新国立劇場オペラトーク「コジ・ファン・トゥッテ」その3

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新国立劇場の写真。通い始めてもう8年近くになりますが、建築的にも大好きです。幾何学的な構造美もありますし、随所に日本的意匠が凝らされているということもあり、いつぞやかは、朝早く、6時半頃に新国に出かけて夢中で写真を撮ったことがありました。
さて、 すっかり頓挫していたオペラトークの模様の最後の回。本日が初日でしたので、かなり遅れてしまいました。仕事にもっとスピード感を持たせないと、と思う今日この頃。

演出に際してのト書きの扱い

演出をする上での発想は、セリフと音楽から考え、ト書きは重要視しません。画家は白いキャンパスを使うが、演出家としても、やはり白いキャンパスを使いたいからです。音楽と台詞は、どこで上演しようとも同じものを使うことになるから、そこから出来るだけ自由な発想を得たいのです。
確かに台詞の真意や意味合いが変わってしまうと言う恐れはあります。ただ、ト書きにただ沿っていくのは、目隠しをした馬に道を示して山を単に登る、ということです。それではおもしろみがありません。山に自由な道を使って登れば違った楽しみを見いだすことが出来るでしょう。

モーツァルトの醍醐味

モーツァルトの醍醐味は、ドラマの構造にあります。対立する複数のドラマが並立して描かれています。とかく人生というものはそう言うものであり、観客誰しもの人生もまたそうなのです。朝起きて悲しいことがあったとしても、夜になれば楽しくなることだってある。
これこそが現実なのです。これが、ダ・ポンテやモーツァルトを現代的たらしめているものなのです。なぜなら、彼らはすでに我々自身のことを書いているのですから。

見えない内面を描き出す素晴らしい演出

アリアやデュエットの時間をクリエイティブなものにするためには、その時々の心情をビジュアル化していくことが重要なのです。たとえば、化粧を濃くしたり、服を変えたりすることで、台詞とは逆の方向を見せたりします。

オペラを見るということは?

オペラに行くということは、知っていること、知っているはずのこと見に行くということです。
ですが、本当に知っているか? という疑いを持って、心を空っぽにしてプロダクションに行って欲しいのです。
オペラは考える装置なのです。

まとめ

ミキエレット氏は、怜悧な頭脳を持った若きやり手演出家、という印象でした。ジーンズに白いシャツというすっきりとした出で立ちで登場して、冷静に話しておられました。このファッションセンスは、私らが若い頃のものではないかなあ。
ダミアーノ・ミキエレット氏は、昨日のワークショップで話をうかがった舞台美術のパオロ・ファンティン氏とタッグを組んで欧州オペラ界に衝撃を与えているようですが、昨日この二人の手による演出の映像を少し見ることができました。
めちゃくちゃカッコイイですよ。水が張られた舞台に、燃えさかる紙を落とすと、一気に火が広がったり、巨大な鏡を舞台奥に斜めに置いて、観客が舞台を上から見ることができるとか。
たとえば、こちらに写真があります。
“http://www.scenesmagazine.com/spip.php?article1970":http://www.scenesmagazine.com/spip.php?article1970
“http://colleghi.blog.so-net.ne.jp/2009-11-23":http://colleghi.blog.so-net.ne.jp/2009-11-23
本当に本当に楽しみです。
「コジ・ファン・トゥッテ」。まだ間に合いますよ → チケットぴあ