いよいよ7月です。今年も後半。前半に積み重ねたものを発露させたいと思っています。本も読んだし、オペラをはじめ音楽も浴びるように聴きましたし。
吉田秀和の「オペラ・ノート」を引き続き読んでいます。二重引用で申し訳ないのですが、吉田先生は、プルーストの「花咲く乙女たちのかげに」のなかからこんなエピソードを紹介しています。主人公の「私」は文学者になりたいのだが、父親は外交官になることを望んでいる。だが、父親はこういって、主人公の志望を認める。
「あの子ももう子供じゃない。今まで自分の好みを知ってきたし、人生で何が自分を幸福にするかも分かっている。それは今後とも変るまい」
それに対して、主人公の「私」はこういう疑念を持つ。
「実は人生はもう始まっていたのであり、これからくるものもこれまでと大して変らないのではないか」
人生は、どこからか始まるわけではなく、昨日やり、今日やっていることの中にあり、それが人生そのものなのである、という認識。。
147ページ近辺から引用。ここが一番グッと来ました。いつとは言いませんが、私もこういう思いにとらわれ、名状しがたい悲しみにうち沈んだことがありましたので。私の場合、さらに人生のむなしさまでをも感じてしまった。その先は、もしかしたら俳諧の世界か、禅の世界にでも進んだほうがよかったのかもしれませんが、幸い(?)にも、社会に身をとどめて、サラリーパーソンをやっておりますが。
しかし、吉田さんはプルーストもちゃんと読んでいるんですよ。私はおはずかしながら、「ソドムとゴモラ」で止まっていて、早く再開しないといけないんですが、吉田先生は鈴木道彦の新訳全集の月報に解説も書いておられましたから。たしか「ゲルマントの方へ」だったと思いますが。
プルーストも読まんといかんのですが、何を血迷ったか、単行本版で全冊そろえてしまいまして、その後文庫版が出ていることに気づき、落ち込んだ記憶がありました。でも、単行本版の装丁の美しさは絶品ですからね。
6,7年前に集中的に読んでいたみたい。以下が、当時の記録。さすがに時間が経ちすぎている。私はここに宣言する。プルーストをもう一度再開します。プルーストを読まずに死ねるか! と。
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でも読みたい本はたくさんあるんだよなあ。会社サボって図書館にこもりたい稚拙な欲求。もう時間はない。
ちょっと話題がそれました。
この「オペラ・ノート」では、吉田先生が実際にオペラに言っていらしたレポートは面白いですが、CDを批評する段になるとちょっと筆が鈍るように思える。でも、それは吉田先生の筆が鈍ったのではなく、ビジュアルな要素に対しての言及が少なくなっているから。つまり、私はオペラにおいては、音楽的な部分に勝るとも劣らず演出面などのビジュアルな要素に大きな関心を抱いている、ということ。
それから、私自身の反省点として、モーツァルトやヴェルディ以前のイタリアオペラの聞き込みが足らないということ。でも、ちょっと肌が合わない感じなのですよ。やっぱり、ヴァーグナー、シュトラウス、プッチーニを聞くと、気が落ち着くし、懐かしい我が家に帰ってきた気分になります。
あ、新国のこけら落とし公演「建TAKERU」の批評は強烈でした。あそこまで書いちゃうんだけれど、吉田先生が書くのなら仕方ない。真実は常に残酷です。
プルーストの思い出──吉田秀和「オペラノート」 その2
記念日──吉田秀和「オペラノート」
今日は、とある記念日でしたので、仕事をハイスピードで終えて、家族で近所の街のレストランで食事を。なかなか良い気分で食事ができました。幸い私の自宅近辺では大雨に見舞われることもなく、ぬれずに帰宅できました。
最近の通勤時間はなかなか楽しくて、今週に入ってから「沈まぬ太陽」御巣鷹篇をあっという間に読み終えて、吉田秀和氏の「オペラ・ノート」を。
さすが、吉田秀和先生。本当に天才的ですね。中原中也と友達だったとか、桐朋学園を設立したとか、文化勲章をもらっているとか、伝説的な事績に触れるごとに、この方を超える音楽批評をできる方はそうそういらっしゃらないのではないかという思いを新たにします。
この本、まだ半分ほど読んだところです。冒頭に「利口な女狐の物語」を取り上げるという変化球に圧倒されて、それから私の大好きな「ばらの騎士」の考察、それから、ワーグナーのリングを取り上げる。バイロイトにおけるパトリス・シェローの演出を様々な角度から考察していらして面白いです。「ラインの黄金」で巨人が登場するところ、リアリズム的に本当に大きな巨人が出現して、思わず笑ってしまったとか。ヴィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式に慣れた目には、シェローのある種リアルな演出が突飛に思えたというところでしょうか。
シェローの映像は、私も持っていますが、リングともなると惰弱な精神力では観ることは能いません。ちゃんと劇場にいって、5時間みっちり缶詰にされないとなかなか観ることができないというところ。これを、トーマス・マンは幸福な孤独と言っていたはずですが、私も同感です。
どうやら、前半が終わったようですが、得点は入っていないようです。これから眠るか、起きているか、ちと迷う。
新国立劇場:池辺晋一郎「鹿鳴館」
今日は本当に湿っぽい一日でした。もう夏です。昨年の今頃は屋久島に行っていたなあ、なんて。
早速、本日見てきた池辺先生の「鹿鳴館」のことを。
中劇場といういつもより小降りの箱で、凄く一体感のあるパフォーマンスでした。
男の論理と女の論理
この作品、影山伯爵と伯爵夫人朝子の対立軸が一つのポイントとなっていると思います。すべて憎悪が政治を動かすのである、という極めて現実主義的権力主義的影山と、我が子を守ろうとする朝子が知らず知らずのうちに対決しているという構図。最後はもちろん朝子は敗れ去ります。影山には何らの傷もつかない。朝子は、影山と別れて、影山の政敵である清原の元へ向かうことを示唆しますが、劇の最終部の銃声で、清原の死が暗示されています。男の論理の完全勝利。
だが、どうにもこれには釈然としないのです。本当に影山は完全勝利を得たのか? やはり朝子を失ったことは疵ではないのか? 影山は、朝子と清原に関係があったことを知って、嫉妬があると吐露しますが、影山が感情らしいところを出したのはあの場面だけ。あとは、淡々と政敵を追い詰め、さらには嫉妬を覚えた清原や久雄を始末するという結末。勝利はしたけれど、おそらくはむなしさも覚えていているのではないか、とも思えます。どうしようとも朝子との関係修復は無理でしょうから。
けれども、男の論理ではそんなことはどうでもいいのかもしれません。けれど、なぜか悔しさを覚える。朝子の敗戦が気の毒に思えるからなのか。
演奏について
歌手の方々で言うと、影山夫妻を歌ったお二方が大変素晴らしかったです。ソプラノの腰越満美さんの朝子は、実に気品溢れる演技で、歌の方もピッチの狂いも感じられず、特に伸びやかな高音域は素晴らしかったです。そうか、イタリアに留学された方でしたか。この方、実は「ばらの騎士」の元帥夫人とか、「カプリッチョ」の伯爵夫人を歌えるフレミングタイプのソプラノの方ではないか、と思いました。
影山伯爵の与那城敬さんも素晴らしかった。落ち着き払った演技で、巧かったですし、歌唱も善かった。
で、思ったのですが、やはり、日本語の歌詞を日本人が歌われると実にしっくり来るのですよ。ごくたまに感じる物足りなさなんて微塵もない。やっぱり日本語の歌詞は日本人のためにあるのだなあ、と。なんだか偏狭なナショナリスト的言動ですが、正直な感想です。ドイツ人のネイティブスピーカーがドイツ語を歌う日本人を聴いてどう感じているのか、ちょっと分かった気がします。
音楽は、もうなんというか、いろいろな要素がミクスチャされたもの。調性はめまぐるしく変わりますし、鹿鳴館の舞踏シーンのシニカルな音楽は、鵜山仁さんの、これまたシニックな演出と相まって、鹿鳴館時代の日本の一生懸命さを皮肉っぽく表現していました。
今の日本のオペラも、鹿鳴館時代と同じなのかもしれない。そうした批判意識があるのでは、とも深読みしてしまいました。
それから、飛田をセリフなしにしたのは第正解。怪しさ満点で、政治の裏でなされているダーティーな仕事を示唆していて効果的でした。飛猿みたい。
まとめ
実に刺激的な一日。三島の文学と、池辺さんの音楽に、鵜山さんの演出が混ざり合って一つの大きな価値が生み出された瞬間に立ち会えたという幸福な一日でした。
カーテンコールの最後、舞台奥に故若杉弘さんの写真が映し出されました。カーテンコールを受けていた演奏者や池辺さんも後ろを振り返って、若杉さんの遺影に拍手を送りました。
これで、若杉さんが企画した2009年/2010年シーズンは終了です。明日はちょっと今シーズンを振り返ってみたいと思います。
明日の「鹿鳴館」、準備OK──三島由紀夫「鹿鳴館」
三島の戯曲「鹿鳴館」を読み終えました。明日の池辺晋一郎「鹿鳴館」にちゃんと間に合いました。
さすが三島です。織り成す人間関係の複雑さをきちんと理解させ、なおも二重三重にもロジックを絡み合わせるあたりは本当に素晴らしい。解釈多様性を持ち、謎を謎のまま飾り付けるやり方も見事。
夫婦の愛憎、親子の愛憎、社会階層間の憎悪、様々な対立軸が提示していくやりかた。文学の一つの大きな使命は、対立軸を鮮明に浮き上がらせるというものがあるでしょうから。
男らしい影山男爵は、男性のシンボルに他ならない。朝子の描き方が随分冷徹で、三島は影山に花を持たせているように思えます。最後の部分で、誰かが殺されるという暗示が示されていて、それが朝子が拠り所にする人物であることを想像しますが、真実は誰にもわかりますまい。
これを明日オペラで見ることができるのは幸せ。感謝しないと。どんな刺激的な体験が待っているんだろう? 詳細は明日の新国立劇場で明らかになるはず。
ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』
今朝は四時半に目を覚ましました。あわててテレビをつけるのだが、メガネをかけていないので、点数がよく見えません。目を瞬いてとっくりとみると、あれれ、勝っているじゃないですか! 後半始まったばかり。まだわからないけれど、2点差。すごいなあ。
というわけで、少し早めの朝食をとりながら、日本の勝利を鑑賞しました。次はパラグアイですか。がんばって欲しい。
あなたに不利な証拠としてを読もう
で、先日から読んでいる「あなたに不利な証拠として」のことを。この本は、都心で売っているBig Issueの書評で紹介されていたもの。うちの奥さんが読んでみたら、と薦めてくれたので、早速入手してみたんですが、いやあ、すごいですわ。ここまでの強靭な粘りを持った小説家に出会ったのは久しぶりです。
著者横顔
著者はローリー・リン・ドラモンド。名前だけでは、一瞬、男性か女性かわからない。ローリーとくれば、ローリーですからね。でもミドルネームのリンは女性の名前であることに気づく。だが、この方の経歴がすごい。女性でありながら制服警官として5年間勤務し、30歳で交通事故にあって辞職し、ルイジアナ州立大学で英語の学士号とクリエイティブ・ライティングの修士号を取得した。現在は大学で教鞭をとりながら親筆活動を続けている。
構成と内容
この本、キャサリン、リズ、モナ、キャシー、サラという5人の女性をめぐるオムニバス形式の中短編。やっぱり、女性作家はすごい。ひれ伏すのみ。
たとえば、執拗なまでの完璧な描写を無限大に繰り出してくるし、難しいはずの「匂い」の描写を数ページにわたって粘り強く、執拗といってもいいかもしれないけれど、とにかく気迫に満ちた描写力に心を強く打たれました。
描かれているのは、女性警官たちをめぐる勤務の日常なのですが、われわれサラリーマンのように定型化された仕事などはなく、常に死と隣り合わせの世界。警察官の死亡率は交通事故が一番高いという意外な事実も。
緊迫感のある犯人との対峙シーンも読み応え抜群で、これは現役警官か、現役警官をきちんと取材した人でないとかけないだろう、と思わされてしまう。
一番心に残るのは冒頭のキャサリンだと思う。優秀な警官で、伝説の女性で、そして最後はやっぱり……。心打たれるものがある。
心の和む描写、そして開かれた謎
描写が凄い、と書きましたが、特に、ところどころに織り込まれる自然描写が美しくて、ラヴリー。私はアメリカに行ったことがないのですが、映画で見るアメリカの中流階級の住む住宅街の風情なんかが直接伝わってくる。たとえば、枯葉が風に吹かれて乾いた音を立てているシーンとか、葉の色が黄色になった広葉樹が重い枝を街路にたれていたり、リスが時折現れたり、とか。描写力は絶品で、これはもうなかなかまねできないと思う。かなり鍛練を積んだんだろうなあ。
それから、事態についての説明はあまりなされない。原因究明も。それは以前も言ったように謎のまま温存してある。だから、読者は、開かれた物語世界の真ん中に放り出されて、どこに行くのも自由。それを許す包容力がこの本にはあるのです。
緻密な描写、説明をしない奥ゆかしさ。
そうかあ、ここまで書かねばならんのかあ、とかなり勇気付けられた感じ。
だから本読みはやめられません。
女性作家万歳!
しかし、最近気づいたんですが、やっぱり女性作家さんの小説が好きかもしれない。まあ、いろいろ芸風はあるでしょうけれど。私が感銘を受けた女性作家といえば。。。
* 塩野七生
* 永井路子
* 篠田 節子
* 岡本かの子
* リンドグレーン
* アニタ・ブルックナー
* 澤田ふじ子
* ジュンパ・ラヒリ
加えて、辻邦生師の作品は女性的甘美さや緻密さを湛えているし、マルセル・プルーストだって、いろんな意味で女性的なものをもっていますので。そういうくくりでは辻邦生師もプルーストも女性的だといえるのでは、と勝手に思い込んでいます。
マッチョなデ・グリューを聴こう──マノン・レスコーな思い出 その2
さて、今朝は「マノン・レスコー」をテバルディとデル・モナコのバージョンで聞いたんですが、デ・グリューを歌うモナコが格好良すぎて、なんだか、勇敢なるデ・グリューになっていました。ドミンゴのように甘さを加えると、まだ青い未熟な青年的な微妙な甘え具合が出るんですけれど、オテロやカラフを歌わせたトランペットの声で、デ・グリューというのはちょっとモナコにしてみれば役が足りないのかもしれません。このマッチョな男らしい歌には、凱旋帰還するオテロの姿思い浮かんでしまう。なーんて、えらそうなことを言ってますが、「マノン・レスコー」は本当に素敵なオペラ。
テバルディもすごくいいですよ。伸びがあってピッチの微妙な傷も気にならない。特に高音域の伸びは絶品です。ああ、これをお昼休みに聞ける幸せ。 iPodラヴ。
あ、もうひとつちょっと由々しき思い出。私が「マノン・レスコー」をはじめてみたのは実はBS2で10年以上前に放送されたグラインドボーン音楽祭の映像でした。たしか、なぜかジョン・エリオット・ガーディナーが指揮をしていたはず。
しかしながら、この音源だけは理解することができなかったです。やはり、VHSビデオで録画したものだったので、音質も画質もきわめて悪い状態で音楽の美しさを掬い取ることができませんでした。
あとは、これは今だから言える想像ですが、古楽派のガーディナーがプッチーニを振るという違和感のなせる事象なのではなかった、とも。演出はグラハム・ヴィックで、彼の演出である同じくグラインドボーンの「ルル」がすばらしかっただけに、ちょっと残念な思いもしました。
あのときに、環境が整っていれば、今はもっとオペラを聞けていたはず。私はこの「マノン・レスコー」の映像をみて、オペラを一度あきらめたんですから。代わりにブラームスの室内楽の世界やブルックナーの敬虔で激しい交響曲群を惑溺するようになったんです。
やはり、出会いというものは重要です。早くても遅くても巧くいかない。まあ、そういう糸の通し違いが人生を面白くしているんですけれどね。なるべくならそういうことがないように生きていこうとするのも正しいあり方ですけれど。
でも、仕事に関してだけは、糸の通し違いは決して起こしちゃいけません。それが最近見てきたいろいろな出来事から導いた結論です。
マノン・レスコーな思い出
なんだかiPodの調子がおかしい。いやな予感。。。HDD160GB積んでいること自体に無理があるのかもしれません。SSDはまだ高いので仕方がないんですけれど。
今朝は、マノン・レスコーを。
いま、追っかけで「男と女はトメラレナイ」を見ています。リアルのほうは、人形浄瑠璃を取り上げています。うーむ、オペラだけが対象ではなかったのか。。。残念。
で、「男と女はトメラレナイ」での「マノン・レスコー」の回は、マノンは「魔性の女」である、という観点から、トークが繰り広げられていて、実に面白い。
デ・グリューと愛を誓いながらも、やっぱり金持ちじゃないとイヤ、というわんばかりに、金持ちの老人ジェロンテの屋敷に転がり込み贅沢三昧。けれども、デ・グリューが現れると、やっぱり心変わり。やっぱり年寄りじゃいやなの、みたいな。デ・グリューも人がよすぎる。「魔性の女」マノンに完全にイカレテしまっている。姦通罪で有罪になったマノンを追っかけて、辺境の地、ルイジアナまでいってしまうんですから。
しかし、「魔性の女」、いますよねえ。被害者を何人か知っていますが。。。「男と女はトメラレナイ」では、鴻上尚史さんがゲストだったのですが、一度「魔性の女」に引っかかってしまい、あまりの辛さに、仕事を入れまくって、しのいだそうです。なるほど。仕事入れればいいのか。
今日の魔性の女、マノンを歌うのはマリア・カラスです。古いモノラル録音ですが、音質はかなりいいです。指揮はセラフィン。デ・グリューはジュゼッペ・ディ・ステファノ。この方は激烈な人生を送っておられる。
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マリア・カラスの声は、私には硬質に思えます。むしろ、ちょっと硬すぎるのかもしれない、と思うぐらい。ピッチも微妙な部分があるかもしれない。でも存在感はすごい。きっと、実演だとものすごいことになるんでしょうけれど。私のデフォルト盤は、シノポリ&ドミンゴ&フレーニ盤です。フレーニの柔らかみを帯びた声のほうが好みかもしれない。今は、ですが。
「マノン・レスコー」は、新国立劇場でも次シーズンで上演が予定されています。
私は、一度だけ実演に触れています。2003年にミュンヘンでアンドレアス・ホモキの演出で見ました。
これは、2004年にミュンヘン行ったときの写真。ちと威張って立ってみました。まだリーマン・ショックを知らない時代。
ミュンヘンの「マノン・レスコー」の読み替えは凄烈でした。もちろん、会場はバイエルン・シュターツ・オーパーなんですが、幕が開くと、舞台も、同じシュターツオーパーで、客席に座るわれわれの頭上にぶら下がる巨大なシャンデリアがそのまま舞台上にも現れたんですから。合唱は正装したオペラ観客に扮していて、みんなプログラムなんかを持っているんですよ。警官役は歌劇場の守衛の制服を着ているんです。マノンが捕らえられるシーン、あそこは、マノンが覚せい剤を持っていたという設定になっていて、警官役がマノンのハンドバッグを取り上げると、中から白い粉が舞台にばら撒かれるという仕掛け。リアリティが刺激的過ぎる。
これが、くだんのシャンデリア
当日は、全四幕を連続して2時間休みなしで演奏。指揮は誰だったんだろう。当時のリブレットにはファビオ・ルイジの名前が書かれているのですが、絶対に違う。もっと年配の職人気質的指揮者だった記憶が。ちょっと探してみないと。。
ともかく、演奏者も、客席も、私も、強烈な集中力のなかで舞台は進行していって、あっと今の2時間。あれほど集中したオペラはそうそうありません。私は舞台に向かって一番左端の一番前という席で、目の前がオケピットでした。インテルメッツォの恍惚感が忘れられません。昨日のことのようだ。
ホモキ氏って、1960年生まれなんですね。若いのにすごい。ホモキ氏は、新国立劇場でも「フィガロの結婚」、「西部の娘」を演出しています。「フィガロ」のほうも斬新な読み替えでエキサイティングしたおぼえがあります。これも2003年のこと。「西部の娘」は2007年でした。ダンボールを巧く使った演出で、現代アメリカに読み替えていました。
来シーズン、「フィガロの結婚」が再演されますので、こちらでアンドレアス・ホモキ氏のアグレッシブな演出を楽しめます。私も観るのは二度目になりそうですが、楽しみですね。同演出異歌手に巡り会えるのも新国立劇場がしっかりしてくれているからこそ、ですから。
篠田節子 「ゴサインタン―神の座」
忘れないうちに、この本もご紹介。
いやー、またスケールの大きなストーリーに感涙です。あえてストーリーは書きません。一言で言うと、「斜陽」、ですかね。あまりに縮めすぎかな。
うまくいっている小説の一つの特徴として、余韻というものがあって、それは、謎が謎のまま残され、その後の展開が読者の想像力にゆだねられるというものなのですが、この本で語られたストーリーは謎だらけで、論理的な説明は全くなされない。だが、それが小説の面白さの一つなのでしょう。次々に起きる不可思議な出来事は、オカルト的でもあるけれど、だからといって現実離れした者でもない。もしかしたら、隣の部屋や近所の家で起きていることなのかもしれない、と思わせるほど現実的リアルに満ちた筆致で、ぐいぐいと物語世界に引き込まれてしまいました。
後表紙のストーリー解説なんて、全然役に立ちませんでした。それほどストーリーはある意味霊感に満ちていて、突飛とも言えましょうが、破綻していないので全然許せます。
それから、取材しないとこの小説は書けません。その取材力にも脱帽。私もどんなに小さくてもいいから、どこかのマスコミに入れるもんなら入っておけばよかったです。まあ、入れなかったんですけれどね。というか、受けなかったですが。だから、そもそもだめか。。。
小説巧者ってこういう方のことを言うんですねえ。
期待膨らむ新国の「トリスタンとイゾルデ」
うーん、すごいなあ、シュナイダー師。昨日に引き続き「トリスタンとイゾルデ」第二幕を聞いているんですけれど、絶妙なテンポの揺らし方がすばらしくてため息が出てしまう。第二幕の白眉はトリスタンが登場して、二人で歌い続けるところでして、まあ、現実の恋人達はあんなにたくさん歌うことなんてないかもしれないんですがね。意外にも、というか、やっぱりというか、ブランゲーネ役のミシェル・ブリートさんもいいんですよねえ。見張り台に立って、「二人ともいちゃいちゃしないで注意しないとだめよ~」と歌うところ、最高ですね。
「トリスタンとイゾルデ」は、来年1月に新国立劇場の新製作で登場します。指揮は、欧州で大活躍の大野和士さん。イゾルデはもちろんイレーネ・テオリン様! ブランゲーネはなんと、エレナ・ツィトコーワというコンビ。想像しただけでゾクゾクきますね。
エレナ・ツィトコーワの思い出。
ツィトコーワの実演に接したのは4回ですね。
まずは、2003年だったと思うのですが、新国立劇場で「フィガロの結婚」のケルビーノを歌っていたんですが、それはそれはすばらしかった。華奢な体だというのに深みのあるメゾ的ソプラノで、すごく感嘆した覚えがあります。
次が、私の中では人生最良最大演奏のひとつとして数えている新国立劇場2007年の「ばらの騎士」のオクタヴィアン。美人なのに、ショートカットにして、男装すると、それはそれは格好のよいオクタヴィアン。演技も巧い巧い。第三幕の、オクタヴィアン役のソプラノが女装するという不可思議な演技を十全に演じていて、私はもう涙が止まらなかったですよ。
それから、彼女は、昨年2009年の「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」でフリッカを演じました。けれども、フリッカにしてはかわいらしすぎてちょっと拍子抜けしてしまった。フリッカといえば、ギリシャ神話で言うとヘラのような存在で、ヴォータンにしてみれば口うるさい妻といった、ちょっと癖のある役柄なんですが、ツィトコーワは美しすぎたんですねえ。もっと体格のたっぷりとした方だと似合ったのかも。でも、声はすばらしかったです。
期待膨らむ新国の「トリスタンとイゾルデ」
で、来年1月に、ツィトコーワは新国の「トリスタンとイゾルデ」でブランゲーネを歌うのですよ。しかも、テオリン様と競演とは! お二人はどう見ても対照的。きっと、強き女性たるイゾルデと、従順で忠実で、ちょっと気を利かせすぎてしまったブランゲーネという感じで、しっくり来るパフォーマンスになるんじゃないでしょうか。期待は膨らむ膨らむ。
ただ、このオペラは、長いのが欠点。体に十分に音楽をしみこませておかないと、最後まで聞きとおすのはつらいかも。私も2008年の秋に、バレンボイムがベルリン・シュターツオーパーを振った「トリスタンとイゾルデ」をNHKホールで聞きましたが、かなりつらかった記憶があります。風邪引いていましたし、前々日にイタリア旅行から帰ってきたというかなりハードなスケジュールでしたから。
そうこうしているうちに、第二幕の盛り上がりのひとつの頂点、愛の死のテーマに入ってきました。ロバート・ディーン・スミスとイレーネ・テオリンの二重唱炸裂中。
あ、昨日知ったんですが、ロバート・ディーン・スミスって、新国で 「 -ローエングリン- ワルキューレ」に出ているんですね。今度、新国の情報資料室に入り浸ろうかと画策中です。
つれづれなるままにひぐらし──シュナイダー師「トリスタンとイゾルデ」
うーん、昨日無理したらしく、今日はなんだか気が抜けた一日になってしまいましたが、オペラばかり聴いて過ごしていました。ちと散漫な聴き方でしたけれど。
さすがに、毎朝五時半過ぎに起きて、仕事でフルフル働いて、土曜日はジムに行き、で、この暑さと来れば、ちょっと無理した感じかもしれないですねえ。
Twitter風に。。
* 昨日ご紹介した、ハーディングやシュテンメの「トリスタンとイゾルデ」をもう一度聴きなおしたり、NHK-FMで「ドン・カルロ」を聴いたり、最近入手したパヴァロッティの「道化師」を聴いたり、シュナイダー師とテオリン様の「トリスタンとイゾルデ」のDVDをiPodに入れたり。
* オペラ、もっとガツガツ聴かないと、と思います。がんばらんと。
* あとは、古いノートにWindows7を入れたり、なんやかんやと。あっという間の一日でした。
* しかし、Windows7は、軽くていいOSです。
* あ、今読んでいる本、凄いです。読み終わったらブログに書きます。
* 久々に髪の毛切っていただいたら、頭が軽い、軽い。今まで三頭身でしたが、ようやく五頭身ぐらいにはなった気がします。
で、早速テオリン様のイゾルデが凄いことを実感。幸せ。シュナイダーの指揮は本当に素晴らしい。抑制され、羽毛のように快い弦の響きは、おそらくはバイロイトの絶妙な残響とあいまって、恍惚感さえ感じます。
この音源において、シュナイダーが最高に素晴らしいのは、第二幕の最後、メロートを刺し殺したあとのアインザッツですね。いつもここで、えもいわれぬ感覚、魔法にかけられたような気分になります。
ああ、そうこうしているうちに、絶妙なテンポの動かし方にまた感動してしまう。決して大きくテンポを揺らすことは決してないのです。すべてが抑制された微妙なテンポ取りなのです。あまりにテンポを揺らすのは、見え透いた感じであまり感心しなくなってきたんですが、シュナイダー師のテンポの取り方は、自然で上品で高貴ささえ感じます。
今年はバイロイトに登場しないシュナイダー師。たしか今頃、ウィーンで「カプリッチョ」を振っていて、来月はチューリヒで「ばらの騎士」を振るはず。いずれもプリマはフレミング。私は仕事で絶対に行けません。無念。
シュナイダー師のファンクラブってないのかな。嵐みたいに。
あとはシュナイダー師の古い音源を入手したいのだが、あまりないんだよなあ。このDVDが出たのもほとんど奇跡的だと思いますし。