Tsuji Kunio

辻邦生全集第20巻を見ていたのですが、非常に興味深い論説を読みました。

丸谷才一氏による「『夏の砦』のことなど」のなかで、須賀敦子さん村上春樹氏と辻文学の関連を指摘し、辻文学が後世の文学にもたらす影響について述べられていたのでした。

辻邦生の訃報に接した丸谷氏は、『夏の砦』を読直し、そこにプルーストの色濃い影響を見いだし、「古風な趣味の同業者たち」は辻邦生の小説に反発を感じていたのでしょうが、支持する読者は多く「ちようど夏目漱石や森鴎外と同じやうにと言ひ添へても、過褒の言と咎められることはないはずである」と述べます。

その後、「先輩筋の私小説作家」から、辻邦生や辻邦生の小説に対する否定的意見を聞いたとき、丸谷才一氏 は、旧制高校の寮で特攻作戦の非人道的正確に疑問を表するスピーチをしたことを語ると、その「先輩筋の私小説作家」は、「「それはすごい」とつぶやいて、もう沈黙してしまつた」のだそうです(このエピソードは、私小説作家からの攻撃、それは「フォニイ論争」に近しいものが背景にあったことを匂わせるもので、それに対して「うちにある燃えさかる火」があることがわかり、その私小説作家は黙してしまったと捉えられますが、本筋とは離れますのでこのあたりで)。

それから、須賀敦子さんが『夏の砦』に影響をうけていて、これは実証できるものではないが、海外で生きる女の研究者という設定は須賀さんの心を捉えたのではないか、あるいは村上春樹氏の『国境の南、太陽の西』や『スプートニクの恋人』においては失踪する女が扱われるが、これは『夏の砦』の女主人公が失踪するということの影響ではないか、ということを指摘し、もちろんこれも実証された物ではなく「事柄は意識化の暗い領域に属する」(481頁)と言うわけです。

確かに、村上春樹氏の小説は女性が失踪することが多く、『騎士団長殺し』も『ねじまき鳥クロニクル』も失踪しているわけで、これが『夏の砦』の影響ではないか、という丸谷氏の推測は、スリリングです。

このあと、文芸評論の話になり、「日本の文芸評論は、作者個人の体験をむやみに重んじる傾向があつて、この春樹さんの場合でも、若年のころ、誰か恋人かそれとも女友達が行方不明になつたことがあるに決つていると漠然と思つてゐるふしがある。誰も言葉にだしては言はないが、なんとなくさう思ひ込んでゐるらしい」(481頁)などと、文芸評論に関する見解が示されていました(これも、先に触れた私小説的云々と関連するように思い、フォニイ論争の対象に丸谷氏がいたこともありつつ、こちらも本筋と離れるのでこのあたりで)

ともかく、須賀敦子さんや村上春樹氏が若い頃『夏の砦』を読んだことが、村上文学に影響しているなどと空想することを楽しみつつつつ、「辻の分業が文学の伝統の一部となり、未来の作家たちを刺戟することは十分にありえるやうな気がする。彼はさういふ作家であつた」と締めくくられるのでした。

実は、最近『スプートニクの恋人』的な、失踪する人間のことを考えていたときに、この丸谷氏の論説を読んで、なるほど、そういえば『夏の砦』は確かに失踪していて、『夏の砦』と同じモティーフであるとも捉えられるな、と思ったわけです。さまざまな文章を渉猟していると、こういう偶然的必然に出会うことは良くあります。

ということで今日はこのあたりで。やはり全集は読めば読むほど宝の山です。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio


辻邦生が、嬉々として書いている文章を見つけました。先日から読んでいる辻邦生全集第18巻のなかに収められた 「幻想の鏡 現実の鏡」というエッセイです。ボルヘスが1979年に訪れた時の随筆です。冒頭、カフカ、トルストイ、シェークスピアとの架空会見を深夜に行っていることが明かされ、それは「黄金の時刻の滴り」の原型を表すものであり、その後のボルヘスとの会見のプロセスは、なにか、架空会見なのか現実の会見なのか、その協会が曖昧であるかのように語られていて、ああ、辻先生、言葉で実にのびのびと「遊んで」おられるなあ、と思ったのです。

架空会見では、カフカやシェークスピアに実際に台詞を語らせるあたりは、エッセイと言うよりは前述の通り「黄金の時刻の滴り」を彷彿とさせる実在の友人の名前(中村真一郎氏、清水徹氏、筒井康隆氏といった面々)の名前を取上げて見たりするのは、辻邦生の文章を数多く読んだ身に取っては、書くことが嬉しくて嬉しくてしょうがないという感じが伸びやかに伝わってきて、読んでいるこちらもなにかワクワクと楽しさを覚えるものでした。

この文章、当然大昔に読んだ記憶もあり、確かに「永遠の書架に立ちて」の収められていました。しかし、おそらくはこの文章を読んだのは、20年以上も昔のはずで、そのときにはこうした「遊び」の感覚はあまり感じなかったなあ、と思います。

さらには、やはり重要な記載があって、以下のようなボルヘスの言葉の引用は、実に本質的なものです。

 たとえば「文学は言葉よりも、言葉の背後に人々が感じるものにあると思うのです」「人間が誠実に夢を見、自分の信ずること、歴史的現実としてではなく、現実性のある夢として信ずることを書けば、立派に書くことができると思います」「重要なのは、言葉ではなく、読者が言葉を通じて感じること、いやしばしば、書かれている言葉にもかかわらず感じることです」

こうしたボルヘスの発言は、現代の構造主義的な言語感にわずらわされている読者に、ある健康な、自然な感受性の目ざめを誘わずにはいまい。詩人・小説家が言語の魔術師であることは当然であるけれども、それが一級の作品に達するには、ボルヘスの言うように「情熱」が必要なのだ。「情熱なしには文学作品を書くことはできない」とも「純然たる言葉の遊びに堕する」とも言っているのである。

『幻想の鏡 現実の鏡』「辻邦生全集第18巻」 新潮社、2005年、347頁

歴史的現実ではなく、現実性のある夢、ということ。歴史的現実とは、科学の対象であり、認識の対象である、時間空間の形式のなかに存在する科学的とされる現実ですが、文学が書くものは、現実そのものではなく、現実性のある=リアリティのある夢=イマージュである、ということ。経験や体験をそのまま書くものではなく、文学的必然性、それはすなわちボルヘスの言を借りるとすれば「情熱」とともにあるものを、リアリティをもって書くことで、読者がイマージュを感じること。そういうことなんだと思います。

最近「フォニイ論争」のことをよく考え、いろいろ調べていますが、歴史的現実の有無をもってその真贋がとわれ、その結果として贋物である、つまり歴史的現実でないとするものが贋物でありがゆえにフォニイ=にせもの、まがいもの、という形で、捉えられたのが「フォニイ論争」だったように思います。ただ、この「フォニイ」という言葉も、対談のなかで、放談に近い形で語られ、それが論争になってしまったと思います。

このあたりはまた別途検討なのですが、少なくとも文学的な「情熱」がなければ「言葉遊び」になってしまい、これこそが正にフォニイなのであって、などなど、考えが拡がっていきます。

このところ辻邦生の文章を読む機会が増えていて、それは小説よりもこうした随筆のほうが一層身にしみます。小説の舞台裏をなにか感じたいという気分が強くなっています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Classical

いや、本当に、ヤラレタ! こんな美しい曲を書くなんて、と思いました。

この、ヤラレタ、と言う言葉、なんというか、悔しくて悔しくて仕方がない、ということです。こんな美しい曲を賛美歌として持てるなんて、国教会がうらやましくて仕方がない、というそういう気分です。至宝です。AppleMusicやYoutubeのリンクを載せますのでもし良ければ是非お聞きください。いまさら取上げるのか、というお叱りは甘んじて受けます。おはずかしい。

この曲、数ヶ月前にOttavaでかかったので、知っていましたが、今日「英国の音楽」というプレイリストを聴いていたところ、あらためて聴いてしまったのですね、この曲を。The Beauty of the earthという曲を。

こちらのアルバムの23曲目に収録されている音源です。

Apple Musicだとこちらです。

作曲はJohn Rutter。ラターあるいはルッターと表記されています。タヴナーと同級。1945年9月24日生れ。射手座。辻邦生と同じ誕生日……。辻邦生のちょうど20歳年下の方です。偶然とは思えないです。

John Rutter.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ラター

いや、この曲、まあポップな感じもあるんですが、歌詞は賛美歌で、トラディショナルに歌われているという。こちらの映像をみて、さらにうらやましくて仕方がない、と思いました。

この転調、ありがちなんですが、少年合唱に歌われると涙腺破壊力極まります。よく、平静を保っていられますね、みなさん。これ、泣くでしょう。。

詩を書いたのはFolliott Sandford Pierpoint。1864年、29歳で書いた賛美歌なんだそうです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Folliott_Sandford_Pierpoint

こちらに訳があります。

http://cockrobin.blog.jp/archives/16102140.html

世界は美しかった。The Beauty of the Earth。そのように訳したいです。

https://en.wikipedia.org/wiki/For_the_Beauty_of_the_Earth

で、日本語で聴いても美しい。。。日本語で歌うと雰囲気が壊れるケースがあるのですが、これは雰囲気壊れない例ですね。。

さきほどから、何度も何度も繰返し聴いています。やれやれ。。これも、昨日書いた「自分の好きな現実」が「大きな力で日々のぼくたちの性価値宇に影響を与え」ていると言うことなんだろうな、と思いました。息継ぎをしながら進むという感じです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

※追伸 この記事のパーマリンクの末尾の番号、勝手に割振られるんですが、19924ですよ……。

Miscellaneous

写真は先日の空。雲の文様があまりにも玄妙に美しく声を上げてしまいました写真となるとなにかその感動が薄れてしまうのはやむなし、です。

やはり週末明けはなかなか大変です。今日もなかなか読み書きできず。

とはいえ、先日も触れたように、なにか「生きる喜び」というものの必要性を考えながら過している感はあります。永遠の反覆の生きると言うことをいかに彩色豊かに染上げることができるのか。

ぼくらがだんだんと年を取ってくると、そういう自分の好きな現実が、一般の現実のなかに確かにあって、それは非常に大きな力で日々のぼくたちの生活に影響を与え、むしろそれを支えているんだということがわかるようになる。

辻邦生「言葉の箱」中公文庫、41ページ

この文章もキーかもしれないなあ、などと思います。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

久々休日でしたが、それでもなお、肉体的に動いた感じもありました。明日に備えないと。

今日は、アバドとクレーメルの「四季」を。

この音源、大昔、小学生の頃にカセットテープを買った記憶がありますを3,000円でした。よく買ってもらえたものです。当時は、「冬」の鮮烈な演奏に衝撃を受けたものです。

四季といえばこの演奏になってしまい、それ以外の演奏はなかなか入ってこないなあ、と言う感じです。なんでも最初が肝心です。

明日からまた頑張ろうと思います。

では、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

最近、記憶の古さに愕然とすることがあります。これもやはり歳を重ねることによる「必然的な状況」なのかなあ、と思いながら過しています。

似たような体験として、時間経過が早くなるというものがあります

が、あれは人と話しているとだいたい三十代前半で発生する事案のようです。自分のそれまでの全人生に対する一年間や一ヶ月の割合の感覚が閾値を超えるらしく、時の経過の早さに愕然とする、というものです。これは反比例グラフと同じなので、そのうちにそうした時間経過が早くなるという感覚はなくなり始めます。まあ経過の早さに慣れてしまうということもあるのでしょう。

この「時間経過が早くなる」に続いて訪れた歳を重ねることによる「必然的な状況」が、この記憶の問題であるように思います。どうも、最近は記憶と現実のリアリティが等価になり始めていて、昔の町の様子と、現在の町の様子が相違していたとしても、どちらもリアリティがあるように思ってしまうわけです。

例えば、20年前に駐車場だった土地に今は立派なビルが建っているのですが、今の私にしてみると、20年前に駐車場だった風景のほうがリアリティがあり、いまこの瞬間に、どちらがリアルか、というと、私にとっては駐車場のほうがリアルなのです。

これは、先に触れた「時間経過が早くなる」という感覚もひとつの要素なのでしょう。20年前も1年前も、時間経過が早いため、その長さにあまり差違を感じないのです。このため、リアリティのひとつの要素と思われるどの程度古い記憶なのか、という感覚が若い頃と変わってきたように思うわけです。

と言うことで、現在の私にとっては、記憶も認識もさほど変らなくなってしまいました。そうすると、記憶のなかを縦横無尽に行き来することで、どこにでも行けてしまうわけです。さらには過去の記憶も未来の予想もリアリティもさほど変らなくなり、過去の記憶から未来の予想のなかまで、縦横無尽に生きることができてしまう気がします。

そんなことを思っているときに、辻邦生全集第18巻のなかに、そうした状況を説明した文章を見つけ驚きました。1974年に書かれた「時間のなかの歴史と小説」という文章にあるものです。

『パリの手記』のなかで、私はある想念を追求めていて、突然、ある日、<私の世界>というイデーにぶつかり、身体が透明に軽くなるような実感を味わう箇所があるが、これは世界の変転のすべてが<私>のなかに包まれ、<私>の内部にあるという感覚の直観だった。おそらく、私はそのとき世界史の興亡を、永遠の場における演戯者の仕草のごときものとして感じていたにちがいない。歴史的意識は、永遠のなかで解消し、そのような形で私は時間の圧迫を超えることができたとも言えよう。

辻邦生「時間のなかの歴史と小説」『辻邦生全集第18巻』、2005、新潮社、398ページ

あの、パリのポン・デ・ザールでの出来事ですね。このポン・デ・ザールの出来事はさまざまな場所で述べられていますが、このブログでかつて取りあげていた箇所からもう一度紹介します。

(本来「パリの手記」から引用するべきですが、今回はこちらで)

ポン・デ・ザールのうえで私が感じたのは、(中略)全てのものが私という人間のうちに包まれている、ということでした。並木も家も走りすぎる自動車も、見も知らぬ群衆も、すべて、私と無関係ではなく、それは私の並木であり、私の家であり、私の群衆でした。

辻邦生「小説家への道」『詩と永遠』岩波書店、1988、249ページ

この経験は、空間的に全てのものが私のなかに包込まれているという感覚ですが、実のところ、空間だけでなく時間をも私が包込んでいる、と言うことなんだと思います。

この時間においても全てを包込んでいるという感覚は、何か、私が感じている記憶と現実のリアリティが等価になりつつあるという感覚と似ていると考えています。つまり、過去の記憶も未来の想像も縦横無尽にどこでも行けるという感覚は、時間を超えてしまったことと同じである、と考えたからです。

ただ、辻邦生の場合は、その境地は、あくまでポジティブなものでした。この「私だけの世界」を書くことで遺さなければならない、という感覚があったようです。私にしてみると、どうもそれは、なにか虚しさを感じるものだと思うのです。

辻邦生の言う「生きる喜び」こそが、この時間を超えた虚しさを、時間を超えた充実と豊饒さへとひっくり返すために必要な鍵なんだろうですが……。ともかく、辻邦生の「ポン・デ・ザールの出来事」を理解するひとつのとっかかりをつかんだような気もしています。もう少し考えないと。

今日はこのあたりで。みなさまもどうかよい週末の夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio


昨日書いたウェル・メイドに引きずられて、辻邦生が書いた「物語」が読みたくなりました。昨年でしたか、再版され、Kindleにもなっている「時の扉」を読もうと思い立ちました。Kindleで読もうかしら、と思いましたが、高校あるいは浪人の頃に読んだ文庫を引っ張り出してきました。この本をどこで買ったのかも覚えていて、少し恐ろしさを感じます。

 

最近読んだ辻邦生の文章で、新聞小説は、短いスパンで山場を創る必要がある、ということを読みましたが、確かに普通の小説とは違い、のっけからいくつもの山のようなものがあり、構成として普通の小説とは違うなあ、と思い、これは「NHK朝の連続テレビ小説」的な山の作り方だ、と思い、なるほど「NHK朝の連続テレビ小説」は新聞小説のメタファであると思われ、であれば似ているのは当り前か、と思った次第です。

これからどうなっていくのかしら、なんてことを思いつつ、この週末に、時間を見つけて読進めようと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss,Tsuji Kunio

現代が暗い絶望的な予感に満された時代であるだけ、私は事柄のもう一つの反面──楽観的な側面を強調したい、と思ったのも、『祝典喜劇ポセイドン仮面祭』に軽やかな気分を加えた理由である。
<よくできた(ウェル・メイド)>ものへの好みが、それなりの危険を持ちながらも、事実性のレヴェルをこえて、感動の秩序をつくろうとする形式意志の一種であることを、とくに戯曲を書きながら、私はよりよく理解していったようにも思う。

辻邦生全集第18巻 401ページ

「ウェル・メイドへの偏愛」というエッセイを読みました。辻邦生全集第18巻に収められた文章です。「ウェルメイド=よくできた」というのは、「ストーリーの見事な作品」であり、「作品に起承転結があざやか」である作品です。「黄金の時刻の滴り」に収められた短篇の一つに、モームをモチーフに書かれた「丘の上の家」という作品がありますが、あのような推理小説張りのストーリーの見事な作品にあたるでしょう。
引用した最初の文章で、「現代が暗い絶望的な予感に満された時代である」に対してあえて、「楽観的な側面を強調」と述べていて、そこにおいて、「ウェル・メイド」なストーリーである「ポセイドン仮面祭」を書いたと見て取れるとおもいます。文学には様々な権能がありますが、こうしたあえて楽観的な側面を強調することで、何かを変えることに繋げるというやり方もあると思うのです。これも戦闘的オプテイミズムの一つであり、文学が現実を超えて現実を動かすために必要不可欠なあり方です。(フォニイ論争とも関連しますが)一般的には「通俗的」と言われ格下に見られることになり、がゆえに、「それなりの危険性を持ちながらも(同401ページ)」と書かれているわけです。

ここで思い出したのが、リヒャルト・シュトラウスのことでした。「エレクトラ」までは先鋭的なオペラを書いていたのが、「ばらの騎士」で、先鋭から離れ、洒脱な人間ドラマを描き始めたわけですが、私はその次のオペラである「ナクソス島のアリアドネ」の第一版に含まれていた「町人貴族Le Bourgeois Gentilhomme」という組曲を思い出します。なにか、こうした18世紀的な小編成オーケストラによる演奏が、なにか時代を逆行しているように見えながらも、あえてそうした洒脱さ、軽妙さを強調することで、逆に時代と戦っていたのではないか、と想像してしまうのです。

私が聴いているのは、ラトルが振ったこちら。なんというか、本当に落込んだ時に聴いてはいけませんが、少し元気になり始めたときにこの音楽を聴くと、心が晴れるかもしれません。明るい日差しの差込む広間でひとりで佇んでいる感じで、おそらく床のニスの甘い匂いがたちこめているはずです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Apple Music,Jazz,Michale Brecker

「6月から」とされていた、AppleMusicのロスレス配信、全く音沙汰がなかったので優先度を下げていたのですが、昨夜思い立ってネットで調べてみると、ちょうど昨日から配信が始ったようです。

iOSはバージョンを14.6以降、MacOSはバージョンを11.4以降、tvOSはバージョンを14.6以降に挙げることで対応できるとのことです。

早速昨夜から聞き比べていますが、先ず気をつけないと行けないのは、優先接続でないとロスレスの音質で聞くことはできません。またハイレゾは別途DAコンバータが必要です。

私はさしあたり、ヘッドフォンで試してみましたが、そもそもヘッドフォンの音を気に入っていたこともあり、ロスレスに上がったことの効果をあまり聴きとれることができませんでした。しかし、AppleTVで、旧来音源とロスレスの聞きくらべをしたところ、さすがにこれは音質があがったね、ということがよく分りました。音の繊細さと拡がりは、やはりロスレス音源はひと味違うものと思いました。

で、悩みとは、この「優先接続でないとロスレス音質を享受できない」ということです。いままでBluetooth接続の利便性をよしとしてきた身に取っては、また優先に戻るのか、という感覚があります。もうしばらくすると新たなテクノロジによりそのあたりも佳くなるのでしょうけれど。そもそも、Appleがこのタイミングでロスレス導入をしたのはドルビー・アトモスを入れる必然性であったり、Spotifyなど競合の動向を踏まえたもののようで、ハードウェアが追付かないまま見切発車をしたという側面もあるようですから。

とはいえ、追加料金なく、ロスレスを楽しめる可能性をコンシューマが得たということは大変ありがたいことです。いろいろ工夫しつつ、テクノロジがさらに追付くの期待しながら、音楽を楽しむことにいたしましょうか。

写真は、マイケル・ブレッカーの初めてのソロアルバムをAppleMusicで表示させたところ。ロスレスのアイコンがついています。
で、聞かないわけにはいかない最後のMy One and Only Loveをひとしきり。この曲は、セッションでもよく吹いています。Bに移行するフレーズはいつもブレッカーのフレーズを使わせてもらっております。さすがに冒頭のソローは真似できないですしやらせてもらえません。ソロからメロディーに移行するところ、ソロからスイングし始める切替えの感覚もたまらないです。またなにげにいいのがメセニーのギター。この頃のメセニーは本当にいいです。メセニーのフレーズも真似して使っております。

まあ聴いていて、確かに音が良くなった気はしますね。。

ということで、今日はこのあたりで。梅雨に入らぬ間に暑い日が始りましたがが、お身体にお気をつけてお過しください。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz,Michale Brecker

大学時代、サクソフォーンのマイケル・ブレッカーのプレイが大好きで仕方がありませんでした。今日、Apple TVでAppleMusicをザッピングしていたところ、マイケル・ブレッカーが1995年にヘルシンキでビッグバンドとともに録音した音源が出てきました。2015年に発売された音源のようです。記録によると2018年に購入したみたいです。

 

実のところ、80年代後半から90年代前半のマイケル・ブレッカーのプレイが一番フィットする感覚があり、初代のブレッカー・ブラザーズが終わり、ソロアルバムを出し始めた頃から、再結成したブレッカー・ブラザーズの終わりあたりが、個人的には聴いていてもっとも心がひかれます。ソ連がなくなり、これからは平和な時代が訪れるのではないか、と感じた90年代前半。インターネットが出始め、これからなにかバラ色のワクワクする時代が来るのではないか、という予感。ヘーゲル的にいよいよ世界史の完成ではないか、という思いがあったころでした。私だけだったかも知れませんし、あるいは、いまから振り返って、そう思っていたと今認識しているだけなのかも知れませんが。

ともかく、やはりこの録音が1995年である、と言うことは私にとっては極めて重要で、もっとも惹かれるマイケル・ブレッカーのインプロヴァイズが聴けるという間隔があります。先鋭的に攻めるインプロヴァイズでは、聞き慣れたフレージングをエキサイティングに繰り出してくる感覚がありますし、バラードナンバーでメロウに歌う感じも実にすばらしいです。何よりサックスの音が実に良くて、太い倍音に彩られた確固とした音は、サックスという楽器は、フレージングよりなにより音質においてアドバンテージを発揮しなければならない、という思いにとらわれます。それは、楽器、マウスピース、リードと、身体的なバランス、それはつまり息の入れ方という訓練によって得られるものに加えて、おそらくは体格であったり気道の太さと行ったサックス奏者の身体的アドバンテージによって得られるものだなあと思うわけです。まあ、悪い音のサックスで、どんなに良いフレーズが吹けたとしても、さまざま難しいんだろうなあ、と思います。良い音のサックスで、フレーズが吹けない場合は、1曲だけ持つ場合はありますから。

ともかく、AppleTVで、昔聴いた音源を振り返ることができるというのはなかなかに在りがたいものだなあ、と思いつつも、余りに古い記憶が勢いよく溢れ出てしまうのが厳しい感覚は在ります。この音源に収められたInvitationもNica’s Dreamも、学生時代にコンボでやったことがあるなあとか、ブレッカーのように吹けずに(当たり前ですが)悩んだり(不遜な悩みですが)という記憶も、世界にワクワクしていた記憶とともに出てきますし。
まあ、音楽を聴くと言うことは、プルースト的に言うと、マドレーヌにおいてなにかしらを想起させるということと同じであり、さまざま折り合いをつける必要があると言うことなんだろうなあ、と思います。

と言うわけで、みなさま良い夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。