Opera

ロッシーニ:セビリャの理髪師 ロッシーニ:セビリャの理髪師
アンブロジアン・オペラ・コーラス、アンプロジアン・オペラ・コーラス 他 (1998/05/13)
ユニバーサルクラシック

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久々に新国立劇場に出かけてセヴィリアの理髪師を観てきました。

フィガロのラッセル・ブラウンはすばらしい。よく通る渋い声色を使って、うまくフィガロを歌っていたと思います。個人的にはバルトロのマウリツィオ・ムラーロも良かったと思います。彼の声は日本人には出せないヨーロッパの声を観ることができました。ヨーロッパの声というのは、貌の骨格からくるのか、あるいはその体躯からくるのか分かりませんが、豊かな倍音を含んだ渋い怖いなのです。日本人のバスの方々にその声色を見いだすのはとても難しいです。ですが、ドン・バジリオを歌われていた妻屋秀和さんの声色は、ヨーロッパの声に近いものを感じました。体格は声色に本当によく比例するようです。

演出は1960年代スペインを舞台にしたドタバタハチャメチャ喜劇に仕上げられていました。好き嫌いはあるかもしれませんが、大胆かつ愉快な解釈は嫌いではないので楽しめました。

そうそう、ロジーナのダニエラ・バルチェッローナも良かったですよ。彼女も体格的にがっしりしているので、含まれる倍音の豊穣さは聴いていて安心できましたし心地よかったです。

第一幕と第二幕の最後の合唱部分、指揮者と歌手のコミュニケーションがとれておらず、冷や汗をかきました。あとトランペットのピッチが…、厳しかったです。まあ、初日なのでそういうこともあるのだろうな、ということで、とても勉強になった演奏でした。

基本情報
名称(和) セヴィリアの理髪師
名称(欧) Il Barbiere di Siviglia
作曲者 ジョアキーノ・ロッシーニ
幕形式 全二幕
台本 チェーザレ・ステルビーニ
初演 1816年ローマ

配役情報
配役 氏名
指揮 ミケーレ・カルッリ
アルマヴィーヴァ伯爵 ローレンス・ブラウンリー
ロジーナ ダニエラ・バルチェッローナ
バルトロ マウリツィオ・ムラーロ
フィガロ ラッセル・ブラウン
ドン・バジリオ 妻屋秀和

Classical

ブラームス:交響曲第1番&第2番&第3番 ブラームス:交響曲第1番&第2番&第3番
北ドイツ放送交響楽団 (1997/09/26)
BMG JAPAN

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昨日に引き続きブラームスの交響曲第1番をヴァントと北ドイツ放送交響楽団のコンビで聴いてみました。
のっけからテンポの速さに驚かされます。そして、誰かが扉を叩いているような切迫したティンパニーの連打にまずは打ちのめされます。テンポのコントロールが自在に行われ、ダイナミックレンジも広いです。雄々しいブラームスです。甘えや弱音を挟み込む余地は全くありません。もちろん時折優しい貌を覗かせることもあるのですが、雄々しい雄叫びを感じることの方が多いのです。悲痛なまでに魂の深いところにある情念を汲み上げ続ける意志力と集中力。最終楽章の最終小節に至るまで一分の隙も見せない集中力の持続。これもまたドイツ的(あるいは北ドイツ的)強靱な意志力の表出なのだと感じ入り、かつ畏れを抱くのでした。

Tsuji Kunio


From For Blog


1992年、百の短篇とよばれる「ある生涯の七つの場所」の文庫版第一巻「霧の聖マリ」が発売された。僕がこの短篇を手に取ったのは、辻邦生さんが済んでいた高輪のそば、品川プリンスホテル内の書店だった。大学受験で上京した宿泊先が品川プリンスホテルだったのである。「霧の聖マリ」の最後に辻邦生さんの文庫版あとがきが入っていて、その最後に「一九九一年師走 東京高輪にて」とあった。品川プリンスホテルの裏はすぐ高輪であることを知っていた若い僕は、ニアミス、あるいはシンクロニシティの神秘に心をふるわせたのだった。
一年間の浪人が決まり、いよいよ勉学に励まなければならない状態にあった。家族は僕のことを無視し続けていたが、何とか予備校に通って、勉強にいそしんでいたつもりだった。
そんな中でも読書だけは忘れなかった。「ある生涯の七つの場所」は1992年一年間をかけて二ヶ月おきにゆっくりと文庫版が刊行されていた。僕は隔月刊行の文庫を待ち続け、予備校近くの書店で発売日には早速と買い求め、通学電車の中で時を忘れて読み続けたのだった。百の短篇が織りなす時代のタペストリーの全体像を思い描くには、それなりの準備が必要だと思うのだが、百の短篇一つ一つに織り込まれた人間の情念や美への揺るぎない信念を感じるには、短篇一つを読むだけで十二分に味わうことができた。
一つの短篇を読み終わるたびに訪れる、まるで大理石を削りだして生まれた彫刻をみるような甘美な気分や、人間の情感がもたらす不思議な物語に触れた時に訪れる人知を越えたものへの憧憬を、ゆっくりと楽しんだのを覚えている。
僕の辻邦生作品へのひとかたならぬ思いを形成し、読書の楽しみを教えてくれたのは、浪人中に読んだ百の短篇なのである。

Tsuji Kunio

From For Blog

夏の海の色 夏の海の色
辻 邦生 (1992/04)
中央公論社

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<泉:黄色い場所からの挿話 VIII>

ある生涯の七つの場所について、少しずつ書いていこうと思います。本当は最初から書き始めるのがよいのでしょうが、僕の好きな「夏の海の色」から始めてみようと思います。

この掌編では水の描写を楽しむことができます。たとえばこんな冒頭部分など。

泉は村の広場の真ん中にあって、石に彫られた獅子の口から勢よく迸る水はきらきら光る弧を描きながら、浅い水盤の上に落ちていた。水盤を溢れた水は、もう一段下の水槽に、薄い簾状の滝になって、音をたてながら流れていた

辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、11頁

水盤を溢れて、簾状に落ちてゆく水は、水と言うより、硬質の滑らかなガラスのような感じで、とくに水盤の縁をまるく、しなやかに越えていく透明な脹らみは美しかった。

辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、13頁

ただ感嘆のみ…。

エマニュエルと「私」のことは、これからどうなるかを知っているだけに、複雑な気分。エマニュエルは本当に強い女性だと思います。そして、エマニュエルを産み出した辻邦生の「物語り」に深い驚きを覚えてしまうのです。物語作家は、ある種文中人物に憑依されて、文章を書いているのではないか、と思います。

この事件にもやはりスペイン内戦の暗い翳りが感じられるのです。おいおい読み進めていくことで明らかになってきます。

───これから読む方はここから先は読まない方が良いかと存じます───

あらすじ

アルプスの麓、夏の休暇にチロル地方の小さな村で暑さを避けているエマニュエルと「私」。ゆっくりとした時間でエマニュエルは論文の準備をする。

「ゆっくり時間のあった時代の仕事さ」
「いいえ、ここには、いまも、ゆっくりした時間があるわ」
「そうかもしれない。ここに来てから、まるで時間が過ぎてゆかないものね」

辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、12頁

その村の泉にまつわる奇怪な出来事。人間の手首が切られて泉の中にうち捨てられていたというのだ。ひまわりの花もたくさん浮かべられていたのだという。その手首の持ち主は、マルティン・コップと言うのだそうだ。私とエマニュエルは推理を始めるが、もちろん妥当な結論に至ることはできない。

エマニュエルが論文を提出したあと、「私」はエマニュエルと実はきちんとした関係(結婚と解釈するのが妥当だろう)をしたかったのだが、エマニュエルはそれを拒むのだった。

しかしエマニュエルはそうした危険を感じながら、日々新たに情念を確かめる生活でなければ、男女がともに暮らす理由はないと考えているのだった。
「それは人間を過信した傲慢な態度じゃないだろうか」
(中略)
「過信?」エマニュエルはそういうときのつねで、頬のあたりがほっそり窪んだ感じの顔を俯けて言った。「私はそうは思わないわ。むしろそのことだけは、もっと信じたいと思うわ」
「しかしまるでむき出しに風の中に晒されているようなものじゃないかな」
「それに疲れて、駄目になったら、私ね、悲しいと思うけれど、安全地帯にいて、惰性的な形を保った方が良かったとは言わないと思うわ」

辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、32頁

クリスマス休暇に入ると、エマニュエルと「私」は別々に休暇を過ごすことになった。「私」は日本人の友人とともに北フランスの小さな村で過ごすことになった。そこで出会ったニコラの家に招かれる。旧式の複葉機と男が映った写真を見つける。ニコラの父親だという。スペイン市民戦争に人民戦線側について参戦したのだという。人民戦線が敗れたのち、飛行機に乗って脱出しようとしたのだが、相棒の男に飛行機を奪われ、果てに指を切られてしまったのだという。ニコラの父親はひまわり畑のなかを自分の切断された指を探し回ったのだという。ニコラが指のことを聴くと、ひどく機嫌が悪くなったのだそうだ。「私」は、あのチロルの村での奇怪な出来事を思い出し、ニコラの父親がマルティン・コップを殺めたのではないかと推理する。エマニュエルに手紙を出す「私」。エマニュエルから返事が届く。

「私は世の中に恐ろしい偶然があり、符号があることを認めています。それでも、なぜか、それを信じてはいけないような気がするんです。その理由はいろいろありましょう。その中で有力な理由は、私が運命の力を最小のものに見なしたいと思っていることかもしれません。私が偶然の力を過小評価しなければならないと考えているからかもしれません」

辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、40頁

Classical

ブラームス:交響曲第1番 ブラームス:交響曲第1番
ベーム(カール) (2006/02/15)
ユニバーサルクラシック

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「のだめカンタービレ」でブラームスの交響曲第1番が取り上げられたので、家にある幾枚かをゴソゴソと探し当てて、早速聞き始めてみました。最初にサヴァリッシュ盤。ふむ、良い感じです。そして次にベーム盤。ベームがベルリンフィルを1959年に振った盤です。ベームって、亡くなってからは不遇だと聞くけれど、いいなあ、と思います。何がよいのかというと、この滑らかなデュナミークに体が揺さぶられるような感じ、です。特に第2楽章のたゆたう感じ。ホルンとヴァイオリンのユニゾン。もう50年近く前の録音になるのですね。半世紀近い時間を経てもすり減っていない音楽だなあ、と思います。椅子に座って目の前のスピーカを見つめていると、いやなことを忘れてしまうぐらい。これもドイツの良心なのではないか、と思うのです。
ところで、ブラームスの交響曲第1番の定盤って誰の盤になるのでしょうか?あまりレコード批評を読まないので、分からないので、ちょっとその類の本でも読んでみようかなあ、と思うのでした。あまり批評に振り回されるのは苦手なのですけれど。

Classical

Shostakovich: Symphonies Nos. 10 & 11 Shostakovich: Symphonies Nos. 10 & 11
Anatoli Safiulin、 他 (1999/02/05)
Melodiya

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ロジェストヴェンスキーとソヴィエト連邦文化省交響楽団の演奏によるショスタコーヴィチの交響曲第10番を聴いてみました。一年365枚さんでカラヤン盤のショスタコーヴィチが紹介されていたので、触発されたのです。

最初に録音についてですが、残響感がとてもすばらしいです。1986年にモスクワでの録音とあるだけで、残念ながら録音場所についてのは記載はありません。

この録音はNHK-FMでオンエアされていて、中学生の頃に激しい衝撃を受けたのですが、同じ音源のCDを探していました。そんな折、メロディアレーベルが廃盤になるという噂を聞いたので、ロジェストヴェンスキーとソヴィエト連邦文化省交響楽団のコンビによるショスタコーヴィチの交響曲の録音をすべて購入したのでした。その中の一枚がこのCDだったわけです。

さて、演奏なのですが、僕にとっては交響曲第10番のデフォルト音源なだけに、本当に心から共感できる演奏です。ほとんど洗脳されていると言ってもいいでしょう。

特に第2楽章の攻撃的で緊張感のある演奏に当時感銘を受けたのを覚えています。金管の鋭くてアタックの強い音なので、時代の緊張感がそのまま突き刺さってくるようです。その時代とは、スターリン圧政時代でありソ連邦末期の混乱した時代なのです。

第3楽章の静謐な雰囲気の中にも絶望感や憂愁感が漂っているあたり、すばらしいです。ホルンが吹くDSCH音型も美しく遠くへと響き渡ります。やはり録音場所の残響感によく助けられている感じです。後半部のDSCH音型の発展系が切迫した悲痛な叫びに聞こえてなりません。それにしてもこのオケのホルン、かなり上手いです。高音域を音を乱さずに柔らかくよく響く音で吹いています。

第4楽章、木管が支配する冒頭の雰囲気、憂鬱な者の傍らに寄り添ってくれている感じ。オーボエ、フルート、イングリッシュホルンがすばらしいです。この楽章もDSCHに支配されていますが、祝祭的な様相も呈しているのです。

一年365枚さんの記事の中で、作曲家の吉松隆さんのウェブでこの曲についての紹介がなされていることを知りました。こちらも興味深いです。

残念なことに、僕の聴いているCDは今は廃盤となっているようです。

参考

Opera

ロッシーニ:セビリャの理髪師 ロッシーニ:セビリャの理髪師
アンブロジアン・オペラ・コーラス、アンプロジアン・オペラ・コーラス 他 (1998/05/13)
ユニバーサルクラシック

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近々新国立劇場の「セヴィリアの理髪師」を見に行く予定なので、今日は予習がてら聴いていました。2002年に新国で観た演出が変わったそうです。2002年の演出はあまりにオーソドックスだったのですが、そろそろ奇抜な演出にも首肯できるようになってきたのでとても楽しみです。

Classical

バルトーク:管弦楽のための協奏曲、中国の不思議な役人 バルトーク:管弦楽のための協奏曲、中国の不思議な役人
ラトル(サイモン) (2002/11/20)
東芝EMI

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バルトーク/バレエ音楽「中国の不思議な役人」作品19を、ラトル指揮のバーミンガム市響で聴いてみました。前回に続いて憂鬱な時に聴いてはならない曲でした。

簡単なあらすじ。登場するのは少女ミミ(ボエームではありません)と三人の悪党、そして不気味な役人。悪党たちは少女ミミに役人を色仕掛けで誘惑させ、金をせびりとろうとしています。ミミを抱擁しようとする役人を三人の悪党は殺しにかかりますが、ナイフを突き刺しても首をつるしても息絶える様子はありません。ついに役人はミミを抱擁するのですが、とたんに役人は息絶えてしまうのです。

なんとも頽廃的なあらすじで、曲を聴いて心がかき乱されるのはやむを得ないですね。若きラトルがバーミンガム市交響楽団を振っているのですが、若々しいだけに激しく情熱的な演奏なのでした。

ところで、最近思うのはラトルにも当たりはずれがあるのだ、ということです。もちろん、ラトルのすばらしい演奏に当たることのほうが多いのです。ちなみにこのCDは当たりでした。

参考文献

Classical

Alban Berg: Lulu Suite/The Wine/Lyric Suite Alban Berg: Lulu Suite/The Wine/Lyric Suite
Alban Berg、 他 (1991/01/14)
Sony

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ふと思いついて、ルル組曲をブーレーズ指揮ニューヨークフィルの演奏にて聞いてみましたが、この曲は憂鬱なときに聞いてはならない曲です。あまりに憂愁の色がこく、滅入ってしまいます。十二音階の不安定さが、夕方になって垂れ込めてきた鉛色の空に相まって、不安が心に忍び寄ってくる感じです。耳にこなれたフレーズさえも、まるで聞き手を裏切るように無調へと逃げ去ってしまい、強い空虚感を覚えるのでした。ヴァイオリンの鋭い美しさは黒魔術的な様相を呈した怪しい美しさで、手を触れると呪われてしまうかのように思えてしまいます。美しさの裏側にあるある種の非倫理的なにかがここに浮き彫りになってくるような気がしてなりません。昂じる不安感と闘いながら聞き続けるのですが、突然悲鳴声が聞こえてくるのです。切り裂きジャックにのどをかききられたルルの断末魔の叫び。いよいよ不安感が大きくなり、これ以上聴けない、とおもわされるのでした。

Opera

Richard Strauss - Capriccio / Schirmer, Carsen, Opera deParis 2004
(2005/10/18)
売り上げランキング: 94998

先日少し触れた、ルネ・フレミングのすばらしいカプリッチョですが、実はDVD発売されていることを今日知りました。レコード芸術を立ち読みしたところ、フレミングの特集が組まれていて、そこで紹介されていたのです。映像的にはNHKBSで放送されました。必見です。