現代オペラ演出の源流をみた──新国立劇場地域招聘公演《三文オペラ》

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今日は、新国立劇場地域招聘公演「三文オペラ」を聴いてきました。というより、観てきました、というべきでしょうか。
私が予習していたのはこの盤でしたが、当然CDなので、音楽中心にまとめられていますが、今日は完全版ということで、劇もきちんと観ることが出来ました。
それにしても《三文オペラ》は本当に毒に満ち溢れた作品です。いろいろ考えてしまいました。それもそのはず。以下に述べる通り、それを目指しているのがこの《三文オペラ》なのですから。

ブレヒトと現代のオペラ

今朝、とある雑誌を思い出しました。1998年に事実上廃刊されてしまった音楽之友社の「音楽芸術です。廃刊直前の1998年10月号の特集が『ブレヒト/ヴァイル─現代社会を照射する』でした。
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当時、私はこの雑誌の記事について、自分のウェブサイトに記事を載せた記憶があります。

現代の政治社会的テーマを取り上げる舞台劇

「ブレヒトが今日を照射するもの」という岩渕達治さんの論文が乗っているのですが、その冒頭部分にこのような記載があります。

それはブレヒトの演劇の方向自体が基本的に現代の政治的社会的なテーマを討論する場と考えたことから来るのであろう。ブレヒト/ヴァイルの共同作業も極言すればオペラにそのような機能を持ち込もうとした試みということができる。(中略)現代的な読み込みによるオペラ演出が登場したのは戦後のことであり、そういう新傾向の原点は二〇年代にあったのではないかと思われる。

先だって出版された森岡実穂さんの「オペラハウスから世界を見る」において、劇場が「直接に世界の現実とつながり、実際の事件から思想的な大きな流れまで、さまざまな事象がそこに反映されていく場所」とされているように、オペラは現代を考える場所でもあるのです。その源流が、ブレヒト/ヴァイルにある、ということになります。

ナッハデンケン=熟考

また、ブレヒト演劇におけるナッハデンケンNachdenken=熟考という言葉も、昨今、私が思っているオペラの観方によくフィットします。これは、劇を見た後になって内容を熟考するという意味です。これはブレヒト演劇の特徴で、作品の中に違和感を残して、劇が終わった後も、観客がその内容がきになって仕方がない、という状況にするものです。
たとえば、《三文オペラ》も、あまりにも唐突に女王の恩赦がくだり、終身貴族に列せられ、年金が支払われる、という、突拍子もないハッピーエンドです。それ自体が、ご都合主義的台本への批判になっていて、観客は、なんでこうなるのか、と頭を捻らなければならない、ということになります。
観客を挑発するために、観客の大半が属している社会階級を批判してみたり、余韻を残して考えさせたり、といった仕掛けが、《三文オペラ》にも満ち溢れていて、観客はいちいち引っかかって、幕の後も、何かしら考えずにはいられなくなります。
しかし、これは、今では当たり前となっていることではないでしょうか。《夜叉ケ池》を観ても、《ナブッコ》を観ても、あるいは、《コジ・ファン・トゥッテ》を観ても、《マクベス》を観ても、幕の後何かを考えずに入られません。このウェブログ自体がそうした場でもあるので。
この、劇の後にあれやこれやと考える、という行為の源流もやはりブレヒトのオペラにあったということだと言えそうです。

編集後記

というか、今朝、この「音楽芸術」を本棚から取り出した時に、驚きましたよ。実は後半にびわ湖ホールについての若杉さんのインタビューが載っているのです。シンクロニシティ。
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明日もすこし続けないと。では。