2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

今日は、一息入れます。

トスカの初日が迫っていますね。11日からです!

トスカのノルマ・ファンティーニ

ノルマ・ファンティーニのFacebookページには衣装合わせをしている写真がのっていました。楽しそうでいい雰囲気が伝わって来て嬉しくなります。

私にとっては「アンドレア・シェニエ」依頼のファンティーニです。一回「オテロ」ふられていますので、今回も心配していたのですが、嬉しい限りです。

ファンティーニがうたうトスカはこちらでご覧になれます。

カヴァラドッシのサイモン・オニール

カヴァラドッシをうたうサイモン・オニールのインタビューが新国立劇場のホームページに乗っていました。

ニュージーランド出身で、METでドミンゴのカバーをしていたそうで、ドミンゴレパートリーが自然にレパートリーになったそうです。

来年はジークムントをミュンヘン、スカラ座、ベルリン、ウィーンなどで歌うそうで、ひっぱりだこの状況のようです。

「世界の声」をすぐそばでリーズナブルに聞くことができる新国立劇場は本当にありがたいところだと思います。

今回はさすがに人気演目ということもあり、残席が少ないとのこと。これも嬉しい限りです。

 

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

チケットぴあ

2012/2013シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera,ローエングリン研究

しかし急に寒くなりました。

普通は、冬に備えて体格が良くなり始める季節ですが、家飲みと間食を絶ってからは、少しずつスリム化している気がします。

嬉しい限り。

きっかけは、先日の試験受験票に貼った自分の顔写真見た時のショックが忘れられないからです。

さて、今日で11回目になりました。トスカの半生はこんな感じでした、の巻です。

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フローリア・トスカは、ヴェローナ近くの牧場で羊番をしていた無骨が少女であったが、ベネディクト会の修道女が修道院へ引き取り、修道院で育てられた。

修道院では天才的な音楽的才能を示し、16歳で歌手となったのだった。作曲家であるドメニコ・チマローザが感嘆し、オペラ歌手にしようとかんがえたのだが、修道女たちはこれを拒んだのだった。

ここには教皇の意向も働いていたというのだから驚く。image

それはそうだ。修道女が歌手になるなんて、今で言えば、品行方正なお嬢様学校の生徒が、卒業後パンクロッカー(古い?)になるのと同じぐらいだろう。

チマローザと修道女たちの争いは、教皇の調停にゆだねられることになったのだが、このときトスカの歌声を聞いた教皇が、芸術の道に進ませるべきであるとして、決着がつき、トスカはオペラ歌手としてデビューすることになったのだった。

(写真がドメニコ・チマローザ)

だが、トスカの信心深さはこの修道院育ちという出自に由来している。

つづく

 

次回はカヴァラドッシの前歴をさぐります。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。

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「トスカ」の舞台となった1800年6月の時点で、ローマはナポリ王国の勢力下にあった。

当時のナポリ王国はフェルディナント四世の治世下にあった。が、フェルディナント四世は狩りやスポーツに明け暮れた男で国政には興味をしめさなかった。
代わりに国政を切り盛りしていたのは王妃であるマリア・カロリーナである。

マリア・カロリーナは、オーストリア女帝マリア・テレジアの娘であり、マリー・アントワネットの姉に当たる人物である。

image.jpeg

母親のマリア・テレジアがオーストリア帝国の政治を動かしたのと同じように、ナポリ王国を夫フェルディナントに代わって統治した。これは婚姻に際して「息子が生まれたら摂政になる」という特約がついていたからである。

さて、この王妃は「トスカ」のなかにも登場している。

第二幕に、スカルピアに追い詰められたトスカが、王妃に嘆願しようとするシーンがあるが、このときの王妃がマリア・カローリナである。

第二幕では、ファルネーゼ宮殿のスカルピアの執務室が舞台となるが、前半部分でトスカの歌声が響いてくるシーンがある。これは、マリア・カロリーナが出席している戦勝パーティーでトスカが歌を披露しているというシーンになっている。

その後、実はマレンゴの戦いで、ナポレオンが勝利し、オーストリア軍が敗れたという報がとどくと、マリア・カロリーナは卒倒してしまう、という設定になっている。

つづく

次回は「トスカの前歴はいかに?」です。
(追記:カヴァラドッシより先にトスカの前歴を紹介することにしました)

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。
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秋晴れの日曜日ですが、すっかり寒くなりましたが、近所のレストランでラズベリーアイスクリームを食べました。近所にもおいしい店があってうれしい限りです。

IMG_1581.JPG

歴史背景が長引いてしまいました。今日でローマ共和国の終焉の回。文献がドイツ語しかなく、難儀しました。決定稿は後日出そうと思います。

次は、トスカに出てくる「王妃」あるいは「女王」とは誰か、という話を書く予定です。その後、カヴァラドッシやトスカの来歴を書く予定。トスカは若い頃は修道院に入っていたそうですよ。

ではどうぞ。

===

土台の緩い建物は少しの揺れで崩れ落ちる。

1799年6月17日から19日にかけてのトレビアの戦いで、ロシア軍のスヴォーロフ将軍がマクドナルド将軍[i]率いるフランス軍を撃破した。

これによりナポリを占領していたフランス軍はナポリからイタリア北部へと撤退する。ナポリ軍は1799年9月30日にそのままローマを占領し、ローマ共和国の旗を降ろすことになったのだ。(画像がローマ共和国の旗)

Image

これに伴い、ローマ共和国の指導層は反体制となり、収監されていくことになる。

では、「トスカ」の劇中で政治犯として登場するアンジェロッティはどのような身分だったのだろうか。

ローマ共和国は名目上5人の「コンスル」つまり執政官によって統治されていた。もちろん実際にはこのうちの一人がアンジェロッティだった、という設定である。

「コンスル」という言葉は、元々は古代ローマにおける官位の名称で、共和制の最高位に当たるもので、元首という意味合いを持つ。ナポレオンがブリューメル18日クーデターで第一統領となるが、この官位名も「コンスル」であった。

アンジェロッティは、フランスの傀儡政権とはいえ、ローマ共和国内で高い地位にあったのだ。アンジェロッティの略歴についてはまた触れることにしよう。

さて、ローマのその後である。1800年7月3日にローマ教皇ピウス七世がローマに戻る。それで歴史は終わらない。

マレンゴの戦いで勝利したナポレオンは、再びイタリアを席巻し、イタリアは再びナポレオンの勢力下に入る。ピウス七世はナポレオンと一時期和解するが、関係が悪化した1806年には再びナポレオンにその多くを占領されてしまう。教皇領が完全に復活するのは1814年のウィーン会議においてであった。

つづく

次回は「トスカはマリー・アントワネットの姉にすがろうとした」です。


[i] マクドナルド将軍とは、後の元帥ジャック=エティエンヌ=ジョゼフ=アレクサンドル・マクドナルドである。かれは、スコットランドからの亡命者の息子であるため、このような姓なのである。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。

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故逢って、本日も休業日でした。我が家にiPad miniがやってきましたので、少し遊んでしまいましたが、本日もいそしんでおります。

歴史的背景は一回で終わるはずでしたがもう少し続きそうです。しかし歴史は面白いです。苦手な方、ごめんなさい。

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「トスカ」の舞台となるのは、19世紀初頭のローマである。当時の欧州史を簡単におさらいしてみよう。

フランス革命

1789年のフランス革命やその後のナポレオンの台頭からナポレオン戦争への至る激動の時代のローマが、このオペラの舞台である。

フランス革命が自国に波及することを恐れた欧州各国はフランスに干渉を仕掛けていた。フランスも対抗するためにオーストリアへの宣戦するに至った。また1793年にはルイ一六世の処刑やフランス軍によるベルギーの占領が諸国に衝撃をあたえ、イギリスを中心にした対仏大同盟が成立しフランスは欧州各国を敵に回したのである。

こうして、フランスは自国内の混乱に加えて、対外戦争にも乗り出さなければならなくなったのだった。

ナポレオンの台頭

そうした内乱と対外戦争の中にあって頭角を現した軍人がナポレオン・ボナパルトだった。ナポレオンはコルシカ島生まれのイタリア人で、イタリアトスカナ地方の貴族の末裔だったという。

ナポレオンは、1794年のトゥーロン包囲戦で手柄[i]を立て、旅団長に抜擢されるに至る。image

(写真はカンポ・フォルミオ条約以降のイタリアの状況)

1796年、フランス軍はオーストリアを攻略するために、ドイツ、イタリア方面への作戦が開始された。イタリア方面軍の司令官はナポレオンであった。

ナポレオンは勝利をおさめ、1797年10月にカンポ・フォルミオ条約が成立し、フランスはロンバルディア地方を勢力圏に加える。

フランスはここに数多のフランスの衛星国家群を樹立した。もちろん共和制フランスが樹立するのであるから、共和国である。

衛星国はフランス軍の兵站基地としての機能を求められて作られたわけであるから、その成立に高邁な目的があったとは思えない。

だが、フランス革命という旧来の価値の転倒をイタリアへと拡大させたという意図は大きい。これは後のイタリア統一運動へとつながる布石となる。

ローマの行方

では、「トスカ」の舞台、ローマはどうなったのか。

ローマはイタリア中部を貫く教皇領として教皇の勢力下にあった。当時の教皇はピウス六世であった。

当然カトリック教会はフランス革命政府と対立していた。1793年にはフランス革命政府の使節がローマで殺害され、教皇とフランス革命政府の対立は決定的となる。image

(写真はローマ教皇ピウス六世)

1797年にローマで暴動が勃発し、フランス軍司令官が殺害されると、フランス軍は教皇領に侵攻し、トレンティーノ条約を結ぶことになる。その後、1798年2月15日、ローマ市民により、ローマ共和国の成立が宣言されるに至ったのだった。教皇ピウス六世はフランス軍に捕縛され、1799年8月に世を去ることになる。

だが、ローマ市民すべてがこうしたローマ共和国を望んでいたわけではなかったし、ナポリ軍により、1798年が一時期ローマを占領し、再びフランス軍が進駐するなど、不安定な状態が続いたのだ。

つづく

次回も歴史的背景を振り返ります。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。

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[i] このトゥーロン包囲戦の手柄の取り方が面白い。Wikiによると、要塞都市への無謀な突撃を繰り返していたのをやめ、港を見下ろす二つの高地を奪取し、そこから的艦隊を大砲で狙い撃ちをしたという。まるで日露戦争における旅順攻略戦のエピソードと同じではないか。

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今日は七回目。公開すこし遅れてすみません。取り急ぎ。

ではどうぞ。

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旧友フランケッティ

さて、イッリカが、「ラ・トスカ」のオペラ化のため、1894年にパリへサルドゥを訪ねたとき、同行者がいた。彼の名はアルベルト・フランケッティという作曲家だった。(写真がフランケッティ)image

フランケッティはプッチーニとは音楽学生時代からの級友だった。フランケッティは1893年の時点で、既にこの「ラ・トスカ」のオペラ化の権利を持っていた。

先に書いたように、1889年にプッチーニは「トスカ」のオペラ化をリコルディに求めているのだが、マノン・レスコー以前のプッチーニにそれを実現するだけの「評判」がまだ無かったのだろう。

プッチーニの「トスカ」への思いが封印されていた頃に、リコルディはフランケッティにオペラ化の権利を与えていたのだ。

だが、時代は変わった。

プッチーニの1893年のマノン・レスコーの成功で、リコルディは「トスカ」のオペラ化の適任者はプッチーニだと考えるようになったのだ。

実際、ヴェルディが「トスカ」に示した最大の賛辞は、プッチーニにそれとなく伝えられたらしい。あのヴェルディが絶賛する「トスカ」のオペラ化という仕事が、この上もなく魅力的なものであることに気づく。

こうして、プッチーニのやる気は「ラ・トスカ」のオペラ化へ向けられたわけだ。

策士 ジュリオ・リコルディ

このリコルディという人。リコルディ社の社主でジュリオという。

リコルディ社第三代目当主で中興の祖とされる多才な男だった。音楽教育を受け、教養と経営センスを持った人物だ。(写真がジュリオ・リコルディ)image

リコルディ社は、1808年に初代当主ジョヴァンニによって設立された音楽出版社である。リコルディ社は、ベッリーニ、ドニゼッティを見いだし、彼らの出版を手がけることで収益を上げた。

そして、その後ヴェルディを見い出すにいたり隆盛を極めるのだ。

だが、その後の「ヴェリズモ」ブームに乗り切れなかった。ヴェルディは年老いて、新たな作品の発表は期待できない。

そのような状況下にあって、ジュリオ・リコルディは次なる希望であるプッチーを見いだしたのだった。ソンツォーニョ・オペラコンクールに落選したプッチーニの才能を見抜き、「マノン・レスコー」の成功を導き出したのだ。

そんなジュリオ・リコルディにとって、フランケッティから「トスカ」のオペラ化権利を取り上げることはたやすいことだった。

台本作家イッリカと組んで、フランケッティに「トスカ」がいかにオペラ化に適さないか、という考えを吹き込み続けた。

フランケッティは良家の子息で、その資産をもってすれば、みずからで自作オペラを自費で上演することが出来るほどだった。

金に困らないお坊ちゃまは人が良かった。フランケッティはあっさりオペラ化の権利を放棄してしまう。

ジュリオ・リコルディは、契約破棄の一両日中に、プッチーニと「トスカ」のオペラ化の契約を済ましてしまうのだった。

こうして、ジュリオ・リコルディの辣腕が、偉大な芸術を後世に残すことになったというわけだ。

芸術作品(Opera)とはそうしたものだ。それは、誰かの意地や欲望、策略や悪意、それからほんの少しの偶然によって生まれる。それを後世の人々は必然と呼ぶのだ。

つづく

次回は「どうしてアンジェロッティは脱獄したのか?──「トスカ」の歴史的背景」です。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

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バナー作りました。レガシーなデザインですが。こちらから入ると「トスカを」聴こうシリーズまとめてごらんになれます。

2008年にローマに旅行しました。ユーロ高絶頂の頃。当時1ユーロ180円で大変辛い時代でした。その後ユーロが急落したというわけでした。まったく。。。

これはジャニコロの丘から撮った写真。トスカの舞台です。

https://museum.projectmnh.com/ArcivesRoma2008.php

 

では、本日は第三幕のあらすじです。

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第三幕

第三幕も同じく1800年10月18日未明のサンタンジェロ城。

辞世の歌「星は光ぬ」

サンタンジェロ城は、もともとはローマ皇帝ハドリアヌスの霊廟として立てられたものだが、ローマ教皇用の要塞として整備され、牢獄などにも使われていた。image

刑場へと向かうカヴァラドッシは時世の歌を歌う。

そこにスポレッタに伴われたトスカが現れる。カヴァラドッシに旅券を見せ、自由の身になったことを告げる。二人は喜び会い、希望を語り合う。

見せかけの銃殺刑

カヴァラドッシは、「見せかけの銃殺刑」へと向かう。

トスカは一部始終を手に汗を握りながら見つめる。

カヴァラドッシに銃口が向けられ、銃声が鳴り響く。崩れ落ちるカヴァラドッシ。巧い。演技が巧い。トスカはカヴァラドッシへと駆け寄る。

さあ、早く起きて、逃げよう、と。

しかし、カヴァラドッシは死んでいた。空砲ではなく実弾が込められていたのだ。

スカルピアの狡猾な罠だった。スカルピアが殺されたことに気づいた警官達が、駆けつけてくる。

トスカは観念し、サンタンジェロ城の屋上から身を投げ自殺する。

つづく

 

次回は「策士?リコルディ」です。

 

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なにか原因が分かった気がする一日。常に人間は回り続けなければ五日は倒れるものだが、どうも回転数が低かったようだ。もっと回らないと。目が回るぐらいに。

 

さて、第二幕です。お役に立てば良いのですが。

かけば書くほど、どぎつい物語です。韓流ドラマにも匹敵するでしょう。いや、韓流ドラマよりえげつないのでしょう。

しかし、それが芸術に昇華するとこんなにも凄いことになってしまうというのがおもしろわけです。

それではどうぞ。

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第二幕

第二幕の舞台はファルネーゼ宮殿。写真がそのファルネーゼ宮殿で、現在はフランス大使館として使われているため見学などは出来ない。

同じく1800年6月17日の夕刻。image

カヴァラドッシを拷問する。

スカルピアの部下スポレッタは、アンジェロッティを取り逃がすが、カヴァラドッシを逮捕し連行してくる。大広間からはトスカが戦勝祝賀会で歌を披露しているのが聞こえる。

トスカが秘密を漏らす。

スカルピアはカヴァラドッシを拷問し、トスカにアンジェロッティの行き先を教えるように命じる。カヴァラドッシの苦しむ声を聴き、トスカはアンジェロッティの隠れ場所を答えてしまう。

カヴァラドッシは怒り狂うが後の祭りだ。

ちょうどそこに、戦いの知らせが入る。

午前中に知らされたナポレオン軍敗北の続報だった。その後、ナポレオン軍はオーストリア軍を撃破したというのだった。

カヴァラドッシは勝利を叫ぶ。ナポレオン軍がローマに再び現れればのさばるナポリ王党派を駆逐できるではないか!

アンジェロッティのほうは捕縛されそうになったところで、命を落としたと連絡が入る。

スカルピアの提案

スカルピアはカヴァラドッシを再び地下牢へと連れて行き拷問にかける。

トスカに、カヴァラドッシを助けたいのならば身を任せるよう強要するスカルピア。

トスカは激しく抵抗する。この恥知らず。身の毛がよだつ。

だが、スカルピアは、トスカにこう提案する。

もし、あなたが言うことを聴くのならば、カヴァラドッシを銃殺する振りをして空砲を撃たせて助けてやろう、と。

トスカの接吻

トスカはやむなく提案をのむが、テーブルにあったナイフを見逃さなかった。

スカルピアに逃亡用の旅券を書かせている好きにナイフを握りしめ、スカルピアが振り返った途端に、スカルピアの胸にナイフを突き立てたのだ。

これが有名な「トスカの接吻よ!」という場面だ。

スカルピアは倒れ、トスカはカヴァラドッシの元へと向かう。

 

次回は「「トスカ」とはどのような物語なのか。第三幕から」です。

 

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秋晴れの一日。

もうこんな学生のような生活はイヤだ!

ワーカーホリックかもしれない。

ウィキペディアより引用。

日本ではかつて、特に男性においては「滅私奉公」等の言葉に代表されるように、己の身を顧みず職業に邁進することこそが良いとする規範が存在し、己よりも職を優先することが、社会的に求められた。この中では、有給休暇を取ることすら罪悪のようにみなされた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E4%BA%8B%E4%B8%AD%E6%AF%92

そうそう。その通り。

アンダーラインおよび太字化は私によるものです。

考えを変えないとなあ。

===

さて、今日から3回は、それぞれの幕のあらすじを書いてみました。そこから想起される歴史的事実に思い至ると、あまりにも面白くて気狂いしそうなんですが、あらすじ編では自重して、その後に撮っておくことにします。

では、どうぞ。

===

ここで、簡単に「トスカ」のあらすじを、ここではオペラ版をもとに、簡単におさらいしておこう。

登場人物

主な登場人物はこの5人だ。

  • 画家である騎士カヴァラドッシ
  • ローマ随一の歌姫トスカ
  • ローマの新任警視総監スカルピア
  • 政治犯で自由主義者であるアンジェロッティ
  • スカルピアの部下のスポレッタ

ちなみにこの5人のうち4人が劇中で死を遂げる。

 

第一幕

まずは第一幕から。

舞台その背景

1800年6月17日午前のイタリアローマの聖アンレア・デッラ・ヴァッレ教会が舞台。

ナポレオンの侵攻により、ローマは旧来の教皇領からローマ共和国となるが、数年でナポリ王国の勢力下に入ったころのこと。

画家カラヴァドッシは、聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会[i]で「マグラダのマリア」を描く仕事をしている。

アンジェロッティ

そこに友人で反体制派政治犯として収監されていたはずのアンジェロッティが逃げ込んでくる。

アンジェロッティは転覆したローマ共和国の要職にあって、現在は政治犯として拘留されていたのだが、脱獄を果たして教会へ逃げ込んできたというわけだ。

image(写真は聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会の内部。ここでカヴァラドッシがマグダダのマリアを描いていたのだ)

自由主義者でもあるカラヴァドッシは、アンジェロッティをかばい、逃がしてやる。

トスカ登場

そこにカヴァラドッシの恋人のトスカが現れる。トスカはローマ中の寵愛を受ける歌手だ。

だが、トスカは、カヴァラドッシの様子がおかしいことに気づく。

それがアンジェロッティを逃したという理由であることを知らずに。

てっきり、別の女とカヴァラドッシが逢っているのではないか、という嫉妬心を覚えたというだけなのだ。

そう言えば、カヴァラドッシが描いている「マグダラのマリア」の目の色はトスカと違い碧眼だ。

スカルピア見参

そこに現れ様子をうかがっていたのが、警視総監スカルピアだ。

スカルピアはアンジェロッティを追って聖・アンドエレ・デッラ・ヴァッレ教会現れたのだ。

トスカの姿を見たスカルピアは、トスカの嫉妬心を煽り、アンジェロッティの逃亡先を突き止めようと考える。

と同時に、トスカを我がものにせんと企むのだった。

テ・デウム

教会では、迫り来るナポレオン軍が敗れたという知らせが入る。王党派は喜び、テ・デウム[ii]を捧げる。


[i] http://en.wikipedia.org/wiki/Sant%27Andrea_della_Valle

[ii] テ・デウムはカトリック教会の聖歌の一つで、「われら神であるあなたを讃えん Te deum laudamus」で始まる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A6%E3%83%A0

 

次回は「「トスカ」とはどのような物語なのか。第二幕から」です。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

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雨の日曜日で、いろいろ捗りました。

今日は第3回で、トスカ成立におけるヴェルディのちょっとしたエピソードです。で、このエピソードがプッチーニにやる気を与えたらしいので無視できないのですね。

ではどうぞ。

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「トスカ」の原作となったのは、劇作家であるヴィクトリアン・サルドゥによる戯曲「ラ・トスカ」である。

「ラ・トスカ」は1887年でのフランスにおける初演以来、圧倒的な成功を勝ち得ていたのだった。これは、あのサラ・ベルナールが主演を演じていたというところにもあるけれど。

この戯曲をオペラ化するに当たって、台本を担当したのはルイージ・イッリカである。イッリカは、プッチーニの出世作「マノン・レスコー」をはじめ、「ラ・ボエーム」、「トスカ」、「蝶々夫人」の台本を手がけた。また、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」も手がけている。(写真はルイージ・イッリカ)

image

イッリカは台本への脚色をサルドゥと相談するためパリへ向かう。そのとき、パリには「オテロ」のパリ初演を準備するために当時81歳だったヴェルディが滞在していたのだった。ヴェルディはサルドゥと親しかったため、イッリカとサルドゥの会談に同席したのだった。

イッリカは、その場で「トスカ」の台本を朗読したのだが、第三幕のカヴァラドッシの辞世の歌に深く感銘を受けたのだった。

《私の愛は永久に消え、時は去り、私は絶望して死ぬ。今ほど人生をいとおしんだことはない》

ヴェルディは、年老いた自らに重ね合わせたに違いなかった。そして、もし自分がもうすこし若ければ、「トスカ」をオペラ化していただろう、と語ったのだった。

「オテロ」、「マクベス」など、シェークスピアの戯曲をオペラ化したヴェルディをして、そこまで感動させたこの「トスカ」とはどのような物語なのか?

次回は「「トスカ」とはどのような物語なのか?」です。

新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。

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