Classical,Concert

日本フィル定期公演に行ってまいりました。

仕事で行けなくなるところでしたが、幸いなことに。感謝。

昨年の山田和樹とおなじく、今日もまたすごい演奏会でした。

結論から言ってしまいますが、ストコフスキー編曲の展覧会の絵がすごくてすごくて。

 

ストコフスキー版展覧会の絵

「展覧会の絵」は、もともとはムソルグスキーのピアノ曲ですが、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルによりオーケストラバージョンが作られ、これがオケで演奏される際には定番になっています。

一方、今日は指揮者のレオポルド・ストコフスキーにより編曲されたバージョンでした。ファイル:Leopold Stokowski LOC 35520u.jpg

ストコフスキーは、戦前から戦後にかけてアメリカで活躍したイギリス出身の指揮者です。展覧会の絵の他にも編曲を手がけていて、有名なのは、バッハのトッカータとフーガニ短調BWV565のオケ版です。写真がストコフスキー。

今回のバージョン、何百回も聴いたラヴェル版を知っているだけに、そのあまりにも無骨でドロドロとしたサウンドに驚き続けました。

ラヴェル版と違うところはたくさんありましたが、なかでもラヴェル版ではトランペットが演奏するプロムナードのテーマが、弦楽合奏で演奏されるのが相違点の顕著な例です。

こちらをどうぞ。

面白いのは、それでもやはりラヴェル版と同じところがあって、アルトサクソフォーンのソロは残っていました。

山田和樹の棒は、変幻自在にテンポを動かしてダイナミックな音を作っているように思います。ちょっとやり過ぎと思う人もいるかもしれませんが、私は楽しんで聴くことが出来ました。

つうか、オケの方々、みんな楽しそうですよね。あれだけ楽器をならせたら楽しいはずです。

「展覧会の絵」が終わったあと、日フィルのメンバーの方々、なんだかうれしそうでした。

山田和樹は、オケのモラルを意識した選曲をしているのかなあ、とも。やっぱり技術だけではなく人を動かす力もじゅうようだなあ、と。

最後、山田和樹がオケから拍手もらっていたのですが、オケメンバーに大事にされている感じがよくわかりました。

ヴァレーズのチューニング

休憩後に演奏されたヴァレーズの「チューニング・アップ」という曲もめちゃ面白い。休憩が終わってオケのかたが入ってくるんですが、なぜか山田和樹も一緒に。

あれ、おかしいなあ、と思ったら、おもむろにチューニングが始まって、いよいよか、とおもったら、それが曲の始まりでした。山田和樹も急に指揮始めちゃうし。

私にはショスタコーヴィチとホルストが聞こえました。ベト7も聞こえたみたいです。

野平さんがいらしていた!

あとは、一曲目に演奏した野平一郎の「グリーティング・プレリュード」が素敵でした。あの誕生日のテーマをモティーフにした曲です。コンミスの江口さんのソロが素敵すぎ。

で、曲が終わったら山田和樹が客席のほうをみて誰かを手招きするんですが、そしたら、なんと野平一郎が客席から出ていらして、舞台上にあがってこられたのにはびっくりしました。もちろん満場の拍手とともに。

終わりに

日本フィルは公益法人化に向けて財政状況を健全化しなければならず、まずは債務を片付けようとしているようです。ずいぶん大変なようです。私もほんの少しだけ募金して協力しました。

では、フォースとともにあらんことを。

2007/2008シーズン,2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,トスカを聴こう!

しかしずいぶん寒くなりました。
明日は赤坂に出撃予定です。仕事が無事に終わればですが。
第12回はカヴァラドッシの前歴です。そうか、ダヴィッドに習ったのですね。さすが。
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マリオ・カヴァラドッシは、画家なのだが、単なる画家ではない。ローマ貴族の末裔で自由主義と革命思想に親しんだ画家だ。
父親はパリでディドロやはりダランベールの結社に出入りしており、ヴォルテールとも親交を結んでいた自由主義者であった。
カヴァラドッシは、革命時代のパリで育ち、絵はダヴィッドのもとで学んだという設定になっている。
ダヴィッドはフランス革命期の大画家である。革命期にはジャコバン党員として政治にも関わり、国民公会の議長を務めていたことがある人で、その後はナポレオンの御用画家として大活躍する。
以下はダヴィッドの手になる「アルプスを超えるナポレオン」。
image.jpeg
カヴァラドッシがダヴィッドの弟子であるのならば、自ずと自由主義者になるだろう。
だから聖アンドレア・デラ・ヴァッレ聖堂の壁画を書いて、信心深いところを見せているのだ。そうして当局の目を欺こうという魂胆なのである。
なぜそんな面倒なことをしているのか?
原因はトスカにある、
カヴァラドッシがトスカと知り合ったのはローマのアルジェンティーナ劇場でのトスカの歌を聴いたからだ。
それ以来ローマを離れることができないでいる。そうでなければ王党派の勢力下にあるローマに滞在する訳がない。
結局、恋に身を滅ぼす、という言葉を当てはめることができるだろう。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

今日は、一息入れます。

トスカの初日が迫っていますね。11日からです!

トスカのノルマ・ファンティーニ

ノルマ・ファンティーニのFacebookページには衣装合わせをしている写真がのっていました。楽しそうでいい雰囲気が伝わって来て嬉しくなります。

私にとっては「アンドレア・シェニエ」依頼のファンティーニです。一回「オテロ」ふられていますので、今回も心配していたのですが、嬉しい限りです。

ファンティーニがうたうトスカはこちらでご覧になれます。

カヴァラドッシのサイモン・オニール

カヴァラドッシをうたうサイモン・オニールのインタビューが新国立劇場のホームページに乗っていました。

ニュージーランド出身で、METでドミンゴのカバーをしていたそうで、ドミンゴレパートリーが自然にレパートリーになったそうです。

来年はジークムントをミュンヘン、スカラ座、ベルリン、ウィーンなどで歌うそうで、ひっぱりだこの状況のようです。

「世界の声」をすぐそばでリーズナブルに聞くことができる新国立劇場は本当にありがたいところだと思います。

今回はさすがに人気演目ということもあり、残席が少ないとのこと。これも嬉しい限りです。

 

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

チケットぴあ

2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,ローエングリン研究

しかし急に寒くなりました。

普通は、冬に備えて体格が良くなり始める季節ですが、家飲みと間食を絶ってからは、少しずつスリム化している気がします。

嬉しい限り。

きっかけは、先日の試験受験票に貼った自分の顔写真見た時のショックが忘れられないからです。

さて、今日で11回目になりました。トスカの半生はこんな感じでした、の巻です。

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フローリア・トスカは、ヴェローナ近くの牧場で羊番をしていた無骨が少女であったが、ベネディクト会の修道女が修道院へ引き取り、修道院で育てられた。

修道院では天才的な音楽的才能を示し、16歳で歌手となったのだった。作曲家であるドメニコ・チマローザが感嘆し、オペラ歌手にしようとかんがえたのだが、修道女たちはこれを拒んだのだった。

ここには教皇の意向も働いていたというのだから驚く。image

それはそうだ。修道女が歌手になるなんて、今で言えば、品行方正なお嬢様学校の生徒が、卒業後パンクロッカー(古い?)になるのと同じぐらいだろう。

チマローザと修道女たちの争いは、教皇の調停にゆだねられることになったのだが、このときトスカの歌声を聞いた教皇が、芸術の道に進ませるべきであるとして、決着がつき、トスカはオペラ歌手としてデビューすることになったのだった。

(写真がドメニコ・チマローザ)

だが、トスカの信心深さはこの修道院育ちという出自に由来している。

つづく

 

次回はカヴァラドッシの前歴をさぐります。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。

チケットぴあ

2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,トスカを聴こう!

「トスカ」の舞台となった1800年6月の時点で、ローマはナポリ王国の勢力下にあった。

当時のナポリ王国はフェルディナント四世の治世下にあった。が、フェルディナント四世は狩りやスポーツに明け暮れた男で国政には興味をしめさなかった。
代わりに国政を切り盛りしていたのは王妃であるマリア・カロリーナである。

マリア・カロリーナは、オーストリア女帝マリア・テレジアの娘であり、マリー・アントワネットの姉に当たる人物である。

image.jpeg

母親のマリア・テレジアがオーストリア帝国の政治を動かしたのと同じように、ナポリ王国を夫フェルディナントに代わって統治した。これは婚姻に際して「息子が生まれたら摂政になる」という特約がついていたからである。

さて、この王妃は「トスカ」のなかにも登場している。

第二幕に、スカルピアに追い詰められたトスカが、王妃に嘆願しようとするシーンがあるが、このときの王妃がマリア・カローリナである。

第二幕では、ファルネーゼ宮殿のスカルピアの執務室が舞台となるが、前半部分でトスカの歌声が響いてくるシーンがある。これは、マリア・カロリーナが出席している戦勝パーティーでトスカが歌を披露しているというシーンになっている。

その後、実はマレンゴの戦いで、ナポレオンが勝利し、オーストリア軍が敗れたという報がとどくと、マリア・カロリーナは卒倒してしまう、という設定になっている。

つづく

次回は「トスカの前歴はいかに?」です。
(追記:カヴァラドッシより先にトスカの前歴を紹介することにしました)

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。
チケットぴあ

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秋晴れの日曜日ですが、すっかり寒くなりましたが、近所のレストランでラズベリーアイスクリームを食べました。近所にもおいしい店があってうれしい限りです。

IMG_1581.JPG

歴史背景が長引いてしまいました。今日でローマ共和国の終焉の回。文献がドイツ語しかなく、難儀しました。決定稿は後日出そうと思います。

次は、トスカに出てくる「王妃」あるいは「女王」とは誰か、という話を書く予定です。その後、カヴァラドッシやトスカの来歴を書く予定。トスカは若い頃は修道院に入っていたそうですよ。

ではどうぞ。

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土台の緩い建物は少しの揺れで崩れ落ちる。

1799年6月17日から19日にかけてのトレビアの戦いで、ロシア軍のスヴォーロフ将軍がマクドナルド将軍[i]率いるフランス軍を撃破した。

これによりナポリを占領していたフランス軍はナポリからイタリア北部へと撤退する。ナポリ軍は1799年9月30日にそのままローマを占領し、ローマ共和国の旗を降ろすことになったのだ。(画像がローマ共和国の旗)

Image

これに伴い、ローマ共和国の指導層は反体制となり、収監されていくことになる。

では、「トスカ」の劇中で政治犯として登場するアンジェロッティはどのような身分だったのだろうか。

ローマ共和国は名目上5人の「コンスル」つまり執政官によって統治されていた。もちろん実際にはこのうちの一人がアンジェロッティだった、という設定である。

「コンスル」という言葉は、元々は古代ローマにおける官位の名称で、共和制の最高位に当たるもので、元首という意味合いを持つ。ナポレオンがブリューメル18日クーデターで第一統領となるが、この官位名も「コンスル」であった。

アンジェロッティは、フランスの傀儡政権とはいえ、ローマ共和国内で高い地位にあったのだ。アンジェロッティの略歴についてはまた触れることにしよう。

さて、ローマのその後である。1800年7月3日にローマ教皇ピウス七世がローマに戻る。それで歴史は終わらない。

マレンゴの戦いで勝利したナポレオンは、再びイタリアを席巻し、イタリアは再びナポレオンの勢力下に入る。ピウス七世はナポレオンと一時期和解するが、関係が悪化した1806年には再びナポレオンにその多くを占領されてしまう。教皇領が完全に復活するのは1814年のウィーン会議においてであった。

つづく

次回は「トスカはマリー・アントワネットの姉にすがろうとした」です。


[i] マクドナルド将軍とは、後の元帥ジャック=エティエンヌ=ジョゼフ=アレクサンドル・マクドナルドである。かれは、スコットランドからの亡命者の息子であるため、このような姓なのである。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。

チケットぴあ

Miscellaneous

先日のKindle購入に際して驚いた洋書の値段ですが、その後も注視していました。

https://museum.projectmnh.com/2012/10/25235923.php

 

以下の記事が大変参考になります。グローバルな時代にあって、ものの値段ってどうやってきめるねん?という問題。

http://japan.cnet.com/sp/ebook/35023741/

 

というわけで、再び検証することにしました。

先日、日本版で大幅に値段が上がっていた以下の本ですが、なんと、29ドルから、15.52ドルに下がりました。

日本からアクセスした米国の場合は以下の通り。

15.52ドルです。1ドル80円換算で1241円ですね。

image

米国からアクセスした米国amazonは以下の通り。

14.99ドルです。1ドル80円換算で1199円です。

image

日本でも1236円まで下がりました。

ハードカバー版の半額です。遜色ないかも。

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こちらも見てみましょう。

まずは日本からアクセスした場合。

29.22ドルです。1ドル80円換算で2338円です。

image

米国からアクセスした米国amazonは以下の通り。

25.19ドルです。1ドル80円換算で2015円です。

image

日本では2327円です。

まあまあですね。

image

 

CNETの記事にあったように、日本人にとって、本の値段は一定である、という先入観に縛られていただけなのかもしれません。

まだまだ考え方がグローバルになっていませんでした。一時の情報に縛られるのではなく、検証し続けることが大事ですね。良い勉強になりました。

というわけで、Kindleを再検討することにします。

ですが、これ、かっちゃんたんですよね。。。

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iPad mini

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それでは。また。

2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,トスカを聴こう!

故逢って、本日も休業日でした。我が家にiPad miniがやってきましたので、少し遊んでしまいましたが、本日もいそしんでおります。

歴史的背景は一回で終わるはずでしたがもう少し続きそうです。しかし歴史は面白いです。苦手な方、ごめんなさい。

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「トスカ」の舞台となるのは、19世紀初頭のローマである。当時の欧州史を簡単におさらいしてみよう。

フランス革命

1789年のフランス革命やその後のナポレオンの台頭からナポレオン戦争への至る激動の時代のローマが、このオペラの舞台である。

フランス革命が自国に波及することを恐れた欧州各国はフランスに干渉を仕掛けていた。フランスも対抗するためにオーストリアへの宣戦するに至った。また1793年にはルイ一六世の処刑やフランス軍によるベルギーの占領が諸国に衝撃をあたえ、イギリスを中心にした対仏大同盟が成立しフランスは欧州各国を敵に回したのである。

こうして、フランスは自国内の混乱に加えて、対外戦争にも乗り出さなければならなくなったのだった。

ナポレオンの台頭

そうした内乱と対外戦争の中にあって頭角を現した軍人がナポレオン・ボナパルトだった。ナポレオンはコルシカ島生まれのイタリア人で、イタリアトスカナ地方の貴族の末裔だったという。

ナポレオンは、1794年のトゥーロン包囲戦で手柄[i]を立て、旅団長に抜擢されるに至る。image

(写真はカンポ・フォルミオ条約以降のイタリアの状況)

1796年、フランス軍はオーストリアを攻略するために、ドイツ、イタリア方面への作戦が開始された。イタリア方面軍の司令官はナポレオンであった。

ナポレオンは勝利をおさめ、1797年10月にカンポ・フォルミオ条約が成立し、フランスはロンバルディア地方を勢力圏に加える。

フランスはここに数多のフランスの衛星国家群を樹立した。もちろん共和制フランスが樹立するのであるから、共和国である。

衛星国はフランス軍の兵站基地としての機能を求められて作られたわけであるから、その成立に高邁な目的があったとは思えない。

だが、フランス革命という旧来の価値の転倒をイタリアへと拡大させたという意図は大きい。これは後のイタリア統一運動へとつながる布石となる。

ローマの行方

では、「トスカ」の舞台、ローマはどうなったのか。

ローマはイタリア中部を貫く教皇領として教皇の勢力下にあった。当時の教皇はピウス六世であった。

当然カトリック教会はフランス革命政府と対立していた。1793年にはフランス革命政府の使節がローマで殺害され、教皇とフランス革命政府の対立は決定的となる。image

(写真はローマ教皇ピウス六世)

1797年にローマで暴動が勃発し、フランス軍司令官が殺害されると、フランス軍は教皇領に侵攻し、トレンティーノ条約を結ぶことになる。その後、1798年2月15日、ローマ市民により、ローマ共和国の成立が宣言されるに至ったのだった。教皇ピウス六世はフランス軍に捕縛され、1799年8月に世を去ることになる。

だが、ローマ市民すべてがこうしたローマ共和国を望んでいたわけではなかったし、ナポリ軍により、1798年が一時期ローマを占領し、再びフランス軍が進駐するなど、不安定な状態が続いたのだ。

つづく

次回も歴史的背景を振り返ります。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。

チケットぴあ


[i] このトゥーロン包囲戦の手柄の取り方が面白い。Wikiによると、要塞都市への無謀な突撃を繰り返していたのをやめ、港を見下ろす二つの高地を奪取し、そこから的艦隊を大砲で狙い撃ちをしたという。まるで日露戦争における旅順攻略戦のエピソードと同じではないか。

2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,トスカを聴こう!

今日は七回目。公開すこし遅れてすみません。取り急ぎ。

ではどうぞ。

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旧友フランケッティ

さて、イッリカが、「ラ・トスカ」のオペラ化のため、1894年にパリへサルドゥを訪ねたとき、同行者がいた。彼の名はアルベルト・フランケッティという作曲家だった。(写真がフランケッティ)image

フランケッティはプッチーニとは音楽学生時代からの級友だった。フランケッティは1893年の時点で、既にこの「ラ・トスカ」のオペラ化の権利を持っていた。

先に書いたように、1889年にプッチーニは「トスカ」のオペラ化をリコルディに求めているのだが、マノン・レスコー以前のプッチーニにそれを実現するだけの「評判」がまだ無かったのだろう。

プッチーニの「トスカ」への思いが封印されていた頃に、リコルディはフランケッティにオペラ化の権利を与えていたのだ。

だが、時代は変わった。

プッチーニの1893年のマノン・レスコーの成功で、リコルディは「トスカ」のオペラ化の適任者はプッチーニだと考えるようになったのだ。

実際、ヴェルディが「トスカ」に示した最大の賛辞は、プッチーニにそれとなく伝えられたらしい。あのヴェルディが絶賛する「トスカ」のオペラ化という仕事が、この上もなく魅力的なものであることに気づく。

こうして、プッチーニのやる気は「ラ・トスカ」のオペラ化へ向けられたわけだ。

策士 ジュリオ・リコルディ

このリコルディという人。リコルディ社の社主でジュリオという。

リコルディ社第三代目当主で中興の祖とされる多才な男だった。音楽教育を受け、教養と経営センスを持った人物だ。(写真がジュリオ・リコルディ)image

リコルディ社は、1808年に初代当主ジョヴァンニによって設立された音楽出版社である。リコルディ社は、ベッリーニ、ドニゼッティを見いだし、彼らの出版を手がけることで収益を上げた。

そして、その後ヴェルディを見い出すにいたり隆盛を極めるのだ。

だが、その後の「ヴェリズモ」ブームに乗り切れなかった。ヴェルディは年老いて、新たな作品の発表は期待できない。

そのような状況下にあって、ジュリオ・リコルディは次なる希望であるプッチーを見いだしたのだった。ソンツォーニョ・オペラコンクールに落選したプッチーニの才能を見抜き、「マノン・レスコー」の成功を導き出したのだ。

そんなジュリオ・リコルディにとって、フランケッティから「トスカ」のオペラ化権利を取り上げることはたやすいことだった。

台本作家イッリカと組んで、フランケッティに「トスカ」がいかにオペラ化に適さないか、という考えを吹き込み続けた。

フランケッティは良家の子息で、その資産をもってすれば、みずからで自作オペラを自費で上演することが出来るほどだった。

金に困らないお坊ちゃまは人が良かった。フランケッティはあっさりオペラ化の権利を放棄してしまう。

ジュリオ・リコルディは、契約破棄の一両日中に、プッチーニと「トスカ」のオペラ化の契約を済ましてしまうのだった。

こうして、ジュリオ・リコルディの辣腕が、偉大な芸術を後世に残すことになったというわけだ。

芸術作品(Opera)とはそうしたものだ。それは、誰かの意地や欲望、策略や悪意、それからほんの少しの偶然によって生まれる。それを後世の人々は必然と呼ぶのだ。

つづく

次回は「どうしてアンジェロッティは脱獄したのか?──「トスカ」の歴史的背景」です。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

チケットぴあ