Miscellaneous

半年ほど前に、仕事場で講師をやりました。トラブル発生時の心構えのような講習だったのですが、「こういう時はまず最初に腹くくってください!」と言ったシーンを思い出して、はて、そういう自分はどれぐらい腹くくったかな、と思いました。

腹くくって、腹がへこむといいのですが。

あるいは、そろそろ大きく腹をくくってみてもいいのかもね、などともおもいつつ。

今日は、帰宅に際して、大音量でハイティンクが降る《アルプス交響曲》を。

R.シュトラウス:アルプス交響曲
ハイティンク(ベルナルト)
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指揮者も、指揮台に上がる時には腹をくくるのでしょう。ハイティンクも腹をくくっているのでしょうか。

かつて見たテレビ番組で、とある指揮者が、楽屋で「緊張するなあ!」と大声をあげたのが印象に残っています。あんなに自信たっぷりににこやかにやっているのに、あれは演じているのですね、という感じ。

演じるのはどこの世界でも同じです。腹をくくれないと演じることなんてできませんから。

ということは、ずいぶん私も腹をくくっているかも。でも、もっとらくくらないと。

ではグーテナハトです。

Tsuji Kunio

先日の喰違見附の記事の出典を探すために読んでいたこちらの本。ついぞ見つからなかったのですが、ついつい読みふけってしまいました。

写真 1 - 2015-05-24

時刻(とき)のなかの肖像

時刻(とき)のなかの肖像

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辻 邦生
新潮社
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この本を買ったのはおそらくは1992年だと思います。もう23年前になりますか。当時は古書店に行く習慣もありませんでしたので、駅前デパートの書店で新刊として購入しました。当時1500円ですが、今から思えば安いと思います。いまなら2000円以上はするのではないでしょうか。

このなかに「初日影のなかで」というエッセイが収められています。
ここでは、辻邦生が正月になると「どこかに逃げ出す」ということから始まります。正月は、自分一人で自分流に新年を祝うというわけです。

その後、特に日本的な正月が嫌いなわけではない、というふうに続き、幼い頃の正月の美しい思い出や、パリ留学時代の正月の思い出などが綴られます。

正月は静かに明けてくる朝のすがすがしさがよく、初詣は、大勢の参拝客でごった返すようなものではなく、「霜の暁闇の震源な気分」や「太古の清浄感」などとあります。

しかし、ある時期それを棄てた、といいます。その理由は、「戦前の古い生活形態や戦争中のいまわしい記憶が、そこにまつわりついていたから」であり、「古い亡霊までよびだすのでは、なんともやり切れない。だれだって、戦後三十年をムダに暮らしたわけではない。亡霊はもういなくなったと思って古い部屋の鍵をあけたら、またそれのとりこになる、では、戦後が何のためにあったのか、わからなくなる」と書いています。

やはり戦争中を体験した方にはこうした共通意識があるのだなあ、と思いました。今年は戦後70年にあたりますが、1978年がすでに40年近く前となっていて、と思うと、当時は、ついこの間戦争をしていた、という気分だったのだろう、などと想像すると、なにか辻邦生の感覚が理解できるような気がします。

「時代を生きたということ」と、「歴史として知っているだけ」ということのあいだには、決して乗り越えることのできない壁のような大きな断絶があるのでしょう。それを乗り越えようとしても乗り越えられないのでしょうから、乗り越えられないと思えば、壁の向こうにあるだけで、耳をそばだてても、目を凝らしても、ただそこにあるのは、無機質な未知でしかない、ということになるのだと思いました。

一方で、辻邦生は、正月があってくれたほうがいい、と言ってエッセイを締めくくります。自分流に深く正月気分を味わうために、正月から逃げ出すのだ、ということなのだそうです。

初出は1978年1月1日。読売新聞に掲載されたものだそうです。そうした事実もまた味わい深いものがあります。

では、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

紀尾井ホールは、四ツ谷から赤坂方面へ、上智大学横の土手を歩いたところにあります。 辻邦生は赤坂界隈に住んでいたことがあり、その頃の遊び場が、紀尾井坂から外堀をわたる喰違見附界隈だったはずなのですが、出典が見つけていないので、しばらくお待ちを。 都内中央とは思えない風景です。紀尾井坂と同じく木々が育ったなあ、という印象です。 かつて、ここで岩倉具視が襲われたとか。土地にそういう史実が残るのも東京の楽しみですね。     ではおやすみなさい。

Ludwig van Beethoven

最後に追加した項目-275
今日は仕事帰りに紀尾井ホールで、ピンカス・ズーカーマンを聴いてきました。

Mozart Sonatas for Violin & Piano

Mozart Sonatas for Violin & Piano

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Pinchas Zukerman
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ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第一番と第五番「春」、それから奥さんのアマンダ・フォーサイスを加えてのピアノ三重奏曲「大公」の3曲です。

ズーカーマン。音には甘みというよりも鋭さのようなものがあるのですが、そうでありながら水がしたたるような潤いがある音でした。

急に行くことになったので、特にヴァイオリン・ソナタ第一番の予習がいまいちだったんですが、それでもやはりソナタ形式や、ロンド形式だったりしますので、楽曲の構成がよくわかります。だいたいの全体観をつかみながら、ああ、こうくるか、みたいな頭の体操を楽しんだかんじでした。

音楽というのは、演奏するには訓練とか才能とかが必要で、私はどうやらそうした才能にはあまり恵まれていないのではないか、と思うこともしばしばですが、聴くことに関してはずいぶん訓練してきたなあ、と思います。ただ、楽譜の裏付けがないので、そこが永遠の課題です。

それにしても、「春」とか美しいですよね。あれ、下手でもいいから弾いてみたいと思いました。バルトークの教え「下手でもいいから楽器をやれ」(?)を最近忘れているので、そろそろ初めないとなあ、と思いました。

ちなみに、紀尾井ホール界隈ですが、20年ほど前の記憶があって、その頃と比べると、街路樹が鬱蒼と生い茂っていて驚きました。なんだか森のなかに道があるようでした。すごくいい雰囲気です。

最後に追加した項目-264

それでは、みなさまおやすみなさい。

Miscellaneous

  
色づき始めたアジサイ。季節ですね。

とある原稿を脱稿しました。今回は楽しく書けました。

また明日から、《椿姫》とフォーレを再開します。

取り急ぎおやすみなさい。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera


Photo

久々の新国立劇場でした。今回の《椿姫》は新しい演出でした。これまでのオーソッドックスな演出から、時代を意識しながらも新しい要素を取り入れた演出でした。

演出について印象にのこっていることをいくつかかいてみます。

舞台

舞台には、左側の袖から舞台中央に向かって巨大な鏡面の壁となっており、右側の袖から中央に向けて、舞台背景が描かれた壁面が設えられていました。ですので、舞台はV字型になっているような状況です。

鏡がありますので、奥行きがあるようにおもえます。合唱が入ってくる場面だと、実際の人数よりも多く見えますし、照明の反射光がさまざまな模様を壁に投げかけていて、たとえば合唱が歌っているシーンでは、壁に合唱の方々の影がうつりこんで、幻想的な雰囲気を醸し出していたように思います。

第二幕の背景

特に、第二幕では、パラソルが虚空に浮かんでいて、壁の模様は鳥が列になって飛んでいるシーンが描かれていたところは幻想的でした。列に鳴って飛ぶ鳥は、まるで乱視でみたかのように、ダブって見えるような描かれ方がされていて、それがなにか立体感を持つように見えたのもなかなか興味深いものでした。

グランドピアノ、衣装

全ての幕において、茶色い古いグランドピアノが使われていて、あるときはテーブルであり、あるときはヴィオレッタが横たわるベッドだったり、と活躍していました。

衣装はオーソドクスな19世紀風なものでした。女性の衣装はずいぶんと美しく、特に第二幕第二場のフローラの衣装は、レース編みのような細かい花の飾りが美しく、ないかアール・ヌーヴォー風でもあり、アートアンドクラフト的でもあり、という風に思いました。

幕?膜?

それからもっとも効果的だったのは、膜というか幕というか、薄地のカーテンが第一幕の冒頭と、ヴィオレッタ病床の場面で使われていたことです。

特に病床の場面では、ヴィオレッタの横たわるピアノと、アルフレードやジェルモンの間に、天井から垂れ下がる薄地のカーテンがあって、手を触れたり、手を握ろうとしても、その薄地のカーテン越しになってしまうわけです。

すでに、ヴィオレッタとアルフレード達の間にはなにかしらの壁がある、ということを示しているもので、その壁というのが、たとえば、ヴィオレッタの朦朧とした意識が創り出すもの、ということも言えるでしょうし、ヴィオレッタが臨死体験に際して現実と乖離している、ともとれますし、あるいは死を前にしたヴィオレッタの人間性と、世間一般の人間性の壁、というようにもとれるわけで、なかなか興味深い仕掛けだったと思います。

自由の女神

第三幕の最後のシーン、舞台と客席の間には、巨大な円形の穴があいた壁があって、上部だけ劇場の赤いカーテンのような絵が描かれています。第三幕の演技は円形の穴ごしに見えるようになっています。

ヴィオレッタの最期のシーンで、一瞬、病気が回復したかのような錯覚を覚えてから、息を引き取るシーンで、ヴィオレッタは円形の枠を乗り越えて客席側に来て、赤い布地を右手に掲げて立ったまま幕切れ、となります。

このポーズが、私には自由の女神のようにみえて、ああ、ヴィオレッタは死んでやっと自由になったのか、などと思いました。

枠を乗り越えて客席側に来るというのも、なにか死に際して三途の川のような境界をこえた、とも思えますし、あるいは当時の抑圧された状況から、比較的自由になった現代へヴィオレッタが到達した、というふうにもとれ、いわゆる「第四の壁」のようなものを意識させる演出だったように思います。

おわりに

写真なく書くのはなかなか難しいです。ご覧になった方にはわかっていただけるのかもしれませんのであえて書いてみます。

オペラの楽しみのひとつは、現代においては演出家の意図をあれやこれやと想像することにあると思います。これまでもいろいろと妄想しましたが、今回もずいぶんと頭の体操になりました。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

Miscellaneous

  
才能というものは、やはりあって、それは、どうしても超えることのできないものなのでしょう。努力しても超える事は出来ません。

おそらく、人生とは、自分の才能探しなのでしょう。どこに生きる場所を見つけるのか。見つけられる人は確かにいます。ですが、見つけられる人ばかりではない。がゆえに、人生は面白いわけです。

辻邦生は「才能の存在を信じない」と言っています。そこには好きか嫌いかがあるだけだ、といいます。

ですが、好きなものを好きなだけやれるのも、才能があるべき場所に落ち着くことができた状態なのでしょう。

もちろん、そのあと、その才能がどれほど花開くか、というプロセスが次に来るのです。そこで、初めて好きを続ける、ということができます。

反対に、才能があるべきところにあるということほど難しいことはありません。

もっとも、気づかないうちに、才能があるべきところにあることもあるのでしょう。まずは、周りを見回してみることが大事です。

では、グーテナハトです。おやすみなさい。

Book

最近興味を持って読んでいるこれらの本。

ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル: 時代に埋もれた女性作曲家の生涯
ウテ ビュヒター=レーマー
春風社
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ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルという方の伝記二冊です。この方、フェリクス・メンデルスゾーン=バルトルディの姉に当たる方です。みなさまはご存知でいらっしゃいましたか? 私は最近まで存じませんでした。

ファニーは、80年代以降、見直されつつあるようで、日本語の文献はこちらの二冊があり、フェリクス・メンデルスゾーンの伝記の随所にも登場しているようです。

今日、5月14日は、ファニーのご命日です。ファニーは1847年に41歳の若さで亡くなりました。

じつは、このファニーという方は作曲やピアノに秀でた方で、フェリクスがライバル視していたほどだったようです。

メンデルスゾーンがヴィクトリア女王と謁見したときに、女王が選んだメンデルスゾーンのお気に入りの歌曲は、実は、フェリクスの作ではなく、ファニーが作ったものをフェリクスの曲として出版したものだったとか。(ゴーストライター?)

また、フェリクスの業績として知られるマタイ受難曲の復活公演においてもファニーは重要な役割を果たしたそうです。

噂では、グノーの「アヴェ・マリア」もファニーが作ったという説があるらしいです。。

才能ある女性でしたが、因襲に縛られ、家庭を守る良き主婦としての役割を全うすることを一義として、演奏や作曲で活躍したというわけではありませんでした。19世紀前半で、革命後とはいえ、やはりこうしたモラルがまだあった時代なのですね。

ウテ・ビュヒター=レーマーさんの「ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル:時代に埋もれた女性作曲家の生涯」は、女性からの視点で、女性であるがゆえに、音楽家として活躍できなかったファニーの無念さのようなものが実感できる快作でした。まあ、こうした性別に拠る役割というのは、女性が故に、ということもあるでしょうが、男性故に、ということもあるでしょうから、どなたが読まれてもなにか感じることがあります。

山下剛さんの「もう一人のメンデルスゾーン─ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの生涯」は、実にしっかりとした伝記という感じです。編年の記述は実に理性的で、歴史的事実としてのファニーの生涯を俯瞰できる素晴らしい書籍でした。というか、あのグノーが《ファウスト》を書いたのは、ファニーの影響なんですね、なんてことも実に鮮やかに描かれていました。

二冊を読んで、19世紀前半のドイツの空気が少しかいまみえたような気分です。ウィーン会議後の反動のヨーロッパにおいて、失われた理想のようなものを懐かしむようなシーンもあって、なにか胸に迫るものがありました。

楽曲もNMLでいくらか聴けます。あのトリスタン和音を、《トリスタンとイゾルデ》より前に使っていたという話もあり、なかなか興味深いです。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。

Classical

Photo

おそらくはハナミズキの葉。本当に初夏という風情です。

今日もこちら。

フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ集
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あれ、なんじゃこれ?

RED ERATO

私の中では緑色なんですが。。赤いエラートなんて。。レコード屋にあまりいくこともなくなり、レコード芸術も読まないので、知りませんでした。

Green ERATO

EMIのマークが張られているバージョンもあるのですが。

フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ集
デュメイ(オーギュスタン)
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ERATOをウィキペディアで調べると以下の様な状況のようです。

ERATOエラートは1953年に設立。1992年にワーナー傘下になります。2001年に一度休眠状態になったのですが、ワーナーがEMI Classicを2013年に買収し、ヴァージンクラシックと統合されレーベルとして復活したそうです。

ワーナー本家のウェブサイトではこうなってます。

ERATO with Warner

あれ、緑だ。

継続調査しないと。。

ではおやすみなさい。

Fauré, Gabriel Urbain

Photo

はじめに

先日撮った初夏の光に映える広葉樹。残念ですが、木の名前を判定する能力はありません。

とはいえ、むかしからこういう樹の枝が空へと伸びる姿を観るのが大好きでした。そればっかり撮る写真家になれればいいなあ、と思ったのを覚えています。ちょうど13年ほど前のこと。通勤電車の車窓から、河川敷に一本だけの広葉樹の姿をみた時にそう思ったのでした。

そうか。

今日、写真を撮りながら、あれ、写真撮ってる意味がよくわからん、と思っていたのでした。何を撮るべきなのかわからないまま写真撮っても意味ないよね、などと。

鉄道写真、航空写真、人間の写真、風景写真、スナップ写真など、写真のジャンルは数多あるんですが、どうもしっくり来なくて。

風景写真ともなると、なにか手遊びの感覚もあり、時間もない中で撮ることなんてできないわけでして。

まあ、写真を撮るのは本当の「趣味」なのでのんびりやりましょう、という感じにしておきます。

今日の一枚

さて、今日はこちら。フォーレのヴァイオリン・ソナタ第2番です。

Faure:Sonates 1 & 2 Berceuse Romance Andante
G. Faure
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最初に感じるこの晦渋さ。本当に素晴らしいです。なにかヤナーチェクを思い出してしまったのは気のせいでしょうか。しかし、まだ理解が足らず、もう少し聴きたい気分。

今日は樫本大進氏の演奏出来きましたが、次は違う方のヴァイオリンで聴いてみようかと思います。

これは、まだまだ聴き続けないといけないなあ。。

ちなみのこの曲は、1916年から1917年にかけて作曲されています。

ワーグナーはもちろん、マーラーも天に召されています。シュトラウスは、《ナクソス島のアリアドネ》や《影のない女》を作曲しているころです。なんと、ベルクは《ヴォツェック》をこの頃作曲しています。

そうした時代のなかにあっても納得の行く楽曲です。

ウィキペディアの記事にによれば、イザイのために作られた楽曲でもあるようですが、どうもイザイには理解されなかったようです。
(そうなると、イザイのあの「晦渋」なヴァイオリン曲との関連も気になりますが。。)

楽曲としては、ベルギーのエリーザベト王妃に献呈されていますが、この方、スゴイ方なんですね。戦時中にユダヤ人を救ったり、戦後は共産圏を訪問したり、広島にあるイエズス会系の音楽大学であるエリザベト音楽大学の後援者でもあります。

では、みなさまも残り少ないGWの夜をご満喫ください。

おやすみなさい。グーテナハトです。