、この晴れ晴れしい幕切れにも感傷的にならざるを得ません。
それにしてもドレスデンシュターツカペレの透き通るような弦楽部の音といったら!ああ、これがドレスデンの音なのだ、と思います。さすがはマイセン白磁器を生んだ土地柄です。録音はルカ教会です。クライバーがドレスデンシュターツカペレを振った「トリスタンとイゾルデ」の録音もやはりルカ教会。カール・ズスケのバッハ無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータの録音もやはりルカ教会でした(この録音では、良く聴くと外の通りを走る車の音が聞こえるのです!)。昔もブログに書いたことがあると思うのですが、この教会のリヴァーヴ感はとても大好きです。比較的強めのリヴァーヴ感で、コーラスがかかったように音に厚みが増していくのを感じます。ルカ教会をGoogle Mapで探してみたのですが残念ながら見つけることができませんでした。かつてドレスデンを訪れたときもルカ教会を探したのですが見つかりませんでした。現存しないのでしょうか…?

Classical

シューマン:子供の情景 シューマン:子供の情景
オピッツ(ゲルハルト) (1991/11/21)
BMG JAPAN

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使い古された題材とは思いますが、「子供の情景」といえば、「トロイメライ」にその焦点を合わさざるを得ません。だからこそ「名曲300」にエントリされたのでしょう。「トロイメライ」も他の曲と同じように「白昼夢」とか「夢想」とでも素直に訳せばよいのに、「トロイメライ」とドイツ語読みで知られるようになったのが幸いして、たゆたいまどろむような語感が旋律とよくあっています。昼間部の和声が短調を響かせるあたりに、この「夢想」が、単なる「夢見心地」なのではないということを感じさせられます。
オピッツの演奏にはもう少し艶っぽさがあった方がいいかもしれませんが、ドイツ正当派ピアニストとしてはこの演奏があるべき姿なのでしょう。「大事件」の低音和声の堂々たる響きは感嘆に値します。

Classical

Schumann: Fantasie: Symphonische Et醇・en Schumann: Fantasie: Symphonische Et醇・en
(1996/12/05)
Deutsche Grammophon

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シューマン「幻想曲」をケンプの演奏で。1836年、シューマン26歳の時の作品です。若いのにこれほど複雑な和声を駆使するとは、と感嘆することしきりです。23歳で音楽の道を志したのですから、それから3年でこの高みへと昇ったのかと思うと、空恐ろしさを感じます。やはり歴史に名を残した音楽家といえば、それほどの天才でなければならないということなのでしょう。それでもまだ曲調には若い希望が見いだせる気がします。所々に木漏れ日のように垣間見える明るい和声がそれを物語っていると思うのです。
今年はシューマン没後150年です(1810年〜1856年)。46歳という年齢で逝ってしまい、なお晩年は病に苦しんだシューマンもまた、生き急いだ偉人の一人なのでしょう。若い頃は法学部に籍を置いていたのですが、音楽の道へと転身したというのですから、相当無理をしたのだと思います。無理をせずばそこまでゆけず、無理せずにそこまではゆけず。人間の一生とはなんとも歯がゆいものだと思います。