いやあ、今日のN響アワーは面白かった。マルクス・シュテンツの「復活」。聴いたことのないテンポ操作で、結構驚きました。観て良かった!
第4楽章のパーカッションの使い方に心を打たれた感じ。ティンパニーとドラムをあそこまで引っ張られると、完全に曲が変わってしまうぐらいインパクトがあってすごかったです。N響、追随しきれていなかったところもあったけれど、指揮者の意図はよく伝わってきました。良い演奏でした。
「復活」は、何度も書いているかもしれませんが、思い出深い曲であるがゆえに、実に感慨深い。第四楽章のフィナーレのところに心打たれたのはもう四半世紀前のこと。今聴いてみると、なんだか慣れてしまった感がありましたが、今日は久々に、初めて聴いた時のことを思い出しました。あのときはあり得ないぐらいに私のゾレン(should)にフィットしていて驚愕したんですよ。アプリオリに知っていたと感じた瞬間でした。
時々そう言うことがあります。初めて聴いたのに知っている気分になるときというのは。1998年にオペラシティでリームを聴いた時もそう思いました。
まだまだ素晴らしいものがあるはず。くたばってはおれません。
マルクス・シュテンツの「復活」
ドイツ語のトゥーランドット
そろりと、部屋の片付けをしようと言うことで、数あるCDのなかから、今ひとつなものを売ろうかなあ、と選別をしていたのですが、何年も前にかった少し怪しげな海賊版とおぼしきCDを売ろうか売るまいか、すこし悩んでいました。
それが、このショルティ指揮のトゥーランドットで、録音は1956年5月19日にケルンにて録音されたもの。そしてこれ、歌詞がドイツ語です。まあ、昔はオペラは上演する国の言語で演奏されるのが常でしたので、そうそう珍しい話ではありませんが。カラフがPadre! Mio padre! と歌うところはVater mein Vaterになっていて、「誰も寝てはならぬ」はKeiner schlafeになっている。すごく面白い。
で、このCD、買った当時は相当録音が悪い! という印象で、死蔵していたのです。今回、このCDを手放すかどうか少し悩んだので、念のためもう一度聴いてみました。
そしたら、めちゃ、面白いんですね、これが。録音は決してよくはありません。でも、若きショルティの爆発的なパワー炸裂で、サウンドも分厚くて、カミさんといっしょに「凄いね!」 と感心していました。
買った当時は、たしかショルティの破壊力をして、トゥーランドットがどう料理されるのか、興味があって買ったんですが、数年越しでようやく堪能できたという感じです。ショルティは一般的な評判は悪いのですが、私にしてみると、マーラーやブラームスを教えてくれた師匠だったりするので、そう無下にもできないのです。
- 指揮:ゲオルグ・ショルティ
- トゥーランドット:クリステル・ゴルツ
- カラフ:ハンス・ホップフ
- リュウ:テレサ・シュティッヒ=ランダール
- ケルン放送交響楽団
- ケルン放送合唱団
- フンボルトギムナジウムケルン少年合唱団
テオリン様ブラーヴァ──新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 その3
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1月10日の新国立劇場公演、テオリンのことしか書いていませんでした。その他のことも書かなければ。
まずは指揮のこと。ダイナミックでシャープな指揮は、大野さんの意図が良く伝わってくるもので、とにかく高揚する場面での統率振りは見事で、ここまでのレベルまでオケ全体を押し上げるのは相当大変だったはず。あの爆発的なパワーは、なかなかお目にかかれないです。バーンスタインのような陶酔と恍惚でもなく、シュナイダーのような玄妙でもなく。あえて言えばシルマーの「エレクトラ」を新国立劇場で聴いたときと良く似ているかもしれない。
昨日も書いたとおり、私はどうやら大変な体験をしていたようですので、それも大野さんのおかげだと思います。
ただ、場面によっては疲れからか、指揮が単調になる場面も数箇所ほどあった気がします。たしかに、大野さんの顔はやつれきっていて、大丈夫かいな、と心配するほど。顔色も良くないし、スマイルサービスにも力がありませんでした。それから、オケの機能的問題についてはここで詳しくは触れません。
ブランゲーネを歌った期待のツィトコーワは、テオリンと一緒に演技をするとほとんど別世界の人間と思えるぐらい、小柄で痛々しささえ感じてしまう。演出上でも、なんだか虐げられている設定で、イゾルデから怒鳴られ、クルヴェナールにいじめられ、船員には揶揄される始末。第二幕では、せっかくイゾルデに進言しているのに冷たく跳ね除けられてしまう。常に何かにおびえているブランゲーネで、イゾルデにも冷たくあしらわれている。最終部分も、体育すわりをしてしまって、ほとんど引きこもり状態。そんないじめられ役的なブランゲーネを演じていました。
しかし、あの小さい体格で、テオリンに肉薄する声の太さを持つというのは驚嘆に値します。それにしてもカーテンコールでテオリンとツィトコーワが目をぜんぜん合わせていないように見えました。演出上もイゾルデとブランゲーネの間に冷たい主従関係を見て取れただけに、なんだか怖い。なぜ、ブランゲーネはああまで虐げられるのか? 所詮は昼の世界にしか生きられないということなのか。
最期のカーテンコールもすごかった。8年ほど新国に来ていますが、終了のアナウンスを覆して幕を開けさせたのは今回が初めてだったと思います。ブーイングもブラボーが入り乱れましたが、これがいわゆる「よいカーテンコール」というものなはず。新国にも桜がいるのかもしれませんが。
トリスタン体験
昨晩、ふと思い出したこと。
先日の新国「トリスタンとイゾルデ」第二幕で幻覚を見た記憶のことで、これってほとんど、幽霊やUFOと同じぐらい信憑性はないのですが、内面のイマージュとしてはすごく具体的で、とても驚いたのです。光り輝く絢爛な円筒形の物体が一瞬心の中に浮かんだのですが、そのときの清澄感はこれまで音楽を聴いて感動したときのなかで最も強かったと思います。これは言語化するのはきわめて難しい。
なんだか、そのときだけ、美的な何かがすべてを超えているような直観が浮かんできて驚きました。
これって、辻邦生が述べるところの原初体験のようなものではないか、と考えています。辻邦生の原初的体験としては1)パルテノン体験、2)ポン・デ・ザール体験、3)リルケ体験の三つですが、そういった原初体験だったにちがいないのです。今回の私の「トリスタン体験」は辻邦生の「パルテノン体験」と似ているかもしれない。辻邦生曰く「美が世界を支えている」という直観。そこまで大仰なことをいえるほどではありませんが。
ここ数年、音楽を聴いて涙を流すようになって、それはどうやら歳のせいだとばかり思っていましたが、それだけではないようです。
私もこれまで、いろいろな場面で決定的な体験をしましたが、今回の「トリスタン経験」は、どうもそれに類するものになるやもしれません。
テオリン様ブラーヴァ──新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 その2
引き続き「トリスタンとイゾルデ」。
全三幕ありますが、それぞれの幕にお気に入りの場があります。月並みながら、第一幕なら杯を飲み終わった後。第三幕ならイゾルデの愛の詩。第二幕ならマルケ王のモノローグ。そしてなにより私がもっとも感動するのは第二幕第二場でしょう。
夜の狩猟が罠とは知らずに、あるいは罠と知っていても、それを顧慮することを放棄せしめるほどに強い愛情がゆえ、トリスタンとイゾルデは背徳の逢瀬を敢行してしまう。ブランゲーネの進言をも讒言として取り合わないぐらいに。それほど盲目的な強い愛情の力は引き合う磁力よりも何よりも強い。
この逢瀬は夜にだけ許されるもの。昼においては、トリスタンは廷臣としての勤めを果たし、イゾルデは貞淑な妻を演じるのだが、本当の彼らになれるのは夜だけなのだった。
トリスタンがここで執拗なまでに昼と夜についての考察を歌い上げるのだが、そこには真の自分を求めるがゆえに昼の世界を侵害するという背徳感が同衾していて、この背徳感は、直接聴いているものの胸の中に直接入り込んでくることになる。
というのも、人間にはだれしもこうした背徳感を感じる経験があるはずで、もちろん下敷きになっているのはヴァーグナーの個人的経験なのだが、それをも普遍化し美の高みへと押し上げることで、トリスタンとイゾルデの逢瀬は普遍的客観的な理念へと昇華する。
テオリンとグールドの歌う、イゾルデとトリスタンは、ただただひたすら、難解にも思える愛情とうつせみの関係について語り合っている。圧倒的なパワーで。それだけで涙が溢れ、体は嗚咽に波打ち、頬に熱く涙が伝わる。
それで、僕は、どうやら、このとき、とある事態に相対していたと言うことに、ついさっき気がついたのでした。どうやら、これは辻邦生がよく語っている「至高経験」に似たものだったようで、もちろん、こういうたぐいの体験は、証明したり十全に説明できることではないわけですから、ここで語ることが出来るのかどうか。
だが、これは決定的な体験だったのではないか、と思うのです。
とりあえず、メモはとったので、詳しくは明日書けるはず。。。
日本中でタイガーマスクな日々が続いている今日この頃。まだ捨てたものではないですね。
テオリン様ブラーヴァ──新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 その1
あああ、またやられてしまいました。涙なしには観ていられぬ6時間でした。
というか、この三日間ほど風邪で微熱が続いていてあまり体調は良くなかったんですが、そんなもの吹き飛んでしまうほど強力なパフォーマンスでした。しっかり元を取った感じ。
やはり期待を裏切らないテオリン。
のっけから、強烈な歌声に痺れてしまう。少し強めのビブラートが強力なブースターとなって、劇場内に響き渡るイゾルデの怨嗟や歓喜は、胸のうちに直接差し込まれる赤く熱した鏝(こて)のようで、理屈抜きに直接心臓を揺り動かすもの。
テオリンについて言えば、まずは、第一幕の冒頭で、イゾルデが怒りをぶちまける場面ですさまじいパワーに涙がでてきました。おそらくは音圧に圧倒されたのでしょう。いわゆる崇高を感じた瞬間。
次は、第二幕で「一緒に死にましょう」とトリスタンと歌う二重唱のところ。あそこもすごかった。グールドもテオリンも譲らず、高いところで戦っている感じ。あそこは泣けます。もちろんワーグナーの偉大さもあってのことではありますが。あの台詞はきっとワーグナーが自分のことを書いているはず。天才のカミングアウトというのは本当にすごいものです。そして、それを時間を超えて伝えるテオリン、グールド、大野さんの素晴らしさ。
あとは、最終部分、イゾルデの愛の死のところ。テオリンも少し疲れが見えるが、それでもあの厳粛な場面で実に凛々しい女傑的イゾルデで、もうひれ伏すのみでした。
明日も続きます。しばらく続くかもしれません。
弛まず倦まず──シュナイダー「トリスタンとイゾルデ」
私が通っていた中学校の校歌に「弛まず倦まず」という歌詞がありましたが、あれは実に重要な一言でありました。続けた者にしか栄誉は訪れないでしょう。私も弛まず倦まずがんばろう。
というわけで、倦むことなくまたまた、シュナイダー、テオリン、スミスの「トリスタンとイゾルデ」。
この演奏のことばかり書いている気がしますが、本当に飽くことも倦むこともなく、まったく素晴らしい演奏。何が素晴らしいのか?
やっぱりシュナイダーの指揮。オケのサウンドは複雑なレース編みのようにも思えるほどです。縦糸が音のダイナミクスだとすれば、横糸はしなやかなテンポコントロール。オケサウンドは絶妙な柔らかさとしなやかさを持ちながら、ひたひたと溢れるような淡い銀色の液体のように、聴く者を虜にし、聴く者の感涙を誘う。
素晴らしい!
それにしても、テオリン姐さんの歌はすさまじいです。ドイツ語の口蓋音までも聞こえてしまうというパワーです。あともう少しで実演に触れられるとは! 楽しみです。
「恍惚とした感じ」──バーンスタイン「トリスタンとイゾルデ」
通勤時間はサラリーマンに残された最後のリゾートである、という絶妙な文章をどこかの雑誌で読みましたが、どうやらそこにもスマートフォンが侵入し、仕事をやる人が増えてきたらしいです。
幸いなことに、当社は大変革新的な会社ですので、仕事をモバイルでやる、なんていう考えはどこにもございませんゆえ、私のリゾートはまだ守られています。個人的には、飛行機で欧州に行くときの12時間ほど、自由な時間は、この世には存在しない、と思っていますが、通勤時間も往復でたっぷり3時間もありますので、一週間通えば、欧州航路片道分に相当します。通勤時間が長いことは悪いことだけではないようです。
もっとも私の素晴らしい会社は関東地方の端にありますので、電車もバスもなんとか座れるわけで、だからこそこういうことがいえるのだとは思います。今年は異動ないしは会社移転のために私のリゾートも失われる運命にありますがけれど。それだけは残念。
今日のリゾートは、バーンスタインが振る「トリスタンとイゾルデ」です。バーンスタインの指揮はご存知のようにたゆたうテンポで、ゆったりとしています。まるでねっとりとした蜂蜜の中を泳いでいるかのよう。溺れてしまいそう。いっそ、そのまま。
この恍惚感はバーンスタインならでは。もう30年ほど前に、NHKFMで吉田秀和さんが、バーンスタインが振る「田園」を「恍惚とした感じ」と解説していたのを思い出しました。
バーンスタイン、ドイツ統一の時、第九の歌詞を変えた(歓喜freudeを自由freiheitに変えたんですねえ)のには、すこし引きましたが、この数年、いろいろ聞くようになって、いっそう好きになった気がします。もっと聴かないとなあ。
たかまるトリスタンとイゾルデへの期待
1月10日、新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」は千秋楽ですがなんとか無事に劇場へ行くことができそうです。イゾルデにイレーネ・テオリン、ブランゲーネがエレナ・ツィトコーワという垂涎のキャスティングでして、想像するだけでワクワクします。ネット上の「トリスタンとイゾルデ」関連の記事については、申し訳ないのですがブラインドを落として、目に触れないようにしております。どんな舞台なんでしょうか。
こちらの写真は2009年のバイロイト音楽祭で、イゾルデを歌ったテオリン様。指揮者ペーター・シュナイダーで、クルヴェナールはユッカ・ラジライネン。ユッカは、新国の「トリスタン」でもクルヴェナールを歌っています。
明日は、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」を聴く予定。こちらは、トリスタンがペーター・ホフマン、イゾルデはヒルデガルト・ベーレンスです。
謹賀新年
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
今年は、聴いて、読んで、書いて、考える一年にしようと思っています。まあ、インプットしないとアウトプットできないし、アウトプットしないと思考もままならないと言うことで。
今年も懲りずに目標を。
- 読書はまた100冊を目指しますが、今年は内容にもこだわっていきたいところ。
- 映画も20本ぐらいは見たいです。少ないですが少しずつ感覚を戻していかないと。
- 音楽も、何か指標を付くってがんばりたいのだが……。
- ブログをはじめとして、今年は書くことを自分に課していきたい。弛まず倦まず。
- プロジェクトT、がんばろう。
今年は、総じて昨年より良い年になりそうな予感。いや、良い年にする。受け身ではいかんぜよ。
この年始休暇はNHK-FMを聴いておりました。今朝はリヒターの特集を諸石幸生さんの解説で。リヒターの指揮によるブランデンブルク協奏曲は、あまりにフィットしちゃって、なんだかもう全く違和感がない。この録音は、わたくしのiPodに数年前から入っていて、折に触れて聴いておりましたので、もうまったくデフォルト化してしまっています。安心感。だが、おそらくは、芸術のもう一つの方向として、驚愕とか苦痛というものもあるはず。そこを咀嚼するのが難しい。矛盾と区別こそが物事の意味を生成するのであるから。