Richard Strauss

Strauss

「ばらの騎士」にはいろいろな美しい動機が含まれているのですが、とても印象的なこの動機は何を表わしているのでしょう?
Rosen_1

この動機は、序奏部にも登場しますが、目立ったところでは、冒頭部分、オクタヴィアンがマルシャリンとの幸福な関係を歌いあげるところ、以下の歌詞と共に登場します。

Selig bin ich, dass ich der Einzige bin, der weiss, wie du bist !
(あなたがどんなに素晴らしいのかを知っているのが)僕一人だと言うことはとても嬉しいのです。

ここではオクタヴィアンが自分のことを歌うときにこの動機が使われています。

それから、第一幕の終わりでオックス男爵達を追い払う場面で、以下の歌詞をつけて荘重に歌われます。

Doch sei Er sicher: den Grafen Octavian bitt’ ich Ihm auf,
でもご心配には及びません。オクタヴィアン伯爵によく頼んでおきましょう

ということで、このモティーフはオクタヴィアンの動機ではないか、とにらんでいるのですが、いかがでしょうか。

さしあたり思いつくのはこの二箇所での使用です。他にも見つかれば良いのですけれど。

Richard Strauss

Strauss
前回に続き、チューリッヒ歌劇場の「ばらの騎士」です。
演出のことについて書いてみたいと思います。
僕は3階Lの1列1番という席でしたので、舞台の左側は全く見えませんでした。
ともあれ、モダンで無国籍な演出だったと思います。
第一幕と第三幕は大まかなセットは同じで、舞台の奥が大きなガラス窓とガラスドアになっています。壁には鳥の飾り物が幾つも掛かっています。衣装は本当に無国籍な雰囲気で、マルシャリンとオクタヴィアンの寝間着姿は普通の欧州風、オクタヴィアンが女装をすると、ターバンを巻いていてインド風。召使い達も白い服にターバンでインド風。イタリア人歌手は箱の中から登場するのですが、中国風の衣装をつけていて、機械仕掛けの人形歌手のようなイメージ。ホフマン物語のオランピアみたいでした。
第二幕はファニナル家なのですが、なぜか地下の厨房が舞台になっている。ファニナルはオーナーシェフのような高い料理帽被っている。ゾフィーはシュニッツェルを作っているのですよ! ポークステーキに丁度よさげな本物の肉を、肉たたきで叩いて、小麦粉と卵黄をくぐらせて、パン粉を付けている。本物ですよ、あれは。舞台の左側の調理台では、青緑の粘土のようなものを切り刻んでミンチにしている。おそらくはジャガイモのミンチからクヌーデルを作っているところと見ました。
第三幕は第一幕と同じセットなのですが、中央にテントが張られている。その中が特別室という感じですね。オックス男爵とオクタヴィアン(マリアデルに扮装しているのですが)が食事をしているのですが、骸骨人間が出てきて、オックス男爵を脅かしている感じ。特別室に出入りするウェイター達は虫をモティーフにした変装をしています。第三幕はしっくり来る演出でした。

Richard Strauss

Strauss
見て参りましたですよ、「ばらの騎士」@オーチャードホール。
いやあ、凄かったですね。

指揮 フランツ・ウェルザー=メスト
演出 スヴェン=エリック・ベヒトルフ
管弦楽 チューリッヒ歌劇場管弦楽団
マルシャリン ニーナ・シュテンメ
オックス男爵 アレフレッド・ムフ
オクタヴィアン ヴェッセリーナ・カサロヴァ
ファーニナル ロルフ・ハウンシュタイン
ゾフィー マリン・ハルテリウス
イタリア人歌手 ピョートル・ベチャーラ

まず、オケが強力に聞こえました。僕らは三回の一番舞台よりのところに座っていたので、オケピットのすぐ上だったこともあって、オケの音がとてもよく聞こえたというのもあるかもしれませんが、とにかく凄いダイナミックレンジでした。特に第三幕の三重唱の部分、凄かったですね。オックス男爵のワルツ、ウェルザー=メストさんはかなりスピードを落として演奏していました。失速寸前だが、全く失速することはなく、それでいてきちんとノリを維持していて、洒脱な感じを表現していましたね。

歌手の皆さんの中で一番印象的だったのはゾフィー役のマリン・ハルテリウスさんですね。音程はもちろん安定しているし声量も問題ない。高音域はクリスタルグラスを鳴らしたような目の覚める美しさ。バラの献呈の二重唱のところでまずは滂沱。第三幕、マルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーが三人になって難しい場面になるところの歌い方も素晴らしい。

マルシャリンのニーナ・シュテンメさんも、第一幕の歌い出しのところでもうグっと来てしまう。凄いなあ。オクタヴィアンのヴェッサリーナ・カサロヴァはメゾ・ソプラノなのですが、ある意味男らしさを持って歌っていらしたように思います。

それにしても、女装するオクタヴィアンというのは不思議ですね。女性歌手が男性役をやり、その男性役が女性として振る舞う、とは本当に面白い仕掛けを考えたものだと思いますし、オクタヴィアンの歌い手さんはその滑稽ともいえる演技を完璧にこなしていらっしゃる方が多いですね。

それから、サブタイトルの訳の仕方が面白かったです。第三幕でオックスをはめた部分、歌詞だとfalschだったのですが、それをジョークと訳したりしてましたね。

「ばらの騎士」は、これで公演を三回、DVDを一回、CDを二枚で体験したことになります。

  1. カラヤン盤CD(新)
  2. 二期会公演
  3. クライバー盤DVD
  4. カラヤン盤CD(旧)
  5. 新国立劇場
  6. チューリッヒ歌劇場

どれが一番、とかはないのですが、涙を流した量が一番多かったのは5.の新国立劇場でした。

次の「ばらの騎士」は11月23日のドレスデン国立歌劇場公演です。こちらも愉しみ。

明日も、この公演については少し書いてみたいと思います。

Opera

Strauss
今日もばらの騎士の予習。通勤時間はカラヤン盤を、夕食時にはクライバーのDVDを見ました。クライバーのDVDでは、オックス男爵をクルト・モルさんが歌っておられるのですが、声も良いですし、演技も巧いですし言うことがないですね。昔雑誌で読んだところに寄れば、モルさんがケルン出身と言うことで、オーストリアなまりを巧く表現できないことが玉に瑕だ、みたいな意見があったそうなのです。そこまで聞き分けられないのは残念です。今日は第一幕の途中までしか見ることが出来ませんでしたが、明日も時間があれば続きを見たいと思います。先日の新国立劇場の「ばらの騎士」があまりにも素晴らしかったので、逆にチューリッヒの舞台を見るのが怖い気もしてきています。良いレポートが書けるように、頑張ってみてきます。

Opera

今日になって、少し涼やかになってきました。8月も終わりですが、すっかり夏の風情です。蝉の鳴き声も明らかに変わってきたし、日が落ちるのも早い。そして帳の降りた後は虫の声が響いている。秋ですね。アンニュイな秋。清冽ですが、憂鬱な秋。
でも、今週末はいよいよ「ばらの騎士」ですからね。指揮のウェルザー=メストさんは、2010年から小澤征爾さんのあとをついでウィーンの音楽監督に。昔読んだ雑誌の記事では、ウェルザー=メストさんが始めてウィーンで振ったとき、あまりの緊張に熱を出してしまったのだ、というエピソードがあったのを記憶しています。僕はウェルザー=メストさんの指揮を聞いたことがないので、どのような指揮をされる方なのかとても楽しみです。
最近は、少々音楽を聴く時間がない感じ。それでも、ばらの騎士を聞くと本当に落ち着きますね。辛いときには、あの新国立劇場で感じた感動を思い出すようにしています。今回はどうでしょうか?


iPodの新型が登場するようですね。こちらの記事などでしきりに示唆されています。容量120GBにならないかなあ。そうすれば即予約しようと思っています。もう15GBでは限界ですよ。マーラー全集に、プッチーニのほとんどのオペラ、シュトラウスのオペラと管弦楽、その他バロックから現代までのクラシック、マイケル・ブレッカー参加のアルバム群、これぐらいしかはいらないです。120GBなら全部入れられそう。もうプレイリストを作ってiPodに転送するのに疲れたので……。

Richard Strauss

R.シュトラウス:ばらの騎士 R.シュトラウス:ばらの騎士
(1997/04/09)
トモワ=シントウ(アンナ)、ウィーン国立歌劇場合唱団 他

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いよいよ、今週末の日曜日、チューリヒ歌劇場のばらの騎士を観に行きます。指揮はウェルザー=メストさん。場所はオーチャードホール、14時開演です。

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ですので、今日からばらの騎士をよく聴き込んで、体調を整えて、当日に備えたいと思います。

ついでと言っては何ですが、9月2日から文化村で「ヴェネツィア絵画のきらめき」が開催されます。こちらも合わせて観に行くことにしました。カナレットやティツィアーノやヴェロネーゼが見られるというのですから、行かないわけにはいきません。ルネサンス中盤から後期にかけてのヴェネツィアの爛熟した文化の薫香にあたることができそうです。

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Miscellaneous

シュトラウス・ヒロイン シュトラウス・ヒロイン
(2006/05/24)
フレミング(ルネ)、グラハム(スーザン) 他

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それで、結局今日もこのCDを聴いてしまいました。「ばらの騎士」と「アラベラ」の部分。フレミングさんの声は、威厳に満ちていて、それでいて暖かみのある声だと思います。「ばらの騎士」のマルシャリンの役ははまり役ですね。第三幕の終幕の三重唱のところ、良いですね。元気が出てきます。

それにしても、三重唱を聴くと、今年聴いた新国立劇場の「ばらの騎士」の感動がよみがえってきます。ジャコミーニさんの「蝶々夫人」も感涙でしたが、「ばらの騎士」も感涙だったなあ。

それで、気づいたら、来週の日曜日、チューリッヒ歌劇場日本公演の「ばらの騎士」を観に行くことになっているのでした。どんな感動が待っているのだろう。明日ぐらいから予習を始めましょう。


7時ぐらいに起床でしょうか。所用をすませるために、都心にでて、帰ってきたのが19時半ぐらい。仕事もやったので少々疲れましたが、気分転換をしてなんとかよくなりました。今日の東京はとても涼しかったですね。もう夏も終わりという感じ。暑いのは苦手なのですが、それでも少し寂しさを感じます。

Richard Strauss

Richard Strauss: Four Last Songs; Brentano-Lieder; Orchesterlieder Richard Strauss: Four Last Songs; Brentano-Lieder; Orchesterlieder
(1994/09/06)
Richard Strauss、 他

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今日は、ルチア・ポップさんの最後の四つの歌を聴いています。ポップさん、本当に美しい声です。高く鋭く孤高な美しさ。アンナプルナ、っていう山のことをなぜか思い出しました。鋭角な峰は誰をも寄せ付けない孤高の美しさに漲っているわけですが、そんな山を麓から眺めている気分。手に届くこと決してない美的形象。本当に何もかも捨てても良いぐらいに美しい。
ポップさんといえば、僕の中ではサヴァリッシュ盤の「インテルメッツォ」で華麗に、陽気に歌っている方だったのですが、最後の四つの歌を聴いて印象が少し変わりました。華麗で陽気なだけではなく、静謐で深みのある歌い手さんでもあるのでした。


ようやくと気分も晴れ始めました。今朝の驟雨は凄い勢いでしたが、お昼にはすっかりやんで、太陽の光が地面に照りつけている。そんな中いつもの森に入ったのですが、降雨後ということもあって、本当に涼やか。セミがあたりを激しく飛び交う中(本当に激しいんですよ。何度となくぶつかりそうになりましたから)、30分弱ぐらい歩くことが出来ました。

昼休みは、今週から日課になった、哲学史の本を読んで、大学時代の記憶を少しずつ取り戻す試みに。今日はプラトンを読んで、アリストテレスに入ったところ。トマス・アクィナスの存在論で躓いたので、古代に戻ったのです。アリストテレスの認識論とトマスの認識論の相似に少しびっくり。

明日はまた暑くなるようですね。残暑厳しい折、と言う感じです。

Richard Strauss

シュトラウス・ヒロイン シュトラウス・ヒロイン
(2006/05/24)
フレミング(ルネ)、グラハム(スーザン) 他

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フレミング/シュトラウス・ヒロイン というアルバムを聴いています。フレミングさんが歌うシュトラウスの初体験は、BSで放映された「カプリッチョ」ですが、歌も演技も最高でした。それで、フレミングさんに目覚めたわけです。このCDには、「ばらの騎士」、「アラベラ」、「カプリッチョ」の聴き所が収められています。

とりあえず、大好きな「カプリッチョ」を聴いてみました。指揮はエッシェンバッハさんなのですが、いつも聴いているベーム盤やサヴァリッシュ盤より相当遅いテンポ。月光の音楽はたっぷりと、水がゆったりと溢れていくような感じです。月光の音楽以降を聴いただけで、もうお腹一杯ですね。ばらの騎士の終幕のところもいいですね。フレミングさんの声は、芯のしっかりした力強い声です。


今日は暑かったですが、お昼休みに森の散歩を愉しみました。さすがに暑いので、いつもの半分程度で切り上げましたが。

それにしてもセミの鳴き声がだんだん秋日が付いてきた気がします。ミンミンゼミやツクツクボウシの声が聞こえ始めると、もう夏は終わりと言った風情。気温は暑いですが、大気は既に秋を内包している。その気配が見え始めると、途端に落ち込むことが多いのです。うら寂しい秋が訪れるわけですからね。15年ほど前は秋ほど好きな季節はなかったのですが、ある時から、秋が苦手になった気分。涼しくなるのは良いのですが、日も短くなるし、葉が色づき、散り始めるのをみると、本当に哀しくなりますね。今年の秋を無事に乗り切ることが出来るでしょうか??

Book

西洋古代・中世哲学史 (平凡社ライブラリー) 西洋古代・中世哲学史 (平凡社ライブラリー)
クラウス リーゼンフーバー (2000/08)
平凡社

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うーん、なぜだかよく分りませんが、リーゼンフーバー師の「西洋古代中世哲学史」を手に取ってしまいました。実は、この本、大学一年生の時の教科書だったので、試験前とかかなり読み込んだ記憶がありますが、改めて読んでみると全く覚えていない。悲しいぐらいに。

それでも、昔授業でやったトマス・アクィナスの哲学大系、意外とおもしろかったなあ、と思って、トマス・アクィナスの項目をおもむろに開いて読んでみました。

内容はさっぱり覚えていないか、当時から理解できていなかったのか、のどちらか。ともかく、トマスの認識論から存在論にかけての項を読んでみます。前提知識として、プラトンとかアリストテレスの哲学大系を知っておかないと行けないわけですが、そうした知識も今は全くなくなってしまったので、何度か読んで議論についていくのがやっと。なんだか懐かしくて若返った気分。こういうのは継続が大事だから、毎日少しは哲学の本を読むことにしよう、と強く決意したのでした。


それにしても、どうしてこうも人間界は複雑で悪意に満ちた世界なのでしょうか。もちろん、善意に満ちた領域もあるのですがその領域は日に日に小さくなっている気がする。もっとも、善意に満ちたと思える領域も、裏では泥沼化した権力闘争が繰り広げられていますし。

競争経済が悪いとは言いませんが、何事もバランスが大事で、拝金主義になってもいけないし、とはいても家計を維持しないと生きられない。どこに出口があるのでしょうか?

久々に哲学の本を読んで、そこに繰り広げられる真善美や理想世界や存在者を求めようとする意志を感じ取るにつけて、哲学と現実との乖離を改めて感じて、独りで哀しむのでした。