2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

新国立劇場では、今シーズンの「コジ・ファン・トゥッテ」が上演中ですが、2011年の今回のプロダクションのプレミエの時の過去記事をまとめました。

オペラトーク

演出のミキエレットの話を聞けたオペラトークです。

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その1

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その2

新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その3

 

コジ・ファン・トゥッテの舞台芸術

舞台芸術の作られ方がよくわかった非常に素晴らしい企画でした。

【短信】「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術に行ってきました!

新国立劇場のリハーサル室に潜入!── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その1──

登壇された方々── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その2──

もう一度、コジの演出と舞台について── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その3──

コジの制作の舞台裏── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その4──

大道具小道具そしてQA── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その5──

 

公演の報告

こちらが、2011年本公演の報告です。

新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その1

演出いろいろ妄想中──新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その2

さらにいろいろ考え中──新国立劇場「コジ・ファントゥッテ」! その3

 

楽しい公演の模様がわかるいいなあ、とおもいます。

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今日は色んな意味で充電中。明日からまた戦い。こちらも色んな意味で。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

「辻邦生ゆかりの地」の写真を撮ってみました。といっても、辻先生が直接いらしたことがあるはずはないですし、本当にゆかりがあるかどうかはわかりませんが、状況証拠から間違いないはず、と思っています。結構こじつけですので、今度報告する際に怒られてしまうかも。。
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さて、新国立劇場は「コジ」で湧いているようで、私も来週末に行くのですが、まだ終わっていない「ナブッコ」の件。だから、上司に「スピード感がない」と怒られるのですね、私。。
今回は、もう少し内容を書いてみます・
序曲では、デパートのお客たちが、カバンや上着を使いながらダンスを始めます。カバンを頭に被るので、まるで巫女がかぶる帽子に見えたりします。その後、ザッカーリアが「世界の終末は近い」というプラカードを体に下げて登場します。よく宗教団体が街頭でやっているあれです。
バビロニア勢は、資本主義のアンチテーゼとして武装ヒッピーとして登場します。マシンガンをもって天井からロープを伝って降りてきました。めちゃカッコイイ登場。ナブッコももちろんヒッピーたちの親玉として登場するわけです。バットでショーウィンドウを本当に叩き割るシーンがあって、なかなか面白かったです。マジでショーウィンドウ割ってました。あれは、新国「オテロ」でイアーゴが壁にベッタリ落書きするのと同じくらいかそれ以上に衝撃。
フェネーナは、帽子を深くかぶってトレンチコートを着込んでいますが、ザッカリアにコートを取られてしまうと、ヒッピーの服装をしていて、バビロニアに帰属する人物であることがわかります。ズボンに派手な花がらの意匠で、長い髪の毛の一部が黄色に染められていて、とても支配階級に属する者とは思えず、ヒッピーに属しているのがわかります。
ですが、ザッカーリアの服装も汚れていて、支配階級に属していると思えないのです。
私は、ユダヤ人は支配階級たる「人びと」と捉えています。
むしろ、ヒッピーに近いものを感じました。この峻別の微妙さが難しいのでしょう。ところが、フェネーナはユダヤ教に改宗しますので、白いドレスに着替えます。支配階級の軍門に下ってしまうのですね。
第二幕の最後で、ナブッコが自分は神だ、と宣言すると、雷鳴が光り、ナブッコは床に倒れてしまいます。神の怒りとして雷撃を取り入れるのは、旧約聖書と同じ。
第三幕では、デパートの内装はめちゃめちゃに壊されていて、偶像崇拝の対象として、デパートの中に飾られていたキューピー人形の巨大な頭に廃材を使って作られた十字架型の人形が登場します。高価な服やMacの箱がぶら下げられています。捕虜は両手を前で縛られているのですが、マウスのコードで縛られていて、細部までリアルに作られています。
本来は第二幕まではエルサレムでの出来事で、第三幕以降はバビロン捕囚後のバビロニアという設定なのですが、今回の演出においては、場所の変化は見られず、場所の意味合いが変わったというところにとどまっていました。ここがすこしわかりにくさを感じたところだったと思っています。
助演の方が演じる武装ヒッピーの感じがすごく良かったです。彼らはみなマスクをかぶっていて素顔を見せません。それがまたリアルです。アノニムの暴力、人間性が剥がされた状況なのでしょう。
「行け、わが想いよ、金色の翼に乗って」は、もちろん捕虜となった人々がの嘆きの歌として歌われています。ここは、コンヴィチュニーだったら、先日観た「マクベス」と同じく、客席の電気をつけるかも、と思いました。
ナブッコは、フェネーナを救うために、カウンタクーデターを成功させ、その過程で神への帰依を表明します。ここで、ナブッコは苗木を持ってきて、デパートの床板の下にある地面に植樹し祈りを捧げることになります。
こうして、ナブッコはエコロジストとなり、最終的には、支配階級もヒッピーも自然へ回帰する、ということになりましょうか。
ただ、そうした自然への回帰の見せ方が今ひとつよくわからず、ヒッピーが社会復帰するという、「ビルドゥングスロマンのような見え方、あるいは、「人びと」=支配階級の勝利のようにも見えてしまい、毒素が減じられた感じです。
いや、現実はまさに演出が描いたとおりですし、われわれはそうした支配階級に恩義があるのですから、演出の作り方としてはまったく理にかなっていますが、劇薬が薄められてしまったという感はありました。
とにかく、ここまで読み替えられちゃうのね、という感嘆でした。天才の考えることはスゴイです。
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明日からまた戦闘。しかも早朝より。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

先日の私のブログを読むと、演出批判に読めてしまうのに気づきましたが、そんなことは全然無いのですよ。
ともかく、読み替えのスケールが大きいのです。
特に、演出舞台は、本当に素晴らしいものでした。入った瞬間に、おー! と歓声をあげてしまったぐらいです。
私は二階右サイドでしたが、舞台をちゃんとみようと一階に降りて、しばらく眺めていました。
細かい意匠が素晴らしいのは先日書いた通りです。合唱の方の開幕前の演技も素晴らしいのですよ。みなさんちゃんと会話していました。ただ歩いているだけではないのです。商品を買って、クレジットカードで決済して、ありがとうございました、というところまでやってますし、待ち合わせしていたり、知り合いと会って、あーら、お元気?、みたいな会話までちゃんとやってましたから。
あとは、自動ピアノがおいてあって、ナブッコのテーマが演奏されていましたね。
ともかく、その美しさと、緻密さに感動しっぱなしでした。
これは、ぜひ再演してほしいところ。
オペラ演出も無形文化財だ、と思います。先日のアイーダもそうですが、今回の演出も日本の宝ですね。
「自然」に感じた、少しばかりのざらついた違和感は、私の感覚が演出意図とずれているからかもしれない、などと思います。それはもしかしたら、日本と西欧の差異なのかもしれません。
引き続き戦線継続中。あ、じつは先週、辻邦生ゆかりの地へ。かなりのこじつけですが。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

一ヶ月ぶりの新国立劇場。
グラハム・ヴィック演出によるヴェルディ「ナブッコ」を新国立劇場にて見て来ました。
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<ネタバレ注意>
通常、開場と同時にホールに入場できるのですが、今回はロビーで少し待たされました。
やっと中に入ってみると、舞台上は欧米でありがちなデパートの店内になっていて、合唱団員の演技が始まっていました。
アップルストアのパロディで、リンゴではなくナシがモティーフになったお店があったり、服飾品のブティックや、カフェがあります。金持ちそうなお客がお店の中にいっぱいです。
本物のMacが飾ってあったり、Macのパッケージを持つ人がいたり、リアルに作られていました。さすがにMacのパッケージのロゴはリンゴでしたが。
そうなると、気になるのが読み替えのコンセプトです。
本来は神殿であるはずの舞台設定がデパートになっているのは、現代資本主義の殿堂が、売買の殿堂であるデパートという設定なのです。
ヘブライ人は、「人びと」と訳されていて、特定の民族ではなく、人間一般というふうに読み替えられています。
バビロニアは、アナーキストとされていますが、私にはヒッピーのように見えました。
私には、ヘブライ人の読み替えの「人びと」が、現代社会における支配階級、つまり高所得者であったり政治家であったり資本家であったり、という階級であり、それへの敵対勢力としてバビロニアの読み替えであるアナーキスト、あるいは私はヒッピーだと思うのですが、そうした勢力の対立の構図として読みました。ウォール街占拠事件やロンドン暴動が裏に読めるのではないか、と。
エホバ神は「自然」に置き換えられています。日本人にとって、絶対神という概念は二重の意味でなかなか実感しがたいものです。ひとつは、日本人にとって特定の宗教への肩入れが少ないという意味において。あるいは、宗教心を持っていたとしても、一神教ではなく多神教であるという意味において。
その中でも「自然」の猛威については、日本人にとって身近であろう、というのがその考えのようです。
それが表現されていたのは、舞台中央の床板が外された中に土床が作ってあって、そこに植物が植えられているという点と、最後に雨が降る場面でした。
ただ、「自然」の威力を舞台上で表現するのは難しいと思いました。本来エホバ神は怒る神です。私は、最後に津波ですべてが流されるぐらいの強烈な演出ではないか、とも予想してしまっていて、そこまでやるのは問題だなあ、と心配していたので、少し肩透かしを食らった気分でした。
明日に続きます。というか、思った以上に難仕事です。。

Book,Classical

岡田暁生氏「西洋音楽史」の書評的随想。5月13日に書いた第一回に引き続き、第二回をお届けします。

副題の「黄昏」

さて、「神の死」を議論しようとするときに、注目しなければならないことがある。それは副題が「クラシックの黄昏」とされていることだ。これは、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」四部作最後の作品である「神々の黄昏」を下敷きにしている、と考えるのが一般的だろう。
「神々の黄昏」とは、リヒャルト・ワーグナーの手による、「ニーベルングの指環」四部作の最後の作品の名前である。「ニーベルングの指環」は、神々の没落を、黄金でできたニーベルングの指環の争奪と絡めて描く大叙事詩である。
「神々の黄昏」の最終部分においては、神々の住まう城ヴァルハラが、神の長であるヴォータンの娘、ブリュンヒルデが身を投じる業火によって焼きつくされることになる。神々の時代が終わり、新しい世界が到来するのだ。[1]
これらが、「黄昏」という言葉が西洋音楽史という文脈の中で持つ意味として了解される。

神々の死のあとには何がくるのか?

では、ワーグナーが描いた神々の黄昏の後に来たるべき新しい世界とは何なのか? 解説書などにおいては「愛」である、とされている場合が多い。
だが、それは違うのだと思う。「愛」などという、なかばキリスト教的な言辞は、神々亡き後の世界を表現するには不穏当で、空々しさを感じる。なぜなら、神々の死後の世界は破壊と殺戮と欲望の歴史だったからだ。二つの世界大戦、核競争、歪んだ資本主義、テロの時代……。神々の亡き後は、秩序なき時代へと向かっているように思えるのだ。
ただ、それは世の本意ではないはずだ。神々の黄昏のあとに来るものは何だったのか? 神々の死んだ後に、その権能を肩代わりしたのは西洋音楽のはずだった、というのが、前述のとおり本書の意図と思える。「はずだった」というのは、それがうまく行かなかったからだ。

新たなる宗教的法悦こそ音楽

たとえば、マーラーやシェーンベルクが音楽をどのように捉えていたのかが以下のように紹介されている。少し長くなるが、以下の部分を引用してみる。

 音楽がどんどん世俗化していったバロック以降の音楽史に在って、マーラーは再び神の顕現を音楽の中に見出そうとした作曲家だった。だが宗教が死んだ19世紀に生まれた彼にとって、「在りて在るもの」としての神は、決して自明ではなかったはずである。(中略)なんの疑いもなく「神はある」とは、彼には言えなかったはずだ。(中略)しかしながら、この悶絶するような自己矛盾こそが、マーラーの音楽を現代人にとってなおきわめてアクチュアルな──あれほど感動的な──存在にしているものであるに違いない。(中略)「いかに現代人は再び神を見出し、祈ることを学ぶに至るのか」という問い、これこそまさにマーラーの全創作のモットーでもあったに違いないだろう。

194ページ

神を殺してしまったせいで行き場が亡くなった、「目に見えないものへの畏怖」や「震撼するような法悦体験」に対する人々の渇望があったに違いない。そして19世紀において、合理主義や実証主義では割り切れないものに対する人々の気球を吸い上げる最大のブラックホールとなったのが、音楽だったのである。

169ページ
 確かに、コンサート会場は、宗教儀式にも近いものがある。たとえば「バイロイト詣で」という言葉が、(邦訳だけだとしても)それを端的に表している。バイロイト音楽祭は、ルルドやエルサレムのような聖地へと変貌を遂げている 
(「バイロイト詣で」という言葉は、Wikipediaにおいては、アルベール・ラヴィニヤック”Le voyage artistique à Bayreuth”という書籍のタイトルにあてられた訳として登場する。このタイトルには「詣で」といった宗教的な意味合いはないように思える。明治以降の日本における西欧文化受容にあって、たとえば哲学堂で、ソクラテスとカントが釈迦と孔子とともに四聖として神格化されているのと同じような崇拝志向が追加されているようにも思える。したがって、私の「バイロイト音楽祭が聖地へと変貌している」のは、日本だけなのかもしれない。これについては継続調査が必要)
 あるいは、コンサートで涙をながし感動する、であるとか、商業音楽においてもカリスマ的なアーティストのコンサートが個人崇拝の宗教儀式のような恍惚感をもたらすものであるだろう。

[1] ただ、ここでいう神々とはなにか、諸説あるだろう。ここでは、単純にニーチェの文脈において「神」とはキリスト教における神を指している。だが、ニーベルングの指環の文脈においては「神々」とは別の意味を持つ。例えばいわゆる王侯貴族などがそれにあたるのではないか、というのが私の平常における意見である。
続く
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ヴェルディのナブッコ神話、についてのシリーズですが、ヴェルディの解説書を二冊借りてきたところ、ナブッコの初演のエピソードがあまりに淡白なものにとどまっていることに気づきました。一番扇動的なのが「物語 イタリアの歴史」のようです。
この話を書かないといけないのですが、手元に資料がないので、先日第一回をのせた、岡田暁生さんの「西洋音楽の歴史」についての小論を載せます。随筆書評ですので学術的なツッコミはご容赦とともにご指摘くださると助かります。あと一回書く予定です。
っつうか、音楽自体のことを書いていないのですね、最近。それよりも、オペラあるいは音楽が指し示す現代批評性に興味が向いています。

Classical

ついご無沙汰しました。まずは、6月のプレミアムシアター情報です。
オペラはありませんが、ベルリン・フィルとミュンヘン・フィルが楽しみです。

6月10日(9日深夜)

2 CELLOS熱狂のザグレブ・ライヴ!

  • 2 CELLOS
  • ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団

アンドレア・ボチェッリ ~ポルトフィーノから愛を込めて~

<出演>

  • アンドレア・ボチェッリ(テノール)
  • クリス・ボッティー(Tp)
  • キャロライン・キャンベル(vl)

6月24日(23日深夜)

ベルリン・フィル ヨーロッパ・コンサート2013・イン・プラハ

<曲目>

  • タリスの主題による幻想曲(ヴォーン・ウィリアムズ)
  • 聖書の歌(ドボルザーク/ドボルザーク&ツェマーネク編)
  • 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」(ベートーベン)

五嶋みどり&ズービン・メータ指揮 ミュンヘン・フィル演奏会

<曲目>

  • 悲劇的序曲 作品81(ブラームス)
  • 交響曲「画家マチス」(ヒンデミット)
  • バイオリン協奏曲 ニ長調 作品77(ブラームス)

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新国立劇場「ナブッコ」は、舞台が斬新な設定のようですね。FBで写真を見ました。読み替え大好き。私は6月1日に行く予定。現在のところ情報をシャットダウンしております。
まずは取り急ぎ。なかなか前には進まないものです。。

Book,Japanese Literature

昨日、村上春樹氏「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」読了しました。


なにより、すべてを語ることはなく、謎の円環が閉じられることはありません。半分哲学書の感もある辻邦生先生作品であればもっと書かれるかもなあ、などと思いました。

この点は、最近「文学」を読むことがほとんどなかったので、懐かしさを感じました。

読者=受容者に解釈を委ねるのはオペラ演出と同じ。立ち止まらず考えることを要求されます。というか、それが楽しいですね。

前半の不条理感が素晴らしく、非現実的な状況がかえって現実世界の不条理を現しています。世界は論理ではありませんので。

意識と現実の狭間を描いていたのは素晴らしくて、自分の思念や想像が現実とつながっているのではないか、という怖れや疑いをリアルに感じるます。ここはすばらしいところ。特に夢と現実の結節の可能性を描いたところは素晴らしいと思うのです。疑いながらも事実が指し示すのが、夢が現実化している可能性であると言う点。ここに一番胸を打たれました。あまりにリアルですから。

その分、後半、明らかにされる物語は、幾分か整合性のある現実的なもの。もっと超常的な話でも良かったのでしょうけれど。それでも謎は残されているのですが。

あとは、この本、若い人が読むとどう感じるのか、少し興味があります。きっと違うのでしょうね。

「巡礼の年」、と来ましたから、タイトルを知った時から、リストだと思っていましたので、それは予想通り。加えて私の好きなブレンデルの録音が出て来たのは嬉しかったです。私が愛することのできる数少ないピアノ曲ですから。私もスカンジナビアの夏に「巡礼の年」を聞いてみたいものです。

気づいたらiPodにベルマンの「巡礼の年」も入っていて、驚きました。「第二年イタリア」だけでしたが。

2013/2014シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera,ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎

新国立劇場のナブッコ、本日がプルミエですね。私はは6月1日に出動予定です。

で、昨日の続き。期せずしてシリーズになってます。そして、期せずして新国立劇場「ナブッコ」に関連してきましたので表題も変えてみました。多分、このあたりの話は、パンフレットに記載されているでしょうけれど、独自の調査ということで。

ナブッコ「行け、我が想いよ」はどのように迎えられたのか?

私は、ナブッコの「行け、我が想いよ」が愛国的に使われたという話を、中公新書の「物語イタリアの歴史」で読みました。この中ではこの合唱が如何に熱狂的に迎えられたのか、が記されています。

「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」と合唱を始めると、客席の興奮は最高潮に達した。……
聴衆は熱狂してヴェルディを讃えた。「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」のメロディは、街中いたるところで歌われるようになった。……ミラノの床屋はアコーデオンでこのメロディを鳴らして客を集め、しばしば警官が出動して群衆を追い散らす騒ぎとなった。

藤沢道郎「物語 イタリアの歴史」第11版 中公新書、1998年、308ページ
確かに、アンコールとは一言も書いていないですが、この曲が熱狂をもって迎えられたと理解していました。
ところが、加藤浩子氏「ヴェルディ」においてはそのような熱狂はなかったのではないか、とされています。

だが、1987年に出版された《ナブッコ》の批判校訂版を編纂したロジャー・パーカーは、資料研究の結果、初演でアンコールされたのは<行け、わが想いよ>ではなく、最後の讃歌<偉大なるエホバ>だったことをつきとめた。また、ミラノに続いて行われたイタリア各都市での上演で、<行け、わが想いよ>が熱狂的に迎えられた記録はないという。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、62ページ

<行け、わが想いよ>が愛されるようになったのも、統一後のことのようだ。というのも、1948年に起こった「ミラノの5日間」の放棄の後、スカラ座はしばらく閉鎖され、オペラは上演されなくなるが、その間にリコルディが数多く出版した『愛国賛歌』の類の中に、<行け、わが想いよ>は見当たらないのである。<行け、わが想いよ>が、「合唱の父」と称されることもあるヴェルディによる「第二の国家」なら、この時に何度も出版されて当然だろう。だが、その時人気を集めていたのは、ピエトロ・コルナーリなる作曲家に因る《イタリア人の歌》という作品だった。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、64ページ
「行け、わが想いよ」が、アンコールされた事実も熱狂的に迎えられた記録もないかもしれない、ということになるわけですが、真実はどうなのか。
ビルギット・パウルスの説は、おそらくこちらの本になるはずです。あたってみたいところですが、ドイツ語ですか。少しハードル高いですね。。東京芸大の図書館にあるようですが、そこに入る術を知りません。町の図書館で取り寄せられないか、聴いて見ることにしましょう。

今後の予定

明日は、ヴェルディに政治的意図は本当になかったのか、を書いてみようと思います。これも記述がわかれていますので。
私の手元にある文献3冊が喧嘩をしていて、何が本当なのかわからないですね。「世界が非論理であり、真実というものは途端に消滅するもので、あるのは作為的な事実や歴史のみである」という、最近の私の考えと一致する状況でしょう。
面白いっすね。こういう謎解き。

2013/2014シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera,ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎

引き続きヴェルディが楽しい毎日。
今日はレクイエム。バレンボイムがシカゴ饗を振ったバージョン。

昨日のお話の続きを。
ヴェルディがイタリア統一運動において果たした役割は、「ナブッコ」の「ゆけ、我が想いよ」が、当時オーストリアに支配されていたミラノにおいて、イタリア民族意識に火をつけたということ。もう一つは、「ヴェルディ万歳!」という言葉が、「イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世」というイタリア統一を象徴するといったことになります。
これは、イタリアの教科書に書かれていることでもあるとのことですし、随分といろいろな所で取り上げられている「常識」的なものでした。
ところが、どうやらそれは「幻」のようなのです。
件の「ヴェルディ」においては、ビルギット・パウルスというドイツの研究者による情報として以下の様な説が紹介されています。
(「ひ孫引用」で恐縮ですが)「ヴェルディ万歳!=イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世」の挿話の初出は、オーストリアの音楽批評家であるエドゥアルト・ハンスリックによって書かれた「現代のオペラ」という作品のなかなのだそうです。
ハンスリックは、高名な音楽評論家ですね。ワーグナーと対立し、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で敵方ベックメッサーのモデルになったと言われている方です。
その部分を、ハンスリックの原書から発見しました。加藤浩子氏「ヴェルディ」においては1875年とされていますが、googleにスキャナされた版は1880年とあります。
“http://archive.org/details/diemoderneoperk02hansgoog":http://archive.org/details/diemoderneoperk02hansgoog
255ページの以下の部分です。

超意訳ですが、

つまり、ボンバルディア、ヴェネト、ローマ、トスカーナ、ナポリにおいては、「イタリア万歳!」と叫ぶことはタブーだったので、人々は「ヴェルディ万歳!」と叫んだのだ。このヴェルディの名前を示す個々の文字は以下の意味を指し示す。すなわち、イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ、である

と書かれているはずです。
この部分が、世界ではじめてヴェルディの言い換えを行った場所、ということになるのでしょうか。
つづく。
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先程まで、教育テレビで放送されていた吉田秀和さんのドキュメンタリーに釘付けになってしまい、遅くなりました。続きは明日。

2013/2014シーズン,Giuseppe Verdi,Movie,NNTT:新国立劇場,Opera,ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎

ヴェルディが楽しい毎日。今日はオテロ。ナブッコの予習もしないといけないのですが、音源の入手が遅れていることに気づき焦り気味です。

先日「ビバ・リベルタ」という本を取り上げました。その中でイタリア統一にまつわるエピソードを取り上げました。

この本では、ヴェルディが政治的闘志を燃やしているかのような記述があるのですが、どこかでそれを覆す論述を読んだ記憶がありました。

どこで読んだのか覚えておらず、取り急ぎエントリーしたのですが、その辺りの不確定さを少し匂わしておくだけにとどめていました。つまり、あまり政治に熱心ではなかった、と言った表記をしたのはこういうわけだったのです。

昨日、大学の友人と会う機会があり(その訳を書くのは少し難しいのですが)、その際に一冊の本を紹介してもらいました。加藤浩子氏による「ヴェルディ」という本です。

その中に私の漠然な疑問に答える記載がありました。

ヴェルディがイタリア統一に果たした「偉業」は、幻だった、というのです。

続く

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今夜も夜勤のメンバーがいる中ですが、離脱中。明日は何もなければOFF。