Tsuji Kunio

弘さんの友達は、みんな有名になっている。志賀も田村も有島も木下も武者も……。いまじゃ彼らのことを誰一人知らない人はいない。弘さんだって生きていれば、必ずいい仕事をした人だ。たった十年、十一年──その歳月の差が、これだけの違いをつくるんだな

樹の声海の声3 239ページ
いや、本当にそうです。どれだけ生きてどれだけ続けたかが大事です。執念で生き延びることが最も大事。
辻邦生が、江藤淳の自殺を厳しく批判したというエピソードが佐保子夫人の回想に出てきます。生への飽くなき欲求は辻文学の特徴の一つです。死への憧憬といたテーマはほとんど出て来ません。
ただ、不思議なことに、短編においてはかならず「死」が出てくるように感じたことがあります。当初はそれが辻文学の特徴かと思っていました。ですが、今から思えば「死」が裏返しになって「生」の重要性を裏打ちしているのだ、と思うのです。
「ランデルスにて」で死んだ女性、「ある秋の朝」で死へと疾走する脱獄囚、「夜」で交通事故にあってなお恋人のもとへ歩こうとしたアンナ、などなど。。
まずは生きること。生きて成し遂げることなんでしょうね。
「樹の声海の声」は、大学受験のために東京に来た時に、神保町の三省堂で全巻一気買いをして、受験終了後読みふけりました。もう20年ほど前にもなります。あの頃の読書体験は本当に宝物です。
樹の声 海の声 (3 第2部 上) (朝日文庫)

Photo

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この写真も、先日の旅行にて。窓からとっさに撮りました。本当はもっと違う構図にしたかったのですが、おじゃま虫が登場して、思ったようにはならず。この構図の方が(言葉は変ですが)、人生を表すのかも。
本来写真は説明してはいけないはずで、フォトコンなどで題名をつけるのも、いかがなものか、と思います。そういう意味では私はブラームス=ハンスリック派的ですね。
違う見方もあるんでしょうけれど。

Tsuji Kunio

 
起こりもしないことを思いわずらわぬこと。何か起こったら、その時それにぶつかればいい。結果を思わぬこと──それが行動のこつだ。

 
雲の宴
確か、樹の声海の声の主人公朔耶の母親も似たようなことを言っていましたね。さしあたり、まだ良くわからないことについては、最善のシナリオを考えておけばいい。思い悩むのは、事が起きてから、といった感じだったと思います。
なかなかその境地にまでは達せませんし、さすがに最悪のシナリオを考えないとビジネスが成り立ちませんが、そうあれれば幸せだと思います。
明日は出張。

Opera

METライブ・ビューイングのアンコール上演がこの夏開催されるようです。ワーグナーとヴェルディの作品を中心に8月10日から9月27日までの一ヶ月半です。
ただ、上映されるのは、東銀座の東劇のみです。
http://met-live.blogspot.jp/2013/05/met-2013.html#more
http://www.shochiku.co.jp/met/opera_pdf/ancore2013.pdf
上演スケジュールは以下のとおり。上述のPDFからキャプチャしました。圧巻です。
2013 06 23 19 25 のイメージ
1演目3000円で、長時間ものは4500円から。休みの日に入り浸るといいかも。
個人的には、今年の4月「パルジファル」を観たかったのですが、仕事などでどうしても都合がつかなくて断念しましたので、今回のアンコールを活用しようと思っています。
あとは、「ドン・カルロ」や「トロイアの人々」など、日本では見られない演目をチェックですね。
東劇は会社から遠くないので、夜の演目なら、定時に上がれば間に合います。なんとかやりくりしてなんとかチャレンジしたいものです。

未分類

こんなのも撮れました。写真は頭の体操ですし、肉体労働でもあります。スポーツですね。

 

今日は虚脱状態。明日は解脱していきたいところです。

 

Japanese Literature,Tsuji Kunio

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辻邦生「光の大地」を読んだのは、発売されてすぐだったと思いますので、おそらく15年ほど前のことだと思います。
タヒチやアフリカを舞台にしたエキゾチックな物語で、ヨーロッパの香りたかい辻邦生作品の中にあっては異色の作品といえるかもしれません。物語の語り口も親しみやすく、おそらくは新聞小説ということもあり、想定する読者層が違うからだと考えています。
ですが、通底するテーマは辻邦生作品ならではです。生きることの喜び、しかしながら、その喜びを追求しようとするときに性急な改革を求めると必ず失敗するという冷厳な事実。これが私が思う辻邦生作品群の一つのテーマです。
この作品においても、クラブ・アンテルというリゾートをトリガーとして、宗教団体による「性急な改革」が描かれています。もちろんそれは失敗に終わります
このクラブ・アンテルというリゾート企業ですが、おそらくは、クラブ・メッドを下敷きにしているはずです。アンテルは、フランス語で「中」という意味で、クラブ・メッドのメッドは地中海の意味です。アンテルは地中海の「中」をとったのではないか、と想像しています。
私は、辻ご夫妻がタヒチにいらっしゃった時の写真をどこかで見ているのですが、どこだったのか探し出せていません。それをみるとすこしヒントがみえるかも。
先日行ってきたのは、沖縄にあるクラブ・メッドでした。辻作品の中のように、スタッフが活き活きと働いていましたが、現実と小説が違うこともあるようです。
滞在中は楽しい毎日で、帰宅してから社会復帰するのが非常に大変でした。
冒頭の写真は夜明けの海岸から撮ったものです。先日読んだ本によれば「プロの写真家は失敗写真を絶対人に見せることはない」とありました。何百枚と取りましたが、あと数枚しか出せません。。
さて、この「光の大地」ですが、構成が不思議なのです。主人公のあぐりが宗教団体の被害にあって、そこから恢復する場面が他の作品と違うのです。通常の辻作品の「恢復」の場面はもっとみじかく、エピローグほどしかないのですが、「光の大地」の恢復の場面はエピローグよりももっと長いですが、場面としては短いのですね。本当はもっと長い小説だったのではないか、などと思う時もあります。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

コジ・ファン・トゥッテ。女はみんなそうしたもの。いや、本当にそうですよ、まったく。
というわけで、昨日に引き続き。コジ・ファン・トゥッテ。
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さて、今日は、男性陣と音楽を。昨日は悪乗りしてすいません。

男声の方々

フェルランドを歌ったパオロ・ファナーレも、グリエルモを歌ったドミニク・ケーニンガーも、イケメンなふたりでした。一幕が終わった途端に私の後ろの方から、「メチャカッコイー」という黄色い歓声が湧き上がりましたね。
パオロ・ファナーレは、甘い声。ともかく軽やかに甘い。特に、第一幕17番のアリア Un’ aura amorosa、素晴らしかったですよ。あれがカンタービレなんですね。
ドミニク・ケーニンガーも背の高いイケメンで、安定した歌声を聞かせてくれました。どちらかといえば、ファナーレより声は私の好みでした。
そうそう、第二幕の冒頭の水浴びのシーンですが、前回2011年は、アドリアン・エラートとグレゴリー・ウォーレンが、水に浸かりきってたんですが、今回はそこまでやらなかったです。でもあの場面は笑うしかないです。「オテロ」も「ヴォツェック」も水を使った好演出でしたが、「コジ」もその仲間ですね。
ドン・アルフォンソを歌ったのはマウリツィオ・ムラーロでした。2006年12月のセヴィリアの理髪師のドン・バジリオで聴いたことがありましたが、今回も当然健在ですよ。ヨーロッパのバス・バリトンの方は、本当につややかで倍音を多く含んだ声を聞かせてくれるんですが、ムラーロもそうした方々の一人。2011年のコジでドン・アルフォンソを歌っていたローマン・トレーケルが叡智的で冷たいドン・アルフォンソだったのですが、ムラーロのドン・アルフォンソは温かみがありました。それは声質の違いにもよるのではないかと思います。

音楽のこと

指揮のイヴ・アベルが作り出す音楽は、全体がひとつのまとまりとしてあらわれてくるように思えるものでした。急激にテンポを変えるといった意表をつくようなことをせず、だからこそ舞台上の物語を邪魔しないものでした。
私はこれと逆の経験を、10年ほど前のウィーンで観た小澤征爾の「フィガロの結婚」で感じたことがありました。小澤先生のことを書くのは不遜かもしれませんが、ケルビーニを歌っていたアンジェリカ・キルヒシュラーガーと全くテンポが合わず、モーツァルトの軽快な世界が重苦しさを帯びてしまったように思えたのです(これを書くのは相当勇気がいります)。
同じ経験は、数年前の新国「フィガロの結婚」でも……。
ですが、イヴ・アベルはそんなことはありませんでした。音楽に違和感を感じない、というのは、それだけ舞台演出とマッチした演奏なのだと思うのです。オペラ巧者の指揮者、例えばペーター・シュナイダーの指揮にはそうした職人技のような力を感じますが、それと同じものだったと思います。
もしかしたら、オペラにおけるオケの演奏は空気のようなものでなければならないのかもしれない、などと思います。気配を感じさせず、時に張り詰め、時に柔らかくなり、その場の「空気」Atomosphereを作るのがいい仕事なんですね。
明日は、演出のことを書く予定。

終わりに

ちなみに、昨日の夕食。落合シェフの豚肉のバルサミコソース。美味。久方ぶりの外食でした。この御店はメニューを限定することでコストをリーズナブルにしています。さすが!
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では、また明日。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

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今日は新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」最終日でした。NHKの映像収録があったおかげで、私はA席からS席へ格上げとなり、良い席で楽しむことができました。
今回のキャスト、美男美女ぞろいと聞いていましたが、本当にその通り。
冒頭、ステージにスタッフのかたが立たれて、フィオルディリージのミア・パーションが体調不良だが、頑張ります、というアナウンスが。
私は(古い話で恐縮ですが)、2002年秋の「セビリアの理髪師」のことを思い出しました。あの時は2幕の冒頭でスタッフのかたが壇上でキャスト変更をアナウンスされましたが、今回ももしや?と覚悟しましたが、なんとか出演してくださるということで、一安心です。
今日はNHKの録画も入っていましたし、最終日だったということもあるので、多少の体調不良をおして出演ということになったのだと想像しました。良かったです、本当に。
確かに、第一幕のミア・パーションは、声に張りがありません。ですが、緩急強弱の豊かさと、演技、(そして美貌)を持って、フォローしていましたので、聴いていて大きな違和感を感じる場面は殆ど無かったと記憶しています。さすがに、一番最初の歌い出しや、ロングトーンで苦労しているのはわかりましたけれど。
ですが、第二幕になると、声量も安定してきて、一層素晴らしくなりました。私は、途中からキャメロン・ディアスに見えてきて仕方がなかったです。
ドラベッラのジェニファー・ホロウェイは、背の高い美人。潤いのあるメッゾで、パワーはダントツ。第一幕での怒りの表現と、次第にほだされていく感じを上手く表現していたと思います。
怒りをぶちまける演技を見ていて、あ、これ、フリッカだ、と思いました(このあたりのオーバーアクションの演出が少し違和感あったかもしれないです)。
ショートカットにしていたので、これはズボン役も当然行けるわけで、オクタヴィアンを歌うとカッコイイはず。調べてみるとやっぱりオクタヴィアンを歌っています。
で、かなりこじつけで、ドリュー・バリモアに似ているということで。
デスピーナを歌った天羽さんもかっこよかったです。声量やピッチも外国勢負けないぐらい。最近の新国立劇場は日本勢もどんどん素晴らしくなっています。
天羽さんは、もちろんルーシー・リュー。

肖像権があるので、写真を載せられないですが、イメージは掴んでもらえるかと。
明日は男性陣を。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

新国立劇場では、今シーズンの「コジ・ファン・トゥッテ」が上演中ですが、2011年の今回のプロダクションのプレミエの時の過去記事をまとめました。

オペラトーク

演出のミキエレットの話を聞けたオペラトークです。

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その1

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その2

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その3

 

コジ・ファン・トゥッテの舞台芸術

舞台芸術の作られ方がよくわかった非常に素晴らしい企画でした。

【短信】「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術に行ってきました!

新国立劇場のリハーサル室に潜入!── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その1──

登壇された方々── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その2──

もう一度、コジの演出と舞台について── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その3──

コジの制作の舞台裏── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その4──

大道具小道具そしてQA── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その5──

 

公演の報告

こちらが、2011年本公演の報告です。

新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その1

演出いろいろ妄想中──新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その2

さらにいろいろ考え中──新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その3

 

楽しい公演の模様がわかるいいなあ、とおもいます。

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今日は色んな意味で充電中。明日からまた戦い。こちらも色んな意味で。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

「辻邦生ゆかりの地」の写真を撮ってみました。といっても、辻先生が直接いらしたことがあるはずはないですし、本当にゆかりがあるかどうかはわかりませんが、状況証拠から間違いないはず、と思っています。結構こじつけですので、今度報告する際に怒られてしまうかも。。
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さて、新国立劇場は「コジ」で湧いているようで、私も来週末に行くのですが、まだ終わっていない「ナブッコ」の件。だから、上司に「スピード感がない」と怒られるのですね、私。。
今回は、もう少し内容を書いてみます・
序曲では、デパートのお客たちが、カバンや上着を使いながらダンスを始めます。カバンを頭に被るので、まるで巫女がかぶる帽子に見えたりします。その後、ザッカーリアが「世界の終末は近い」というプラカードを体に下げて登場します。よく宗教団体が街頭でやっているあれです。
バビロニア勢は、資本主義のアンチテーゼとして武装ヒッピーとして登場します。マシンガンをもって天井からロープを伝って降りてきました。めちゃカッコイイ登場。ナブッコももちろんヒッピーたちの親玉として登場するわけです。バットでショーウィンドウを本当に叩き割るシーンがあって、なかなか面白かったです。マジでショーウィンドウ割ってました。あれは、新国「オテロ」でイアーゴが壁にベッタリ落書きするのと同じくらいかそれ以上に衝撃。
フェネーナは、帽子を深くかぶってトレンチコートを着込んでいますが、ザッカリアにコートを取られてしまうと、ヒッピーの服装をしていて、バビロニアに帰属する人物であることがわかります。ズボンに派手な花がらの意匠で、長い髪の毛の一部が黄色に染められていて、とても支配階級に属する者とは思えず、ヒッピーに属しているのがわかります。
ですが、ザッカーリアの服装も汚れていて、支配階級に属していると思えないのです。
私は、ユダヤ人は支配階級たる「人びと」と捉えています。
むしろ、ヒッピーに近いものを感じました。この峻別の微妙さが難しいのでしょう。ところが、フェネーナはユダヤ教に改宗しますので、白いドレスに着替えます。支配階級の軍門に下ってしまうのですね。
第二幕の最後で、ナブッコが自分は神だ、と宣言すると、雷鳴が光り、ナブッコは床に倒れてしまいます。神の怒りとして雷撃を取り入れるのは、旧約聖書と同じ。
第三幕では、デパートの内装はめちゃめちゃに壊されていて、偶像崇拝の対象として、デパートの中に飾られていたキューピー人形の巨大な頭に廃材を使って作られた十字架型の人形が登場します。高価な服やMacの箱がぶら下げられています。捕虜は両手を前で縛られているのですが、マウスのコードで縛られていて、細部までリアルに作られています。
本来は第二幕まではエルサレムでの出来事で、第三幕以降はバビロン捕囚後のバビロニアという設定なのですが、今回の演出においては、場所の変化は見られず、場所の意味合いが変わったというところにとどまっていました。ここがすこしわかりにくさを感じたところだったと思っています。
助演の方が演じる武装ヒッピーの感じがすごく良かったです。彼らはみなマスクをかぶっていて素顔を見せません。それがまたリアルです。アノニムの暴力、人間性が剥がされた状況なのでしょう。
「行け、わが想いよ、金色の翼に乗って」は、もちろん捕虜となった人々がの嘆きの歌として歌われています。ここは、コンヴィチュニーだったら、先日観た「マクベス」と同じく、客席の電気をつけるかも、と思いました。
ナブッコは、フェネーナを救うために、カウンタクーデターを成功させ、その過程で神への帰依を表明します。ここで、ナブッコは苗木を持ってきて、デパートの床板の下にある地面に植樹し祈りを捧げることになります。
こうして、ナブッコはエコロジストとなり、最終的には、支配階級もヒッピーも自然へ回帰する、ということになりましょうか。
ただ、そうした自然への回帰の見せ方が今ひとつよくわからず、ヒッピーが社会復帰するという、「ビルドゥングスロマンのような見え方、あるいは、「人びと」=支配階級の勝利のようにも見えてしまい、毒素が減じられた感じです。
いや、現実はまさに演出が描いたとおりですし、われわれはそうした支配階級に恩義があるのですから、演出の作り方としてはまったく理にかなっていますが、劇薬が薄められてしまったという感はありました。
とにかく、ここまで読み替えられちゃうのね、という感嘆でした。天才の考えることはスゴイです。
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明日からまた戦闘。しかも早朝より。