夏休み3日目──トリコロール
夏休み3日目。もうすぐ半分。早いものです。
各国ともトリコロールを掲げて、パリのテロについての何らかの意思表示をしています。
昨日取り上げたように、Amazonのトップ画面にもフランス国旗の写真が載りました。ルネ・フレミングのフェイスブックのプロフィール写真は三色旗になりました。都庁や東京タワーもトリコロールに染められたようです。シドニーのオペラハウスも三色にライトアップされました。
世界各地でそうした動きがあったようです。
で、やはりあるのがそれに対する否定意見です。中東地域では、軍事作戦による民間人への被害があるのだから、ここでフランス国旗だけを掲げるのはおかしい、という議論。
おっしゃる通りです。
でも、トリコロールはフランス国旗である以上に、フランス革命のシンボルでもあるわけです。
ウィキぺディアによると、1789年にラ=ファイエット(あるいはバイイ)によって発案され、パリ市民軍の旗となったというものなのだそうです。世界史でも習った「自由・平等・博愛」という意味が象徴されている、とされます。それぞれの色がどの理念を示すのかは俗説なんだそうです。
興味深いことに、もともとは、青と赤がパリ市民軍の標章だったものに、ブルボン朝の象徴である白百合からの引用で白を加えたということなのだそうです。
この自由・平等・博愛という何か面映いほどの理念的な言葉が象徴するトリコロールが、ルーマニア、イタリア、チャド、メキシコなどの国旗に継承されているのだそうです。
おそらくは、今の文脈で捉えるのは、二つ、です。
一つはフランス国への連帯を示すためのトリコロール。もう一つは、フランス革命で成し遂げられたとされる普遍価値としてのトリコロール。
後者だとしたら、自由、平等、博愛という言葉を支持するという意味においては、別にパリのテロだけを追悼するものでもないということになるのでは、と思います。
ただ、ですね、こうした西欧の普遍的理念というものは得てして二重の意味を持つものです。その適用範囲というものが、西欧の中にとどまるのか、その外にまで波及するのか、という点。これが、西欧の持つ重層性ではないかと思っています。
これは、まるで一神教の言説と同じなのではないか、と。そのアガペー、つまり神の愛は異教徒には差し伸べられることはありませんから。
そしてなお、その理念は、時間が経つにつれ骨抜きにされ、権力に収斂されていくという問題もあります。
昨日も少し書きましたが、これは普遍価値のせめぎ合いであると同時に、普遍価値の本当の姿が何か、という問題でもあるのだとも思います。
結局のところ、あらゆる理念的なものは、時間とともに自壊していくものではないか、と思うのです。例えば、短期的には、1789年のフランス革命もやはり自壊していきました。1815年からのウィーン体制下での王政復古においては、フランス国旗もトリコールではなく、真っ白なブルボン朝を象徴する旗に戻ったのだそうです。
インターネットも、かつては自由の象徴だった気がしますが、今は様々な制限がかかったり、ウィルスやサイバー攻撃などの舞台になりましたし。
歴史の終わりのようなものを感じるばかり。これからどうなっていくのか。きっとなすすべなく笑い飛ばして見守るしかない、そんな気がします。辻邦生が「嵯峨野明月記」で語っていた境地なのではないか、と思います。
ちなみに、冒頭の写真は、それでもやはりフランスっぽいものを、ということで、雄鶏を載せてみました。
もう、本当に平和になるように願いつつ、事象の裏を見据えようとしつつ、おやすみなさい。
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