Miscellaneous

 

今日も在宅。久々に晴れ間が広がり、どうしても日光が浴びたくなり、夕方少し前に抜け出して10分だけ近所を歩きました。この太陽の光に満ちた初夏の風景は余りに奇跡的で、おそらくは、おなじ太陽高度をであろう7月初旬は暑熱に見舞われ、

こうも気楽に外を歩くことはできないでしょうから。こうした一片の幸福感を、なにか幸せのおはじきを集めて、それらを頼りに活きていくと言うことなんだろうなあ、と、先日読んだ「黄金の時刻の滴り」を読んで思いました。
近所の畑のトウモロコシの背は高くなり、キュウリは黄色い花をつけ、ジャガイモの薄紫色の小さな花は地中に眠るジャガイモののありかを示す導灯のようです。トウモロコシの艶のある細い葉に太陽の光が反射すると、なにか畑が光に波打つように見えます。
明日から夏日となるようです。湿度も上がっていますが、一足早い夏を在宅で味わい、幸せのおはじきをいくつか集めたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio


昨日、家の整理をしていたら、古い新聞切り抜きコピーが出てきました。平成10年(1998年)9月3日の毎日新聞のコラム「余録」の切り抜きでした。そこには、サッカー部員だった辻邦生が、西欧のサッカーチームと日本の作家チームのゴール布陣の相違を「小さな散歩道から」という文章で述べていたと言うものでした。

辻邦生がサッカー部員だったという記憶が残念ながら私はなく、本当にこういった文章があったのか、これは原典に当たるという観点から、この「小さな散歩道から」というエッセイを実際に読みたいと思い、全集目録をあたりましたが、残念ながら全集には収録されていませんでした。
この「小さな散歩道から」とうエッセイは、「群像」の1998年10月号に掲載されたという情報があり、これはどこかの専門の図書館に行かなければならないか、と思っておりました。

で、本当に偶然ですが、昨日所要で母校の図書館に手続きに行くことになっておりまして、手続終了後OPACで「群像」がないか調べてみようか、と思ったところ、あったんですね、「群像」が。それも、戦前の刊行分から書庫にある、というわけです。

OPACに表示された地図を頼りに、書庫に向かうと、「群像」が製本されてずらりと並べられており、くだんの1998年10月号もいとも簡単に探し出して原典に当たることができたというわけです。図書館は本当にありがたいです。

確かに「私が高校生のころサッカー部員としてグラウンドに立ったとき」という記載があり、これは旧制松本高校においてサッカー部に辻邦生が属していたということにあたるのかな、と考えた次第です

この「小さな散歩道から」というエッセイでは、明治期に日本を訪れたケーベルが、東京には散歩道がないことを嘆いた、と言う話から、日本においてはハイデルベルクの哲学の道のような、形而上学的な思索を深める散歩道がそもそもできるのが難しいのではないか、という指摘とともに、散歩といっても単に気楽に日常生活の外に出るという話ではなく、「有名なカントの散歩のように、規則正しさが日常生活の活性化に通じ、そこから比較にならない自由が生まれていることを思うと、自由なり遊びなりの置かれた土台が、そもそも試行や判断の構造とは異なる」と、日本人の自由気ままな散歩では思考は意志的、構成的にはならないだろう、と述べていて、その文脈の中で西欧と日本のサッカーにおける陣立ての違いを例に出していると言うものでした。

私も、最近毎日15分走ることを日課にしていますが、こうした日課を、走る距離やコースだけではなく、決められた時刻に走るという規則性をしっかり守ることで、なにか産まれることがあるのでは、と思っています。

写真は、松本行きのあずさ33号ですが、LEDの周波数とカメラが合わず「松本」という文字はよくわかりません。すいません。新宿駅で東京方面へ向かう中央線を待つ間に撮影しました。おそらくは80年ほど前と同じ鉄路を通って辻邦生と同じく松本に向かうのではと思いつつ、そうか、辻邦生が松本高校に向かったのは、おそらくは新宿駅からだったのでは、と思い、なんだか、シンクロニシティな一日でした。
というわけで、みなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

「黄金の時刻の滴り」を開きました。中条省平さんが、辻邦生の文学表現の白眉として取りあげていた文章を読みたくなったからでした。それにしても単行本は美しい装丁で、タイトルの文字は光が反射して虹色に光ります。

それは、「花々の流れる河」というヴァージニア・ウルフをモティーフにした小説の一節で、花屋の温室に花がその匂いとともに咲き乱れている感覚が絢爛に描かれている部分でした。たしかにその部分は凄いのですが、読み進むに連れて、それ以上に衝撃を受ける部分に行き当たり、どうにも涙が止まらず、以来なにか悲しみに打ちひしがれている気がします。

まず以下の部分。

「本当ね。この夏、私は、あなたと一緒に何度か至福を味わったわ。それは、無意味な人生のなかに懸る虹なのね。すぐ消えるとしても、とにかく美しいことは事実だわ」

「奥さま、私は、虹は消えないと思います」

「消えない?」

「ええ、消えません。それは美しい至福の時として心に生きつづけます」

「無意味のなかに沈み込まないで?」

「沈み込むことはないと思います。この夏奥様と味わったあの歓喜は、いまも胸のなかに生きつづけると思います。どんなに無意味な人生がつづいても、この嬉しさは壊せません。たぶん嬉しさのほうが地球より大きい球になって、地球を包み込むのだと思います。地球が滅びても、喜びの大きな球は滅びないんです」

歓喜が、無意味とされる人生の中にあっても、消えずに残る。それは地球を包み込むものだ、という感覚。これは、実によく分かる感覚で、かつてからどうやら幸福感というものを息継ぎのようにして生きていた感覚もあり、その瞬間瞬間の幸福感があることが重要である、と考えたこともあり、そうだとすると、この「消えない虹」があること自体を頼りに生きている感覚はリアリティのあるものです。

あるいは、この嬉しさが地球を包み込むという感覚も、なにか地球を象徴とする世界全体を、嬉しさという感覚に満たされたと言うものであり、それもあながち間違っていないと信じたいイメージなのだろう、と思います。

さらにこちら。

「ええ、死の淵に引きずりこまれるとき、仕方なく諦めて、中途半端な気持でいるのはいやね。私は、死を前に置き、生きることを完成させて、きっぱり決心して、満足して、そこに飛び込んでゆきたいわ」

「だが、死は不意にくるぜ」

「だから、いつも用意していたいのよ。そのときそのときで死に不意を衝かれないように」

そうでした。あの方は現実という変転する時間の流れのなかで確かなもの、不動のものを求めていました。それが時の変転を超えて現われることは、私たちは、ともにコーンウォールの海岸の朝に深く経験していたのです。あの方はこの不変の美の喜びのなかに生き、それを作品に描こうと努めていたのでした。そしてそれが作品のなかでしか確実にできないことはあの方の悲劇といってよかったかもしれません。生きることは、変転する流れに身を委せることであり、なかなかそれを超えて不変の実在に達することができなかったのです。もし流動する現実の時を、不変堅固な実在とするには、人は、一瞬一瞬死ぬほかないのです。つまり一瞬一瞬、現実を不変の実在へ──喜びに満されたそれ自体で完成した時へ、変容する以外に方法はありません。

 

思い出すのはル・コントの「髪結いの亭主」で、幸福とされる状況で命を絶つ主人公が画かれていて、あの感覚を大学時代にありながらよく分かっていた記憶があり、「先にアイディアをとられた」と、悔しかったのを憶えています。

結局、いかに死ぬかということが重大で、一瞬一瞬を死に、一瞬一瞬において生きるということを求められて折り、生きることは厳然とした義務と権利であり、我々が全うする必要があり、また世界から負ったものであることは間違いのないことで、その中で「嬉しさの虹」を見いだし、息継ぎをするように生きるということに他ならないわけですね。業のように辛いことではありますが。

なんてことを思いながら今日一日過ごしました。

今日の東京地方は曇り。さえない一日でしたが、来週は晴れるようですね。佳き日々になることを願いつつ。

おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Jazz

雨の続く日々。雨は雨で恵みの雨ではありますが、やはり太陽の光が恋しい一日でした。今日はなぜかパット・メセニーを聴いてみたりして。2011年のアルバム「What’s It All About」。

最近のアルバムは全く聴いていませんでしたが、ギター中心のアルバムを聴いてみて、ギタリスト達はこういうギター一本で音楽世界を構築できるという事実に励まされ、あるいは悩まされていたんだろうなあ、と思います。ギタリストではないので、あくまで推測でしかありませんが、まあ、マイケル・ブレッカーがEWIでシンフォニックな世界をひとりで構築しているのを見て、驚嘆と諦観を覚えるのと似ているのでは等と思ったりも。

それにしても、「イパネマの娘」がここまで内省的に描かれてしまうと、そこに物語自体が変容してしまうわけで、ある種の絶対音楽のような感覚すら覚えます。

それにしても音楽を楽器ひとつで構築できるのは、鍵盤楽器か撥弦楽器だけではないか、と思わずにはいられない気分です。これはもうほとんどパイプオルガンと同じぐらいの奔流だったなあ、と。先日触れたブルックナーの逸話を思い出しながらそんなことを考えました。

パット・メセニー、昔は分厚いバンド編成で、すさまじくシンフォニックなサウンドを創りだしていましたが、最近は追いかけていないので、何が起きているのか分かりませんが、なんだか虚無僧のような境地へと到達してしまったのでしょうか。

ということで、週末の東京はやはり雲に包み込まれるようです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Edward William Elgar

最近エルガーを聴いていますが、大曲「ゲロンティアスの夢」をきちんと聴いてないなあ、と思い、そういえばCDがあったはず、とゴソゴソとCD棚を探していたところありました、「ゲロンティアスの夢」。DECCAで買った記憶もありましたが、それはブリテン「戦争レクイエム」で、「ゲロンティアスの夢」はEMIでした。サー・ジョン・バルビローリがハレ交響楽団を1964年に振った古い録音。今はワーナーになっているんですね。

ブルックナーやマーラーほどに聴きこんでいないですが、そうか、この曲、実にドラマティックなオラトリオで、 年老いて死を迎える人物が魂となって天国へ行く課程を描いた作品。

天使の導きと、悪魔の激しい嘲笑と教唆の合唱。悪魔の合唱は歌詞の意味を追わなければ格好の良い合唱なんですが、そこにはやはり何かしらの胡散臭さがつきまとっています。で、歌詞を確認すると、やはりね、、という感じ。巧い話には裏があります。以下の歌詞は、現代社会においてもなにか通用する悪魔のささやきのように思い、少しゾッとします。

地獄の業火の恐れ、
憎しみに満ちた炎、
臆病者の嘆願。
彼の値段を教えてやれ,
聖人だろうが構わない。
抜け目ないセンスで、
賃金のためにあくせく働くだろう、
はは!

オペラ対訳プロジェクトより https://w.atwiki.jp/oper/pages/3304.html#2

繰り返し、かついくつかのバージョンで聴いてみて理解を深めてみる必要があるとともに、詩を作った19世紀の枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンという方もすごい方で、もう少し調べ見ないと行けない、と思った次第です。

さて、また雨の酷い週末になっているようです。最近の雨はこれまでとは違いますのでどうかみなさまお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

引き続き、緩くトーマス・マン「ファウストゥス博士の成立」を読んでいるのですが、本当にたまたま聴いたCDにリヒャルト・シュトラウスの《メタモルフォーゼン》が入っていて、流れた途端に、これはシンクロニシティだなあ、と思いました。

このアルバムは、ヤノヴィッツが歌う「最後の四つの歌」が聴きたくて購入したものですが、メタモルフォーゼンもなかなかの演奏だと思います。

「ファウストゥス博士の成立」は、戦争末期に米国に亡命していたトーマス・マンが、戦況に触れながら「ファウストゥス博士」をどのように執筆したかの回顧録であり、この《メタモルフォーゼン》は、ドイツ敗戦の直前にシュトラウスがミュンヘンやドレスデンが戦火に崩れたのを悲しみながら書かれたとされています。

いや、それはもう、いままで半世紀を超えて親しんできた街が破壊されるのを見るのは耐えがたいですよね、きっと。これが若者ならまだしも、70歳を超えてこれをやられると相当に厳しいはずです。よく気が狂わなかったな、と思います。まあ、トーマス・マンも同じだとは思います。

手元の資料によれば《メタモルフォーゼン》は、ドイツ敗戦直前の1945年3月に着手され、4月12日に完成。ドイツ敗戦は5月ですが、そのときラジオ放送でベートーヴェン《英雄》第二楽章「葬送行進曲」がながれたそうですが、この《メタモルフォーゼン》の最後もコントラバスが「葬送行進曲」のフレーズを弾いて終わりますので、シュトラウスは未来を予言するかのような曲を書いたと言うことになります。第二次世界大戦のことは、もうしばらくすると記憶が喪われると思われ、名実ともに「歴史」になっていくわけですが、そういう辛さや悲しさは、過去の記録だけではなく、こういった音楽の中にも遺されていくのだろうなあ、と思います。

シュトラウスはゲーテを読んでこの曲の着想に至ったということも手元の資料においては触れられており、これも、なにかトーマス・マンとの親近感を覚えます。「ファウストゥス博士の成立」においては、「ワイマールのロッテ」からの引用がゲーテその人の文章としてニュルンベルク裁判で使われたという逸話がマンによって面白おかしく取り上げられていましたし(「新潮世界文学35 トーマス・マンⅢ『ファウストゥス博士の成立』639ページ)。

「手元の資料」は「作曲家別名曲解説ライブラリー⑨R.シュトラウス」で、四半世紀前に渋谷のタワーレコードで買ったものです。当時、音楽評論家になりたい!と思っていた記憶がよみがえりました。楽理科をうけてみようか、とネットを調べたりしたなあ、と。

それにしても、リヒャルト・シュトラウス、あらためて大好き、と思いました。このウェブログのカテゴリ別の記事数をみると、2021/06/02時点で、ワーグナーが170本、リヒャルト・シュトラウスが161本になっていました。まあ、ワーグナーはさておき、シュトラウスへの愛情はこのあたりの記事数にも表れているのではと思います。魅力は語り尽くせないですが、一言で表せ、と言われれば「洒脱」ですかね……。

それではみなさま、おやすみなさい。

Edward William Elgar

なかなか昼間は落ち着いて音楽を聴けませんが、夜になってようやく時間ができました。AppleMusicでエルガーのプレイリストを見つけてざっと聴いていますが、いやあ、なんだかいいですね、エルガー。これまでも聴いてなかったわけではありませんが、この一ヶ月ほどで急に私の中で存在感を増しつつあります。AppleMusicのプレイリストの注記には「イギリス版ブラームス」と書かれていて、もし、それが妥当な表現だとすれば、昨年の秋からブラームスに助けられてきた身に取っては、エルガーにたどり着いたのは必然だったのでしょう。

しかし、うかつにもヴァイオリン協奏曲は初めて聴いたかもしれないですね。チェロ協奏曲はあまりに有名ですが。ラトルがナイジェル・ケネディと演奏したヴァイリン協奏曲の静謐な美しさと激しい情感の間を揺れ動く波は半端ないです。
どうもエルガーを聴くと、イギリス的でもありながら、北欧の風景を思い出します。大昔に行ったベルゲンや、フィヨルドの中を船で通った時の記憶がなぜかよみがえります。まあ、スカンジナビアのバイキングが作った王朝もありましたからね。英語もたくさんの言葉が混ざってできていますし。

そうそう、期待のAppleMusicの音質向上ですが、日本時間の2021/06/01の21:18現在においては、まだドルビーアトモスもロスレスオーディオも来ていないようです。以下リンク先に「まもなく登場」と記載されていることもあり、もう少し待たないと行けないようですね。6月1日といっても、多義的ですから。

https://www.apple.com/jp/apple-music/

ということで、もう一晩眠りAppleMusicのレベルアップを待ちましょう。
おやすみなさい。グーテナハトです。