Opera,Richard Strauss

今日は短信で。
禁酒ですが、まだ続いています。ただし、曲がりなりにも給与所得者なので、付き合い的なものはありますので、家での禁酒ということになりました。それでも、私にとっては画期的です。
本日で12日目です。
アルコールの代わりに炭酸水を飲むことにしたのですが、炭酸水はノンカロリーですし、炭酸が胃で膨れますので食事量を減らすこともできます。
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ですが、体重は減りません。おかしな話。
アルコールとれない代わりに、食事量が増えているのかもしれないですね。

今日もエーリヒ・クライバーの《ばらの騎士》第二幕を聴いています。最後のウィナーワルツのところ、今日聴くと、やパリ古風な感じでヴァイオリンがポルタメントを使っているのがわかります。こんなかんじで往時のウィーンフィルは歌ってたのかあ、と納得しました。あるいは、戦後までこういう感じだったのか、と改めて面白さを感じます。
あと2日でやすみです。

NNTT:新国立劇場,Opera

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今日は、新国立劇場地域招聘公演「三文オペラ」を聴いてきました。というより、観てきました、というべきでしょうか。
私が予習していたのはこの盤でしたが、当然CDなので、音楽中心にまとめられていますが、今日は完全版ということで、劇もきちんと観ることが出来ました。
それにしても《三文オペラ》は本当に毒に満ち溢れた作品です。いろいろ考えてしまいました。それもそのはず。以下に述べる通り、それを目指しているのがこの《三文オペラ》なのですから。

ブレヒトと現代のオペラ

今朝、とある雑誌を思い出しました。1998年に事実上廃刊されてしまった音楽之友社の「音楽芸術です。廃刊直前の1998年10月号の特集が『ブレヒト/ヴァイル─現代社会を照射する』でした。
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当時、私はこの雑誌の記事について、自分のウェブサイトに記事を載せた記憶があります。

現代の政治社会的テーマを取り上げる舞台劇

「ブレヒトが今日を照射するもの」という岩渕達治さんの論文が乗っているのですが、その冒頭部分にこのような記載があります。

それはブレヒトの演劇の方向自体が基本的に現代の政治的社会的なテーマを討論する場と考えたことから来るのであろう。ブレヒト/ヴァイルの共同作業も極言すればオペラにそのような機能を持ち込もうとした試みということができる。(中略)現代的な読み込みによるオペラ演出が登場したのは戦後のことであり、そういう新傾向の原点は二〇年代にあったのではないかと思われる。

先だって出版された森岡実穂さんの「オペラハウスから世界を見る」において、劇場が「直接に世界の現実とつながり、実際の事件から思想的な大きな流れまで、さまざまな事象がそこに反映されていく場所」とされているように、オペラは現代を考える場所でもあるのです。その源流が、ブレヒト/ヴァイルにある、ということになります。

ナッハデンケン=熟考

また、ブレヒト演劇におけるナッハデンケンNachdenken=熟考という言葉も、昨今、私が思っているオペラの観方によくフィットします。これは、劇を見た後になって内容を熟考するという意味です。これはブレヒト演劇の特徴で、作品の中に違和感を残して、劇が終わった後も、観客がその内容がきになって仕方がない、という状況にするものです。
たとえば、《三文オペラ》も、あまりにも唐突に女王の恩赦がくだり、終身貴族に列せられ、年金が支払われる、という、突拍子もないハッピーエンドです。それ自体が、ご都合主義的台本への批判になっていて、観客は、なんでこうなるのか、と頭を捻らなければならない、ということになります。
観客を挑発するために、観客の大半が属している社会階級を批判してみたり、余韻を残して考えさせたり、といった仕掛けが、《三文オペラ》にも満ち溢れていて、観客はいちいち引っかかって、幕の後も、何かしら考えずにはいられなくなります。
しかし、これは、今では当たり前となっていることではないでしょうか。《夜叉ケ池》を観ても、《ナブッコ》を観ても、あるいは、《コジ・ファン・トゥッテ》を観ても、《マクベス》を観ても、幕の後何かを考えずに入られません。このウェブログ自体がそうした場でもあるので。
この、劇の後にあれやこれやと考える、という行為の源流もやはりブレヒトのオペラにあったということだと言えそうです。

編集後記

というか、今朝、この「音楽芸術」を本棚から取り出した時に、驚きましたよ。実は後半にびわ湖ホールについての若杉さんのインタビューが載っているのです。シンクロニシティ。
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明日もすこし続けないと。では。

Opera,Richard Strauss

我が家からの眺め。雲が美しい季節になりました。冬の透き通った空もいいですが、雲があったほうが光はよく楽しめますね。
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わけあって、エーリッヒ・クライバーを聴いています。
今日聞いているのは《ばらの騎士》です。

  • 元帥府人:マリア・ライニング
  • オックス男爵:ルートヴィヒ・ウェーバー
  • オクタヴィアン:セーナ・ユリナッチ
  • ファニナル:アルフレッド・ポエル
  • ゾフィー:ヒルデ・グエーデン
  • 指揮:エーリッヒ・クライバー
  • 管弦楽:ウィーンフィル

1954年7月 ウィーン楽友協会大ホール モノラル 
モノラルではありますが、音質は良質です。

エーリッヒ・クライバー

エーリッヒ・クライバーは1890年にウィーンで生まれた生粋のウィーンっ子です。それが故だと思いますが、ウィンナ・ワルツを好んだとか。
20代前半から、クライバーはヘッセン=ダルムシュタット大公国の首都であるダルムシュタットの宮廷劇場の第三指揮者に就任します。ここで下積み時代を送るのですが、初見で《ばらの騎士》の総稽古(ゲネプロと思われる!)やってしまったそうです。25歳の時のことです。
その後、リヒャルト・シュトラウスは、クライバーを「《ばらの騎士》を初見で振った男」と喜んで紹介したそうです。実際には、一晩でスコアを研究して、ゲネプロをやり遂げ賞賛された、という説もあるようですが、快挙であることには変わりないです。
御存知の通り、エーリッヒは、あのカルロス・クライバーのお父上です。

演奏

エーリヒ・クライバーの指揮はシャープで、陰影に富んだものです。テンポの微細なコントロールで旋律の意味を炙りだしてますね。
特に素晴らしいところ、第一幕の最後の元帥夫人のモノローグでの心情表現は絶妙です。心の動きを鮮やかに際立たせるダイナミズムが素晴らしいのです。
第二幕前半のオクタヴィアンとゾフィーのダイアローグも立派。若い二人が盛り上がっていく躍動感がいい感じ。変に重くならず、優雅に盛り上がりますね。
特筆すべきは第二幕最終部のウィナーワルツ。ここまでウィナーワルツらしいウィナーワルツは聴いたことがありません。とにかくゆったりとして、切れがあります。
エーリヒ・クライバーは、好んでヨハン・シュトラウスを演奏したようですし、オペレッタを重要視していた時代もあったようです。そういう文脈から察すると、これが本格的なウィナーワルツということになるのでしょう。

追伸

今日から仕事以外では禁酒します。つまり家のみやめます。この一年毎晩かかさずのんでましたので、それをやめるということ。理由はいろいろ。どうもアルコール処理能力が落ちたようで、翌日辛いので、というのが一番大きな理由です。
さて、どこまで続くか。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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昨日紹介した朝日新聞の長木さんの評ですが、やはり波紋を広げている模様。音楽批評は難しいです。

今回のオペラのリブレットは、作曲の香月さんと演出の岩田さんが作り上げたものです。私がある種の衝撃を受けた「もう沢山でございます」といった部分は原作にはないはずで、そうしたオペラ化にあたっての、原テキストの取り上げ方などは、もっと評価してもいいのかなあ、などと思います。

それから、音楽的要素だけで、同時代をえぐれるのでしょうか。音楽社会学の議論ですかね、これは。私の中期的なテーマです。

あとは、オペラにおける音楽の占める位置についても考えさせられます。オペラは紛れもなく音楽の一ジャンルとされていて、音楽が主役なわけです。ですが、私自身がオペラを観ている時にどこに注意を向けているか反省してみると、どうも劇のほうを向いているようです。

それは、音楽を軽視しているのではなく、音楽に支えられているということではないか、とおもいます。音楽は重要だが、音楽が目立ってはいけない、という禅問答のような状況。

このことは、ペーター・シュナイダーが新国立劇場で振った《ばらの騎士》についてあとから考えた時に気づいたことです。

 

香月さん、29日の公演にもいらしていました。休憩中は、サインに気さくに応じておられました。私もいただけばよかったと少し後悔しています。

それから、カーテンコールにも登場され、警官役の加茂下稔さんに敬礼したり、蟹五郎役の大久保さんの前でカニのポーズをされたり、なんだかひょうきんなお人柄を感じました。

 

今日は夜勤ですので、夜更かし&寝坊です。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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本日の朝日新聞夕刊に長木誠司さんによる《夜叉ケ池》の批評がでていましたね。

結構いろいろ書いてあって、うーん、という感じ。音楽学者の長木さんですので、かなうわけはないのですが……。

どんなことをおっしゃっているか、というと、

  • ドビュッシーかラベルどまりの120年ほど前の仏オペラ風スタイルを、べったり貼りつけた音楽で彩られる。
  • 同時代への深い読みがそこに提示されていない。

といったところがポイントでしょうか。

「同時代的ではない」、という点が一番気になります。同時代という言葉は、アクチュアルという言葉であり、現代的、現実的、という言葉に置き換えることができるでしょう。もう少し引用してみると。

日本の現代オペラが外へ発信していけないのは、旋律が親しみにくいからというような単純な理由ではない。同時代への深い読みがそこに提示されていないからだ。

とあることから、音楽的に現代への「洞察」が必要とあります。

ここでいう同時代性というものが、音楽に向けられているとしたら、私が感じた「あ、これはドビュッシーだ」と、思ったというところなのでしょう。オリジナリティの問題?

ただ、そもそも音楽的な部分で、現代的な洞察というものができるのでしょうか、という疑問があります。

私が音楽的最先端を知らないから、あるいは音楽的側面で「現代への洞察」というものが何なのかを理解できていないからなのかもしれませんが、音楽面で、ある程度公衆へ開かれたものを作るとなると、こうならざるをえない、と思ってしまいます。

もしかすると、ベルク《ヴォツェック》やツィンマーマン《軍人たち》といった(当時の)先端オペラと同程度あるいはそれ以上を長木さんは想定しておられるということでしょうか。私が文脈を読めていないのでしょうけれど。

※※※

さて、一連の記事の中で、このオペラに、震災に関連した現代の状況を読み取ったとかきましたが、それは、演出の仕事だったのかもしれません。音楽とリブレットだけではこの読みは難しいはずで、最後に破壊された釣鐘がその姿を顕にする場面での直感でしたので、画像を伴ったものであるはずです。

もしかすると、私はこのオペラをこう見ていたのかもしれません。

「このオペラは何十年も前に作曲されたもので、それを改めて今日のような演出で観ている。今回の演出は2011年3月以降の日本にとってアクチュアルなものである」

つまり、演出の作品解釈を味わっているだけに過ぎず、音楽は世界初演というより、すでに発表済みの音楽として聞いていただけではなかったか、と。そう考えることが、長木さんの意図なのかもしれない、と思いました。

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今日から2013年も後半です。今年の夏は涼しいですね。猛暑に備えて、安物エアコンを自室に取り付けたのですが、活躍の機会がほとんどありません。せっかく買ったのに。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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昨日は東風が強くて、新国立劇場玄関横の水庭が波立っていました。波面が輝きなんとも美しい風情です。
昨日に引き続き《夜叉ケ池》のことを。
もう一度原作を読んでみて、オペラ化において強調されていたことはなんだろう、と思いました。
生贄のくだり。原作では命は取らないとされていますが、オペラにおいてはその部分が曖昧にされていたような。私の聞き落としかもしれませんが、もしそうだとすると切迫感はオペラにあり、原作の方が逡巡感があります。ですが、その後の百合の自殺との整合性はオペラのほうがしっくりきます。
あとは、自殺の場面です。オペラでは、髪を振りほどき、「もう沢山でございます!」と言って自死しますが、原作では、「もう沢山」、とは言わず、「みなさん、私が死にます」といって、死に至ります。
この場面は、オペラですとますます、世の馬鹿馬鹿しさとか、男性原理への辟易なんでしょうね。もう勝手にしてくれ、みたいなニュアンスが強まります。
思うに「世の中のことは全て間違っている」わけで、清濁併せ呑むぐらいでないと生きていけないのが現代ですが、追い込まれれば衝動的に百合のように「実力行使」を迫られることになるのでしょう。あるいは、舞台上の百合が我々の代わりに「実力行使」をしてくれたというべきでしょうか。百合の死を我々観客は自分のこととして受け止め、劇場空間で死に至り、劇場をでて生まれ変わるということなのでしょうか。
どうにも、最近オペラ演出の解釈において、男性原理批判的な解釈に思い至ることが多くなりました。おそらくは、先日ペーター・コンヴィチュニー演出の《マクベス》を観たり、森岡実穂さんの「オペラハウスから世界を見る」を読んだからかも。

この本、とてもおもしろいのです。またあらためて書きますけれど。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

新国立劇場にて、香月修「夜叉ケ池」を観て参りました。
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あらすじなどは、あえて書きませんがいくつか感想を。

音楽のこと

今回のプロダクションが初演となりますので、音楽的な予習はできず。ですが、予習なしでも当然楽しく感動的な2時間半でした。
オケがなり始めた途端に、フランス的な洗練された響きを感じました。登場人物の一人である百合のライトモティーフとおもわれるオーボエの旋律の美しさ、それから子守唄の美しさは素晴らしいものでした。子守唄は忘れられるものではありません。
今回、どうも中劇場の音響が随分デッドに感じられました。響きがない感じで、和音の響きが劇場内の隅々まで浸透仕切れていないように感じました。中劇場で聴くのは5回目ほどでしたが、こうした気付きを得たのは初めてでした。私が変わってきたのだと思います。あるいは、演奏が影響してそうした気付きにつながったのか。今はまだ整理がつきません。

演出について

今回の演出解釈ですが、気づいた点がいくつかあったので書いておきます。
物語のポイントの一つとなる釣鐘や、晃が来ている上着、舞台の両脇にそびえる木の柱には、荒々しい唐草模様が刻まれています。この模様が、私には縄文土器の模様であったり、アイヌ系の衣装の文様に似ていると思えたのです。
縄文時代から綿々と受け継がれている釣鐘であったり上着であったり、と考えると、竜神との契約は2000年以上前までに遡る事のできる契約であったのか、と思わされました。
それだけ長い間の契約であったにもかかわらず、それを破ってしまった人間は、最後には濁流に飲まれて滅びてしまいます。残されたのは真っ暗の茫漠たる巨大な空間だけでした。
このメタファー、どうにも福島を思い出さずに入られなかったのです。特に、最後の最後で、破壊された釣鐘が闇の中から浮かび上がってくるとき、人間の叡智だったはずの機構が破壊されてしまったという事実を思い出さずにいられません。それがどうにもあの破壊された建屋の映像とオーバーラップしてしまうのです。
地震の原因が何かは知りませんし、自然との契約を破ったこともないはず。あるいは自然との契約などしていないはず。ですが、なにか自然に後ろめたさを感じてしまう。だからこんなことを思いついてしまうんでしょうね。時代が時代ですので、そうした読み方もおそらく許されるでしょう。
本日はこの辺りで。
あ、今日、意外な所で素晴らしい絵を観てしまいました。油断なく目配りしないとなあ。
では。

Opera

METライブ・ビューイングのアンコール上演がこの夏開催されるようです。ワーグナーとヴェルディの作品を中心に8月10日から9月27日までの一ヶ月半です。
ただ、上映されるのは、東銀座の東劇のみです。
http://met-live.blogspot.jp/2013/05/met-2013.html#more
http://www.shochiku.co.jp/met/opera_pdf/ancore2013.pdf
上演スケジュールは以下のとおり。上述のPDFからキャプチャしました。圧巻です。
2013 06 23 19 25 のイメージ
1演目3000円で、長時間ものは4500円から。休みの日に入り浸るといいかも。
個人的には、今年の4月「パルジファル」を観たかったのですが、仕事などでどうしても都合がつかなくて断念しましたので、今回のアンコールを活用しようと思っています。
あとは、「ドン・カルロ」や「トロイアの人々」など、日本では見られない演目をチェックですね。
東劇は会社から遠くないので、夜の演目なら、定時に上がれば間に合います。なんとかやりくりしてなんとかチャレンジしたいものです。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

コジ・ファン・トゥッテ。女はみんなそうしたもの。いや、本当にそうですよ、まったく。
というわけで、昨日に引き続き。コジ・ファン・トゥッテ。
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さて、今日は、男性陣と音楽を。昨日は悪乗りしてすいません。

男声の方々

フェルランドを歌ったパオロ・ファナーレも、グリエルモを歌ったドミニク・ケーニンガーも、イケメンなふたりでした。一幕が終わった途端に私の後ろの方から、「メチャカッコイー」という黄色い歓声が湧き上がりましたね。
パオロ・ファナーレは、甘い声。ともかく軽やかに甘い。特に、第一幕17番のアリア Un’ aura amorosa、素晴らしかったですよ。あれがカンタービレなんですね。
ドミニク・ケーニンガーも背の高いイケメンで、安定した歌声を聞かせてくれました。どちらかといえば、ファナーレより声は私の好みでした。
そうそう、第二幕の冒頭の水浴びのシーンですが、前回2011年は、アドリアン・エラートとグレゴリー・ウォーレンが、水に浸かりきってたんですが、今回はそこまでやらなかったです。でもあの場面は笑うしかないです。「オテロ」も「ヴォツェック」も水を使った好演出でしたが、「コジ」もその仲間ですね。
ドン・アルフォンソを歌ったのはマウリツィオ・ムラーロでした。2006年12月のセヴィリアの理髪師のドン・バジリオで聴いたことがありましたが、今回も当然健在ですよ。ヨーロッパのバス・バリトンの方は、本当につややかで倍音を多く含んだ声を聞かせてくれるんですが、ムラーロもそうした方々の一人。2011年のコジでドン・アルフォンソを歌っていたローマン・トレーケルが叡智的で冷たいドン・アルフォンソだったのですが、ムラーロのドン・アルフォンソは温かみがありました。それは声質の違いにもよるのではないかと思います。

音楽のこと

指揮のイヴ・アベルが作り出す音楽は、全体がひとつのまとまりとしてあらわれてくるように思えるものでした。急激にテンポを変えるといった意表をつくようなことをせず、だからこそ舞台上の物語を邪魔しないものでした。
私はこれと逆の経験を、10年ほど前のウィーンで観た小澤征爾の「フィガロの結婚」で感じたことがありました。小澤先生のことを書くのは不遜かもしれませんが、ケルビーニを歌っていたアンジェリカ・キルヒシュラーガーと全くテンポが合わず、モーツァルトの軽快な世界が重苦しさを帯びてしまったように思えたのです(これを書くのは相当勇気がいります)。
同じ経験は、数年前の新国「フィガロの結婚」でも……。
ですが、イヴ・アベルはそんなことはありませんでした。音楽に違和感を感じない、というのは、それだけ舞台演出とマッチした演奏なのだと思うのです。オペラ巧者の指揮者、例えばペーター・シュナイダーの指揮にはそうした職人技のような力を感じますが、それと同じものだったと思います。
もしかしたら、オペラにおけるオケの演奏は空気のようなものでなければならないのかもしれない、などと思います。気配を感じさせず、時に張り詰め、時に柔らかくなり、その場の「空気」Atomosphereを作るのがいい仕事なんですね。
明日は、演出のことを書く予定。

終わりに

ちなみに、昨日の夕食。落合シェフの豚肉のバルサミコソース。美味。久方ぶりの外食でした。この御店はメニューを限定することでコストをリーズナブルにしています。さすが!
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では、また明日。

2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

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今日は新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」最終日でした。NHKの映像収録があったおかげで、私はA席からS席へ格上げとなり、良い席で楽しむことができました。
今回のキャスト、美男美女ぞろいと聞いていましたが、本当にその通り。
冒頭、ステージにスタッフのかたが立たれて、フィオルディリージのミア・パーションが体調不良だが、頑張ります、というアナウンスが。
私は(古い話で恐縮ですが)、2002年秋の「セビリアの理髪師」のことを思い出しました。あの時は2幕の冒頭でスタッフのかたが壇上でキャスト変更をアナウンスされましたが、今回ももしや?と覚悟しましたが、なんとか出演してくださるということで、一安心です。
今日はNHKの録画も入っていましたし、最終日だったということもあるので、多少の体調不良をおして出演ということになったのだと想像しました。良かったです、本当に。
確かに、第一幕のミア・パーションは、声に張りがありません。ですが、緩急強弱の豊かさと、演技、(そして美貌)を持って、フォローしていましたので、聴いていて大きな違和感を感じる場面は殆ど無かったと記憶しています。さすがに、一番最初の歌い出しや、ロングトーンで苦労しているのはわかりましたけれど。
ですが、第二幕になると、声量も安定してきて、一層素晴らしくなりました。私は、途中からキャメロン・ディアスに見えてきて仕方がなかったです。
ドラベッラのジェニファー・ホロウェイは、背の高い美人。潤いのあるメッゾで、パワーはダントツ。第一幕での怒りの表現と、次第にほだされていく感じを上手く表現していたと思います。
怒りをぶちまける演技を見ていて、あ、これ、フリッカだ、と思いました(このあたりのオーバーアクションの演出が少し違和感あったかもしれないです)。
ショートカットにしていたので、これはズボン役も当然行けるわけで、オクタヴィアンを歌うとカッコイイはず。調べてみるとやっぱりオクタヴィアンを歌っています。
で、かなりこじつけで、ドリュー・バリモアに似ているということで。
デスピーナを歌った天羽さんもかっこよかったです。声量やピッチも外国勢負けないぐらい。最近の新国立劇場は日本勢もどんどん素晴らしくなっています。
天羽さんは、もちろんルーシー・リュー。

肖像権があるので、写真を載せられないですが、イメージは掴んでもらえるかと。
明日は男性陣を。